第二章 神の創造と人間の陥罪 創世記一〜十一章

 

  「創世記」は最初に世界・人間・イズライリ(イスラエル)民族の起源について語ります(一から十一章)。後に詳しく触れますが、紀元前十三世紀、イズライリ民族はエギペト(エジプト)での奴隷状態から神によって解放され、カナアン(パレスティナ)に「約束の地」を与えられました。創世記はこの「出エギペト」という出来事を、神がその民イズライリに与えた格別の恩顧とみなす観点から記されています。今日、多くの学者たちが、「創世記」の現在の形は紀元前五世紀のイウデヤ(ユダヤ)の宗教的指導者たちがそれ以前から文章化されていた資料と口頭の伝承を編集した結果成立したものと考えています。正教会もこの見解を否定しませんが、同時に、「創世記」(のみならず聖書全体)が成立していく過程で、資料の記述・校訂・編集などすべての面で聖神による神の導きと霊感が働いたことを教えてきました。

 

  「創世記」の最初の諸章は学問的なもしくは経験的な歴史としては書かれていません。これらは「聖なる歴史」として書かれています。「創世記」一〜十一章は、詩的・象徴的・伝説的で、その上神話的でさえある物語によって、神・人間・世界の一般的かつ基本的な関係と、神とイズライリとの特別な関係についての、いくつかの宗教的な真理を伝えようとしているのです。聖書のこの部分は、人と世界の起源への科学的な説明ではなく神学的な解釈であり、年代記的また系譜的な枠組みの中で、人間の条件と、世界への神の摂理的計画におけるイズライリの役割を教えます。

 

 もちろん「創世記」一〜十一章は事実にもとづく多くの主題を含んでいます。すなわち、神が世界を創造したこと、人間は「神の像と肖」に造られたこと、人類はその罪の結果神から切り離されたこと、罪深い世は神の裁きのもとに服していること、慈悲深い神は罪と死の力から被造物を救おうとされていること等です。また、そこでその名を記録されているアダム、エワ(エヴァ)、カイン、アウェリ(アベル)、シフ(セツ)、ノイ(ノア)や他の人々が実際の歴史的人物であり、イズライリの古代の民話にその名が伝承されてきたことは充分有り得ることです。また、多くの学者は「創世記」六〜八章の大洪水の物語は、古代中近東に実際に起きた大氾濫(紀元前四千年頃)の記憶にもとづくものであろうと考えています。しかし、神が「創世記」一〜二章で描写されている通りに世界と人を創造されたかどうか、人類の陥罪が三章で記録されている通りに起こったかどうか、ノイの洪水(六〜九章)とバベルの塔の物語(十一章)がその細部に至るまで文字通りの真実であったかというと、それは疑問です。もし「創世記」一〜十一章を全て文字通りの真実として受け入れたら、世界が創造されてから百二十時間後に人類が登場し、太陽が存在する前に光が存在し(1:3-514-19)、宇宙は水に取り巻かれ(1:6-8)、宇宙は創造からまだ六〜七千年しかたっておらず(旧約聖書の多くの系図を総合するとこの数字が出てきます)、人類の様々な言語は、せいぜい四千年以前のバベルの塔の出来事に起源を持つこととなってしまいます。このような古代の宇宙観と歴史観は現代の科学と歴史学的な発見によって、とても有り得ない事が明らかにされてきました。例えば、宇宙の年齢は何百万年どころか何十億年であり、決して水に取り囲まれておらず、人類は地上におそらく二百万年前に姿を現し、人類の多様な文化と言語は、バベルの塔の事件(BC2000)のずっと前から存在した事は確かなことです。

 

〔解説・補論〕

ここで著者が述べているような聖書観に対し、「ファンダメンタリスト」たちの聖書観があります。彼らは近年、特にアメリカ南部のプロテスタントに浸透し、大変な影響力を持つに至っています。彼らは聖書の記述を歴史的・経験的な真実であると見なします。ダーウィンを始めあらゆるかたちの進化論に反対し、世界は聖書が教える通りおよそ数千年前に神に創造されたと考えます。何億年も前の化石など、科学的な証拠をあげての反論に対しては、数千年前の創造の時にあらゆる「過去」も同時に創造されたと主張します。近現代の聖書学者たちの冷たい学問的な眼差しでとらえられた聖書解釈ではなく、「罪の赦し」や「ハリストスの愛」をストレートに強調するところから、都市部の人たちにも新鮮に受け止められたようです。同時に彼らの基盤が、北米大都市の大教会ではなく南部の共同体意識が濃密な小教会群にあり、そこにある熱烈なコミュニティー意識が人々を魅了し、カトリックやリベラルなプロテスタントが衰退する傾向にある中でひとり気を吐いているということです。日本でもいわゆる福音派と呼ばれるグループが影響を強く受け、やはり教勢を伸ばしています。

 このような「ファンダメンタル」な聖書解釈こそが伝統的な聖書解釈かというと、必ずしもそうは言えません。正教会の古代の聖師父たちの聖書注解を読みますと、創世記の冒頭の諸章を経験的な歴史としてうけとるのではなく、まさにここで著者が言う信仰的・神学的真実に肉薄しようとしていることがわかります。興味のある方は聖大ワシリイの「ヘクサエメロン」(「創造の六日間」平凡社・中世思想原典集成2に抄訳が収められています)をぜひお読み下さい。

 

 創世記を実際に執筆した人々は、この最初の十一の章のいくつかの部分、ないしはその全部分でさえ、細部にわたるまで文字通りの真実であると信じていたかもしれません。たとえそうであっても、創世記一〜十一章の第一の目的は、そこで述べられる世界の起源と発展の描写の科学的真実性を主張することではなく、神が世界と人間の創造者であること、そして人間は罪によって神から自ら離れ去ってしまい、罪と死の力から救われるためには愛と従順の心で神に立ち帰らなければならないと教えることです。創世記の最初のいくつかの章に示されている宇宙と原初史についての枠組みは、聖神が私たちに対して、人間と世界の救いに必要な特定の霊的真理を明らかにし伝えるための単なる媒体に過ぎません。創世記一〜十一章は「経験的な用語では決して明瞭に語り描写することのできない宗教的本性に関わる真実と事実の一貫した表現」*[1]を与える聖なる歴史です。それは神とその本性の啓示、人間存在の「崩壊」への預言者的な説明、人類と世界の救いへの神の計画の宣言です。

 

 創世記一〜十一章は神学的に二つの主要なテーマを含みます。一つは、神の創造した世界の秩序に罪が入り込む以前の、神と人と世界の根源的な関係(一〜二章)、二つ目は、罪による神の秩序の混乱と、その罪に対する裁きと断罪、人類と世界を悪の支配から救おうという神の慈愛に満ちた決定(三章〜十一章)です。創世記一〜二章は、神と人と自然の本来意図されていたそうあるべき関係を描写し、一方で三章から十一章は神と人と自然の実際にそうである関係、すなわち神の愛と神の御旨への人間の罪深い反逆によって腐敗し、崩壊させられた現実を描写します。

 

神、人、世界(創世記一〜二章)

 

 創世記の最初の二章の中心的テーマは神による世界と人間の創造です。創世記の第一章、神の創造のわざは六「日」間に分けて行われます。神は「天と地」を最初に創造した後(1:1)、昼と名付けられた光(1:3-5)、おおぞら(1:6-8)、陸地と植物(1:9-13)、太陽、月、星々(1:14-19)、海の生き物たちと鳥たち(1:20-23)、そして最後に陸地の生き物と人間を(1:24-30)日を追って創造しました。創世記第二章は、六日間の創造を終えた神の偉大な休息と、神が人の住むべき場所として「エデンの園」をお備えになったことを描写します(2:4-25)。

 

〔解説・補論〕

一章二六節「神はわれわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」について、唯一の神であるのになぜ「われわれ」と複数形で言われているのかというご質問をいただきました。

 実は、ここで神と訳されているエロヒムという語も複数形です。

 これに対して、ヘブライ語の語法である「威厳あるものを示す複数形」(plural of majesty)の一例として、単一である神もその威光と偉大な力を充分に伝えるために複数形が用いられているにすぎないという解釈があります。しかし、伝統的なキリスト教では神の至聖三者性が旧約聖書の中で暗示されている箇所として解釈されてきました。そのような暗示は後述しますが一章の冒頭で神が「神の霊」が覆っている混沌に対して、「言葉」をかけることによって次々と創造されていったことにも含まれています。

 ただ、しばしば、なぜ旧約聖書では神が明確に至聖三者として啓示されず、暗示されるにとどまったのかと質問されます。これに対しては、周囲を取り囲む異教的な文化を支配する多神教的な世界観からご自身の民をキッパリ離れさせるため、神は旧約時代においては三位一体という多神教的に誤解されやすいかたちではご自身を啓示しなかったという解釈があります。

 

 現代のほとんどの聖書学者たちは、創世記一〜二章は古代イズライリの二つの異なった伝承に由来する二つの異なった物語を含んでいると確信しています。創世記第一章の、七日目の神の休息によって完結する「六日」間の創造の物語に引き続いて、創世記二章四節〜二十五節が一つのまとまりとして置かれています。それは神による人類とエデンの園の創造に焦点を合わせた二つ目の創造説話です。この二つの創造物語の並存はどう理解すべきなのでしょうか。

 

