第一章 正教徒は聖書の学びにどう取り組むべきか
 
 正教徒が聖書を読み、また学ぶべき理由は少なくとも五つあります。
 
 第一は、キリスト教は一貫して聖書を、神から霊感を受けて書かれた神ご自身とその人類に対する意志についてのまことの啓示であると伝えてきたからです。正しく理解されるなら聖書は、神とは何か、人間とは一体どういう者か、そしてこの世界(コスモス)全体が何のためにあるのかを知るための第一の源泉です。ゆえに、これらの真理を究めようとする者は、まず、その手がかりを聖書の証言に求めなければなりません。
 
〔解説・補論〕
・「啓示」revelationは神が自ら進んでご自身を私たちにお示しになることです。神は人間の感覚的、理性的認識能力を超えたお方ですので、私たちの側から直接に神を知ることはできません。しかし神は私たちへの愛に促されて、出来事や預言者のことばなどいろいろな機会と手段によってご自身を啓示されてきました。
 
 第二は、聖書は神の啓示の記録として、ご自身とその国に関する神の「みことば」であるからです。このみことばはとりわけ教会のメンバーたちに向けられています。彼らはみことばに耳を傾け、みことばを重んじ、みことばを常に心にとめ、信仰と従順をもってみことばに応えることを求められています。
 
〔解説・補論〕
・正教徒はつい、イコンや壮麗な教会建築や聖歌など正教の育んだ豊かな宗教文化に心を奪われる余り、キリスト教がそもそもは「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)という主のメッセージ(みことば・Word)から始まったことを忘れて、聖書の学びをおろそかにし、つい「気分的」「情緒的」信仰に陥ってしまいがちです。信仰生活の中心にいつもみことばを据え、生活のあらゆる面をそのメッセージへの応答としていかねばなりません。
 
 第三は、正教会は聖書を言葉による神ご自身のイコンと教えてきたからです。イコンに描かれた人物や出来事が、その物質的な表現の中にまたそれを通じて、私たちにとって生きた「実在」となるのと同じように、神は書かれたみことばの具体的な表現の中にまたそれを通じて、生きて働くお方として「実在」し始めます。聖書を読んで学び、聖書を手がかりに祈り、その内容に思いを深めることによって、私たちは神ご自身と出会い、親しく交わることが可能となります。 熱心に聖書を学び、祈りとともにその内容に思いをめぐらせるなら、やがて、永遠の「生命を施す分かれざる聖三者」に触れ、かつ触れていただけるのです。
 
〔解説・補論〕
・逆にイコンは「描かれたみことば」ともいえます。イコンはイメージ、像をあらわすギリシャ語です。パソコンで使うアイコンはイコンの英語読みです。
・「物質的な表現を通じて…実在となる」は正教会の重要な神学的理解を表す表現です。物質的な表現は「表現されたそのもの自体(イコンでいえば、ハリストス、生神女、諸聖人たち)」とは別の「象徴」にすぎず「実在」ではないというのが近代的な、また中世以降の西方キリスト教の理解なのですが、正教会はしばしば表現そのもの、象徴そのものに「生きて働く実在」をみます。十字架やイコンに接吻するとき、その気分が込められていませんか。機密には様々な物質や動作やことばという象徴的表現が用いられます。正教会はこれらを決してたんなる「象徴にすぎないもの」とはとらえていません。そこに神が実在し「生きて働いて」います。それと同じように、聖書「書かれたみことば」も言葉という「表現」を通じて生きて働く神の実在となります。だからこそ、正教会では福音書を美しく飾り、恭しく扱い、朗々と読み上げるのです。たんなる神の言葉を伝える記号ではないからです。
・ここに「書かれたみことば」という表現があり、このあとも頻出します。ちょっと奇妙な表現だと思いませんか。言葉なんだから書かれたに決まっているではないかと。もちろん出来事や語られたことを通じての啓示を「書きとめた」ものという意味です。なぜ、筆者がここで「書かれた」とわざわざ修飾語を加えているのかということですが、厳密に言いますと、「みことば」というのは至聖三者の神のお一方「神子」への別称でもあるからです。ギリシャ語では「ロゴス」です。このお方が「そしてことばは肉体となり、私たちのうちに宿った」(イオアン1:14)のがハリストス・イイススであり、この「みことば」であるお方が語った言葉を通常「みことば」と呼び、またそのみことばをハリストスのご生涯とともに記録した新約聖書、さらに旧約聖書の内容をも「みことば」と呼びます。みことばにはいろんな段階があるので、区別するために「書かれた」を加えたのです。
 
