半田ハリストス正教会のご紹介
聖イオアン・ダマスキン(ダマスクのヨハネ)聖堂

知多半島の正教の歴史

写真左:概観
写真上:ご聖体を受ける
写真上:洗礼
写真左:
瓦に十字架マーク
写真左下:イコノスタス
写真右:復活祭の十字行
写真下:全員で歌う

明治時代、知多半島に正教会は内海、中洲、常滑、半田、乙川の5カ所に教会があった。そのうち現存するのは乙川のみ。乙川は半田市の東部分に位置する。戦前には半田の中心地と乙川の2カ所に会堂があった。後にこれが統合された。

現在、月1回司祭が名古屋から訪問し、聖体礼儀(9:30)とその前の土曜日(15:00)に徹夜祷が行われ、もう1回信徒による代式祈祷が行われている。司祭の訪問は主に第2土日曜日、代式祈祷は第4日曜日だが詳細は会報、または名古屋教会(052-751-6760)まで問い合わせください。その他に第2水曜日11:50から聖歌練習を行っている。

日曜日の聖体礼儀は20人ほどが集まり、単音(ユニゾン)で、声と心を合わせて歌う。

<半田正教会略史>

 半田の地に最初に正教会が開かれたのは明治18年(1885)である。間もなく、明治20年、知多半島唯一の西洋館「文明亭」を借り受け、笹川司祭を請じて成聖式を行った。借家料は月5円であったが、信徒のサポートによりかなり余裕のある運営が行われていた。ところが日露戦争を契機に正教に逆風が吹き始め、伝教者ペトル望月富之助(鼓堂)は、明治40年半田教会に赴任し、半田町字名切2丁目に自宅兼教会を移転し、自宅で教会活動を行った。

 諸般の事情から半田教会から分離した乙川教会は、木綿商を営んでいたパウエル三澤為勝の尽力により大正2年(1913)に木造の聖堂が完成し、4月19日に成聖式が行われた。当時千円あれば屋敷が建つといわれた時代に、パウエル三澤はこの小さな聖堂に2千円かけたという。伊勢湾台風でまわりの家の大半が倒壊しても、この聖堂はびくともしなかった。かまぼこ型の聖堂の天井は約20センチおきに細い桟が張られ、リズミカルな形状と柔らかい響きを生み出している。古老の話によれば、イコノスタスのイコンは日露戦争の捕虜収容所の会堂で用いられたものが移譲され、フレームは正教会を代表する建築家モイセイ河村伊蔵(函館、豊橋を設計)がアドバイスして作られた。王門の6枚のイコンはペテルブルグのカザンスキー大聖堂のコピーである

 ペートル望月富之助(鼓堂)はニコライ大主教に感銘を受け、明治24年11月に洗礼を受け、明治27年10月伝教者として知多半島に派遣され、最初は内海、後に半田を拠点として活動した。個人月刊誌『覚醒』を大正12年から10年にわたって発行した。大正15年に半田教会が閉鎖され、伝教者の職を解かれるが、自給の伝教者として半田乙川の信徒の祈りを支えた。昭和24年、半田乙川の教会が統合され、乙川教会が「半田教会」を名乗るようになり、ペートル望月は教会敷地内に寄寓し晩年を過ごした。戦前戦後の混乱期に半田の地で祈りの伝統が途絶えなかったのはペートル望月の功労が大きい。

古い写真から

教会の前で、中央がパウエル三澤為勝  大正15年4月1日
セルギイ府主教巡回時の記念写真、セルギイ府主教の左手後ろがペートル望月伝教者。
大正5年(1916)新見眼科医院庭前において
旧半田教会、乙川教会の信徒
ペートル望月の描いた乙川教会
ペートルは書画にも親しみ、また几帳面な人で、当時の写真がていねいにアルバムに編集されている。


カザンスキー大聖堂のイコノスタスとの比較

イコンの配置は異なるが、絵柄はそっくりである。

半田教会のイコノスタス ペテルブルグ、カザンスキー大聖堂のイコノスタス イコノスタスのイコン詳細

カザンスキー大聖堂
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B6%E3%83%B3%E8%81%96%E5%A0%82