 広く支持されている「文書資料説」によれば、「五書」(旧約聖書の最初の五つの書)は紀元前五世紀にイウデヤ教の祭司や学者たちによって四つの主要な「文書資料」が今日のかたちに編集されたものです。これらの文書化された資料は、紀元前十世紀から五世紀にかけてのさまざまな時期にまとめられたもので、モイセイ(モーゼBC1300頃)やアウラアム(アブラハムBC2000頃)の時代にまでさかのぼる古代イズライリの口承伝承を代表しています。したがって五書は「アウラアムの時代からワヴィロン捕囚にいたるイズライリ民族の遍歴を反映した非常に多様な資料にもとづいて」*[2]います。五書に織り込まれた四つの基本的な資料は通常、J資料、E資料、D資料、そしてP資料と呼ばれます。

 

 J資料は、紀元前十世紀の間にイウダ(Judah、南イズライリ)地方でまとめられ、神の名としてヤハウェ(JehveないしYahweh)が用いられているためそうに呼ばれますが、古代イズライリの宗教的伝承のなかで現在知られる最古の文書化された資料です。

 E資料は、エフライム(Ephraim, 北イズライリ)で書き記され、神の名にエロヒム(Elohim)を用いるためのそう呼ばれますが、紀元前九百年から七百五十年の間のいずれかの時点で成立しました。

 D資料は、復伝律例(申命記Deuteronomy)を構成する基本的な資料で紀元前七世紀に文書化されました。

 P資料は、紀元前六世紀から五世紀にかけてまとめられ、イエルサリム(エルサレム)の祭司(preist)たちが伝えてきた伝承を文書化したものです。これらの資料が「様々な時代の様々な状況の中で織り合わされ」、今日知られる五書は「これらの資料の組み合わせ」*[3]として紀元前四百年頃に完成しました。

 これらの資料の中に記録された多くの口承伝承はモイセイ自身と彼が率いた出エギペトの時代にさかのぼることができるため、古代ユダヤ教徒とキリスト教徒は五書を「モイセイの(五)書」と呼んできました。

 

 創世記はJ資料、E資料、そしてP資料を含んでいます。創世記一章一節から二章三節まではP資料からのものです。二章四節から二十五節まではJ資料から採られています。この事実にもとづいて、創世記の最初の二章には、創造についての異なった、しかし補い合う二つの記事があると言われるのです。最初の記事(第一章)は神の摂理的計画における人間の位置づけについてばかりでなく、神の全宇宙創造にまで及んでいます。それに対し第二の記事(第二章)は神の人類創造とその本来の目的に関心を絞っています。

 

「神とその創造」創世記一〜二章

 

 すでに指摘したように、創世記の最初のいくつかの章は歴史的また科学的事実の文字通りの記述ではありません。そこで最も大切なのはその神学的な意味です。創世記一〜二章は、神は唯一の超越的で至善なる存在であり、世界を「無から創造」(creatio ex nihilo)し、すべての被造物の普遍的な主であると主張します。神についてのこのような考えは、エジプト、バビロニア、ペルシャ、インド、ギリシャ、ローマなどの異教の神学とはまったく異なったものです。創世記一〜二章は神が唯一であること(唯一神論)を主張します。反対に、この世界には多くの神々が存在しているという信仰(多神論)ははっきり拒絶されます。また神が超越的(世界を「超え」また世界から「隔絶して」)であることを主張し、神々は世界そのものの展開過程の一部である、また世界そのものであるとする異教的な見方(汎神論)と袂を分かちます。さらに、神はイズライリばかりではなく全世界の主であると主張し、多くの神々の中から一つの神を自らの民族や国家の神として崇める宗教(ヘノテイズム・単一神論henotheism)の対極に立ちます。さらに古代異教の神々はしばしば、きわめて強力であっても必ずしも善良とは限らず、非道徳的、場合によっては反道徳的でさえありますが、創世記一〜二章の神は完全な善、完全な正義、完全な公正として描写されています。聖書の証言によれば、イズライリの神は唯一の神であり、この唯一の神は超越的で天地万有の至善至高の主です。

 

〔解説・補論〕

「無からの創造」は旧約外典マッカウェイ記第二の七章二八節に次のように明確に語られています。「子よ、天と地に目を向け、そこにある万物を見て、神がこれらのものを既に在ったものから造られたのではないこと、そして人間も例外ではないということを知っておくれ」。旧約外典は日本聖書協会「新共同訳聖書 旧約聖書続編つき」で読めます。これから新たに聖書をお求めになる方は、ぜひこちらを。

 

 完全な意味で、すなわち「無から」の創造者という意味で、神は世界の創造者であるという聖書の主張は、創世記一〜二章の神学と古代異教の神学との間にもう一つの大切な違いを立てます。異教の宗教では宇宙は永遠なるもの、すなわち永遠の初めから在るものであって、それまでは無く「ある時に」創造されたものではありません。ないしは神的な様々な存在者によって、あらかじめ存在していた「材料・質料」から「形成」されたものです。言い換えれば、異教の神学が「創造」と言うとき、それは神々を、永遠の昔から存在していた特定の材料(たとえば土、空気、火、水など)を用いて世界を形作る神聖な芸術家として見なしているのです。神々は「無から」ではなく「何ものか」から創造する限りにおいて、人間の芸術家と変わりありません。しかし創世記の創造記事では、神はその意志による行為によって天地万有を存在せしめます。「はじめに神は天と地とを創造された」(1:1)。その創造は、永遠の昔からあらかじめ存在していた材料を用いてではなく、文字通り「無から」です。ないしは、カリストス・ウェア主教とともに、神は天地万有を「愛である神ご自身から」*[4]創造したと言うこともできるでしょう。いずれの解釈をとっても、創世記は神を、存在する一切の完全な源泉、超越的で全能なる全存在の創始者として示します。いかなるものも神の存在の外に、またその意志を離れて存在することはできません。神はたんなる神聖な芸術家や工芸家ではなく、絶対的な創造者、全存在の基盤です。

 

 無からの創造という聖書の教えは神の超越性に特別の重きを置いています。創世記一〜二章の神は、その創造物に先立ち、それを超え、それから隔絶しています。神は世界それ自身の展開過程の産物でも、その世界の展開過程そのものでもありません。すでに見たように、超越的な神という聖書の教えはあらゆる形式の汎神論をきっぱり拒絶します。そしてなお、創世記の最初の諸章は、神は「遍在」することを、すなわちその創造物のあらゆる時と場所で生きて働いていることを同時に明確に語ります。「創造者として、…神はすべての物の中心にいつもいて、それらを存在せしめている」*[5]。神は超越的であるとともに内在的であり、すべての物に存在して働きかけます。そしてなお、すべての物を超え、すべての物から隔絶しているのです。

 

 もう一つの大切な点ですが、創造者・神という聖書の教えは、あらゆる形式の自然崇拝を拒否します。古代の異教神学では自然現象やその力は神聖な能力として広く崇拝されてきました。たとえば太陽、月、星々や惑星などは神々と見なされることが多く、古代エジプトやギリシャ、ローマでは神々として礼拝されました。しかし創世記の創造記事では、これらの天体はたんに地上を明るく照らすために天に置かれた自然現象に過ぎません(創世記1:14-19)。また、様々な種類の動物も、異教の祭儀ではよく神格化され礼拝されますが、創世記では、神のみならず人間にも従属する(創世記1:20-26)神の創造物にすぎません。自然はそれ自体が神聖なのではなく、神聖なる神のわざの結果です。神それ自体ではなく、神の創造物です。したがって創世記の第一章は当時ヘブライ民族を取り囲んでいた異教徒たちの自然崇拝を間接的に断罪しているのです。ちなみに自然崇拝の直接的な断罪は聖書の他の部分、たとえば復伝律例(申命記4:19)などにみられます。神よりも自然を崇拝すること、すなわち創造者ではなく被造物を崇拝することは「むなしい偶像」を崇拝することであり、聖書の観点からは、自然宗教は偶像崇拝の一形態です。この点から、何人かの聖師父たち(たとえばヒッポの主教、聖アウグスティン)は占星術の「えせ科学」性を断罪しました。彼らは占星術を、神にすべてを委ねず、自然の諸力を各人の運命の「しるし」と考える自然宗教の一種とみなしました。

 

 しかし勘違いしてはなりません。自然は神(God)ではありませんが、決して聖書が自然を善(good)ではないと言っていると考えるなら、それはまったく逆です。創世記一章の六日間の創造の物語自体が、自然も人間も含め、神の創造物が根本的に善きものであることを明瞭に示しています。「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(1:31)。それ故に、正教会の観点からは、物質的な世界と人間の本性が本質的に悪いものであるとする思想は異端です。なぜなら人間も自然も神の創造物であり、神はそれらを善きものと断言しているからです。後に見るように、現在、人間と自然は人の神への反逆の結果として堕落した状態に置かれていると聖書は教えています。しかし、人間が邪悪な振る舞いをする時でさえも、また自然がその本来の神が与えた慈悲深い秩序、人間と宇宙の基本的な本性を完全に表すことができない時でも、神の創造物である限りそれらは本質的には善いものであり続けます。

 

