第9章 黙示録 聖イオアンの神の国の幻像

 

 聖書の最後は「啓示(Revelation)」、またの名を「イオアンへの啓示」、「黙示録(Apocalypse)」と呼ばれる書です。黙示という語はギリシャ語ではアポカリプシス、ふつうの人間的な知識では近づくことのできない物事をあらわにすること、また恍惚状態で見た幻像にもとづいた預言を表します。古代のイウデヤ教、またキリスト教の思想では、黙示的な預言や啓示は、世界全体への神の救済計画の最終段階にかかわるものでした。したがって黙示録の思想は本質的に終末論的であり、全被造界の歴史の「最後のこと」にかかわります。しかしここで私たちは、新約聖書の終末論はたんに「未来のこと」であるばかりではないことを思い出さねばなりません。たしかに新約聖書の記者たちは神の国の「到来」に深い関心を寄せています。しかし彼らはまた、神の国はハリストスというお方とそのわざの内に、またそれを通じて「すでに到来している」と確信していました。第6章で示したように、新約聖書には神の国の到来が将来のことであると同時にすでに実現したことを示す終末論的描写が含まれています。神の国はハリストスにあって「すでに到来し」、教会にあふれる聖神の働きによって「今到来しつつあり」、ハリストスの再臨によって「やがて到来する」でしょう。新約聖書の終末論は「来るべき終末」論でも「実現された終末」論でもありません。むしろ「開始された終末」論と言うのが適当です。

 

 黙示録はそれが書かれた時までにすでに起きたことの暗号化された描写としても、また未だ起きていない出来事の予言としても読まれてはなりません。このきわめて象徴的で理解しがたい書は、世界史の超自然的な現実を指し示す預言です。この預言は過去と現在と未来に同時に向けられています。黙示録は1世紀後半ばのクリスチャンを読者として書かれましたが、そのメッセージは同時に後のあらゆる時代の信徒たちにも向けられています。黙示録はハリストスの再臨と最後の審判、そして神の国の最終的な樹立を語る終末的預言です。しかし、それは同時に、ハリストスとその教会に顕れるに至った「すでにある現実」としての天の国をも描写しているのです。

 

 聖伝は黙示録を書いたのは聖使徒イオアンであると伝えます。聖イオアンは第1世紀の後期には小アジアの主教でした。西暦93年、ドミティアン帝(81-96在位)は、教会がローマ皇帝を礼拝することを拒んだため、帝国全体に及ぶ迫害を行いました。

 「自らを『アウグスト』『救い主』『主』と呼ぶばかりか『神』とさえ呼んで、皇帝は帝国の各地に自分の彫像を造らせ、市民たちに彼への忠誠を証すために献げ物をすることを命じた。唯一の神、唯一の主を信じるクリスチャンたちは、この偶像礼拝に参加することを拒み、その結果、迫害を被った。彼らは逮捕され、財産を没収され、経済的にボイコットされ、多くの場合殺された」*[1]

 96年のドミティアン帝の死まで続いた迫害期に使徒イオアンは小アジアの西海岸沖のパトモス島に流刑されました。

 

 イオアンはパトモス島での流刑中、天国的な光栄をまとったハリストスの幻像を見ました(黙示1:9-18)。主はイオアンに世界の最終的な運命についての啓示を与え、その啓示をすべてのクリスチャンたちが「現在のこと、今後起ろうとすること」を知るために書き記しなさいと命じます(1:11,19)。黙示録でイオアンは、ハリストスの忍耐強い愛、また神の悪の力に対する審判と勝利、そして神の国の完全さへの神の民の最終的な入場について彼の見た幻像を伝えています。イオアンの時代の教会は異端の誘惑と過酷な迫害の両方に脅かされていました。しかしこれらの脅威は、実は後の時代のクリスチャンたちにも問題を生じさせ続けてきました。ですから神はイオアンを通じて、霊的な混乱と受難によって苦しめられているあらゆる時代のクリスチャンへ励ましとして「イイスス・ハリストスの黙示」(1:1)を与えたともいえましょう。「ここに、神の戒めを守り、イイススを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」(14:12)のです。黙示録によれば、教会の試練と艱難は、神の国とサタンの軍隊との間で続いている霊的な戦争の、目に見える顕れです。クリスチャンは闇の国に対するハリストスの確かな勝利の光のなかで、たゆみなき忍耐と忠実な信仰告白を促されています。やがて私たちは「この世」、「肉」、「悪魔」をハリストスの勝利と神の国にあってすべて征服するでしょう。

 

