第4章 旧約聖書における知恵と予言

 

 歴史書で展開された「救済」の主題は、知恵文学と預言書の中で意義深く変容され、ともに旧約の啓示の究極的な姿を示します。紀元前8世紀から6世紀までに、神の契約はイズライリの大半の人たちの思惑通りには成就しつつあるのではないことが、神に忠実な何人かの人たちにわかり始めてきました。神の選民として招かれるのは「肉によるイズライリ人」であるよりむしろ「霊によるイズライリ人」であったのです(ロマ2:2829参照)。選ばれた民が導かれていくのはハナアンの地ではなく「神の国」でした。神の国は、その時そこにある世界の彼方にあり、その実現のためには、堕落したこの世の秩序が徹底的に再建されなければならない霊的な王国です。旧約の知恵文学と預言書は古きイズライリの向こう側に、新たなるイズライリ、普遍的な神の国を見通しました。かくして聖書学者、とくにキリスト教の立場に立つ学者たちは、そこに聖書のあがないについてのメッセージが「終末論的な変容」を遂げたと理解しています。エスカトン(終末)は「終わり」「目的」「最後のこと」を意味するギリシャ語です。それゆえ「終末論」は 最後のことについての理論や教義、またこの世の歴史の最終的な目的地についての考え方を表すものです。この未来への指向は旧約の知恵文学と預言書の最も顕著な特徴です。

 

旧約聖書の知恵文学

 

 旧約聖書は「知恵」について二通りの見方を教えています。一つは、自分と神、自分と他の人々、そして自分とこの世界との間の実際的かつ意味のある関係を打ち立てる能力として理解されます。この考え方の中では、知恵は哲学的ないしは知性的な知恵と言うよりむしろ「人々の目と神の眼差しのなかで善き人生を生きるための実際的な知恵」*[1]です。旧約聖書に登場する知恵ある人々は「律法と預言者たちが教えてきた光の中で生命と人間の存在の意味を(イズライリの)人々のために解釈することを追求」*[2]しました。

 

 第二に、旧約聖書では「知恵」は神的かつ形而上的(神秘的)な能力、「全能者の光栄の現れ」、宇宙がそこに差し向けられている神的な目的として考えられています。旧約聖書の多くの部分で、知恵の本質には人格的な性格が与えられ、神ご自身の存在と緊密に結びつけられています。箴言8:22-36では、知恵は人格化され世界の創造以前から神と共にあり永遠の生命へ至る鍵として描写されています。ソロモンの知恵書は、知恵を善を愛する理知的で聖なるものであり同時に「軽妙」な存在、神ご自身の純粋さ、力、光栄、光そして善性の表現として人格的に描き出します(知恵書7:22-8:1)。知恵はまた「万物の制作者」、「すべてを造った」「ことば」とされます(7:22,9:1)。旧約聖書にみられるこれらの諸句をふまえて、聖使徒パウェルなど新約聖書の著者たち、また多くの教会の師父たちは、旧約聖書にみられる「知恵」を、イイスス・ハリストスというお方に藉身した至聖三者の第二の位格である生ける神の御言葉として理解してきました。コリンフ前書1:24-30で、パウェルはハリストスを神の力と知恵、「私たちの義と聖とあがない」であると言っています。そして正教会の聖体礼儀では、ハリストスは「知恵と神の言葉と力」*[3]と呼ばれます。知恵の本質は聖書的な観点からは、このように実際的かつ神秘的な意義をともに帯びているのです。

 

〔解説・補論〕知恵を「軽妙」と形容していますが、これは新共同訳聖書(旧約聖書続編付き)に倣いました。しかし、軽妙というより、この箇所の英訳subtleの訳語である、「微妙な」、「名状しがたい」の方が適訳のような気がします。原語(ギリシャ語)のレプトスは「細かい」「鋭敏な」「精妙な」といった意味です。

 

知恵文学の諸書

 

 旧約聖書には「知恵文学」と総称される七つの文書が含まれています*[4]

 イオフ記は紀元前10世紀ないしは9世紀頃成立した文書で、そこでは「義なる受難者の問題」についての哲学的、神学的な考察が述べられています。なぜ、神が創造したこの世で、義なるものが苦難を受け、不義なるものが繁栄するのか。この問題に対してイオフ記が与える解答は、ごくおおざっぱに言えば、そこでは不義が長い間に善へと変えられていく神による宇宙的秩序と様式があるのだ、というものです。神は究極的には義なる者に勝利を与え不義なる者を打ち倒すでしょう。この報いがどのように実現するのかは私たちが現在伝えているイオフ記のテキストでは厳密には述べられていません。

 

〔解説・補論〕善なる神が創造した善なるこの世に、なぜ悪や苦難が存在するのか、義なる者が災厄に遭うことがあるのかという難問をめぐる神学的議論を「神義論」と呼び、神学の大切なジャンルの一つです。

 

 聖詠(詩編)は正教会の奉神礼の中で非常に重要な部分をになってきました。聖詠は、イエルサリムに再建された神殿での奉神礼で用いられるためにエズラの時代(紀元前5世紀)に現在のかたちに編集されたため、しばしば「第二神殿の聖歌集」とも呼ばれます。讃美の聖歌、危難の時の祈り、信仰の歌などがそこには含まれ、その中心的な主題は神と人間存在の意味との間の関係です。人が自らの存在の意味を発見するためには、人は、すべての存在の基盤であり、すべての意味の源泉である主・神と親密で調和した関係を持たねばなりません。

 

 箴言は、知恵と正義と義なる献身の間にある関係についての警句と詩の集成です。箴言の現在のかたちは紀元前3世紀に成立しましたが、より古いかたちのものがバビロン捕囚後の全時代にわたって用いられました。その時代では、イウデヤの若者たちへの道徳的、宗教的教育のためにラビ(イウデヤ教の教師)たちによって、この金言と知恵あることばの要約が使われました。

 

 伝道の書は紀元前5世紀に書かれ、聖書の中で最も悲観的な文書です。しかし伝道の書は、そこで表明されている人生の有様と意味についての深い疑念を克服し、人々の心を希望と意味をもたらす唯一の源泉としての神へと導きます。神のみが私たちの人生の意味を私たちに示すことができます。そして神にあってのみ、私たちはこの人生の無意味、罪と死のなわめから解き放たれるのです(伝道12章)。伝道の書は不死性への希望を暗示していますが、その主題は深くは追求されていません。

 

〔解説・補論〕伝道の書で展開される「空」を、東洋的、仏教的な「無」と同じものと考えがちですが、伝道の書の空は神を見失った人生の「空」であり、神への信仰によって克服されるべきものだという違いがあることを忘れてはなりません。

 

 雅歌はソロモンの時代(紀元前10世紀)から3世紀の間に、何度かにわけて書かれました。この書は人と神の愛の関係についての一連の長い歌です。男女の真の愛を詩的に表現していますが、教会の聖師父たちはこれを、旧約時代の神とイズライリの関係、また新約時代のハリストスと教会の関係の像(イコン)として解釈してきました。

 

〔解説・補論〕雅歌についての正教の聖師父の著作としてはニッサのグレゴリイの「雅歌講話」が有名です。新世社から全訳が出版されています。

 

 ソロモンの知恵書は知恵の本質と人間存在の意味についてのより拡大された議論です。この書は遅くとも紀元前1世紀には成立していたと考えられます。そこでは義なる者には勝利と不死が、邪悪な者には裁きと断罪が預言され(1-5章)、知恵は神の神秘的な原理として、神ご自身の顕現として(6-9章)描かれ讃えられ、アダムの時代からモイセイの時代にかけて知恵がどのように人々を導いたかが追想され(10-12)、神のその民への愛が強調されます(16-19章)。

 