 創世記一〜二章の創造の神学について、もうひとつ触れておくべき側面があります。これら創世記冒頭の諸章で、神は「人格」として描写されていることです。創世記の神は非人格的な「宇宙の力」であるとか「世界の本質」といったものではありません。神はそのご意志によって世界と人間を創造し、ご自身の計画にもとづいて世界に秩序を与え、人間のために配慮し世話してくださる人格的な存在です。人格は自己意識を持ち、知性があり、自由で、創造的な存在です。創世記の神はまさにこの人格(神ですから正確には「神格」と呼ぶべきでしょうが)として描かれます。神は親しくかつ人格的にその創造物に接します。神はご自身の創造物に無関心ではおられず、それらに関与されます。

 

 正教会の神学では、神の人格性は至聖三者の教えと密接に結びつき、そこで明瞭に定義されています。神は、その内に三つの位格(神父、神子、神聖神)が区別されるにもかかわらず、三つの神(「三神論異端」の考え)でもなく、さりとて一つの神の三つの部分でも三つの様式(「様態論異端」の考え)でもない、互いに同等で共に永遠の神として一つである「三・一的」な存在です。神は一つの本性(ウーシア)を分かちあう三つの位格(ヒュポスタシス〔ギリシャ語〕)です。

 

〔解説・補論〕

ペルソナはヒュポスタシスというギリシャ語にあたるラテン語です。大変難しい哲学的な意味と、意味内容の変遷があるようですが、「他者と区別され、かつ他者と関わりを持つ、独立した自由意志を持ち行為することのできる個別存在」とでも、とりあえず理解しておけばよいでしょう。これらの言葉を日本正教会は神に関して用いる場合、「個位」や「位格」という言葉で訳してきました。取り分けて厳密な神学的論文など以外では、私(松島)は「お方」と訳しておくのが妥当かと思います。ここではいきなり「位格」ないし原文通り「ペルソナ」と訳して、読者をとまどわせてはと、とりあえず人格としておきました。

 

 正教会の聖書注解者たちの多くは、創世記第一章には至聖三者の働き、創造の行為に協力し合う三つの位格が啓示されていると、主張します。「はじめに神は天と地とを創造された。…神の霊が水のおもてをおおっていた。神は『光あれ』と言われた」(1:1-3)。そして「神は言われた」という表現が創世記一章では九回以上もくり返されます。神は世界をその「みことば」で創造しました。「もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた。…主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立った」(三二聖詠、三三詩編)。イオアン福音書によれば、神の創造的な「みことば」は至聖三者の第二の位格である「神子」と同じです。そしてこのお方がイイスス・ハリストスとして人となったのです。

 

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。…そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。(イオアン1:1-414

 

 それゆえイオアン福音書は「創世記の第一章を読み解くための不可欠の鍵」*[6]です。そして、そこで示される基本的な理解のもとで、正教神学者たちは創世記第一章を至聖三者の観点から読んできました。すなわち神父は「水のおもてをおおっていた(1:2)」神聖神と、ご自身の独り子である「神のみことば」を通じて天地万物を創造したと。

 

「神と人間」創世記一〜二章

 

 創世記一〜二章では神と人間との関係にも特別の関心が寄せられます。第一章はこの関係を次のように語ります。

 

神はまた言われた、「われわれのかたち(像)に、われわれにかたどって(肖)人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。(1:26-27

 

そして第二章によれば…

 

主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。…主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。(2:7-915-17

 

 これらの記述の神学的な意味は何でしょう?

  聖書が教える、人間は神の「像(かたち)と肖(似姿)」に創造されたという真理は正教神学の展開の中で非常に重要な役割を果たします。神の像と肖として、人間は霊的な生活、知性、道徳的感受性、社会的本性(神の至聖三者性のイコン〔像〕)、自由と創造性を与えられ、人格的存在とされました。それぞれの人間はかけがえのない精神的主体であり、神に対し、天使たちに対し、他の人間たちに対し人格的関係を持って生活し、自覚的に生き、目的意識を持ち、創造的な行動を行うことができます。ウェア主教が言うように、「人間は神の無限の自己表現の、有限性の制約の下での表現」*[7]です。人に対する「地を這い、…地に動くすべての生き物を治めよ」(1:2628)という神の布告は、人間の「神に似た」本性の聖書的なしるしと言えるでしょう。

 

 正教神学はしばしば、リヨンの主教聖イリネイ(エイレナイオス・130-200頃)を始め古代の聖師父たちにならって神の像と肖を区別します。ウェア主教は聖師父たちの語るところを次のようにまとめます。「像は…神の内に生きることへの人の可能性を指し、肖はその可能性の実現を表す」*[8]。人間は霊的に完全な不死の存在としては創造されませんでした。まず罪のない善良なものとして創られ、道徳的また霊的に完全な者へと、神に「似る」者へと成長することが求められたのです。この道徳的また霊的な完全さの聖書における象徴は「命の木」(創世記2:9)、すなわち不死性の源です。人は他の生き物と同じく「死すべき者」として創造されましたが、他の生き物たちとは違い「神の像」を授けられました。アダムとエワは道徳的、霊的に神の「肖」へと成長してゆき、神ご自身の善、知恵、いのちを分かち合うことへの期待をもって創造されたのです。神への自由意志にもとづいた愛と従順によって、人は神・至聖三者との永遠の、そして果てしなく深まりゆく交わりに入ってゆくはずでした。人は至聖三者の永遠のいのちと善を分かち合い神と結合されなければなりませんでした。「言いかえれば、人は創造された当初、罪に汚れることなく、霊的に発展してゆく可能性を持っていた(神の像)。しかし、この発展は必然的で自動的なものではなかった。人は神の恵みに助けられながらも、その自由意志を正しく用いて、一歩一歩神の内に完全なものへと自己を実現(神の肖)していくはずだった」*[9]

 

〔解説・補論〕

人が「死すべきものとして創造された」という表現は注意を要します。これは、本質的に朽ちるものである物質(ちり)でかたちづくられている限り、人間もそのままでは、すなわち人間の本性は「ちりに帰る」もの、すなわち死すべきものということであって、決して「死んでよいものとして造られた」のではありません。むしろ「生きるべき」ものとして、神の不死に与り得るものとして、恵みによって不死なるものになってゆくべきものとして造られました。これを、聖師父の中のあるものは「人は不死にも、死すべきものにも造られていない」と表現したり、「罪によって死を招き寄せてしまった」と、あたかも本来人は死すべきものではなかったかのように表現したりするのです。

 

 人がその根源から求め究極的な目的としているのは、神に似る者となること、神と一つになることです。人は神との交わりのために創造され、人の最終的な目標は「神のいのちの完全さ」*[10]に与ることです。「人が神の像として創られたことを信じるということは、人は神との交わりと一致のために創られ、もし人がこの交わりを拒絶するなら、人は人としてふさわしく生きることができないと信じることである」*[11]  。正教神学は道徳的、霊的に成長し神との一致に達してゆくこの過程を「神化(テオシス)」という言葉で呼びます。トマス・ホプコ神父は神化を「成長と発展の終わりなき過程」と定義します。そこで人は、「神との自由な深い交わりの恵みによって、…神がその至聖三者の永遠性と汲み尽くせないいのちの限りなく豊かな完全さの内に、神が本性によってそうであるものになる」*[12]

 

 神の本性へ人が与るということを解く鍵は、神子が籍身してイイスス・ハリストスとして生まれたことにあります。正教の伝統では、籍身は「人を彼に本来祝福されている幸福に結びつけるための神の世々の先よりの永遠の決定」*[13]でした。しかし、すでに見たように、人は善きものとして創造されたにせよ、たとえエデンの園にあっても有限で成長途上の者として不完全な存在でした。多くの正教の思想家たちは、たとえもし人がその創造者に忠実であり続け罪に堕ちなかったとしても、神との結合に向かっての人の歩みは、人と結合しようという神の側からの働きかけによって補なわれなければならなかっただろうと考えます。神が人と一つになるために人として人のもとに降りて来てこそ、人は神と一つになるという望みを実現する可能性を与えられます。かくして、神のみことばの籍身――イイスス・ハリストスというお方(の位格)の内にあっての神と人の結合――は神のこの世に対する永遠のご計画の本質です。従って、たとえもし人が(創世記の三章が象徴的に描写しているように)罪と死の支配のもとに堕ちなかったとしても、籍身は行われたに違いありません。神の神聖な秩序への人間の反逆は「生命の木」から人を引き離しました。それゆえにハリストスの死が必要となったのです。籍身において神は人類にご自身を同一化しました。堕落し罪深い人間性とご自身を完全に同一化するために、神は人間の可死性を引き受けなければなりませんでした。神は私たちを永遠のいのちによみがえらせるために、私たちの死の内に入ってこなければなりませんでした。人がもし神に背かなければ、人は「生命の木」に自由に与り続けることができ、籍身における神の人との結合は、ハリストスの死を必要とはしなかったでしょう。それでもなお、籍身それ自体は行われたに違いありません。

 

〔解説・補論〕

もし人が堕落しなくとも、神は人となってこの世へ来られたであろうというのは、決して誰もが否応なく認めなければならない神学的な定理ではありません。正教の聖師父たちの多くが同意する「神学的共通意見」の一つであるということです。この「意見」の背景には共通のものを持っているものどうしだけが完全に一致する可能性を持つという考えがあるようです。神が人となって、人と完全に一致してこそ、人は「人となった神」である者の「神性」に与り得るというわけです。そうだとすれば、ハリストスが私たちをその死によって罪と悪と死の力から時はなったということは、人間の神化という神のご計画の最初のスタート地点に人間を再び立たせたと理解できます。やっと、私たちは神の恵みをいっぱいに受けて、無限に豊かに、限りなく光栄に満ちた者として「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく(コリンフ後書3:18)」のです。ハリストスの救いのわざを「罪の赦し」だけに限定、矮小化してしまう西方キリスト教にしばしば見られる傾向は、ハリストスの成し遂げられたことの半分しか見ていないといわざるを得ません。