 イオアンの黙示録は95年頃に書かれました。彼の読者たちに彼が恍惚のうちに見た幻像の神秘的なまた驚くべき性格を伝えるため、彼は古代イウデヤの黙示文学のスタイルを採用しました*[2]。したがってイオアンの黙示録にも象徴、暗喩、比喩的表現、既知の名称の暗号としての使用、神秘的数字、超自然的現象の描写、この世のものではない生物などが溢れています。「おそらくこの書の執筆当初の読者でさえ、これらの象徴や暗喩が意味するところを完全には理解できなかったであろう。現代の注解者たちの間でもそれらの意味についてしばしば見解の相違が生じている」*[3]のです。初代教会がこの黙示録を新約聖書正典に含めることに躊躇したのは、おもに「この書物の黙示的象徴を解釈することの大いなる困難」ゆえでした*[4]。イオアンの時代以後、いつの時代にも、「黙示録は聖書の中でもっとも宗教的な変人たちによって誤って用いられて」きました*[5]。しかし、その曖昧さと異端者たちの間違った読み方にもかかわらず、黙示録はイオアンが書いたということ、そしてその証言が神からのものであることによって、「書かれた御言葉」の最後の一書として伝統的教会にいつも受け入れられてきました*[6]。「正教会では奉神礼では一箇所も読まれない」という事実は、力に溢れてはいるが難解なこの書に対する初代教会の一定の留保のなごりです*[7]

 

解説・補論〕奉神礼の中で読まれないとはいえ、正教会の聖師父たちは黙示録から豊かなインスピレーションを受け続けてきました。また奉神礼でも、聖歌の中には黙示録のイメージがしっかりと根付いています。復活祭期にうたわれる「新たなるイエルサリムよ、光り光れよ」は21章2節からですね。

 

 黙示録に記されている幻像を、神の救いのわざの時間的順序に正確に従ったものと理解してはなりません。光栄のハリストスとの出会いを通じて、イオアンは神の救いの計画を互いに補足し合いはするものの、異なったいくつかの見方から証言します。彼の書はハリストスの再臨に伴って起きる「終わりの時」の出来事を示します。しかし、この書の章の順序は、いっさいの事物の究極的な再構築にいたる歴史的な事件や期間を正確に表すものではありません。ストットが指摘するように、イオアンは「ハリストス(とその国)についての一つながりの幻像を見」ましたが、これらは「一つながりの出来事」の正確で順序だった幻像ではありません*[8]。黙示録のメッセージの一つの主要な次元は、ハリストスは常にその教会におり、私たちが、いまだ、この世の歴史(時)に生きなければならない現在、神の国はいつも私たちのもとに到来しつつあり、そしてある日、王国は最終的に完全な形で打ち立てられるということです。私たちはその日――主の日――がいつ来るかは決して知ることができません。したがって私たちは信仰を保ち、神の意志に従って生きるよう奮闘し、いつ突然、神の国が到来してもよいように常に自らを備えていなければなりません。

 

教会へのハリストスの配慮

 

 イオアンの黙示録は「アジアにある七つの教会へ」――小アジアのエフェス、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤの七教会――への長い手紙の体裁で書かれています(黙示1:4,11)。イオアンにとって、創世記第一章の創造物語に由来する七という数字は完全や完成を象徴するものでした。したがって「アジアにある七つの教会」とはあらゆるハリストスの教会、また教会全体を表しています。黙示録のメッセージはあらゆる時代に生きる真のクリスチャン全体へ向けられているのです。

 

 イオアンは教会へのあいさつを、パトモス島で彼が見た復活したハリストスの栄光の姿を描写することから語り始めます。

 

わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。その声はこう言った、「あなたが見ていることを書きものにして、…七つの教会に送りなさい」。そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。…その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。(1:10-18

 

 この目をみはるような顕現の中で、ハリストスはイオアンに、アジアの七つの教会それぞれにメッセージを送るように命じます。これらの七つのメッセージが、真のハリストスの教会とはいかなるものか、また真の教会が受けなければならない試練、被らなければならない艱難についての預言的宣言となっています。最初のメッセージで(2:1-7)、主は、エフェス教会を正統的な教義を堅持し艱難の時をしんぼう強く耐えていると称揚します。しかし主は、エフェス教会を、「最初の愛」を、すなわちハリストスの福音を教会の外の人々に伝えようという熱心な望みを失ってしまったと叱ります。第二のメッセージはスミルナ教会に対するものです(2:8-11)。そこで主は、サタンによる艱難と受難、そしてそそのかしを警告し、クリスチャンはつねにそれに直面し耐え忍ぶための備えをしておかなければならないと言います。第三のメッセージは、ペルガモ教会の大半の信徒たちが厳しい迫害の時において守りぬいたしっかりした信仰に言及します。しかし、ハリストスはまた、ペルガモのクリスチャンたちが教会内の異端者たち(おそらくグノーシス主義者たち)に対して無警戒であることを叱り、教会共同体に厳格な道徳的、教理的なけじめを確立することを促しています(2:12-17)。テアテラ教会に宛てられた第四のメッセージの内容は、本質的にはペルガモ教会へ向けられたものと同じです。テアテラ教会の大多数の信徒は正統的な信仰にとどまっていましたが、やはり教会内の誤った教えに固執する人たちや「不道徳な行い」への甘い態度を厳しく叱責されます(2:18-29)。