 最後は集会の書とも呼ばれるシラ書です。紀元前2世紀に成立し、箴言のなかに蔵された「知恵」の伝統の新しい表現とも言えましょう。知恵は神の律法の実際的な理解とされ、神の権威の下での善き人生を可能にしてくれると理解されています。

 

〔解説・補論〕知恵の書もシラ書も旧約聖書外典ですので新共同訳聖書旧約聖書続編付きでお読みください。たいへん興味深い格言が次々と出てきて止められなくなること必定です。

 

知恵文学全体が伝えるメッセージ

 

 旧約の知恵文学は神の存在を議論抜きで前提とし、自明で疑い得ないこととしています。神は力に溢れ、すべてを知り、全能、永遠、無限、完全な善、完全な正義、そして完全な慈愛として描かれています。神は世界を創造した全能者であり、人類の父であり、自然と歴史の中で、とりわけ神の民イズライリの歴史の中でご自身を顕されます。

 

 知恵文学は人間の神との関係に由来する、人間存在の意味深さとその成就について論じます。罪は人を神の臨在から引き離し、反対に悔い改めと従順は神との和解をもたらします。人間はその罪深さによって自らの希望や望みを充分に達成できません。

 

 また知恵文学は人の救いの主題と死後の生命の主題を結びつけます(たとえば知恵書3:1-9、詩編16174973)。この結合は旧約聖書における神の救済計画の理解に新しい段階を画します。人格的な不死、死を超える希望、未来の生命の主題は旧約聖書の歴史書ではあまり深く展開されていません。神の永遠の生命への関わりを失った結果、古代イズライリの人々は神との契約の中で神が約束されたことをまったくこの世的な意味で解釈していたことは明らかです。「約束の地」はハナアンの地以外の何ものでもありませんでした。神が約束する幸福もこの世での平安と満足以外の何ものでもありませんでした。しかし、知恵文学(および預言者たちの言葉のいくつか)の著者たちは、ほどなく死によって終わりを告げるこの世での幸福は、神の約束の成就としては不充分なものであることに覚醒しています。死がうち滅ぼされてこそ真の幸福が可能となります。この洞察は新約聖書とキリスト教の教会の教えで完全に明らかになってゆきます。

 

 しかしながら、旧約の知恵文学の関心の中心は悪と受難と無意味の問題です。人間の有限性と依存性は神の超越性と力に対比され、人間の理解力の過酷な限界が念入りに強調されます。人は最も深い意味で神を必要とすることが繰り返し力説されます。人生の困難と苦痛への人としてのふさわしい対処は信仰、希望、従順です。神の究極的な正義と慈愛への信仰(イオフ記を参照せよ)、悪、受難、無意味そして死からの救いへの希望(伝道の書、聖詠、知恵書)、そして悪を避け、受難と無意味を免れるための道としての神の律法(トーラ)への従順(箴言、シラ書)です。

 

 知恵文学の諸書は、意味と無意味、希望と絶望の間で私たちに実存的な決断をうながします。人生は究極的に意味に溢れているものなのか、それとも所詮は無意味なものにすぎないのか。どちらの可能性も客観的ないし科学的に立証することはできません。知恵文学の諸書によれば、私たちは意味と無意味のどちらか一方を選ばなければなりません。それは、希望と絶望のどちらかに自己決定することにほかならないのです。旧約の賢者たちにとって、信仰と希望と従順の道がふさわしい選択です。それが歴史の中で、またかけがえのない私たち一人一人の人生で体験される神の招きへの応答だからです。

 

〔解説・補論〕私たちはみな例外なくこの希望と絶望のどちらかを自己決定しなければなりません。むずかしく言えば「実存的な選択」をいずれ迫られるのです。成人してから洗礼を受けた方たちは、その時、希望への自己決定をなさいました。また幼児洗礼の方たちも既にまたこれから、人生のいずれかの時点で、与えられた信仰を希望への自己決定として選び取り直さなければなりません。そんな、大仰なこと自分には関係ないと仰る方も、死に直面した時にはこの選択は免れません。人生は無意味にぷつんと途切れてしまうのか、死はよみがえりへの眠りなのか、絶望と希望の狭間でどちらかを選び取らなければなりません。客観的な証拠など何もないのですから、信じて選ばなければなりません。

 

預言書

 

 ギリシャ語のプロフェテス(預言)は「もう一人の人に代わって語る者」とりわけ神に代わって語る者という意味です。預言者に当たるエウレイ(ヘブライ)語は「ナビ」です。「神の意志を取り次ぐないしは語る者」*[5]です。旧約の預言者たちの仕事は「神の意志を人々に宣言し、神の秘密を明らかにし、何が起きようとしているかを宣告すること」*[6]でした。預言者たちは神の言葉と意志をイズライリの人々に宣言するために神に「召された」人々でした。この「預言者への召命」の必要性は旧約聖書の至る所で強調されています。(たとえば、列王記T〔サムイル上〕3章、アモス書7:14-15、オシヤ〔ホセヤ〕書1-3章、イサイヤ6章、イエレミヤ1:4-10、イエゼキイリ1:1-3:21

 

〔解説・補論〕「ナビ」はナビゲーターのナビです。最近のカーナビは文字通り行くべき方向を語ってくれますね。

 

 旧約の預言者たちは主の言葉を語り出し、神の意志を宣言し、神の言葉を彼らと彼らの同時代人たちが生きている実際的状況の中に適用しようとしました。「何が起ころうとしているか」という未来への預言(予言)、は預言者たちの使命と職務全体の一面にすぎません。預言者たちにとって、彼らが生きている時代の状況を神の言葉をよりどころにして照射し評価すること、そして人々を背教から呼び戻し主への信仰と従順に立ち帰らせることが第一の関心事だったのです。

 

 ギリシャ語訳旧約聖書(七十人訳)には19の預言書が次の順序で配列されています。

 イサイヤ、イエレミヤ、哀歌(伝イエレミヤ作)、イエレミヤの手紙(伝イエレミヤ作)、ワルーフ(バルク)、イエゼキイリ、ダニイル、オシヤ(ホセア)、イヲイリ(ヨエル)、アモス、アウディ(オバデヤ)、イオナ(ヨナ)、ミヘイ(ミカ)、ナウム(ナホム)、アウワクム(ハバクク)ソフォニヤ(ゼパニヤ)、アッゲイ(ハガイ)、ザハリヤ(ゼカリヤ)、マラヒヤ(マラキ)。

 

 イサイヤ、イエレミヤ、イエゼキイリ、ダニイルは他の預言書(「小預言書」)にくらべて長大な文書であるため、しばしば「大預言書」と呼ばれます。注意を要するのは、ダニイル書はエウレイ語版聖書では預言書には分類されず、イウデヤ教徒たちの正典の最後に「諸書」の一つとして置かれていることです。また、イウデヤ教徒たちはその正典性を否定しているのでイエレミヤの手紙とワラーフ(バラク)書はエウレイ語版には含まれません*[7]

 

 上記の十九書は一般に「古典的預言者」の書と呼ばれます。紀元前8世紀から2世紀までの間に、旧約時代の預言的な思想はその頂点に達しました。この時代の預言者たちの活動を「古典的預言」と呼びます。それに対し、この時代に先立つ紀元前13世紀から9世紀に至る時代に行われた預言は「初期預言」と呼ばれます。初期預言者としては、モイセイ、士師時代の集団的に活動した預言者たちと孤立して活動した預言者、サムイル、イリヤ(エリヤ)、エリセイ(エリシャ)など王政時代の初期に活動した特別な文書は残していない預言者たち(列王記T、U、V、W)があげられます。

 