 

 ハリストスにあって、神と人は一つになりました。人が信仰と教会生活の完全な分かち合いを通じて「ハリストスの内に」ある限り、人は神と一つです。なぜならハリストスの人間性は神と一つだからです。ハリストスを信じる者は神聖神の恵み豊かな働きを通じて、限りなく展開し、限りなく深まりゆく神との交わりに入れられます。それゆえ「人の神化」は神子を通じて、神聖神の内にあって、神父へ向かう道徳的な、また霊的な道行きと言えましょう。こうして人は「神の性質(本性)に与るもの」(2ペトル1:4)となり、「三・一の神」の働きと永遠のいのちを分かち合います。

 

 聖書は人間性を非常に高尚なものと見なす一方で、人は結局神の愛と恵みによってのみ存在し栄えているにすぎないことにも注意を払います。人間の「被造物性」は創世記一から三章のいくつかの箇所で示されます。

 まず第一に、人はその存在をまさに神の創造的な意志と行為に依存しています(1:26-272:7)。

 第二に、人の神と世界との調和は、人が神に依存していることを認めて神に従順であることによって保たれます。人は地上を「治める(支配する)」のですが、それは神の名によっての支配です。創世記二章一五節では、神は人をエデンの園に置き「これを耕させ、これを守らせ」ました。人の「支配」は、言い換えれば、神の権威のもとで仕える世話役としての働きなのです。エデンの園は人間の罪がもたらした世界の混乱に先立つ、人と神と自然の調和の象徴です。

 第三に、人の「被造物性」は、神の最初のご計画では人と動物は互いに殺し合うことが禁じられていたという事実に示されます。人も動物もともに菜食で生きるように神に定められていました(1:29-30)。人の「支配」は絶対的なものではなく限界があることがここでも確認されるわけです。

 第四に、人の物質的、霊的な幸福は神への忠実と愛による従順にかかっています。人の「被造物性」のこの側面は、創世記二章の二つの木の物語で印象的に表現されています。神に背き「善悪を知る木」から引き出されるこの世の知恵を追求することは、「命の木」から自らを引き離し、永遠のいのちの源を失うことを意味しました。

 

〔解説・補論〕

「人の『支配』は、言い換えれば、神の権威のもとで仕える世話役としての働き」という表現は大切です。支配という言葉によって連想される暴君的専制が人に許されているのではありません。これを勘違いした西方文明が、自然を人間の「資源」として搾取し、したい放題に荒らし回り、その恐ろしい結果に気づいた今、「地球『資源』の有限性をわきまえて、省資源、省エネ」などとあわてている始末です。世話役としての人間の分際をよくわきまえていた東方キリスト教の世界ではついに合理的に自然を人間のために資源化する思想も方法も身につけませんでした。これを未開や低開発と言ってはなりません。正教会だけがそこにある健全な本来の自然と人との関わり方を世界に提示できるのではないでしょうか。

 

 「善悪を知る木」から実を取って食べてはならないという神の禁止(2:17)は、神が主であり人は創造者・神に服従しなければならないことを強調していますが、少し説明を要します。どうして善悪の知識の獲得が神のいのちから人を引き離してしまうのでしょうか? 聖書のとらえ方では、「知る」ということは体験(経験)すること、関与しそれに浴すること、対象に入り込むことです。聖書を実際に執筆した人々にとって、知識とは概念や理論の抽象的な理解ではなく、知る側と知られる側が能動的に「実存的」に互いの内に入り込み合うことです。聖書の中で人が女を「知る」(たとえば4:1)とあれば、それは性的な交わりをさします。善悪を「知る」とは、善きわざ、悪しきわざの実行にともに人格的に深く関わることを意味します。善と悪が混じり合ったこの世界の、さまざまな道に熱中することは聖書では「善悪を知る木」で象徴され、今日でさえ、神によって禁じられているのです*[14]

 

 以上のように聖書は人間を神の像と肖そして神の創造物の一つとして示します。人間のなすべきことは、信仰と愛と従順を土台として、すなわち人間は神によって造られた存在であることを忘れることなく、神との交わりに向かって歩むことです。

 

 創世記一〜二章の表には出てこない副主題は、男と女の堕落以前の本来の関係です。創世記一章二十七節と二十八節では、明らかに男も女も共に神の像として創造され、ともに「地を治める」ことを命じられています。この部分はまた人類に「生めよ、ふえよ」と、子孫を増やすことを命じます。聖書の見方では子供を生むことは大いなる神の祝福なのです。

 

 創世記二章十八節から二十五節では、もうすこし詳細に男と女の関係が描かれます。ここでは人の社会的本性(共同性)が強調されます。「人がひとりでいるのは良くない」(2:18)。また、人の社会性(協力者の必要性)は、他の動物たちとの関係の中では満たされないことも同様に強調されます(2:19-20)。人は神には及ばない一方、動物たちをはるかにしのぐ存在です。人には、その交わりへの渇きを癒すために、同じ人の仲間――「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(2:23)が必要です。とりわけ、完全な人間となるために、男には女が(逆も然り)必要です。正教の婚配式では、男と女は「一体となる」、すなわち一つの人格、神の像の完成された姿となると宣告されます。最初、男と女が裸であっても恥じなかった(2:25)ことは、「神とお互いへの罪のない関係」*[15]を象徴しています。堕落以前、男と女の関係は神の秩序の内にある平等、相互性、調和を表すものの一つでした。男と女が本来なすべきことの一つは、この神が定めた関係を保ち、強め、深めることでした。しかし、やがてみるように、男と女の、そして人類と神との根本的な交わりは、罪によってくつがえされ、破壊されました。

 

陥罪、悪の拡散、新たなる開始 創世記三〜十一章

 

  創世記の最初の諸章には神の正義の裁きの峻厳さが示される一方、人と自然を救い出そうという神の決意が、いくつかのイメージで差し出されています。

 第三章には人の「原罪」と、その結果人が神の永遠のいのちから自らを切り離してしまったことが描かれます。アダムの楽園追放を記した後、創世記は全世界に悪が広がって行く過程をたどりノイの洪水物語にいたります。しかし、大洪水でさえも悪が引き続きこの世界を踏みにじってゆくのを止めることはできませんでした。ついに神は、その慈悲深い配慮により、世の救いを「選民」イズライリを通じて実現することを決意しました。聖書に示された、人間の罪に対する神の裁きと救いのイメージはすべて、人間が陥ってそこで生きねばならない「人間の条件」の現実的な描写であり、悪からの救いと神との和解が私たちにどれほど必要かを教えます。

 

「人の陥罪」  創世記第三章

 

 創世記の第三章には悪魔やサタンという言葉は出てきませが、教会は古来、第三章の蛇を悪魔の象徴と解釈してきました。実際に聖書のいくつかの章句は、悪魔とエデンの園の蛇を同一視します(知恵書2:24、イオアン8:44、黙示録12:920:2)。人類の創造に先立ち、神に仕える天使(日本教会は「神使」とも訳す)たちの一人(しばしば「ルシファー」とされる)が、神と肩を並べようと企て、天使たちの一軍を率いて神に対し反乱を起こしました。しかし天使長ミカエル(ミハイル)は、彼の軍とともに反乱を鎮圧し、反乱に加わった天使たちは天から追放されました。それ以来、この堕天使たちの指導者を「サタン」――反対者、告発者、敵―― 、または「悪魔」(ギリシャ語でディアボロス)――「噛みつく者」、中傷する者――と呼ぶようになりました*[16]。古代ユダヤ教とキリスト教の伝承では、サタンはもともと神によって地上の守備、とりわけエデン園の防衛を委ねられた者とされています(イエゼキイリ28:11-19)。神はその特別な深慮によって、サタンと彼の手下の天使たち(今日ではdemon〔悪鬼、悪霊〕として知られます)が、地上の出来事に干渉し影響を与えようとするのを黙認してきました。

 

 リヨンの聖イリネイ(エイレナイオス)やニッサの聖グレゴリイ(グレゴリウス)ら古代教会の聖師父たちによれば、悪魔の反乱は、ハリストスの籍身と昇天によって、神が人の姿をとり人と自らを同一化し、天使たちより高いところへ人を引き上げようとしたことへの反抗でした。籍身の神秘は神の御言葉であるお方が「天使たちよりも少し低い」(エウレイ2:7)者へと身を落とされたことにあります。そして、昇天の神秘は人を「天使たちの世界よりも高いところへ引き上げること」にあります。この「二重の神秘」は「物事の自然な秩序を」ひっくり返し「天使たちを愕然とさせました」*[17]。堕天使たちの罪は、神の像に創られたアダムの尊厳性を認めることと、みことばの籍身に異を唱えたことです*[18]。「善悪を知る木」から実をとって食べればアダムとエワは「神々(創世記3:5 LXX)のようになる」という蛇の約束には嘘はありませんでした。「神々」とは神の天上の宮廷の一員、すなわち天使を意味します。悪魔はアダムとエワに対し、神ご自身と結びつくのではなく天使の群れの一員となるようにそそのかしました。神に取って代わろうという試みにしくじり続けてきた悪魔は、「神化」という神ご自身の栄光溢れる計画の恩恵を受けるはずの人にその計画に背かせ、反対に神の望みと異なることを人に望ませて、自らを慰めようとしました。かくして「最初は天使たち、そして次は人という二重の堕落が起き」*[19]ました。