 第四は、正教会の祈りの生活(liturgical life 奉神礼的生活)は、聖書に基礎をおき、聖書を表現しているからです。聖体礼儀一つをとっても、使徒経の読み、福音経の読み、天主経以外に旧約聖書から九十八ヶ所、新約聖書から百十四ヶ所の引用が確認されています*1。正教の奉神礼では、一年中ほとんど切れ目なく聖書が読まれているといってよいでしょう。当然の結果として、教会の奉神礼や諸祈祷への理解と参加の度合いが深められ強められてゆけばゆくほど、聖書のみことばに自ずと精通するようになります。
 
〔解説・補論〕
・教会が八調経・三歌斎経・五旬経・祭日経・奉事経(祝文が出ている司祭が用いるもの)などをもっと信徒に身近なものし、信徒が祈祷そのものを通じて「みことば」に触れられる機会を増やさねばなりませんね。
 
 最後の第五番目の理由は、聖書が正教会の聖伝の主要な表現であるということです。カリストス・ウェア主教によれば、「今日の正教徒はみずからを、過去から受け取った偉大な遺産の相続者であり後見人として任じ、この遺産を損なうことなく未来へ引き渡してゆくことをみずからの義務として心得て」います*2。しかし、この義務を遂行するためには、多くの手ごわい障害物を乗り越えなければなりません。現代の世俗化した文化に直面し、正教は無数の非正教会的な哲学、そして非正教会的な宗教的動向や団体と共存ないし競合していくことを学ばなければなりません。じっさいたくさんの正教徒が、これらの哲学や宗教の、時にはきわめて目新しく印象的な魅力に幻惑されて正教会を離れつつあります。なぜなら、今日、悲しむべきことに、多くの正教徒にとって、聖なる伝統は「生きた」伝統、生きることを力づける伝統ではなくなってしまっているからです。今日の正教信徒は、全体主義的政治権力によって、また文化の激変によって、そして神の光と真理の中に生きることを怠ったことによって、正教の聖伝の深い神学的な根拠から切り離されてしまいました。それを回復するためには、正教の伝統を支える教義的な基盤と、その奉神礼的な表現を理解し、その理解を生きた信仰の中で表現するために、あらゆる努力を惜しんではなりません。そうあって初めて、「幾時代もの間、正教がはっきりと示し続けてきた全教義体系、教会機構、礼拝、そして芸術」*3を保存し次世代へ受け渡してゆくという義務を果たせるのです。この務めを行ってゆくにあたり、今日圧倒的に優勢な世俗的、非正教会的、反キリスト教的でさえある諸思想や価値観に対して、正教会は主体的に批判的見解を打ち出してゆく必要があります。そのために、とりわけ重要な位置を占めるのは、聖書の内容と意味についての真剣な学びと、ゲオルギイ・フロロフスキー神父が「聖書的精神」*4と呼んだものに根ざし表現された世界観の展開です。
 