 

 第五のメッセージでは(3:1-6)、サルディスの教会が、その霊的な死、すなわち信徒たちが名目だけのクリスチャンに堕し、周囲の異教人たちと実質的に何も変わらない生活を送っていることで告発されます。主はサルディスのクリスチャンたちに悔い改めを呼び掛け、いつ起きるかわからないご自身の再臨を思い起こさせます。「わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない(3:3)」。第六のメッセージはフィラデルフィア教会をその豊かな信仰と行いで、クリスチャンの共同体の模範として描写しています。主はフィラデルフィアの人たちに、彼らがいつの日か必ず神の国の完全な喜びに入るであろうと約束します(3:7-13)。第七のそして最後のメッセージはラオディキヤの教会に向けられたものです(3:14-22)。ラオディキヤ教会の人たちの大半は明らかに経済的に裕福で社会的に高い地位にあり、この世とうまくやっている人たちでした。それゆえに、彼らへのメッセージの中でハリストスは「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」(3:17)と告発します。主はラオディキヤのクリスチャンたちの信仰の「生ぬるさ」に不快を隠さず、手遅れにならない内に彼らの生き方を変えるよう呼び掛けます。

 

 これら「アジアの諸教会」への七つのメッセージは、あらゆる時代のあらゆる地域の教会へのハリストスから向けられた強い訴えです。私たちは正教に基づき信仰にゆるぎなく立つエフェスの教会のようでしょうか。それとも「すべての国民を弟子として、父と子と聖神との名によって、彼らに洗礼を施す」(マトフェイ28:19-20)ための宣教に駆り立てる福音への熱い思いを失ってはいないでしょうか。信仰を守るために喜んで苦難を受け、死すらも忍ぶ準備をしているでしょうか。ペルガモやテアテラの教会の人々のように、教会における道徳的教義的なゆるみを放置していないでしょうか。きわめて多くのクリスチャンたちが落ち込んでしまっているこの世の不道徳性に目をつぶっていないでしょうか。サルディス教会同様、霊的な死に陥り、ハリストスに従わない人々と少しも変わらない生活を送っていないでしょうか。反対に、堅く使徒たちの信仰に立ち、日々の生活の中で善行によってその信仰を表したフィラデルフィヤ教会が示す、模範的な正教信仰を達成しているでしょうか。ラオディキヤ教会が指摘されたような霊的な生ぬるさと信仰の形骸化を避けることができているでしょうか。正直にこれらの問いに答えるなら、ハリストスがご自身の教会に与えた信仰の模範を私たちが生きているかどうかが、自ずとあぶり出されてきます。

 

 アジアの七つの教会へのメッセージの中で、主はご自身の再臨までどのように生きるべきかを、恵み深く啓示されているのです。これらのメッセージに応える人々、またそこで明らかにされた模範に従って生きる努力をする人々は、ハリストスとともに「いのち」に凱旋し(黙示2:710-1126-29)、ハリストスと共に神の座へと上げられます(3:21-22)。

 

天上的な集い

 

 パトモス島でのハリストスとの出会いの間に、聖イオアンはいくつかの天上の幻像をみました。これらの幻像の内三つは4-5章と7章に記録されています。四章では彼の見た、天上に座し礼拝される神の幻像が描写されています。

 

すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、…御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。…御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。これらの生き物が、御座にいまし、かつ、世々限りなく生きておられるかたに、栄光とほまれとを帰し、また、感謝をささげている時、二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。(4:2-11

 

 この幻像で神は一切のものの上に、一切の力の上にいます、天と地の絶対的な主として現れています。黙示録では12という数字とその倍数は神の民、真のイズライリ、教会を象徴しています。12人の長老は古代イズライリの12部族の族長とともに、旧約時代のすべての義人を表し、残りの12人は十二使徒の信仰に養われた新約の民を表しています。

 

 預言者イエゼキイリと同様、イオアンも天上の御座をめぐる「四つの生き物」について語っています。これらは聖体礼儀の中で「ヘルヴィム及びセラフィム、六翼の者、多目の者、高く翔る者、翼を具うる者」*[9]と呼ばれている天使的な存在です。もちろん天使たちは霊的な存在であり肉体的なからだは持っていません。イオアンのこれらの天上的な諸力の描写は文字通りのものではなく象徴であることは銘記しておかなければなりません*[10]。イオアンにとって四という数字は被造世界と被造物が完全に神に依存していることの象徴でした。したがって、ヘルヴィムとセラフィムが天上で行っていることは全被造物が行わなければならないことです。すなわち、やむことなき神への礼拝です。四つの生き物の「目」と「翼」は被造物の秩序へ神があまねく存在していることを象徴します。四つの生き物はまた、被造世界での生の領域の中で何が最もすぐれたものであるかを表しています。すなわち、ライオンの高貴さ、雄牛の力、人の知恵、鷲の素早く舞い上がってゆく飛翔です。「ヘルヴィムとセラフィムを通じて、被造物のすべてが神の御座の前に進み出て、神の威厳を礼拝し、神の意志を成就する」*[11]のです。