 

 悪魔は人を神の真実の歪曲というかたちで誘惑します。禁断の実を食べるようエワをそそのかしたとき、「主なる神が造られた野の生き物のうちで、…最も狡猾」な蛇は、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神(神々)のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:1,4-5)と保証してみせました。こうして、悪魔は人の心に疑いや不信やプライドを植え付けました。悪魔は、それを食べれば死ぬという神の言葉の真実性を疑わせ、神は天上の天使の群から人を排除したいという不公平さから、人に禁断の木の実を食べることを禁じたと示唆しました。そして「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」この禁断の実を食べれば天使たち(神々)と同じ高さにまで上げられるだろうと約束します。人は、この悪魔の誘惑にはまり、神の言葉の真実性を疑い、神の意図に不信を投げかけ、高慢にも、神が望んでおられることより自分の野心を達成しようとするにいたります。

 

 同じ欺きの構図が悪魔がハリストスを誘惑したときにもありました(マトフェイ4:1-11、ルカ4:1-13)。しかし、ハリストスはアダムとエワとは異なり首尾よく悪魔のそそのかしを斥けました。じっさい正教会の見方では、人はアダムにあって失敗したことを、ハリストスにあってやり直します。しかし、このテーマについては後の章に譲りましょう。

 

罪と悪の性質

 

 創世記第三章はこの他にも、罪と悪の性質について多くのことを教えてくれます。罪は本性的な弱さとしてではなく、道徳的な失敗として示されます。聖書では罪の前提は人間と天使が実際に持っている自由意志です。罪は神への反抗に導く意志による行為です。「意識的な不従順、故意に神の愛を拒否すること、自由意志によって選択された、神から自己への転換」です*[20]。悪魔の反乱と人の堕落以前、悪は神の被造物の内にある「内在的な可能性」にすぎませんでした。それは天使たちと人々に、道徳的かつ霊的な自由を実現させるためのものでした。悪しき選択をする可能性がないところでは道徳的、また霊的な自由は存在し得ないからです。神の最初の計画の中では、悪は「道徳的〔または霊的〕な間違った選択による偶発的事態」*[21]にすぎませんでした。悪は神の直接的な行為によってではなく、天使たちと人による自由意志の誤用によって「現実に存在するもの」となりました。神は私たちの自由を尊重するので、道徳的かつ霊的に誤った選択と行為として悪が存在することを許容しています。しかし、だからといって神を悪の直接的な原因であると言うことはできません。それは誤りであり、また至高の善としての神に矛盾することでさえあります。

 

〔解説・補論〕

神はなぜ人をご自身に背かせる可能性を内包する「自由」を人間に与えたのか、また悪の存在を許容しておられるのかという、ご質問をいただきました。これは、キリスト教がその当初より悩まされ続けてきた難問です。(この問題を精細に論じる神学の分野を「神義論」とよびます)。この難問には神は人を愛しておられるからとお答えするほかないでしょう。愛は自由が前提です。相手が自由ではなく暴力への恐怖や、経済的動機や、政治的政略で自分と結婚するとしたら、そこには愛の喜びはありません。交わりではなく、そこにあるのは孤独な所有です。ですから神も、人を神を無条件で愛するようになる自動人形としては造りませんでした。ご自身と同じ自由な人格として造ったのです。その時、神への背き、悪の存在の可能性が生まれました。そして、人が実際に背いた時、悪が現実化したのです。愛は相手を限りなく自由にしようとする意志といえましょう。ハリストスの愛も、私たちが味わっている苦しみや悲しみを取りのぞいてやりたいということではなく、もう一度自由なものとして神の愛の前にちゃんと立てる者へと、神の愛を自由に受け取り、より自由なものへと成長してゆけるように私たちを新しい人間に再生しようという御心です。

 

罪の結果

 

 神への人の不従順は、世界を混乱、支離滅裂、矛盾、敵対、断片化、苦悩、死、不安などの力が支配する場所へと変えました。聖書によれば人間の罪の最初の結果は、人の内に生じた「むき出しに曝された」という感覚と羞恥でした。アダムとエワは彼ら自身が裸であることを知りました。裸であることは以前では神に対して自らをすっかり開いていることを意味していましたが、いまや神の意志への罪深い違反によって生じた自らのひ弱さを思い知らされるものとなりました(創世記3:7)。人は悪魔の偽りの約束を身に纏ってしまい、その見せかけの衣服の下に透けて見える彼ら自身の惨めな裸形に直面しました。そして、彼らが招き寄せてしまった道徳的また霊的な貧しさを神が見抜くにちがいないことに震え上がりました。彼らの「裸」はもはや彼らの罪のなさと神との親しい関係を象徴するものではなく、むしろ彼らの罪と、その罪の結果としての父なる神から離れてしまったことを表すしるしとなりました。アダムとエワは彼らの道徳的、霊的な裸形をいちじくの葉をつづり合わせた着物で覆い、神から隠れ、創造者に対して犯した彼らの罪の責任を逃れようとしました(創世記3:7-13)。

 

 また聖書によれば、アダムは自分の罪をエワに着せ、エワは彼女の罪の重荷を蛇に肩代わりさせようとしました。アダムは彼の背きの第一の責任を妻にではなく、神に帰そうとさえしました。「(あなたが)わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」(創世記3:12)。彼自身が故意に行ったことをごまかし、エワがしたこと、神がしたことを浮き上がらせようとしました。ここには私たちがよく知っている人間の現実の姿があります。罪の責任が問われたとき、その罪責は言いわけの連鎖によって他に転嫁され、人はその行為に伴う引き受けねばならない責任を回避しようとします。「人は彼らの過ちの責任を逃れることに汲々としてきた。私たちは、本能に、環境に、両親に、妻や隣人に責任転嫁し、それらすべてに失敗すればついに神にすら責任を転嫁する」*[22]

 

 しかし人間の「もみ消し」はうまくゆきませんでした。当然のことですが神はつづり合わされたいちじくの葉にも、彼らの言いわけにも欺かれませんでした。人の背きは裁かれその罪の結果が宣告されました。男女両性の調和は壊され、夫は妻の「支配者」となりました(創世記3:16)。男と女の最初の結びつきは破られ、両性の「戦争」が開始されました。もっと深い意味では、この男と女の「亀裂」は人間性それ自体の亀裂として捉えることができます。すでに指摘したように、人に備えられた「神の像」は「男と女」(創世記1:27)また「夫と妻」(同2:24-25)の結びつきとして表現されています。罪の結果として生じた男と女の分離は、かくして人間性それ自体の統合性の破壊を意味しました。

 さらに、罪を犯す以前、人間と自然との間にあった穏やかな関係も傷つけられてしまいました。人が罪に堕ちてから人と自然との間に生じた厄介な関係は、女は出産に際して苦しまなければならなくなり(3:16)、人は地からわずかな食物を手に入れるためさえ労苦しなければならなくなったこと(3:17-19)によって描写されます。

 

〔解説・補論〕

人間が罪によって招き寄せたのは、三つの断絶であるといってもよいでしょう。

神と人との断絶、人と人との断絶、人と自然(世界)との断絶です。逆に言えば、ハリストスの成し遂げられた回復もこれら三つの断絶に対応するものとも言えましょう。ハリストスはご自身を十字架に献げることによって神と人との和解を成し遂げ、人と人とを再び「互いに合い愛する者ら」として集め、「資源」として人が横領していた世界をもう一度、神の愛と恵みの贈り物、人間の神に対する愛と感謝の表現の媒体として回復しました。だからこそクリスチャンは神を礼拝するために一所に「集い」、神の感謝の献げものとしてパンとぶどう酒という実りを献げ、それを神のお体と血としていただきます。聖体礼儀はハリストスが回復された三重の回復を端的に示します。

 

 しかし人の罪が招いた最も深刻な事態は、神から離れてしまい、その結果永遠の生命に近づけなくなってしまったことです。「塵からとられ塵に帰る」べきものとしての人間の可死性は、神の似姿(肖)へと成長していくことによって克服されて行くべきはずでしたが、その可能性は永遠に奪われ「生命ある限り人間につきまとう避けられない運命」*[23]となりました(3:19)。エデンの園からの追放(3:22-24)により、神との交わりを喪失し、すなわち「命の木」との直接の接触を失ったことは、正教の「人間(の条件)理解」にとって決定的に重要なポイントです。アダムとエワを創造し生命を与えたのは神でした。彼らの愛は神に向かい、彼らの従順は神のみに帰せられるものでした。しかし、彼らは彼らの意志を悪魔の誘惑に委ね、彼らの愛を神ではなく自己へと献げました。禁断の木の実を食べるという行為に象徴される、神へのこの反逆と拒否の結果、人類は神の臨在と生命から切り離されてしまいました。人が罪に堕ちて以来、世界は損なわれた世界、罪と死に条件付けられた世界、「悪に傾きやすく、善をなしがたい世界」*[24]となりました。それによって、人が自分の道徳的、霊的努力を通じてもとの楽園へ帰還することは不可能になってしまいました。人類は神・至聖三者の像に造られているので、――それゆえ「相互依存し互いに固有な」人格の結びつき〔社会〕として存在します――、アダムとエワの「原罪」は「人類全体に及ぶものとなり」ました*[25]。人類の一体性、人の社会的本性は「アダムから罪が受け継がれていったというキリスト教固有の思想の存在論的根拠です。この思想は私たちが他者の犯した罪、もしくはアダムの原罪の「罪責」を負うことを意味するのではありません。アダムの罪とそれ以来人々が犯した罪の蓄積によって条件付けられた世界に人間は生まれ、人の一生はしばしば人類の罪深さが次第に深まってゆく過程の一齣となるということです。(もちろん私たちは他の人々の罪には責任はありませんが、自分が実際に犯した罪の罪責は負わねばなりません。道徳的、霊的な責任があります)。