 「古典的預言者」たちはエウレイ王国の衰退と滅亡と期を同じくして現れました。紀元前10世紀後半の王国の南北分裂以来、旧約の民は腐敗と退廃、そして社会的、政治的、宗教的無秩序の時代に入ってきます。国家は一層深刻になっていく文化的、霊的な危機に直面します。宗教的な祭儀に異教の偶像崇拝が持ち込まれ、南北両王国いずれにおいても不道徳な行為や習慣が目に余るものとなってゆきました。預言者たちの送り込まれたのはこのような時代でした。彼らの使命はイズライリ民族が陥ってしまったこのような状況に対して、神の言葉によって警告し、アウラアムの子孫たちを襲っている重大な事態の神学的、人間的な意味を明らかにすることでした。この点で彼らは旧約聖書の歴史書が告げているメッセージを再度繰り返しました。不信仰を悔い改めようとしないイズライリ民族は、主の約束と神の国を喪失してしまう瀬戸際にあったのです。

 

 古典的預言の歴史的な展開は次にあげる三つの主要な段階に分けることができます。

 「前捕囚期」「捕囚期」「後捕囚期」です。

 

前捕囚期の古典的預言

 

 紀元前8世紀から7世紀の間、イズライリ王国(北王国)とイウデヤ王国(南王国)は最初はアッシリヤ帝国に後にワビロン(バビロニヤ)帝国に脅かされていました。アッシリヤは紀元前722年についに北王国を滅ぼし、ついで612年自らもワビロンに滅ぼされてしまいました。やがてワビロン帝国は586年イウデヤ王国をも征服し、イウデヤの人々をワビロンに連行し、その後50年近く捕囚状態に置きました(ワビロン捕囚)。

 前捕囚期の主要な預言者はアモス、オシヤ、イサイヤ、ミヘイ、ソフォニヤ、ナウム、アウワクムです。彼らは、イズライリとイウデヤ両王国の人々に対し、もし彼らが現在の背信から主への従順な信仰へ立ち帰らないなら、多くの災厄が襲うだろうと警告しました。聖書の見地からは、アッシリヤとワビロンは正義と怒りの神が、自らの民をそのはなはだしい罪深さゆえに罰するための道具でした。

 

 アモス(紀元前750年頃活動)はイウデヤ王国の出身の牧者であり、またイチジク桑の栽培者でしたが、神によって北のイズライリ王国に対する預言者として召されました。彼は富める者たちの貧しい者たちへの圧迫をはじめ、北王国に蔓延していた社会的不正、異教的偶像崇拝的な宗教祭儀を告発し、その罪の結果、神の民(南王国の人々も含む)の上に、神の裁きと処罰が降るだろうと警告しました。

 アモス書の概要は次の通りです。

 神の民と他の諸国への罪の告発(1−2章)。特にイズライリ王国の不道徳性と不信仰への非難(3−6章)。北王国に差し迫った裁きについての5つの幻視(7−9章)。

 

 アモスと同時代に北王国で活動したもう一人の預言者がオシヤ(ホセヤ、紀元前740年頃活動)です。著しい不道徳と宗教的背信の時代にあって。オシヤは、神とその民の関係を忠実な夫がふしだらな妻に苦しめられてきた結婚生活になぞらえます。しかしオシヤは、もしふしだらな妻が、誠実にゆるぎなくその不忠実を悔い改めるなら、夫(神)は彼女を赦し祝福することは間違いないと告げます。

 

 イサイヤは50年以上にわたってイウデヤ王国で活動しました(紀元前740年頃から687年頃)。その書は大きく二つの部分に分けることができます(1−39章と40−66章)。さらに現代の聖書学者たちの多くは、第2の部分はイサイヤによってではなく紀元前6世紀に彼の弟子によって書かれたと考えています。

 第1の部分はイウデヤと古代中東の他の国々の運命を預言します(1−12章、13−23章)。引き続き、最後の審判と神の国の幻像(24−27章)、アッシリヤ帝国の崩壊(28−39章)が預言されます。第2の部分はワビロン捕囚からの解放(40−48章)と、メシヤに率いられて約束の国に入ってゆく新たなるイズライリの出現を預言します。

 

 ミヘイはイサイヤと同時代者です(紀元前740−687年頃)。彼は「主の言葉」をイウデヤとイズライリの双方に向けて語りました。彼の書の概要は次の通りです。

 二つの王国への審判(1−2章)、最終的にメシヤが到来しそこで打ち立てられる神の国を通じて人類が究極的に救済される終末(3−5章)、そして神の罰と神の慈愛についての詩的な説教(6−7章)。

 

 ソフォニヤ(ゼパニヤ、紀元前625年頃活動)はアッシリヤの北王国征服のほぼ一世紀後にイウデヤでその書を記しました。彼はイウデヤ人のワビロン捕囚とそこからの解放を預言し(1−2章)、神による信仰熱い人々の最終的な救いを待ち望みます(3章)。

 

 ナウム(ナホム)はソフォニヤと同様、紀元前7世紀の終わり頃イウデヤの地に生きました。紀元前620年頃に記された彼の預言は612年のワビロンによるアッシリヤ帝国の滅亡を驚くべき鋭さで預言しています。アッシリヤの首都ニネビヤへの預言は神の律法に背くすべての国々への神の怒りを象徴します。

 

 前捕囚期の最後の預言者はアウワクムです(紀元前600年頃活動)。彼は差し迫るワビロンによるイウデヤの征服を、神に背いた人々への神のわざとして説明します(1章)。また彼はワビロン自身の滅亡も預言し、救いを求めて神に立ち帰ろうとする悔い改めた罪人たちの救いを待望しています。

 

ワビロン捕囚期の古典的預言者

 

 ワビロン捕囚の期間(紀元前586-538)に三人の重要な預言者が現れました。イエレミヤ、イエゼキイリ、そしてアウディ(オバデヤ)です。

 

 イエレミヤは捕囚前と捕囚期の両時期に預言しています。彼の筆記者であったワラーフ(バラク)によって様々な時に記録された彼の預言は、イウデヤ王国の滅亡とワビロン捕囚を予言しています(1−25章)。そこには預言者自身の長く困難に満ちた使命についての自伝的資料(26−36章)、ワビロンによってエルサリムが崩壊した時の預言者の体験(37−45章)、諸外国についての一連の預言(46−51章)、捕囚の初期についての補足的な記事が含まれています。「哀歌」と「イエレミヤの手紙」(外典)は共にイエレミヤのものと伝えられてきました。両書ともイエレミヤの思想を反映していますが実際に彼によって書かれたのではありません。偶像崇拝の罪に対する批判である「イエレミヤの手紙」は実際には紀元前4世紀の終わり頃に書かれました。

 

 イエゼキイリ書は紀元前593年から573年の間に書かれました。イエゼキイリは彼を神の預言者へと変えた神の召命について詳しく述べます(1−3章)。彼はまず、ワビロン捕囚をイウデヤの背信への神の裁きとして説明します(4−24章)。さらに聖地を取り囲む諸外国に対して預言し(25−32章)、ハナアンのイウデヤ人のみならず異邦人たちも含めた「神の民」全体が、天の王国において将来回復されるだろうと預言します(33−48章)。40−48章は世の終わりに信じる者たちを待ち受ける天国にある神の神殿についての神秘的幻像を描写します。

 

 アウディ(オバデヤ)書の記された時期については二つの説があります。ワビロン捕囚期か、その後しばらくした時期に書かれたようです。短い書で21節しかありません。アウディはハナアンの地の南西部に位置するエドムの滅亡を預言し、神の律法に背くあらゆる国々が同じ運命に見舞われるだろうと告げ、終わりの日に最後の審判が行われ、神を信じない者たちがみな外の暗闇に投げ出されると預言します。その後、神のイズライリ(すなわち、主を信じる忠実な人たち)のみが天の王国に入れられます(15−21節)。

 

後捕囚期の古典的預言者

 