 

 第五章にはもう一つのイオアンの見た幻像が記録されています。これは、天使たちの群れに「神の子羊」と讃えられるハリストスの幻像です。

 

わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。巻物を受けとった時、四つの生き物と二十四人の長老とは、おのおの、立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒の祈りである。彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。(5:6-10

 

 旧約聖書が完成し、新約聖書が書かれるまでの間の期間、イウデヤの黙示文学はしばしばメシヤをその民のために戦い悪の力を征服する角のある子羊として描きました。もちろんイウデヤ人たちには、戦士としてのこの子羊が世の罪のために受難し死ぬことなど思いもよらぬことでした。したがってイウデヤ人にとってイイススの死はイイススがハリストスではない証拠だったのです。しかしクリスチャンにとっては、イイススは「殺される子羊」――過ぎ越しの子羊――であり、同時に闇の力に打ち克つ「七つの角を持つ子羊」でした。じっさい、すでにこれまでの諸章で見てきたように、ハリストスの死はその悪に対する勝利に不可欠なものでした。イオアンが見た、天上における子羊への礼拝の幻像はハリストスの救いのわざの逆説的な本質を完全に明らかにするものでした。すなわち、神の子羊は殺され、そしてなお勝利しました。ハリストスの悪への勝利は「七つの角」のイメージで象徴されています。旧約聖書では、動物の角は(とくに羊の角は)王さまの威厳と力のしるしです。そしてすでに示したように、イオアンは七という数字を完全と完成の象徴として用いています。したがって、ハリストスは天上の父の力と光栄を完全に所有し、あがなわれた世界全体から献げられる礼拝に値するのです。

 

 イオアンが描写する子羊のいる位置にも意味があります。黙示録5:6の別の翻訳は「そしてわたしは見た、御座の中央に、四つの生き物の中央に、そして長老たちの中央に、子羊は立ち…」となっています。ハリストスは神の御座の中央、そして長老たち(=教会)の中央に立つものとして描かれているのです。イオアンはハリストスが神の御座にまで上げられ、かつ同時に人々のまっただ中に臨在し続ける様を幻像として目撃したのです。これまで一貫して述べてきたように、ハリストスは神と人との結合点です。ハリストスの内に生きることによって、私たちは神の内に生きます。

 

 黙示録の第七章が記録する幻像は、教会のさだめについての二重の啓示です。まず第一に寄留するこの世にあって、その歴史の中で、光栄を受けるために試練と艱難を耐え忍ばなければならない教会の姿、第二に最終的に救われ高く挙げられる神の民の姿です。イオアンは歴史の中の教会を、神の救いにすでに証印された人々として描きます。彼はその人たちを「イズライリの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった」と語ります(7:4-8参照、十二部族それぞれから一万二千人ずつ)。「イズライリ」はもちろん神のお選びになった人々に聖書が与える名です。これは旧約でも新約でも同じです。そして、通常、イオアンの数字の使用は文字通りではなく、象徴として理解されなければなりません。12という数字とその倍数が神の民を表すものであることは既に述べました。ここでさらに、イオアンが10という数字とその倍数を限りない大きさを示すために用いていることを付け加えておかねばなりません。イオアンが教会に集められた者として十四万四千人という数を示していることは、次のように理解されます。すなわち12×12×1000=144000。教会は数え切れないほど多くの旧約時代の義人たちと、ハリストスの時代になってからの無数のクリスチャンによってなります。実際には天上で贖われた「十四万四千人」をはるかに超える人たちがそこに集められるでしょう。

 

 黙示録の7章9-17節で、イオアンは艱難をくぐりぬけついに天上にあげられた教会の幻像を次のように描写しています。

 

その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。…長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉(イオアン4:7-157:37-39参照)に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。

 

 ハリストスは、ご自身の再臨に先立ち、悪魔は教会に対して最後の恐るべき攻撃を加えて来るであろうと教えました(マトフェイ24:15-28)。「大きな艱難」の時代、神の民は「かつてない試練と苦悩を味わいます*[12]。イオアンが見た天上の教会では、神の民は大きな艱難をくぐり抜けた人たちでした。彼らはついに贖われ、子羊の血によって完全にきよめられ、神の御座にあげられ、そこで終わりなき「天上の奉神礼」*[13]に与ります。神との親しい交わりにあって、神子を通じて、神聖神の内に*[14]、教会は神の家に永遠に住まいます。

 