 人間の罪への傾向は堕落した世界に生まれてきた当然の結果として「本源的」で「生まれつき」のものです。この限定された意味において、私たちは「罪深いものとして生まれ」ます。しかし、決して「罪責を負って」生まれるのではありません。正教会は、人はアダムとエワの罪の結果のみならず、その罪への「罪責」も負うという理解での「原罪」の教理を否定し続けてきました。

 

「原福音」 神の救いの約束

 

 創世記の第三章は、まず第一に楽園からの人の追放の神学的解釈を提示しますが、また人類の幸福への神の絶えることのない関心も示唆します。創世記三章一五節で神は蛇に言います。「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。この節は、正教神学者たちと多くの学者たちによってハリストスの福音の「前触れ」、「原福音」として理解されてきました。「これは救い主についての最初の約束である。女のすえと蛇のすえとの間の長い間の葛藤が続き、救い主は最終的にサタンとその末を滅ぼし、みずからもそのかかとにサタンの一撃を受ける――カルバリーで(ハリストスに)起きたように――という預言である」*[26]。ここで「女のすえ」と言われていることもまた興味深いことです。聖書の中でこのような表現はここだけです。多くの注釈者たちが、この独特の表現を、ハリストスの処女からの降誕をさすと解釈しています。

 

 原福音は三章二一節にも現れます。神は人が無実を喪失し、道徳的にも霊的にもひ弱な丸裸の状態となってしまったことを憐れみ、彼らを楽園から追う前に、獣の皮で作った衣を着せます。これは、神と人と自然との間の調和が破られたことのもう一つのしるしと見なすことも可能です。動物たちは人が生きるために死ななければならなくなったからです。しかし、一般的にこの箇所は、裁きの時にあってさえ継続する人類への神の摂理的な配慮の象徴であると解釈され、「皮の着物」(人が作ったのではなく神が与えたことにおいては、イチジクの葉をつづり合わせた効果のない腰布と同じ)は、ハリストスのイメージを担うものと見なされてきました。人がもし神の臨在のもとに帰還しようとするなら、人は「古き人を脱ぎ捨て」(エフェス4:22)、「主イイスス・ハリストスを着」(ロマ13:14)なければなりません。罪深い人は、もし再び神の世界の内にたち戻ろうとするなら、ハリストスの義によって身を覆わねばなりません。創世記三章一五節と二一節の「福音の前触れ」は、聖書に見られる、悪魔の支配から人と世界を救うという神の第一の約束です。

 

悪の蔓延と大洪水  創世記四〜八章

 

 もう一つの神の裁きと救いについては、創世記の四章から八章にかけて語られています。

 楽園追放の記事に引き続いて人類史上最初の殺人が描き出されます(4:1-16)。アダムとエワの長男、カインが弟のアウェリ(アベル)を殺害します。この物語の詳細を述べるまでもなく「神への反逆は人への反逆へと導かれた。この殺人事件は人の堕落を決定的なものにした」*[27]と言うことができるでしょう。

 

 弟を殺した後、カインは神からいっそう遠い所へと離れ去ります。彼は、両親を離れ「エデンの東、ノドの地」(4:16)へと移りました。人類はこの時点で、創世記四章から五章の系図に示されているように、二つの系統に分かれます。カインの系統(4:17-24)とシフ(セツ)の系統(4:25-5:32)です。カインの系統は、復讐の叫びと、カイン自身と彼の曾々々孫ラメフ(レメク)の殺人によって特徴づけられます。シフの系統――シフはアダムとエワの三男(4:25)――はアダムの子孫たちの本流として示され、エノフに示される聖性(5:18-23)と神への献身(4:26)に特徴づけられます。シフとシフの子の誕生を見て、アダムの子たちは「主の名を呼び始め」ました(4:26)。言い換えれば、カインの系統がアダムの世代から切り離されて悪へとますます傾斜していく一方、シフの系統はアダムの子孫の合法的な継続であり、神を礼拝する者となってゆきます。

 

 創世記六章は、世界に邪悪さが増大してゆき、やがて神は大洪水によって人間の文明を破壊しようと決断したと、述べます。この章は、奇妙な理解しがたい諸句をもって開始されます(6:1-4)。

 

人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。

 

 何人かの注釈者はここで述べられている「神の子たち」は堕落した天使たち(もしくは悪霊たち)で、人間の女と結婚し奇怪な巨人である混血の種族を生んだと主張します。しかし、天使たちも悪霊たちも純粋な霊的存在――人間の姿をとって現れることはできるが物質的な肉体を持っていません*[28]――ですから、彼らがどうやって人の娘たちを孕ませたかを理解するのは困難です。もっと自然な解釈は、「神の子たち」とはシフの子孫のことで、彼らはカインの子孫である女たちとの結婚という罪を犯したということです。この見方によれば、これらの汚れた婚姻によって生まれた子孫たちは巨人や怪人ではなく、「強く、乱暴で、暴君的な邪悪きわまりない人々」*[29]ということになります。創世記の四章十七節から五章三十二節にかけて、カインとシフの二つの系統が神の定めによって別れたことが強調され、二つの系統が後に雑婚同化してゆくことは神にとってまったく忌まわしい出来事であることが浮き彫りにされます。創世記六章五節から七章二十四節にかけて語られる腐敗、審判、破局の物語のかっこうの序章と言えましょう。

 

 人の罪によって出現した、無秩序で邪悪な世界を滅ぼすことを決意した時、神は「新しい世界」の出発点とするために、「残りの者」として何人かの人たちと、種類に従ってそれぞれ一つがいずつの動物を救うことにしました(6:5-22)。シフの子孫で「主の前に恵みを得た」(6:8)義人ノイは、来るべき破壊から彼の家族と残される動物たちを守るための巨大な箱舟を作るよう、神に命じられました。

 創世記七章から八章にかけては、ついに起こった大洪水の有様が描写されています。洪水は百五十日間続き、地の全体を五マイルの深さで覆い、ノイたちだけが箱舟の中で生き残りました。

 

〔解説・補論〕

「残りの者」という言葉は銘記しておいて下さい。聖書全体を貫く概念です。イサイヤの預言書のなかで頻出します。ノイとその一族が残されたように、最後の審判の時、永遠の神の国に入る者として何人かの「残りの者」が残されます。

 

 ここでもう一度思い起こしてください。創世記の最初の十一章は、伝説的な物語や寓話が集められており、それらは神と人と自然についての宗教的な真理を啓示しているのであり、人類と世界の歴史についての科学的な説明を提供しようとしたものではありません。聖書のこの部分にあるのは、神学的な目的のために構成された古代イズライリの民話です。今日多くの聖書学者たちは、創世記六〜八章の大洪水物語を「神『エア』から大洪水が来ることを知らされ、箱舟を作ってノイと同じようなかたちで救われたバビロニアの英雄ウトナピシティムの冒険譚というバビロニア神話のヘブライ版である」*[30]と考えています。考古学的研究によれば、この古代中東地域の伝説は、紀元前四千年ごろにメソポタミヤ地方を襲った実際の大洪水の記憶に基づいていると言われます。ただ、この洪水は地方的なもので決して全地を覆い尽くすようなものではなかったことも明らかだということです。

 

 しかしながら、聖書とバビロニアの二つの洪水物語には重要な違いがあることを強調しておかねばなりません。バビロニアの物語には異教の神話的世界観が反映しています。「神々が洪水を起こそうと決意するのに格別の理由はない。同様に、格別の道徳的な理由もなく一人の人物が選ばれて、神々の一人から警告を受け救われ」ます。しかし聖書では「至高の主として、唯一の神が人間の罪ゆえに洪水を宣告し、ノイはその正しさゆえに救われ」ます*[31]。聖書の洪水物語の目的は、神が不正を裁き断罪することを明確に宣言し、同時に正しい者たちへの神のゆるぎなき愛を強調することにあります。悪を懲らしめを受けないままで放置することを神は許しませんでした。同時に神の意志に忠実であろうと努める人たちを「残りの者」として救おうと慈悲深く配慮されました。聖書の大洪水物語は、その宗教的、道徳的な内容の点で、バビロニア神話とはまったく異なり、またそれをはるかに凌駕するものです。

 

