知多半島の正教会の歴史


 かつて知多半島には教会が5箇所、信徒は500人を越したといわれる。南知多の内海は明治初期には海路の重要地点であった。明治16年(1883)4月28日に日比安左衛門が聖使徒アンドレイの名で洗礼を受けたのが始まりであった。

 メトリカ(教会戸籍)によれば、授洗司祭は笹川彼得、伝道した伝教者は甲田保羅、代父は武豊村の永尾パエル、代母は柴山ワルワラ、宮下イウドキヤとなっている。柴山ワルワラは名古屋教会の信徒で内海で教員をしていたペトル柴山準行(後に司祭となる)の妻、宮下イウドキヤは当時の名古屋教会の熱心な信徒であったイリヤ宮下(写真業)の妻である。

 1週間後の5月6日には安左右衛門の三男日比吉平が聖使徒イアコフの名で洗礼を受けた。吉平は親戚の日比吉兵衛の養子となり醸造業を営んだ。大変熱心な信者で、一族は次々と洗礼を受けた。彼の子孫からは、日本人最初の修道士となったアントニー日比七平(四男)、日本正教会の司祭イオフ日比三平(次男)、司祭イアコフ日比義夫(三平長男)が出た。

 また同日、のちに数々の正教会の聖堂の設計を手がける河村伊蔵もモイセイの名で洗礼を受けた。

 この年には一挙に48人の洗礼者、その翌年には22人が洗礼を受けた。「尾州知多半島の今昔」(望月鼓堂、正教時報 大正9年4月、『光芒』に収録)によれば伝教者甲田の滑稽混じりの正教団は至極面白く、土地の人々の耳に響き、聴教者が次々と現れたが仏教からのいやがらせもあったそうだ。

 アントニー日比七平は大正4年(1915)沿海州シマコフカの聖ニコライ至聖三者修道院に渡り、修道士となったが、ロシア革命によって修道院が閉鎖され、帰国を余儀なくされた。帰国後司祭となり、豊橋で神学を教えたが、体調を崩し昭和13年に保養先の蒲郡で永眠した。

 明治18年半田に開教し、26人の受洗者があった。19年には中洲で15人が洗礼を受け中洲教会が設立された。中洲教会の中心となる大岩彦九郎は、明治16年に日比安左右衛門とともに知多半島最初の受洗者となり、聖使徒シモンの名前を受けた。

 明治末年には、内海、半田、中洲、常滑に加えて横須賀教会があり、明治31年に半田から分立した乙川教会を合わせると知多半島に6箇所の教会があった。司祭の巡回は数ヶ月に一度であったが伝教者を中心に、信徒は定期的に集まって祈った。

 さて、知多半島の伝道で忘れることのできないのがペトル望月富之助(鼓堂)である。明治27年10月に内海に伝教者として着任し、明治40年に半田教会の伝教者となり、大正15年に半田教会が閉鎖され収入をたたれてからも自費伝教者として半田、乙川の信徒の信仰生活を支えた。また大正12年からは同人誌『覚醒』を10年にわたって自費で出版し続けた。

 ペトル望月は大変几帳面な人で、教会日誌のほか写真もきちんとアルバムに整理され、ご遺族によって保存されている。また絵画にも達者で、内海教会、乙川教会などのスケッチも残っている。教会日誌は後年、乙川教会のイオアン野畑太郎氏が『半田教会史』として整理編集した。また甥の村松不二夫氏が執筆した鼓堂の生涯『光芒』(1993)も貴重な記録である。 

 もうひとり知多半島の伝道に尽くした人物がイヤコフ萱野三次郎である。萱野は赤穂義士萱野三平の子孫で、大正1年に福岡の柳川から異動。2年に内海で永眠した。長男の重道氏はその後、半田教会の信徒ダヴィド新美直亮の営む眼科の書生として働いた。

 半田を始め知多半島の教会の写真が多く残っているのは、信徒のひとりフィリップ日比秋平が名古屋の水谷写真館で修行し、半田で写真業を営んでいたからである。望月氏も写真はなかなかの腕前で、自分で現像焼き付けを行っていたそうである。

 かつて500人の信徒があったという知多半島正教会も、ロシア革命による母教会からの支援断絶と関東大震災によるニコライ堂崩壊による資金難、続く太平洋戦争によって閉鎖が相次ぎ、半田教会(乙川教会)が残るのみである。

明治35年1月7日 内海教会 降誕祭記念写真 内海教会内部






内海教会のスケッチ
ペトル望月による
『光芒』より

内海の海岸風景
明治34年8月31日、中州教会信徒 写真は望月家所蔵のもの