 この時期の預言者としてはアッゲイ(ハガイ)、ザハリヤ(ゼカリヤ)、マラヒヤ、イオナ(ヨナ)、イヲイリ(ヨエル)、ダニイル、ワルーフ(バラク)が挙げられます。

 

 アッゲイザハリヤは紀元前6世紀後半の預言者で、捕囚から解放されて帰郷したイウデヤ人たちにイエルサリム神殿の再建のために勤勉かつ熱心に努力することを訴えました。アッゲイの預言は、神の民の生活に果たす神殿の重要性についての四つの極めて熱情的な呼びかけによって構成されています。彼の神殿再建の重要性の強調は、人間が神の臨在と、神と出会い礼拝する家を必要とすることの証となっています(1−2章)。

 ザハリヤ書は二つの部分に分けられます。1−8章ではイウデヤの人々に神殿再建のために働き続けるように励まし、異邦人、イウデヤ人を問わず罪人たちへの神の怒りを警告します。9−14章では世の終わりにメシヤが到来し神の国が打ち立てられるだろうと預言します。

 

 マラヒヤはパレスティナが干ばつと飢饉に見舞われた紀元前5世紀中頃に活動した預言者です。困難な社会経済的な状況の中で、イウデヤ人たちは再び、神の善性と正義はどこへ行ってしまったとつぶやき始め、霊的な弛緩と無気力に陥ってゆきました。彼はイズライリの残りの者たちに彼らの霊的かつ道徳的な無関心は彼らの神への背きの直接的な結果であり、そのような冒涜は全能者神が容赦しないと警告します(1−2章)。彼は人々に再びきっぱりと熱心な心で神を礼拝するように訴えます。そしてすべての悪者が滅ぼされ義人が救われる偉大にしておそるべき「主の日」にメシヤが到来することを預言します。

 

 イオナ書は紀元前5世紀後半に書かれましたが、そこで扱われている出来事は紀元前8世紀を舞台としています。預言者イオナはアッシリヤの首都ニネビヤの人々に、彼らの罪を悔い改め神の赦しに立ち帰らないなら滅亡するであろうと警告するよう神に召されました。敬虔なイズライリ人であったイオナはアッシリヤが悔い改め救われることを望みませんでした。そこで彼は神の召命に背き、その預言者としての責任を放棄しようとします。しかし最後には、神に強くうながされてイオナはニネビヤの人たちに向かい神のメッセージを伝えました。彼の預言のおかげで、アッシリヤの人々はその邪悪な生き方を捨て神の律法に従うことを約束しました。かくして、ニネビヤの滅亡はさしあたり免れることとなりました(アッシリヤは結果的には霊的かつ道徳的無法に戻り紀元前612年にワビロンに滅ばされました)。イオナ書の目的は、神の断罪と悔い改める者たちへの赦しはイズライリだけではなく他の国々すべてに及ぶと示すことです。悔い改めと従順な信仰によって。全人類は神の国の民の一員となることができるのです(1−4章)

 

 イヲイリ(ヨエル)書は紀元前5世紀の終わりか4世紀の初期に書かれました。イヲイリは罪人には神が定めた罰がまぬかれないことを強調し(1章)、これらの罰は最後の審判と悔い改めないすべての罪人たちへの断罪を預象していると解釈しました(2章)。しかし、「主の日」の到来により、神の(霊)が忠実な人々に注がれ彼らは「主の家」に永遠に住まうことになります(2−3章)。ほとんどの古典的預言者たち同様に、イヲイリは審判への重苦しい警告とともに救いへの幸福な約束を預言します。私たちの運命は私たちが「主の言葉」にどのように応えてゆくかにかかっているのです。信仰と従順は救いを、不信仰は滅びをもたらすでしょう。

 

 ほとんどの今日の聖書学者は、ワビロン捕囚の時期に生きたダニイル自身によって書かれた資料を含むにもかかわらず、ダニイル書自体は紀元前2世紀に成立したと確信しています。この書はきわめて象徴的かつ幻視的なもので、神の至高の能力と、人類と世界を罪の束縛から救おうとする堅固な神の意志を強調しています。預言全体の焦点はすべての忠実な人々が神ご自身に治められる「永遠に続く王国」の到来です。この書は二つの部分に分けられており、1−6章はワビロン捕囚の際のダニイルとその友人たちの経験を語り、7−12章は普遍的な神の王国の実現に向かってゆく人類の将来に起こるだろう四つの劇的な幻像を示します。

 

 ワラーフ(バラク)書は、イエレミヤの書記役だったワラーフの名を取った書ですが、二世紀後半に書かれました。この書はイズライリの受難を神への背きの結果として解釈し(1:15-38)、知恵を、もしそれに聞き従うなら神の民を救いに導く神に示された原理として讃え(3:9-4:4)、神に忠実なすべての人々の救いを預言します(4:5-5:9)。「イエレミヤの手紙」同様、ワラーフ書は七十人訳ギリシャ語聖書に含まれる外典です。 旧約聖書のエウレイ語版には、すでに指摘したように、これらの外典は含まれていません。

 

預言者たちのメッセージ

 

 旧約の預言書に含まれる主要なメッセージについて、いくつかを選んでお話ししていきましょう。

 

絶対的かつ非妥協的な唯一神論

 

 古典的預言者たちは背信と偶像崇拝への堕落の時代に現れました。イズライリの人々は他の宗教と妥協し、真の神――アウラアム、イサアク、イアコフそしてモイセイの神――に対する礼拝に、彼らを取り囲んでいた異邦人たちの祭儀に表されている信仰内容や礼拝のかたちを取り入れてしまいました。古代中近東の宗教は多神教であり、多くの神々を崇め礼拝していました。ハナアンの神殿に祭られている神々は、天体や動物、火、雷、雨、豊饒など自然界の事柄を人格化した自然神でした。それに対し、聖書が示す神は唯一の超越的な自然界の創造者、主宰者です。異教の祭儀を取り入れることによってイズライリの人々は神と自然を混同してしまい、自然を創造した神よりも、神によって創造されたものを礼拝するようになったのです。この逸脱によって、彼らは救いと幸福への唯一の希望からみずからを引き離し、神を怒らせ審判と断罪を招いてしまったのです。

 

 そこで預言者たちはイズライリの諸部族を汚染していた多神教的な自然崇拝に対して主・神の唯一性と絶対性な至高性を宣言しました。イサイヤによれば、イズライリの神は他に較べることのできるもののない独自の絶対的な全存在の主です。主は永遠であり、始まりも終わりもありません。「地のすべての果て」(イサイヤ52:10)がその創造された世界です。救いをもたらすことができるのはこの神だけです。人類は自然の様々な力――「地のすべての果て」――に救いを求めてはなりません。自然は神の権威に服する神の創造物だからです。(イサイヤ40:252841:1443:10-1144:645:21-22

 

 アモスもまた自然の秩序を神が「主」としてつかさどっていることを次のように表現しています。「プレアデスおよびオリオンを造り、暗黒を朝に変じ、昼を暗くして夜となし、海の水を呼んで、地のおもてに注がれる者、その名は主という」(5:8)。そしてイサイヤはこの宇宙の主、「イズライリの聖なるお方」は、私たちを救うことのできる唯一の主、唯一の真の神であり「わたしの他に神はない」お方であると言います。それゆえ古典的預言者たちはモイセイの次の教えを復興しようと力を尽くしました。「イズライリよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(復伝律例6:4-5)。異教の神々は真の神ではなく、クリスチャンにとっては、堕落した人間の想像力が勘違いして生み出した作りごとであるか、サタンに仕える悪霊たちです。いずれにしても、多神教は預言者たちと聖書全体の教えからの深刻で危険な逸脱です。

 

神の正義と人間の歴史の意味

 