 聖書それ自体の中でも、また正教の神学的理解にあっても、大洪水物語と洗礼の機密には深い関係が示されています。事実、大洪水は「偉大な洗礼」と呼ばれても差し支えないものです。聖書では水は世界、とりわけ混沌と悪と死に汚され堕落した世界の象徴として用いられます。マトフェイ伝の水の上を歩くイイススの記事はこの点から解釈できます。

 イイススはペートルに水の上を歩いてやってくるように招きます。最初ペートルも水の上を歩くことができます。「しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、『主よ、お助けください』と言った。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』」(マトフェイ14:28-31)。ここで、ペートルが水に沈んだこと、そして溺れそうになったペートルはイイススに助けられなければならなかったことは、神への信仰を失った結果、人が「生命」を喪失してしまったことの象徴的表現であるといえます。ペートルがイイスス、人となった神の子から目を離した瞬間、彼は水の混沌と死の内に引き込まれました。堕落したこの世にのみ込まれそうになり、主イイススによって引き上げていただかなければなりませんでした。

 

 洗礼の機密では、人は水に沈められます(浸水)。この浸水はハリストスの死の内に入ることです。そして、洗礼の水からあがることは、ハリストスの復活に与ることです。すでに見たように、罪を負う者として人間は神の生命から離れています。しかし、神がハリストスとして籍身したことを通じて、信仰と愛と従順とをもってハリストス・神にもう一度結びつく可能性が人に与えられました。私たちのために十字架上で死に、ハリストスは私たちの死の内に入り、私たちの死を私たちのよみがえりへの道に変えてくださったのです。ハリストスの死は、死そのものを滅ぼしました。なぜならハリストスは「生命」だからです。ハリストスが「混沌と悪と死を象徴する水」に浸されることを通じて、この堕落した世界全体を象徴するものとしての水は、「神の臨在にみたされ」*[32]ました。洗礼の水は「死」を表すだけではなく、籍身した神の「生命」によって変容された世界をも表します。洗礼によって私たちは罪に死に、生命によみがえります。

 

〔解説・補論〕

水が「混沌と悪と死」を象徴するものから神の「生命」によって変容された世界を表すものとなったということ、毎年、主の洗礼祭の聖水式で、十字架にかかった主を水にお沈めする時、熱く実感します。ハリストスがヨルダン側の水に入った時、水の汚れに汚されることなく、反対にハリストスの帯びる神の聖性が水を、そしてこの世のあらゆるものに浸透する水が象徴する世界全体を洗いました。

 

 聖ペートルは大洪水と洗礼機密をはっきりと関連づけました。彼はハリストスの救いの業は大洪水に前触れとして予象されていたとして、「むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。この水は洗礼を象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである」(ペートル前書3:20-22)と述べます。大洪水は神の罪に対する永遠の裁きの象徴です。聖ペートルはノイを神に救いを求める人々の典型と見なし、罪がもたらした滅びから神によって慈悲深く救われたと言います。ノイの箱舟は信仰熱い「残りの者」を水から救うものとして、ハリストスの象徴です。

 

新たなる出発  創世記九〜十一章

 

 洪水が去った時、神はノイに約束しました(9:1-17)。

 聖書によれば神は個々人と、国家と、また人類全体と多くの契約を結びました。これらの契約は神と人との間の「責任関係」を確立する「至上の宣言」です。神はその契約の中で人間の条件を定め将来を約束します。神は幾つかの約束は無条件で守りますが、他の約束については人が神の戒めを忠実に守ったかどうかによって履行されます。それぞれの契約には双方の同意の証明として、神が人に示す合図やしるしが伴います。

 

〔解説・補論〕

すべては神に属し、神の支配の中にあるはずなのに、どうして神は人間と契約を結んだのかという、ご質問もありました。これも、神が人をご自身と自由にかかわる「人格」として創造されたことによります。契約は自由な責任主体としか結び得ないものです。神はご自身の絶対的主権とその全能性をさしおいて、あたかも人間が神と対等な主体であるかのように契約を結ばれたのです。これも神の人への愛の結果です。

 

 「五書」では三つの契約が明示されています。ノイとの契約(9:1-17)は、今後人間が神に忠実であるかどうかに関わりなく約束される「片務的」なもので、被造物全体に対しても及びます。「その契約のしるしは自然現象」――虹でした。アウラアム(アブラハム)との契約(12:1-313:14-1715:1-718-2117:18)は「アウラアム個人と神との約束によるもので、その子孫にのみ及び、そのしるしは割礼」でした。イズライリ(イズライリ)との契約(出エギペト19-24章)は、「彼らの変わることのない神への忠実さを求め、彼らがやがて形成することになる国家にまで及び、そのしるしは安息日の遵守」*[33]でした(出エギペト31:16-17)。

 

 ノイと契約を結ぶに際し、神は「人が心に思い図ることは、幼い時から悪い」(8:21)と、罪によって人が陥った道徳的、霊的混乱を前提としていました。神は、人間は自然を「平和ではなく恐怖によって」治めるであろうと宣言しました*[34]

 

「地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない」(9:2-4

 

 神の最初の計画では禁じられていた「獣を殺して食べる」ということが、いまや人間の生活の中心的なあり方として承認されました。しかし、獣たちの血を食べることだけは許されませんでした。なぜなら聖書では血は生命の本質であると考えられているからです。そして、生命は究極的には人にではなく神に属すものです。

 

 この契約はまた殺人を禁じ、神の定めた制度として死刑制度を創設しました。「人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに」(9:6)。ここにほのめかされている人と獣、人と人との間の敵対関係は、人間の罪深さによってもたらされたこの世の腐敗の象徴です。

 

 ノイとの契約は普遍的なもので、ノイのみならずその子孫と、もちろんすべての生き物の世界に及びます(9:8-10)。ここで約束されているのは「すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」(9:11)というものでした。この約束は、神がもはや裁くことも、断罪することも、罰することもしないということを意味するのではありません。そうではなく、神の創造物が最終的に悪の力によって滅ぼされることはないことを意味しています。神の関心は何よりも救いにあります。すでにお話ししたように、ノイとの契約のしるしは、ノイと世界全体の救いを約束する虹でした(9:11-17)。

 

悪の挑戦は続く

 

 ノイの契約は、大洪水が終わってもなおこの世に罪が存在し続け、働き続けることを前提としていました。創世記の九章十八節から十一章九節は人類の深まり続ける罪深さを詳細に描き出しています。

 まず九章二十節から二十七節にかけて、ノイの三人の息子の一人ハムの奇妙な罪の物語が述べられます。

 

さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。シム(セム)とイアフェト(ヤペテ)とは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、彼は言った、「カナアン(カナン)はのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」。また言った、「シムの神、主はほむべきかな、カナアンはそのしもべとなれ。神はイアフェトを大いならしめ、シムの天幕に彼を住まわせられるように。カナアンはそのしもべとなれ」。

 

 この記事には二つの難問があります。ハムの犯罪とは一体何なのか、そして、なぜノイはハム自身にではなくハムの息子のカナアン(10:6)に呪いを宣告したのか、です。

 

 ハムの罪の本質は「父の裸を見て」という言葉に表現され、レビ記十八章に照らしてはじめて理解することができます。そこで神は、人がその父、母、姉妹、子ども、孫、叔母、叔父、義理の姉妹、義理の孫娘を犯す(「裸をあばく」)ことは忌まわしいことであると宣言しています。ここで断罪されているのはあらゆるかたちの近親相姦です。「裸をあばく」という表現が様々なかたちの性的交渉を意味していることは明らかです。同様に、レビ記十八章二十二節、二十章十三節、そしてロマ書一章二十六節、二十七節で同性愛が断罪されていることも想起すべきでしょう。ハムが行ったのは彼の父親に対する何らかのかたちでの近親相姦的、同性愛的な行為でした。(ついでに言えば、聖書がノイが酔っぱらってしまったことを不埒なこととは決して言っていないのは、大変興味深いことです)。

 

 ノイのカナアンへの呪いは、古代の中近東の人々にとって将来の子孫たち(「すえ」)の繁栄こそ最も誇るべき希望であったということに呼応しています。だからこそ、カナアンへの呪いはハム自身への詛いとなりました。そして聖書は、古代パレスティナのカナアンの諸部族の性的乱脈はハムの罪に由来し、ついにはイズライリ民族による滅亡へとつながっていくと述べます*[35]。イズライリ民族は、ノイによって祝福され、やがてカナアンを滅ぼし彼らを奴隷とするだろうと預言されたシムの子孫です。

 罪と生来の性的なゆがみのこの描写は、異常に劇的なかたちで人間の罪深さを、如実に表しています。

 

 洪水後の時代でも続いてゆく悪の挑戦はまた、創世記十章にも描かれています。ノイの子孫は三つの主要なグループに分かれます。イアフェトの息子たち(10:1-5)、ハムの息子たち(10:6-20)、そしてシムの息子たち(10:21-32)です。これらの三つのグループはさらに分かれ、たくさんの民族、文化、国家を生み出してゆきます。もちろん、これらの系図は、世界各地にさまざまな民族が存在することについての、古代的な説明の試みかもしれません。しかし、まったくドラマ性を持たないこの部分にも大切な神学的な意義があります。人類の分裂と断片化、そしてそれをもたらした「人の人に対する残酷さ」という基本的な人間の条件を示すことです。文化的排外主義、民族主義や国家主義は神のもとでの一致を喪失した人間性の最も明白なしるしです。この原初の一致の喪失は人間の罪深さの主要な徴候の一つであることは確かです。