〔解説・補論〕
・ここで「聖伝」と訳した語はthe holy traditionです。カリストス・ウェア主教はThe Orthodox Church のなかで「ハリストス『よみがえりのいのち』の世代から世代への、また地域から地域への伝達」という本質、また教会の伝承の内どんな時代にもゆるがせにできない本質的なものを指すときはTraditionと表記し、歴史的、地域的な事情でできた変更や廃棄が可能な諸習慣等はtraditionsと言う語であらわしています。この二つは「聖伝」と「諸伝承」と訳し分けて区別できるでしょう。受講者からのご質問で、9ページの『聖伝は教会の「生活と体験の全体」です』という記述について、教会の体験の一つである敬老会や七五三の祈祷は聖伝とは言えないのではないかというご指摘がありました。たしかにそれらは日本文化の中から正教が伝道に生かすために取り上げ、歴史は浅いにせよ日本教会での「諸伝承」の一部となりつつあるもので、聖伝そのものではありません。しかし諸伝承と聖伝は無関係ではなく、「ハリストスのよみがえりのいのちの伝達」すなわち広い意味での「聖伝」の特殊な歴史的・文化的な表現が諸伝承であると言えましょう。そういう意味で著者は、諸伝承の底に「よみがえりのいのちの伝達」がいきいきと脈打っていることを表現するために『聖伝は教会の「生活と体験の全体」です』と言い切っているのではないでしょうか。原文もthe total life and experience of the church となっており、定冠詞theがlife とexperienceの両方にかかっていること、of the churchも後ろから両方にかかっていることからみても、この翻訳で問題ないと考えます。(なおこの受講者の方からは他に2点翻訳上のご指摘がありましたが、見直してみたところそちらはご指摘の通りであったので訂正致し、この解説の本文に反映させています。感謝!)
・ここで「全体主義的政治権力」とはロシアや中東欧で正教を抑圧した共産主義体制をさします。
・「多くの正教徒にとって、聖なる伝統は「生きた」伝統、生きることを力づける伝統ではなくなってしまっている」。教会とは冠婚葬祭の儀礼を「献金」という代価で買うという感覚が私たちの中にもないでしょうか。
・ゲオルギイ・フロロフスキー神父は現代正教神学を代表する神学者で、16世紀以来西方神学の影響によってゆがんできた正教神学を、もう一度古代の聖師父たちに立ち帰って、本来の姿に回復し、現代に生きるものとしました。そのすぐれた弟子が、現在日本教会の中心で働いておられる諸神品たちをウラジミール神学校で教導した、故マイエンドルフ神父や故シュメーマン神父たちです。いずれも邦訳が無く残念です。
 
 これらの、また他のいくつかの理由により、正教信徒は日々の生活の中心に聖書の読みと学びを据えなければならないのです。もちろん、聖書はとても膨大で複雑な文書の集まりです。聖書を初めて読む人たちは、そのテキストの細部にとらわれて迷子になりかねません。「聖書的精神」を育てるためには、書かれた神のみことば・聖書全体のメッセージの意味をさぐる努力が大切です。「聖書をその全体的展望の中で把握する」*5ということです。そこで、本書の主要な目的は聖書を貫く中心的なテーマの研究と、聖師父たちから受け継がれた正教会の聖書解釈にもとづき、聖書を通じて差し出される神の啓示の基本的なメッセージを概観することにあります。
 
〔解説・補論〕
聖師父とは教父とも訳され、古代の教会に大きなみちびきを与えた偉大な人々です。西方教会の学者たちは、東方教会では8世紀のダマスクのイオアンまでとしますが、正教会ではその後も聖神に鼓吹されて同様の働きをした人たちを引き続き聖師父と呼ぶ傾向があります。
 
聖書を構成する諸文書
 
 聖書は旧約聖書と新約聖書によって構成されています。伝統的なキリスト教の立場からは、聖書は神が人類をどのように悪の力から解放したか、また解放しつつあるかを、最も明らかに啓示する「救済」の書です。
 
 人は神との永遠の交わりに生きるために創造されましたが、反対に創造者・神に背いてしまいました。神から自らを引き離すことによって、霊的な知恵、道徳的なまた霊的な完全性からも自らを切り離し、神が人間にもともと与えようと意図していた永遠の生命の喜びへの希望も失ってしまいました。この自ら招いた神との断絶の結果、人は道を見失い、この世と「肉」と悪の虜となってしまいました。しかし神は、人をご自身から離れた苦境から救うため、イイスス・ハリストスという「お方(位格)」とそのわざ(行為)を通じてお働きになりました。神は古代イスラエルの太祖(族長(パトリアルフ))たち、預言者たち、そしてイイススの使徒たちに、書いたものとしてではなく直接の啓示という方法で、ご自身とその意志、そして人類の救いのためのご計画をお示しになりました。聖書はこのもともとの書かれざる啓示を文書に記録したものです。
 