 正教会の奉神礼で黙示録そのものが読まれることはありませんが、この書は正教会の奉神礼に大変大きな影響力を持ってきました。トマス・ホプコ神父は次のように述べています。「教会の礼拝は伝統的に、またきわめて意識的に『黙示録』に啓示された神の国の永遠の現実にならってかたち造られている。教会の祈りとその奥密な奉事は天上の王国における祈りと奉事とに一致している。したがって教会では、救われた者たちの忠実な集いが、天使たちや聖人たちと共に、みことば・子羊であるハリストスを通じ、聖神に満たされ、絶え間ない讃美を全能の神に永遠に捧げ続けるのだ」*[15]。ハリストスの再臨の時に実現する万物の最終的和解を待ちつつ、この世の時の中にある教会は天上的な集いを神秘的に先取りし、そしてその集いに真に一致します。

 

罪深いこの世への神の裁き

 

 聖書はしばしば「主の日」と最後の審判について語ります。その日、「ハリストスの畏るべき審判」(コリンフ後5:10*[16]の前に、悪の諸力は最終的、決定的に神によって打ち払われ、天と地から消え失せます。しかし同時に聖書がきわめてはっきりと告げているのは、人間の堕落と最後の審判の間の期間にも、神の怒りはとぎれることなく、この世の罪に向けて発せられ続けているということです。

 

 神がこの堕落した世へ歴史の中で下し続ける審判は、黙示録にいきいきと描写されています。イオアンは罪に対する神の怒りに満ちた断罪を二つの幻像の中で見ました。七つの封印の幻像(6章)と、七つのラッパの幻像(8-11章)です。七つの封印の幻像では、裁きについての神の巻物――「その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった」巻物(5:1)――が神の子羊(「ユダ族のしし、ダビデの若枝」5:5すなわちハリストス)に与えられます。子羊が巻物の封印を解くと、大きな災厄が地を襲います。最初の四つの封印を解いたとき、四人の馬に乗った人が戦いを、飢饉を、疫病を人の世にもたらすために出てきました(6:1-8)。第五と第六の封印が解かれると、神の聖なる致命者たち――「神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々」――が主の日に起きる闇の力の最終的な崩壊を待ちかねて叫びをあげました(6:9-17参照)。第七の封印を解くと、すべての封印が解かれたために、しばし「天に静けさ」があり、来るべき裁きの徹底した完全さ(七という数字がここでもそれを象徴しています)が示されました(8:1参照)。

 

 七つのラッパの幻像では、「神のみまえに立っている七人の御使」がラッパを吹き鳴らすと共に、世の終わりに先立って起きる驚くべき破局を告げます。この幻像のイメージを詳細に解読するのは至難のことです。七つのラッパが天使たちによって吹き鳴らされるたびに、地はつぎつぎに起きる災厄によって荒廃してゆきます。「血のまじった雹と火」、巨大で途方もなく破壊的な炎、川と海の汚染、世界中を巻き込む戦争、煙と硫黄の巨大な雲による大気の汚染、太陽と月と星々の光の減衰、何百万という人々の死などがおきます(8:7-11:14)。ハリストスの教会でさえ最後の日には大いなる苦しみに遭います。しかし

教会はその忠実さによって、最後には解放され神の国にあげられます(11:1-9)。

 

 七つの封印が解かれ、七つのラッパが吹き鳴らされる時の幻像は、罪の救いようのなさと罪がこの世にもたらす災厄の大きさを示します。罪深いこの世への神の審判の幻像は、いっぽうで現在のこの世界に起きる大きな災いについての説明であり、またいっぽうでは悔い改めへの呼びかけです。私たちは依然としてもっとも峻厳な審判の前に生きています。その審判はこの世を超え、死のかなたに、時を超えて私たちを待ち受けています。神の国の究極的な光栄に入るためには、私たちは最後の審判に自分自身を備えなければなりません。ハリストスとその教会に忠実かつ従順であることによって、私たちはいつの日か、主がこうおっしゃるのを聞くでしょう。「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい」(マトフェイ25:34)。

 

神の国の到来

 

 黙示録12-22章に記録される一連の幻像は、サタンの神に対する最初の反抗、世界史の背景にあるハリストスと悪魔との間の霊的な戦い、闇の力に対するハリストスの最終的な勝利、そして神の国の樹立について語ります。

 

神に対するサタンの反抗

 古代イウデヤ人とクリスチャンの伝承の中では、悪魔はもともと神の天使の一人でした。しかし、自らを天上の御座に引き上げたいと望み、この天上の被造物は神に対して反乱を起こすに至りました。黙示録は天使たちの三分の一がサタンの反乱に加わったことを象徴的表現で暗示し(12:3-4参照)、悪魔を「大きな赤い龍」とよび、次のようにその反乱の顛末を記しています。

 

さて、天では戦いが起った。ミハイルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。(12:7-9

 