 宇宙の主はまた歴史をもつかさどる「歴史の内に立ち、真実を明らかにし、無慈悲で神をないがしろにする国々を罰する正義の神」*[8] です。預言者たちは一貫して、イズライリとこの世の災厄を、人が自由意志によって罪を犯したことから生じ、神がこれらの罪への罰としてその存在をあえて見過ごしにしておられる災いと説明しています(たとえばアモス1-2章参照)。とりわけ古代のイズライリが被った苦難は選ばれた民が彼らの神に背いたことへの神の定めた罰として解釈されました(アモス2:4-6、イサイヤ1-6章)。

 

 預言者たちによれば、神ならぬものを礼拝する偶像崇拝はイズライリの人々が神の律法に背いた数多くの罪の中で最も重大な罪でした。紀元前8世紀、オシヤ(ホセヤ)はイズライリ王国に対して預言し、その中で王国に蔓延する偶像崇拝を不忠実な妻の姦淫になぞらえています。彼はイズライリ王国にその「売春行為」をやめて立ち帰れと訴えます。「そうでなければ、わたしは彼女の着物をはいで裸にし、その生れ出た日のようにし、また荒野のようにし、かわききった地のようにし、かわきによって彼女を殺す」(オシヤ2:3)。もし、イズライリ王国がその邪悪な恋人たち(多神教の神々)との姦淫を続けるなら、主は「いばらで彼女の道をふさぎ、かきをたてて、彼女にはその道がわからないようにする」だろうと言います。そして「彼女はその恋人たちのあとを慕って行く、しかし彼らに追いつくことはない。彼らを尋ねる、しかし見いだすことはない」でしょう(2:6-7)。神がその民に苦難を与えるのは、彼らを正気に立ち帰らせるためでした。堕落したイズライリに最後には「わたしは行って、さきの夫に帰ろう。あの時は今よりもわたしによかったから」(2:7)と決意させるためでした。

 

 イズライリの危うい歩みへのオシヤのメッセージは、同じく8世紀に北王国に向けて預言したアモスもまた共感するものでした。アモスによれば、イズライリの苦難は罪深い王国をその主に立ち帰らせることを促す罰でした。神はアモスの口を借りてその民に宣言します。

 

「あなたがたはわたしを求めよ、そして生きよ。……善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる。またあなたがたが言うように、万軍の神、主はあなたがたと共におられる。悪を憎み、善を愛し、門で公義を立てよ。万軍の神、主は、あるいはイオシフの残りの者をあわれまれるであろう」。(5:414-15

 

 オシヤもアモスもともにイズライリ王国に対して、もし彼らが背信にとどまり悔い改めないなら彼らはぬぐい去られ、世から忘れられてしまうであろうと警告しました。しかし北王国はこの警告に従わず、紀元前8世紀の終わり頃アッシリヤによって完全に滅ぼされてしまいました。かくして北王国の歴史は偶像崇拝の危険と、神を何ものよりも愛し、他の何ものをも神としない生き方を捨ててしまった人々の運命のイコン(=典型的な像)となりました。

 

 イウダ王国もまた偶像崇拝の罪を犯しました。イエレミヤは南王国を厳しく告発します。

 

「イウダの人々とイエルサリムに住む者のうちに反逆の事がある。彼らは、わたしの言葉を聞くことを拒んだその先祖たちの罪に立ち返り、またほかの神々に従ってそれに仕えた。イズライリの家とイウダの家とは、わたしがその先祖たちと結んだ契約を破った。それゆえ主はこう言われる、見よ、わたしは災を彼らの上に下す。彼らはそれを免れることはできない。彼らがわたしを呼んでも、わたしは聞かない。イウダの町々とイエルサリムに住む者は、行って、自分たちがそれに香をたいている神々に呼び求めるが、これらは、彼らの災の時にも決して彼らを救うことはできない。イウダよ、あなたの神々は、あなたの町の数ほど多くなった。またあなたがたはエルサレムのちまたの数ほどの祭壇を恥ずべき者のために立てた。すなわちバアルに香をたくための祭壇である。それゆえ、この民のために祈ってはならない。また彼らのために泣き、あるいは祈り求めてはならない。彼らがその災の時に、わたしに呼ばわっても、わたしは彼らに聞くことをしないからだ。……あなたを植えた万軍の主は、あなたに向かって災を言い渡された。これはイズライリの家とイウダの家とが悪を行い、バアルに香をたいて、わたしを怒らせたからである」。(イエレミヤ11:9-1417

 

 この神によって南王国に言い渡された災いとは、いうまでもなく紀元前6世紀に起きた「ワビロン捕囚」です。しかしイウダ王国はワビロンによって完全に滅ぼされはしませんでした。南王国はかろうじて存続し、神の救いのメッセージを世界に伝えるために生き続けました。

 

 古典的預言者たちによれば、古代イズライリの歴史は神の正義、信仰と従順によって神と交わりを持つことの必要性、人間の歴史の究極的な意味の啓示でした。イズライリの神は歴史のただ中で、その歴史の過程そのものを通じて、人類と世界の救済計画を明らかにします。イズライリの歴史は人類社会全体にとっての実地教育でした。神への不信仰、偶像崇拝と不道徳はイズライリと人類が被る災厄の第一の原因でした。悔い改めと神の人類救済の意志に対する一新された従順な信仰のみが、歴史の本来の目的地である主・神のもとでの平和と調和に人類を到達させることができます。

 

 預言者たちは人類の歴史の中で起きる動乱と苦難を、義なる神によるの罪深い世界への裁きと解釈します。しかしみずからの罪深さと戦い、偶像崇拝を寄せ付けず、主の約束に信頼を起き続ける人たちが受ける苦難は一体何なのでしょう。イオフ(ヨブ)のような神を愛する義人たちが、なぜ災厄にあわなければならないのでしょう。

 

 旧約の預言者たちはこの問題に取り組み、「義なる受難者」たちの悲惨をどう説明すればよいのかを模索しました。アウワクム(ハバクク)書は不当な受難の問題についての最も直接的な預言的見方を提供してくれます。アウワクムのこの問題についての見方はイオフ書の伝統に根ざしています。罪のない義なる者の受難は堕落した世界の中で「弟子であることに求められる代価」*[9]の証しであり、この受難は世の終わりに到来する神の国で報われるであろうと主張します。イズライリと他の諸国が犯した諸罪に対する神の罰は歴史的危機と政治的惨禍のかたちをとりますが、それらは不可避的に正しい者たちも不正な者たちも共にその災厄に巻き込まずにはおりません(アウワクム1-2章)。しかし、長い目で見れば、それは無実の者の苦難を善きものに変えるでしょう。この神秘としか言いようのない報いは、預言者の未来を見通す能力の限界の彼方に隠されています。

 

「この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる」。(アウワクム2:3-4

 

 「義なる受難者」の問題に対するこの見方は明らかに死後のいのちの現実性を暗示しています。なぜなら、もし死者の復活がなかったとしたら、既に死んでしまった義者たちはどのようにして神の報いを得るのでしょう。アウワクムはこの問題に対してはっきりとした言明はしていませんが、義なる神による究極的な救いへの信頼を表明しています。死を超えた希望の主題は、預言者たちの書ではまだ充分に表現されているとは言えません*[10]。しかしその主題は次第に展開されていき、ついに聖使徒パウェルは全人類の人格的な復活とその不滅性を信じて次のように言明するに至りました。「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」(ロマ8:18)。

 