〔解説・補論〕
・「肉」の虜となってしまった、とありますが、正教会が肉体を軽視・蔑視したことはありません。肉体は神が創造したものであり元来善なるものです。新約聖書の中でも「肉」という言葉がしばしば出てきて、否定的な意味で用いられることがありますが、「この世的な生き方にひきずられた霊・肉全体を含んだ人間のあり方」と理解して下さい。
 
 旧約聖書は、ほぼ紀元前二千年からイイススの時代にいたるまでの、古代イスラエル民族と神との関わりの歴史を語ります。その中心的メッセージは、イスラエルの「膏(あぶら)傅(つ)けられた者(油が注がれた者)」すなわちメシア(ハリストス)によって人類と世界を救うという神の約束です。
 新約聖書はナザレト(ナザレ)のイイススを約束された「ハリストス」として宣言します。彼はその生涯とそのわざ(行為)を通じて神の救済のご計画を成し遂げ、人に神と和解する道を開きました。
 
〔解説・補論〕
・旧約聖書が取り扱う歴史をもっと長くとらえる考え方もあります。これは、神の天地創造からの登場人物の年齢を加算してゆくことによって得られる数字です。これによれば世界の創造から今日まで、まだおよそ六千年程度(正確な数字は寡聞にして知りません)しかたっていないことになります。著者は、アブラハム以前の聖書の物語は、実際の歴史として検証できる性質のものではない「神話的真実」の記述であると位置づけ、アブラハム以降の記事を現実に歴史としてたどることができるものとして「紀元前二千年から」と言います。
・受講者のお一人から質問があった旧約聖書と新約聖書の関係については7ページに次のようにあります。「聖書が、これまで見てきたように旧新二つの「契約(testament)」に分かれていても、伝統的なキリスト教は常に聖書の啓示の一貫性を強調してきました。旧約聖書も、新約聖書もともに聖神(聖霊)による霊感を受けて書かれ、ともに人類の救済についての神のご計画を主題とし、また宣言し、ともに来るべき神の国の到来を待望しているという点で、同一です。聖書は一つの啓示を二つの段階に分けて示しているのです。この二つの段階を統一する鍵はイイスス・ハリストスです。このお方こそ、書き記された神のみことば全体の中で啓示される神の人類救済計画の中心におられる方です。キリスト教徒の観点からは、「旧約」とはメシアの到来、人類の救済を実現されるハリストスの約束であり、その到来への準備でした。そして、新約聖書は、ナザレト(ナザレ)のイイススをハリストスとして告知することにより、旧約聖書の救いのメッセージが成就されたことと、イイスス・ハリストスにあって、また彼を通じて、神は人類と世界を救ったという宣言です」。
 またウェア主教は「正教徒はどのように聖書を読むべきか」の中で次のように述べています。『私たちは常に旧約聖書と新約聖書の焦点が合わさる所を探し、イイスス・ハリストスにそれを見い出すのです。正教は、旧約聖書には一貫してハリストスの御業の「徴し」やシンボルといった、ハリストスの象(かたち)が見い出せる、という予象論的な解釈法を重要視してきました。この顕著な例は、サレムの王であり祭司であったメルヒセデクに見ることができます。彼はアブラハムにパンとぶどう酒を献じました(創世記十四・十八)。これは聖師父のみならず、新約聖書そのものの中でも、ハリストスの予象と見なされます(エウレイ書五・六、七・一)。もう一つの例は、既に見ましたが、古きパスハ(過ぎ越し)と新しきパスハ(イイススの復活)の予象関係です。紅海の徒渉によってイスラエルがエジプト王から解放されたことは、救主の死と復活によって私たちが罪から解放されたことを予象しています。このようにして、聖書全体を解釈してゆくわけです。例えば、なぜ大斎の後半でイオシフ(ヤコブの子ヨセフ)の人物像を中心として創世記が読まれるのでしょう?なぜ、受難週においてイオフ(ヨブ)記が採り上げられるのでしょう?それは、イオシフもイオフも、罪が無いのに受難した人物であり、彼等は、今まさに教会がこの受難週の奉神礼で、その十字架上の無罪の受難を記憶しようとしているイイスス・ハリストスを予象する「かたち」であるからです。「それがすべてを縛り合わせている」のです』。
 旧約聖書はクリスチャンには不要である、また厳しい怒りの神である旧約の神は新約の愛の神とは別の神であるという考え方も、古代からありましたが、それらは正統教会から新旧約聖書の一貫性を否定する誤った考えとして否定されてきました。
 旧約聖書を読むと、神はユダヤ人だけを救いの対象にしているかのような印象を受けますが、これはユダヤ人の救いを人類全体の「救いの突破口」としようという、神の救済のご計画の表れであって、旧約時代においても神の視野にあるのはあくまで人類全体の救いです。(小生(松島)が学生時代新左翼の闘士たちはよく「一点突破、全面展開」と叫んで、年老いた学長を大教室で缶詰にして「大衆団交」と銘打ち、「革命」への突破口と幻想していました。)
 新約聖書には愛を至上の価値とする素晴らしい道徳的勧告があります。しかし、それでもなお新約聖書のメッセージの本質は、同様にハリストスを通じての「神の人類の救い」の告知です。
 