伝承によると、悪魔はそもそもこの惑星を守る霊として任命されていたために、反乱の後地上に投げ落とされ、この世の歴史が続いている期間は私たちの世界への関わりを持ち続けることを容認されています(イエゼキイリ28:11-19)。サタンがアダムとエヴァを悪の領域に誘い込むことができたのは「この世の神」(コリンフ後4:4)としてのその位置づけによります。

 

子羊と龍との間の霊的な戦い

 黙示録は人の堕落を当然のこととし、堕落した世界を救うための神の計画を挫折させようという悪魔の様々な試みに関心を集中しています。イオアンは古代イズライリを「太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた」女として描きます。この女は「子を宿しており、産みの苦しみと悩みとのために、泣き叫んで」いました(12:1-2)。「子」はもちろん神によって旧約の民に約束されていたメシヤ、「鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者」(12:5)です。悪魔――「大きな赤い龍」――はイズライリのメシヤを食い尽くそうと待ちかまえていましたが、聖なる御子は「神のみもとに、その御座のところに、引き上げられ」ました(12:3-5)。私たちが知っているように、サタンはメシヤが十字架で受難し死んだことを見届けました。しかし、その主の復活、昇天、父の右への着座を通じて、サタンは打ち負かされました。その敗北は主の再臨で最終的に明らかになるでしょう。

 

 自身の敗北と最終的なさだめを悟った悪魔は、その徹底した悪意から、彼に残された時を地上を荒廃させ人類を圧迫することに費やすことにしたのです。聖書は彼が特に教会とクリスチャンを迫害することに意を注いでいると語ります。神を打ち負かす希望がもはやないということを知って、サタンは、

 

自分が地上に投げ落されたと知ると、男子を産んだ女を追いかけた。しかし、女は自分の場所である荒野に飛んで行くために、大きなわしの二つの翼を与えられた。そしてそこでへびからのがれて、一年、二年、また、半年の間、養われることになっていた。…龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イイススのあかしを持っている者たちに対して、戦いをいどむために、出て行った。(12:13-17

 

 教会はハリストスの体として、決して破壊され得ません。イオアンは、個々のクリスチャンは悪魔の誘惑と圧制のなすがままにさらされていますが、それでも彼らは「子羊の血」の救いの力を信じ、また艱難の時にあっても信仰(「あかしの言葉」)に堅く立ち続けることによって、悪魔とその手下たちに打ち勝つことができます(12:11)。

 

 この地上に専制的な支配を及ぼすため、サタンは迫害と誘惑のために二つの主要な手段を用います。この世の力と、この世的な思想です。黙示録はこれらの悪の力を自然界の生命体として描きます。この世の力は「海から上って来る…角が十本、頭が七つあり、それらの角には十の冠があって、頭には神を汚す名がついて」(13:1)いる獣で表されます。この海から上がってきた獣は、サタンから「すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられ」ました。そして「地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、…しるされていない者はみな、この獣を拝む」でしょう(13:10)。クリスチャンは国家や帝国の権力、また民族や国家の光栄への称賛に心を奪われてはなりません。クリスチャンは常に、人類の救いは社会的、経済的、政治的また軍事的な手段によって実現され得るという「政治的幻想」から心と精神を自由にしておかなければなりません*[17]

 

 イオアンはこの世的な思想を「地から上って来る」「ほかの獣」に象徴しています(13:11)。この獣は、

 

先の獣の持つすべての権力をその前で働かせた。また、地と地に住む人々に、…先の獣を拝ませた。また、大いなるしるしを行って、人々の前で火を天から地に降らせることさえした。さらに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、かつ、…先の獣の像を造ることを、地に住む人々に命じた。それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。(13:12-15

                                       

イオアンにとって、このイメージは疑いもなくローマ帝国(最初の獣)とその皇帝崇拝(第二の獣)です。有名な「獣の数字」――666――はローマ帝国を象徴するエウレイ語の暗号です(13:18参照)*[18]。しかし地から上がってくる獣はそればかりではなく、私たちを究極的にこの世の力への献身に向けさせるあらゆる思想や信条の体系を表しています。どんな時代にあっても、クリスチャンはこれら二つの獣の意味を悟ることができます。

 

 イオアンの時代、すでに指摘したように、この世の力とこの世的な思想の中心はローマでした。黙示録の中では、ローマは「大いなる淫婦、バビロン」として象徴的に偽装されて表されています。イオアンは主の天使によって霊の内に連れ去られ、そこで見せられます。

 

それから、七つの鉢を持つ七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。多くの水の上にすわっている大淫婦に対するさばきを、見せよう。地の王たちはこの女と姦淫を行い、地に住む人々はこの女の姦淫のぶどう酒に酔いしれている」。御使は、わたしを御霊に感じたまま、荒野へ連れて行った。わたしは、そこでひとりの女が赤い獣に乗っているのを見た。その獣は神を汚すかずかずの名でおおわれ、また、それに七つの頭と十の角とがあった。この女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで満ちている金の杯を手に持ち、その額には、一つの名がしるされていた。それは奥義であって、「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」というのであった。わたしは、この女が聖徒の血とイイススの証人の血に酔いしれているのを見た。この女を見た時、わたしは非常に驚きあやしんだ。(17:1-6