 さらに義なる受難者の問題のもう一つの次元が預言者イサイヤによって指し示されました。彼にとって義人の受難は人類と世界を罪と死から救うメシヤの受難の生きたシンボルであったようです。イサイヤはメシヤを悪の暴虐から一切を救う神の「苦難の僕」として描きます(イサイヤ49-57章)。「あらゆる時代のクリスチャンたちはこれをハリストスの受難の前触れとして解釈して」*[11]きました。この受難によって、全世界の罪のあがないはたった一度の完全なあがないとして成し遂げられます。ハリストスにあって、神の義と罪のない者の受難が一つにされ、人類の歴史の意味と目的が決定的かつ完全に明らかにされます。神の国で義なる者は報われ永遠の光栄に入れられます。

 

預言者たちが説く真の宗教

 

 預言者たちによれば、真の宗教とは律法的な道徳主義でも、たんに儀式的な美や印象的な式典を愛好することでもありません。まして礼拝形式の優雅さを求めての熱心さであろうはずがありません。真の宗教は、従順な信仰がもたらす現実的で人格的な神との出会いを根底に持つものでなければなりません。そして神への従順な信仰の現れこそが道徳的な善行であり奉神礼なのです。神を愛する者は正しい聖なる生活を送るために努力しなければなりません。自らを主への祈りと信仰の仲間たちとの共同の礼拝に献げなければなりません。神への愛は「愛の働き」*[12]として示されなければなりません。すなわち、神の愛を他者と分かち合うために、また精神的、物質的に援助が必要な人たちを支えるために、そして可能な限りあらゆるところで公正さが実現するために努力するということです。

 

 そうであってこそ善行は真実の生きた信仰の表現であり、だからこそ旧約の預言者たちは彼らの時代の空虚でたんなる形式にすぎない宗教を痛烈に批判したのです。たとえば預言者アモスは紀元前8世紀のイウダとイズライリの両王国にはびこっていた社会的不正を批判し、主は道徳的な正しさへの情熱を欠いた彼らの礼拝をお受け入れになることはないとはっきり断言します。さらにイウダとイズライリの道徳的な放縦さによって、彼らが念入りに行う奉神礼は何の意味もない笑いものに堕してしまいました。神はアモスの口を借りて次のように言い渡します。

 

「わたしはあなたがたの祭を憎み、かつ卑しめる。わたしはまた、あなたがたの聖会を喜ばない。たといあなたがたは燔祭や素祭をささげても、わたしはこれを受けいれない。あなたがたの肥えた獣の酬恩祭はわたしはこれを顧みない。あなたがたの歌の騒がしい音をわたしの前から断て。あなたがたの琴の音は、わたしはこれを聞かない。公道を水のように、正義をつきない川のように流れさせよ」。(アモス5:21-24

 

 神が人々に求める信仰の表現は、その生活に実現する正義のわざを伴った礼拝です。ご大層な儀式で飾り立てられた単なる儀礼的宗教は霊的に不充分です。聖書によれば、道徳的な行いと献身をもたらさない信仰は真実で真正な信仰ではありません。聖書は信徒に「ただ公義(正義)をおこない、いつくしみ(親切)を愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むこと」(ミヘイ6:8)を命じます。もちろん神への礼拝の伴わない道徳的な自己努力は、主の至高の光栄に対する危険な無関心です。しかし、私たちの日常生活の中で実践的かつ道徳的な実りを何も生み出さないような儀礼的宗教礼拝に携わることは、神を、この世での人間の現実に対して何も意味を持たない単なる「お飾り」にしてしまいます。

 

新しい契約と神の国

 

 神のイズライリとの契約については既に第3章で詳しく述べました。アウラアムにおいて、イズライリ民族は神の民として選ばれました(創世記12章)。そして、神の律法を忠実に遵守するなら、イズライリは人類全体を主のもとに呼び集める「祭司の国」「聖なる民」となると約束されました(出エギペト19-24章)。他の諸国に対する祭司としての働きを成し遂げることによって、イズライリは全世界から認められ「約束の地」を永遠に所有することになるはずでした。

 

 預言者たちはイズライリの選びと神との契約関係、彼らの世界に対する使命とそれにもとづく究極的な権利を終末論的な言葉で解釈し直しました。すなわち、イズライリの救いは全世界の国々を巻き込む未来の出来事として理解されます。人類の歴史は、神に忠実でない者たちが忠実な者たちから決定的に分離される最後の審判の日――「主の日」――に向かって歩みを進めていると見なされます。「約束の地」には、全てのものが新たにされ主のもとに調和する「神の国」であると、霊的な表現が与えられます。

 

 古典的預言者たちはイズライリが世界に対するその使命を達成できないでいることを嘆き、イズライリがその祭司としての使命に再び目覚めるよう懸命に訴えました。イサイヤは、神はイズライリを「もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう」(イサイヤ49:6)としたと言います。神はイズライリと約束することを通じて全世界と約束したのです。「わたしはあなたを民の契約とし、もろもろの国びとの光として与え、 盲人の目を開き、囚人を地下の獄屋から出し、暗きに座する者を獄屋から出させる」(42:6-7)。そして預言者ミヘイによれば、神のイズライリとの契約は、イウデヤ人と異邦人を問わず、神に忠実な人々すべてを、来るべき神の国において最終的に救うという約束でした(ミヘイ4:1-3)。

 

 しかし、旧約聖書が啓示するように、イズライリの人々は神との契約を守ることができませんでした。「もろもろの国びとの光」として、また神がすべての人々の主であることの証しとして行動する代わりに、旧約の民は世界に向かっての祭司としての役割を捨て、異教の祭儀と宗教にまやかしの満足を追い求める道に迷い込みました。既に見たように、この背信の結果がイズライリとイウダの両王国の転覆と滅亡でした。神の命じた使命を達成できなかったイズライリの歴史的な過ちを見て、古典的預言者たちはやがて、神と「イズライリの残りの者」との間で結ばれる新しい契約を待ち望むようになりました。すなわち、ワビロン捕囚の後に残った、神の真理と来るべき神の国の証人であり続ける少数の「アウラアムの子孫」たちとの間の契約です。

 

 紀元前8世紀イサイヤは、エウレイ両王国の滅亡と、その後、神が契約を更新して聖なる「残りの者」たちが救われることを預言しました(イサイヤ10:20-23)。さらに預言者ミヘイは、この「イアコフの残りの者たち」――捕囚後時代の義なる残りの者たち――は神の民の約束された使命を実行することによって、没落したイズライリとイウダの両王国の生きた継承者として数えられるだろうと預言しました(ミヘイ5:7-8)。

 

 イエレミヤは、義なる残りの者との契約を「新しい契約」と呼びます。

 

「主は言われる、見よ、わたしがイズライリの家とイウダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエギペトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。しかし、それらの日の後にわたしがイズライリの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」(イエレミヤ31:31-34)。

 

 神がその民と結ぶこの新しい契約では、律法は石の板にではなく、むしろ人々の心の中に書き込まれます(ロマ11:26-36、エウレイ8:8-12)。

 

 イズライリの「残りの者」と「新しい契約」によって、「すべての国民ともろもろのやから」が集められ、主の光栄を見るでしょう(イサイヤ66:18)。義なる残りの者は世界の国々にとってしるしとなり、あらゆる地域から「イズライリの子らが清い器に供え物を盛って主の宮に携えて来るように…、主の供え物」として悔い改めた者たちを集めるでしょう(イサイヤ66:19-20)。その時、かつての不信者が神を信仰するようになることは、宗教的な祭儀での献げ物と同様、主に対する価値ある献げ物となるでしょう。ついに「永遠の契約」となる「新しい契約」によって、世界各地から集められてくる人々はイズライリの神は全被造物の主であることを知るでしょう。すなわち神は「そのすみかは彼らと共にあり」「彼らの神となり」、彼らを「わが民」とするでしょう(イエゼキイリ37:26-28)。

 

