祈祷書を使ってみよう−−聖歌も祈祷書から


 正教会の奉神礼は、聖堂という建物やイコン、ロウソクの光、乳香のかおり、神品や堂役の儀式的な所作や動き、聖歌、参祷する人々の祈りなど様々な要素が一つになってできあがっています。なかでも、それらを支え奉神礼の流れを作るのが祈祷の 「ことば」です。祈祷のことばは、目的別(日替わりの部分=時課経など、変わらない部分=祭日経、八調経など)、担当者別(時課経=誦経者、連接歌集=聖歌者、奉事経=司祭輔祭など)に分割された祈祷書に収められています。

 大半の日本の教会では、祈祷のことばを五線譜に書いてまとめた祈祷文つきの「聖歌譜」を見て歌っています。司祭の連祷や誦経の部分も組み合わされていて、これ一冊あれば、奉神礼を行える大変便利なものです。

 ただこの「便利」な祈祷文つきの楽譜は大きな欠点がいくつかあります。

 第一は、楽譜の音符に合わせて書かれたカタカナやひらがなの文字では意味がわかりづらい点です。日本語は同音異義語がたくさんあるので、漢字を見て始めて意味がわかることがあります。たとえば「真福九端」の「あくをえんとすればなり」が「飽く」であったことを長いこと知らなかったという人がいました。

 第二に、正教会の場合「ことば」本来のもつ抑揚の延長線上に音楽があります。ことばのリズムや抑揚を知らずに、楽譜に頼って歌ったのでは意味が正しく伝わりません。意味を知って歌うことが大切です。日本では聖歌は楽譜を身ながら楽譜通り歌うのが当然と思われていますが、楽譜を追うことに必死で、内容がおろそかになることが多々あります。

 そもそも正教会の奉神礼で五線譜の楽譜が用いられるようになったのは、18世紀頃ロシアの上流社会で、西欧音楽の影響を強く受けた新しい聖歌がもてはやされるようになってからのことです。今でもロシアやギリシアの教会では、スティヒラやトロパリには楽譜は用いず、祈祷書だけで伝統なメロディにことばを載せて歌います。各国のメロディは民族性とも深く結びついており、シンプルでなじみ深いものなので、容易に替え歌の要領で歌えます。

 ただニコライ大主教当時、メロディはロシアからの借り物で日本人には馴染みのないものでしたから、音楽に不慣れな日本人のことを考えて楽譜に書き起こして配布し教育しました。ニコライ大主教はとにかく祈祷を実践することを優先したため、この時代の音楽付けはかなり急ぎの仕事だったと思われます。また音楽付けをしたのが主に外国人だったために、日本語としては不自然なイントネーションだったり、祈祷文のことばの抑揚や区切りと音楽がちぐはぐしているものもかなりあります。

 祈祷文を「替え歌」のように歌う、正教伝統の聖歌の歌い方が行われていれば、ことばに合うように自然に音楽が次第に変形したと思われますが、楽譜に書き残されたために、プリミティブな音楽付けがそのまま歌い続けられています。

正教会の音楽はそもそも「聞き覚え」で歌える程度のものが基本です。聖歌は「聴かせる」ものでなくて「祈る」ための音楽だからです。

 第三の問題は、祈祷書にあたらないと、応用が利かない点です。「楽譜がないから歌えない」とか、「ワンセットになっていないから祭日や斎のお祈りができない」のでは正教の祈りの豊かさに充分に与ることができません。「聖歌譜」に採録されている部分は、祈祷書の何分の一にすぎないからです。便利な「聖歌譜」は、いわば「はとバス」にのって東京見物するようなものです。要領よくコースがまとめられ、初めて東京を訪れた観光客にはとりあえず充分ですが、二度目三度目にはもの足らなくなります。「はとバス」が省略している興味深いスポットが他にもたくさんあるからです。そうなると自分で調べて自分の足で歩かなければなりません。

 奉神礼も同じで、教会がもっと豊かな正教の祈りの世界――そこには無数の聖書のことば、また教会の定理や伝統を支えてきた聖師父たちの珠玉の祈りがちりばめられています――に与るためには、祈祷書を直接用いて祈り、その深みに分け入っていかなければなりません。もっと自由に、もっと豊かに正教会の祈りの果実を味わってみましょう。

 誦経者や聖歌のリーダーの方たちは旅行のツアーコンダクターです。奉神礼の喜びを分かち合うためには、祈祷の基本的な道筋を知り、祈祷書の使い方や読み方を身につけて、必要に応じてどこにでも自由に行けるようになっていなければなりません。

 このサイトはそのための大まかな道筋を示したガイドブックのようなものです。
 
 実際に祈祷を行うにあたっては、司祭や教会のみなさんとよく相談して見て下さい。その教会の状況をよく見て判断し、成長の度合いに従って考えます。最終的には責任者である司祭が判断します。



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