 

 創世記十一章一節から九節のバベルの塔の物語は洪水以後の世界を覆った人間の腐敗の最終的な描写です。この伝説的な物語は、世界中には様々な言語があること、そしてたとえ同じ言語を用いる者の間であっても有効で意味のあるコミュニケーションは困難を極め、しばしば不可能であるという、私たちがよく知っている現実に由来します。人間は言語の混乱に苦しみ、しばしば互いに理解し合えなくなっています。聖書が私たちに語る、このコミュニケーションの危機は人間の堕落のしるしであり、「神からの自立を宣言しようとする人間のもがきの象徴」*[36]です。人の神に対する罪深い反抗と、その結果引き起こされた人とその世界に対する神の裁きのいっそう踏み込んだ表現です。

 

 本章では、創世記一章から十一章の主要なテーマをとりあげてお話ししてきました。神による人と世界の創造、人間の罪と神からの離反、神の永遠の裁き、断罪、罪の処罰、そして神の人間と世界の救済への意志です。創世記一章〜十一章全体のメッセージは、神を愛し従順である事への人間のしくじり、神なしに「自分自身で」生きたいという人間の欲求が、私たちのすべての不安、無意味感、人間相互の恐怖の源泉であるということでした。聖書に一貫してみられる「神中心性」は、神がいのちの基礎であり源泉であること、そして、神にあって私たちは真の自己と自らの救いを見いだすことができこと、そして神への愛こそが人間の完成そのものであることを、私たちに思い起こさせます。

 

 シムからアダムに至るシムの系統の系図(11:10-32)は、創世記一章から十一章に示される神の救いのわざの最後のしるしです。神はアウラアムを新たなる「残りの者」に選びました。アウラアムの子孫たちがイズライリ、選ばれた民となります。そしてこの民から創世記三章十五節が約束した救い主が到来します。アダム、シフ、ノイ、シム、アウラアム、イサアク、イアコフ、イウダ、ダヴィドという長い連なりの末に「女のすえ」が現れます。イイスス・ハリストス「ダヴィドの子」が童貞女(処女)から生まれます。これこそ「神の子たち」(マトフェイ1:1-18、ルカ3:23-38)の系列の最後に生まれた最も偉大なお方です。この系図によって創世記十一章は次の段階へと意味深く引き継がれてゆきます。アウラアムこそ新しい希望です。神の人類の救いへの意志は新しい永遠の契約であるイイスス・ハリストスにおけるその実現へと加速されてゆくのです。

 

〔解説・補論〕

今回、本文ないしは注釈で紹介した書物を入手したいというご希望がありました。

カリストス・ウェア主教「正教徒は聖書をどのように読むべきか」は、名古屋教会のホームページで読めますが、コンピューターをお使いでない方には、コピーして後日お送りします。またグレゴリイ・パラマの著作は、日本語で読めるものはきわめて少ないのですが、平凡社の「中世思想原典集成3 後期ギリシャ教父・ビザンティン思想」のなかに相当な分量で翻訳が所載されています。

 



*[1] Barrois,The Face of Christ in the Old Testament,63.

*[2] The New Oxford Annoted Bible with Apocrypha, Introduction to the Old Testament”(Oxford University Press,1977) xxviii

*[3] Adam W. Miller, Introduction to the Old Testament(Pillar Books,1976)31

*[4] Fr.Kallistos Ware, The Orthodox Way(SVS Press,1979) 56

*[5]  前掲書58

*[6] Barrrois, The Face of Christ in the Old Testament, 56

*[7] Ware, The Orthodox Way, 66

*[8] 前掲書

*[9] 前掲書

*[10] Vladimir Lossky, The Mistical Theology of the Eastern Church (SVS press,1976)112-3

*[11]  Ware, The Orthodox Way,67

*[12] Thomas Hopko, On the Male Character of Christian Priesthood, St.Vladimir's Theological Quarterly 19:3(1975)149  しかしながら次の点は強調されておかねばならない。神の本性に与るに際し、人は神そのものとなるわけではない。正教会の神化の考えを理解するためには、グレゴリイ・パラマの著作がもっとも助けになろう。彼は、神の本質(ウシア)とエネルギイ(エネルギア、「わざ」や働き)を区別した。神のエネルギイは「神の本質にかないそこから分離することのできない力」であり、それを通じて神は「ご自身から」自らを現し、宣言し、伝え、ご自身を与えられる。たとえば、神の知恵、いのち、真理、愛、光栄、光、などである(Lossky, The Mystical Theology of the Eastern Church, 70.神はそのエネルギイの内に実際に存在する。そして神の恵みによって、私たちはそのエネルギイに与り、結果としてその本性に与ることができる。しかし、それは私たちが神の本質に入り込んだり、神の本質に与ることを決して意味しない。神はつねに私たちを超越しておられるからだ。ロスキーが書いているように、神化は「神のエネルギイにおいて神と一致すること、ないしは、私たちの本質が神の本質に変わることなく、恵みによって神の本性に与ることである。神化において、私たちは恵みによって(すなわち神のエネルギイの内にあって)、神との本性的同一性のみを除いて、神が本性によってそうであるものすべてになる」(前掲書87)。このテオシスの過程で、したがって私たちは神の創造物に留まり続ける。しかし、神とは区別されても神とは分離することはない。神の本性に、吸収されることなく、交わりを持つのだ。

 

〔解説・補論〕ハリストスは人となった神であり、ハリストスを通じて私たちは神に思いを馳せることができます。しかし、ハリストスが私たちに示す「ハリストスの人間性」はやはりあくまでその神性に浸透された「人間性」であり、神の本性そのものを示すものではありません。

 

*[13] Barrois, The Face of Christ in the Old Testament 66

*[14] 神に背いて禁じられた木の実を食べたアダムとエヴァを楽園から追放するとき、神は「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった」(3:22)と言った。しかしこれは、神やその天使たちが善にばかりではなく悪にも関わっているということを意味するのではない。創世記三章の蛇が、その実を食べると善悪を知るようになり天使のようになると約束し、男と女を誘惑したことに、ポイントがある。3:22の神の宣言は皮肉っぽく嫌みでさえある。なぜなら、神の戒めを破った結果は、天国のいのちからの徹底した疎隔であり、蛇の約束の正反対の事態であったからだ。

*[15] The New Oxford Annoted Bible with Apocrypha, The Old Testament foot note on p.4

*[16] これらの堕天使たちの伝承については、イサイヤ14:5-15、エゼキイル28:11-19、黙示録12:1-17を参照のこと

*[17] Jean Danielou, The Angels and their Mission (Christian Ckassics,1976) 41-2

*[18] 前掲書45-7

*[19] Ware, The Orhodox Way ,74

*[20] 前掲書75

*[21] Barrois, The Face of Christ in the Old Testament, 60

*[22] William NeilHarper's Bible Commentary(Harper & Row 1975) 20

*[23] The New Oxford Annotated Bible with Apocrypha, The Old Testament,footnote on P5

*[24] Ware, The Orthodox Church,228

*[25]  Ware, The Orthodox Way, 80. カリストス主教は、誰であれ、それがどんな行為であれ、その人の行為は他のすべての人々に影響を与えると、指摘する。(前掲書81

*[26] The Harper Study Bible,(1965) footnote on p9

*[27]  Jerome Biblical Commentary, vol.1 The Old Testament13

*[28] 創世記三章の蛇は悪魔が籍身したものではなく、単に人類の生活の中に悪魔が存在することの象徴的表現である。

*[29] The Harper Study Bible, footnote on p.14

*[30] Neil, 31

*[31]  Jerome Biblical Cmmentary, vol.1The Old Testament”、15

*[32] Paul Lazor, Baptism (Orthodox Church in America, Department of religious Education 1972) 10

*[33] Jerome Biblical Commentary, vol.1The Old Testament16 ある注解者たちは創世記冒頭の諸章には、他に二つの契約が隠されていると言う。第一は「エデン契約」(1-2章)であり、これは堕落以前の神と人との本来の関係を表す。第2は「アダム契約」(3:14-19)であり、これは人が神の恵みから離れ去ったその結果を明らかにする。エデン契約は神とアダムとの間で結ばれ、アダムに完全な従順が要求された。そのしるしは「命の木」である。アダム契約は、アダムに始まり全人類に及び、神はもはや人に道徳的霊的な応答は求めず、神の国の到来にいたるまで堕落した人が服さねばならない条件が示され、そのしるしは「死の不可避性」である。アダム契約はまた「女のすえ」として現れる救い主に対する神の最初の約束を含む。神がアダムとエワに与えた「皮の着物」(3:21)がその予象である。

*[34] 前掲書

*[35] 現代の聖書学者たちによると創世記9:20-27では二つの詛いが結合されている。一つはハムに対するもの、もう一つはカナアンに対するものである。ハムはエジプトを表している。そこはモイセイによって導き出されるまでイズライリが奴隷状態に服さねばならなかったところである。カナアンは古代パレスティナの異教徒たちの祖先である。モイセイ以後幾世紀かイズライリ民族は彼らと戦わねばならなかった。イアフェト(ヤペテ)はフィリスティアの人々の祖先であり、やはり結果的にイズライリの敵となったが、カナアンの人々ほどはエウレイ(ヘブライ)人たちに脅威を与えることもなく、軽蔑されることもなかった。

*[36] Miller,38