 

「大いなる淫婦」とは何であるかという「神秘」は黙示録17:7-18で明らかにされます。イオアンは私たちに、彼女は「地の王たちを支配する大いなる都のことである」と告げます(17:18)。しかし、ここでも黙示録の象徴は普遍的な意義を持ちます。大いなる淫婦のイメージは、旧約聖書におけるバビロンの象徴に由来し「神に挑むすべての社会、奸悪と肉的なものに結びついたすべての団体」を表します。黙示録における大いなる淫婦は「その情念と欲望によって腐敗し、自分たちを創造し、自分たちを愛しておられる神を信じないすべての人々の聖書が用いる類型です*[19]

 

 これらが、この世の歴史が終わるまで一貫してハリストスの教会が戦わなければならない力です。悪魔の圧制と誘惑、この世の力の誘いと脅迫、間違った宗教と哲学の欺き、神の否定を根拠に持つこの世の道徳などです。クリスチャンの時代、神の子羊は教会の中で、また教会を通じて悪魔と戦っています。ハリストスに従う私たちにとって、この救い主の霊的な戦いは、私たち自身の戦いとなりました。私たちはいつも、聖使徒パウェルとともに「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」(エフェス6:12)ことを覚えていなければなりません。

 

闇の力に対するハリストスとその教会の勝利

 新約聖書の「開始された終末論」によれば、ハリストスによる私たちの救いは、同時に過去のものであり、現在のものであり、将来のものです。私たちはすでに救われ、救われつつあり、やがて救われます。神の国はすでに到来し、到来しつつあり、やがて到来します。この救いの過程によって世の力が「崩壊する時」は、ハリストスとその教会の闇の力に対する勝利への預言的な幻像の中に見て取ることができます。ハリストスの最初の降誕の時に行われたわざと、聖神とハリストスの教会を通じて継続されるそのわざと、再臨の時に行われる主のわざは、黙示録14-20章において唯一の過程の異なった局面として描かれています。

 

 最後の日、地は神の怒りにさらされるであろうと、イオアンはもう一度言います。15-16章で、そこから天使によって地上にそそがれる「神の激しい怒りの七つの鉢」の幻像を示されます。この世の力とこの世的な思想という悪魔的な獣に従うすべての人々の体は「ひどい悪性のでき物」で覆われます。海は血のようになり、地は完全な闇に覆われ、大地は破壊的な地震によって壊滅します(黙示録16章参照)。神の激しい怒りの七つの鉢が注がれている間に、神の軍勢はひそかに集められ、ハリストスの再臨に伴って起きる悪との最終的な戦いに備えます(16章、19:1-10)。

 

 17〜19章では、イオアンは、人類の堕落以来、悪魔がそれによって人類を支配し続けてきたこの世的な諸力を象徴する、大いなる淫婦と二つの獣に対するハリストスの最終的勝利の幻像を語ります。20章では悪魔とその悪霊たちの軍勢の最終的な敗北が描写されます。ハリストスの力によって、天使は悪魔を鎖で縛り上げ、「底知れぬ所」に投げ込みます。悪魔は「底知れぬ所」で千年間留められ、その後「しばらくの間だけ解放されることになって」(20:1-3)いました。その千年間にハリストスとその聖者たちは世界を支配するでしょう(20:4-6)。「千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放され」ます。そして神との最後の戦いに挑みます。ハルマゲドンの戦いで(16:13-16参照)悪魔とその軍勢は完全に壊滅します。彼らは「火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられる」のです(20:7-10)。

 

 黙示録で述べられる千年の期間はしばしば「千年期」(ラテン語で千年間のこと)と呼ばれます。クリスチャンはこの千年間のハリストスの支配にいくつかの異なった見方を採ってきました。それらの内の一つは「前千年期説」(pre-millennialism)と呼ばれます。前千年期説では、黙示録の20章で描かれている出来事はすべて主の再臨に引き続いて起こると主張します。主は神の国の最終的な樹立に至るまでの千年間文字通り地上を支配します。もう一つの見方は「後千年期説」(post-millennialism)と呼ばれ、教会の伝道の働きを通じて、この世は長い黄金期(「千年期」)を経験し、それに引き続いて主の再臨が起きるというものです。第三の見方は「非千年期説」(a-millennialism)で、ハリストスの再臨の後であろうが前であろうが、そのような千年間の地上の支配が起こることを否定するものです*[20]。正教会は(他の大多数の教派と同じく)、「非千年期説」に賛成します。私たちは、イオアンにとって、10とその倍数は限りない多さを意味していることを思い出さなければなりません。正教会は黙示録が示す千年間はハリストスの降誕から再臨までの果てしなく長い期間における教会におけるハリストスの支配の象徴であると見なします。主の最初の来臨のとき、悪魔の力は(完全に究極的にではないにせよ)鎖につながれました。そしてハリストスがこの地上へ戻ってくるとき、すなわち千年期の終わりに、悪魔はいったん解放されたうえで、ついに完全に無力化されます。