 もちろん正教会の観点からは、イズライリの「残りの者」、そして神と人類の間の「新しい契約」についての預言は、ハリストスの到来と教会の創設についての予告にほかなりません。ハリストスに最初に従った人々はほとんどがイウデヤ人でしたが、彼らはメシヤの到来を待望し、その実現をイイススに認めました。そして、イイススの死と復活と昇天の後、この「義なる残りの者」たち――初代教会の人々――はハリストスを通じて全世界に及ぶ神の救いのメッセージを布告し、あらゆる国々の人々に神の約束する「新しい契約」への信頼を植え付けたのです。その時、教会はアウラアムの子孫と他の国々の人々も共に集う「新たなるイズライリ」となりました。教会のメンバーである資格は信仰にあり、もはや血統によるものではありません。教会は「霊によるイズライリ」であり「肉によるイズライリ」ではありません。「というのは、外見上のイウデヤ人がイウデヤではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたイウデヤ人がイウデヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである」(ロマ2:28-29)。

 

 新しい契約への期待感を胸に、旧約の預言者たちは繰り返し、神の国の現れに先立つ「主の日」の到来を預言しました。預言書の中で「主の日」は何度も繰り返して「裁きの日」として示されています。ソフォニヤ(ゼパニヤ)の次の言葉は代表的な最後の審判の預言です。

 

主の大いなる日は近い、近づいて、すみやかに来る。主の日の声は耳にいたい。そこに、勇士もいたく叫ぶ。その日は怒りの日、なやみと苦しみの日、荒れ、また滅びる日、暗く、薄暗い日、雲と黒雲の日、ラッパとときの声の日、堅固な町と高いやぐらを攻める日である。わたしは人々になやみを下して、盲人のように歩かせる。彼らが主に対して罪を犯したからである。彼らの血はちりのように流され、彼らの肉は糞土のように捨てられる。彼らの銀も金も、主の怒りの日には彼らを救うことができない。全地は主のねたみの火にのまれる。主は地に住む人々をたちまち滅ぼし尽される。(1:14-18、その他にイオイリ〔ヨエル〕2:1-23:22:12-132:32 アモス5:18-20も参照のこと)

 

 預言者たちは「主の日」についていきいきと力強く語ります。彼らによれば、最後の日に神の怒りの審判を逃れるために、私たちは自らの罪深さを知り、悔い改めて、信じて「恐れおののきつつ」(フィリプ2:12)「主の名を呼び」(イオイリ2:32)続けなければなりません。それだけが、大いなる恐るべき審判の日に、天の父から永遠に切り離されてしまう最終宣告を免れる道です。

 

 預言者たちによれば、審判の日に引き続いて神の国が打ち立てられます。イサイヤは神の国の出現を次のように描き出します。その大いなる平和の王国では「おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである」(イサイヤ11:6-9)。争い合っていた世界の国々はもはや、「彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない」(2:4)のです。そして、それゆえ……

 

その日あなたは言う、「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたは、さきにわたしにむかって怒られたが、その怒りはやんで、わたしを慰められたからです。見よ、神はわが救である。わたしは信頼して恐れることはない。主なる神はわが力、わが歌であり、わが救となられたからである」。あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ。その日、あなたがたは言う、「主に感謝せよ。そのみ名を呼べ。そのみわざをもろもろの民の中につたえよ。そのみ名のあがむべきことを語りつげよ。主をほめうたえ。主はそのみわざを、みごとになし遂げられたから。これを全地に宣べ伝えよ。シオンに住む者よ、声をあげて、喜びうたえ。イズライリの聖者はあなたがたのうちで大いなる者だから」。(12:1-6

 

 旧約預言書には同様の記述を他にいくつも見つけだすことができます。それらの預言について最も興味深いのは、古きイズライリの「約束の地」征服へ向けての道が、新たなるイズライリの神の国への入場へと変容されていることです。旧約の預言者たちの預言をつきつめれば、終末における神の国到来の預言だったのです。

 

メシヤの到来

 

 預言者たちは神とその民の契約関係を終末論的にとらえ直す中で、もうひとつきわめて大切な主題を提示しています。メシヤの到来です。預言者たちはメシヤをイズライリと世界を救うために神に「そそがれた者」(=メシヤ)と見なしました。そしてキリスト教は伝統的に旧約の預言者たちが預言したメシヤ到来を、待望されたハリストス(ギリシャ語で「膏そそがれた者」の意味)、イイススの出現として理解してきました。(ルカ4:16-30参照)

 

 預言者たちの描き出すメシヤには三つの主要なイメージがあります。第一はイズライリの解放と守護を実現したダヴィドのような偉大な王であり、第二は人類の罪をあがなうために苦難と死さえも甘受するであり、第三は御自身の民のただ中におられる神というイメージです。

 

 ダヴィドのような王としてのメシヤのイメージは預言者の数々の言葉に見ることができます。イサイヤはメシヤを「イエッセイ〔ダヴィドの父〕の株から出た」「一つの芽」(11:1)として、すなわちダヴィドの血統をつぐ王として預言しました。イエレミヤとイエゼキイリもメシヤ的な王について語っています。

 

主は言われる、見よ、わたしがイズライリの家とイウダの家に約束したことをなし遂げる日が来る。その日、その時になるならば、わたしはダヴィドのために一つの正しい枝を生じさせよう。彼は公平と正義を地に行う。その日、イウダは救を得、イエルサリムは安らかにおる。(イエレミヤ33:14-16

 

わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダヴィドである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダヴィドは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う。……わがしもべダヴィドは彼らの王となる。彼らすべての者のために、ひとりの牧者が立つ。彼らはわがおきてに歩み、わが定めを守って行う。(イエゼキイリ34:23-2437:24

 

 預言者たちはまた、この王としてのメシヤは、ダヴィドの生まれたヴィフレエム(ベツレヘム)に生まれるだろうと預言し(ミヘイ〔ミカ〕5:2)、またこの王はいずれの日かロバの背にまたがった謙遜な姿でイエルサリムに入場するだろうと預言します(ザハリヤ〔ゼカリヤ〕9:9)。新約によってハリストス(メシヤ)と宣言されたイイススは、ダヴィド家の子孫として(マトフェイ1:1-17)ヴィフレエムで生まれ(ルカ2:1-7)、そしてロバに乗って凱旋した王のように民衆の歓呼に迎えられてイエルサリムに入場しました(マトフェイ21:1-11)。

 

 人々の罪のために受難するメシヤのイメージは神の「受難の」について語るイサイヤ書の諸章に最も明瞭かつ深遠に描き出されています(42章、49-50章、52-53章)。

 

わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む。(イサイヤ42:1-4

 

 そして神の僕、メシヤはアウラアムとイアコフの子孫たちのみならず全世界の人々が神の救いに与ることを可能とします(イサイヤ49:6参照)。

 

 その犠牲によって世界全体の救いが可能となる神の僕の受難は、イサイヤ52章13節から53章12節(50:4-11も参照)に預言されています。この箇所を、クリスチャンたちはつねにハリストスの受難と死の預言として読んできました(使徒8:26-40参照)。

 

見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。(原注:その受難のために)……彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。…彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。

 

苦難の僕についてのイサイヤの描写に加えて、ザハリヤはその肉体が貫かれ(12:10)ることを、また21聖詠(22詩編)は両手両足が刺し貫かれることを預言します。新約聖書の記者たちは、これらの預言がハリストスの死によって成就したと理解しました(マトフェイ8:17、ロマ4:25、エウレイ9:28、ペトル前2:24)。

 