 

 再臨とハルマゲドンの戦いに引き続いて、すべての死者が復活させられます。最後の審判が行われ、救われる者と地獄に堕ちて神の臨在から永遠に引き離される者が分けられます(20:11-15、マトフェイ25:31-46)。神の民は闇に属する者たちと「大離婚」し、ハリストスとその教会の悪の力に対する勝利はついに完全なものとして成就します*[21]

 

神の国の最終的な打ち立て

 最後の審判の後、光栄に溢れる神の国が完全にそして最終的に打ち立てられます。その究極的な終末のさまを、黙示録は次のように描いています。

 

わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいイエルサリムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする。…事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。(21:1-7

 

 イオアンはさらに「新たなるイエルサリム」を完全に神化されたハリストスの花嫁、教会として描いてゆきます(21:9-27)。神とその教会の結合は完全なものとなります。光栄を受けた教会は神のもとに生き、神は教会の内に生きます。神とその教会の光栄ある結合にあって、「のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する」のです(22:3-5)。

 

 イオアンは黙示録を一連の勧告と警告で結びます(22:6-21)。私たちはすべて、光栄に満ちた神の国に呼ばれています。しかし、そこに入るためには、私たちはまずハリストスとその教会の招きに、熱心にたゆみなく従順に応えなければなりません。また、たえずハリストスの突然のそして予見できない再臨に自分自身を備えなければなりません。主は私たちにこうおっしゃいました。「しかり、わたしはすぐに来る」。イオアンと共に私たちは答えるでしょう。「アミン。主イイススよ、来たりませ」。(22:20

 

 正教会の立場からは、黙示録は罪深く、不信に揺らぎ、おびえにまどうこの世への励ましと慰めのメッセージです。イオアンは私たちに、私たちが罪を、不信を、恐れを克服できるようにハリストスへと真剣に向き直ることを訴えます。なぜなら、ハリストスにあってのみ、罪の赦しと同時に罪の誘惑を退ける力を与えられるからです。教会の祈りと機密に与ることを通じてハリストスを知ってはじめて、不信の悪霊から解放されます。ハリストスによって手に入れることができる救いの中でのみ、私たちは恐れを取りのぞくことができます。私たちは聖神と教会によってハリストスのいのちへと招かれています。「御霊も花嫁も共に言った、『きたりませ』。また、聞く者も『きたりませ』と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」(22:17)。この招きに応え、私たちもハリストスを私たちのいのちの内に招き入れなければなりません。

 「見よ、わたし(ハリストス)は戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(3:20)。

  



*[1] The Harper Study Bible, 1861

*[2] Cullmannによると「黙示文学は多数ある。エノフ書、モイセイの昇天、ワラフの黙示録、十二部族の契約などがあげられる。旧約聖書にもこのジャンルに属する書がある。イエゼキイリ書とダニイル書である。死海文書のいくつかも部分的にこのジャンルに属している。」

*[3] The Harper Study Bible,1862

*[4] Hopko,Bible and Chuch History, 62

*[5] Neil, 538

*[6]  Hopko, Bible and Church History, 62

*[7]  前掲書

*[8] Stott, Basic Introduction to the New Testament, 159

*[9] 金口イオアンの聖体礼儀「聖変化の部」の司祭黙誦部分から

*[10]  Hopko, Doctrine,50

*[11]  The Jerome Biblical Commentary, Vol.2: "The New Testament,"475

*[12] The Harper Study Bible, footnote on p.1871

*[13]  The Jerome Biblical Commentary, vol.2 "The New Testament" 475

*[14]  聖神は黙示録7:17、イオアン福音4:7-157:37-39で述べられている「生ける水」である。

*[15] Hopko, Bible and Church History,64-5

*[16]  この言葉は正教会の奉神礼の増聯祷の中で用いられている。

*[17] Jacques Ellul, The Political Illusion (Random House,Vintage Books,1972)

*[18] 「ネロ皇帝」をエウレイ語で書き、その文字を数字として読み(エウレイ語のアルファベットは数字に対応している)、その数字を合計すると、666になる。イオアンにとってドミティアン帝はハリストスの教会への狂気に満ちた邪悪な迫害者という点でネロと同じであった。

*[19] Hopko, Bible and Church History, 64

*[20] Harper Study Bible, footnote on p.1884

*[21] 「大離婚(The Great Divorce)」はC.S.ルイスの書のタイトル(1976)。邦訳書は「天国と地獄の離婚」