 神の僕についてのイサイヤの預言を詳細に読むと、それらの預言が指し示すイメージの多義性に気づくでしょう。ある部分ではの姿はイズライリ国家の全体を描写したものです。また他の部分ではワビロン捕囚後の義なる残りの者を、また別の部分では神の救いのご計画をついに実現するメシヤとして描かれます。A.W.ミラーによれば、イサイヤ書の「苦難の僕」は「神がその意志と目的を示すためにお選びになった道具」としての僕を表し、……「国家としてイズライリはその僕と見なされ、その受難は世界全体のためだった。また、イズライリの忠実な残りの者は真の宗教が全世界に生き続け伝えられてゆくために残された。しかし、僕としてのイズライリ、また僕としての残りの者はヤハウェ(神)の苦難の僕がひとりの人格として出現するに至るまでの段階だった。僕はまず国家として、次に真のイズライリ民族ないし忠実な残りの者として、そして最後に世の罪と悲惨のために受難する一人のお方として示されたのだ」。*[13]

 

 神のこの世への――神的な存在として――臨在を示す者としてのメシヤのイメージは、旧約の預言書のいくつかの箇所に表されています。預言者ミヘイはヴィフレエムに生まれるメシヤ的な王について「その出るのは昔から、いにしえの日からである」(5:2)と述べます。聖師父たちはこの預言は、永遠の先に神父から生まれた神子がイイスス・ハリストスとして人となったとする新約聖書の宣言を裏付けていると解釈しました。そして、イウデヤ人たちにも*[14]クリスチャンにもメシヤの預言として読まれてきたダニイル書には、次のような幻像が記録されています。

 

見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。(7:14-15

 

 メシヤとして世に来るべき者は、人間のかたちを取った神的な存在、「日の老いたる者」(「神・父」をさす)と密接に関わるお方であり、この神的な「人の子」にすべてのものへの永遠の主権が与えられます。新約聖書は多くの箇所でイイススを「人の子」と呼びますが(マトフェイ12:8、ルカ26:64、イオアン3:13-14)、それはこのダニイルの見た神的メシヤの幻像がハリストスの到来によって成就したことを示すためでした。

 

 メシヤの神性はまたマラヒヤ書にも力強く暗示されています。そこでは、神のメシヤ的「使者」はこの世に対する神の審判に深く関与する者として示されます。「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる」(3:1)。

 

 しかし、旧約聖書の中で最も衝撃的な「神的な王・メシヤ」への言及はイサイヤ書に見いだされます。イサイヤは私たちに次のように告げます(LXX)。すなわち「童貞女が身ごもって男の子を産む。彼はエンマヌイルと称えられるだろう」(7:14)。福音記者マトフェイはこの句をイイススの奇跡的な誕生にあてはめ、「エンマヌイル」が「神は我らとともにす」という意味であると付言します(マトフェイ1:23)。「ヤハウェ(神)は救う」という意味のイイススは、またエンマヌイルという名を持つお方、すなわち「神は我らとともにす」というお方なのです!

 

ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。(イサイヤ9:6-7

 

 このように旧約の預言者たちは、まずダヴィドの子孫から出て世を治める王としての、次に自らの受難によってイズライリと全人類の罪をあがなう僕としての、そしてその人格そのものによって、神の力と臨在を世界に宣言する「人の子」としてのメシヤを待ち望みました。そして伝統的なキリスト教の教会は、このように預言され待ち望まれたことはすべてハリストスにおいて成就したばかりでなく、もっと大きな結果を実現したと信じ続けてきました。

 

死者の復活

 

 預言者たちの預言に含まれる最後の神学的主題は死後の生、すなわち復活と不死です。私たちはこの章の最初の方で少しこのテーマに触れましたが、ここで再びそれを取り上げなければなりません。なぜなら、それは新しい契約と神の国についての預言の大切な側面だからです。

 

 「主の日」における不義なる者への断罪と神の国における義なる者の救いへの預言者たちの確信は、死者の復活と人格の不死性を前提としています。この前提はイサイヤ書、ダニイル書、イエゼキイル書に明確に述べられています。信じる者の救いを描写して、イサイヤは主はついには人々を覆う死の呪いをやぶるだろうと預言します。「主はとこしえに死を滅ぼし、…あなたの死者は生き、彼らのなきがらは起きる。ちりに伏す者よ、さめて喜びうたえ」(イサイヤ25:6-926:19)。そしてダニイルは、救われる者と裁かれる者に次のように宣言します。「また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう」(12:2)。

 

 しかし、はるかに劇的で光栄に満ちた死者の復活の幻像はイエゼキイリ書37章1節から14節に記録されたものです。イエゼキイリは「主の霊」に導かれて無数の枯れた骨が散らばった大きな谷に行きます。そして神は骨たちに言います。「見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」(37:1-6)。次に主は未来を覆っている覆いを持ち上げ、終末での死者の復活をイエゼキイリに見せます(37:7-10)。イエゼキイリは神の復活の約束を次の言葉によって示します。

 

わが民よ、見よ、わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓からとりあげて、イズライリの地にはいらせる。わが民よ、わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓からとりあげる時、あなたがたは、わたしが主であることを悟る。わたしがわが霊を、あなたがたのうちに置いて、あなたがたを生かし、あなたがたをその地に安住させる時、あなたがたは、主なるわたしがこれを言い、これをおこなったことを悟る。(37:11-14

 

 この驚くべき「言葉によるイコン」は神の民が神の国の永遠の生命に入ることを表し、旧約の預言者たちの新しい契約と神の国の預言を総括します。聖書はここに至ってついに神の力あるわざについての新たなる啓示の段階に進みます。そこでは、「イイスス・ハリストスの黙示」(黙示録1:1)によって打ち立てられた「新しい契約」によって、旧約聖書に啓示された神の救いの目的が達成され、そして凌駕されたことが示されるでしょう。

 

 この章では、旧約聖書の知恵文学については簡単に概観し、預言者たちの文書についてはかなり詳しく調べました。これらの霊感あふれる文書では、救済についての聖書的な主題が、終末論的にとらえ直されていました。古き契約での神の約束は、旧約時代の知者たちと預言者たちによって、きわめて予言的かつ神秘的な意義を持つものとして解釈し直されました。古き契約は新しい契約に変容され、神の知恵と言葉と力とを世界に示すことになるメシヤが、その民を神の国の永遠の生命に導き入れるために到来します。これが知恵文学と預言書が告げる神学的メッセージです。

 

 旧約聖書全体は神を宇宙の絶対の主、万物の創造者、私たちにとっての究極的な善として示します。人は罪によって自らを主から引き離し、救われる他ない存在となりました。神は、ご自身を世界に顕示し、イズライリを通じて「万物」を神と和解させるメシヤの到来に道を備え、人を悪と苦難と死から救うために働き続けました。神はこのように――自然を通じて、歴史を通じて、聖書を通じて――人類にご自身を啓示し、それによって人となった神の子、イイスス・ハリストスというお方とそのお働きを指し示してきたのです。キリスト教の観点からは、アダムから捕囚後の時代までの長い期間は、ハリストスの到来への待機の時でした。しかし、この待つことの中で神は人々を祝福し続けてきました。なぜなら「主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(イサイヤ40:31)からです。



*[1] William Barclay, Introducing the Bible (Abingdon Press,1972) 71

*[2]  Miller,187

*[3]  領聖後司祭が黙唱する復活の讃詞から

*[4] 70人訳では知恵文学は「詩的な」文書としてまとめられています。

*[5] Miller, 85

*[6]  Barrois, The Face of Christ in the Old Testament,103

*[7] 第一章参照

*[8] Miller,125-6

*[9] ディートリッヒ・ボンヘッファーの著書のタイトル

*[10] Veselin Kesich, The First Days of the New Creation: The Resurrection and the Christian Faith(SVS Press 1982)28f

*[11]  Miller 152

*[12] 「愛の働き」はキルケゴールの著作のタイトルである

*[13] Miller,152-3

*[14]  R.J.Zwi werblowsky, Judaism, or the Religion of Israel, in The Concise Encyclopedia of Living Faiths, ed. R.C.Zaehner (Beacon Press,1959)33-4