 旧約聖書の文書(テキスト)はもともとヘブライ語(一部アラム語)で書かれたものですが、歴史的にはヘブライ語版とギリシャ語訳によって今日まで伝えられています。(ラテン語訳はギリシャ語訳とヘブライ語版からの翻訳です)。ヘブライ語版とギリシャ語訳の違いには、キリスト教成立直前とその後の時代のユダヤ教内部での聖なる書物の正確な内容と意味についての論争が反映しています。その論争の主要な関心の一つは、神の霊感を受けたと見なすことのできる権威ある文書が全部でいくつあるかという問題でした。ユダヤ人たちのある者は四十九の文書を含む「長い」カノン(正典)を主張しました。ギリシャ語のカノンという言葉は「標準」を意味し、やがて権威ある文書〔正典〕を意味するようになりました。一方、他の人々は三十九の文書を含む「短い」カノンを主張しました。彼らはその上、三十九書に入る文書でも、その一部分は聖なる書物からは除外されるべきであると考えました。たとえばエスフィリ(エステル)記やダニイル書の一部分です。一世紀の終わり頃までには、「短い」カノンの主張者たちが論争に勝利を収め、旧約聖書のヘブライ語版は三十九文書のみを収めることとなり、今日にまで伝えられています。ユダヤ人たちの間ではこの版は「ヘブライ語原典」として知られています。
 
〔解説・補論〕
・ラテン語版はウルガタ訳といわれヒエロニムスが訳しました。ローマ・カトリックで長く公式の聖書として用いられました。
・カノンはもともとは「真っ直ぐの棒」という意味で、そこから標準という意味が出てきたのです。大砲のことをカノンと言いますね。同じです。
 
 
 旧約聖書の「長い」カノンの方はギリシャ語訳として残っています。紀元前三世紀から一世紀の間に完成したもので、キリスト教の聖書的伝承の成立とその伝達に大きな役割を果たしてきました。古い伝承によれば、ギリシャ語訳はプトレマイオス二世フィラデルフス(285-246BC)時代のエジプトでできあがりました。プトレマイオス二世が「五書」(ヘブライ語聖書の最初の五つの文書 Pentateuch)の写本をかの名高いアレクサンドリアの図書館に所蔵したいと考え、七十二人のユダヤ人学者に命じて五書をヘブライ語のテキストからギリシャ語に翻訳させたところ、その仕事は七十二日間で完成しました。この伝承にもとづき、七十二という数字は七十へと端数を切り捨てられ、ギリシャ語訳旧約聖書はセプチュアギント(ないしはラテン数字のLXX、セプチュアギントはラテン語で七十を意味します)として知られるようになりました。紀元前一世紀の中頃までに、残りの四十四の文書が加えられました。その結果、ギリシャ語訳旧約聖書はユダヤ人たちの三十九のカノンとともに、ヘブライ語原典では後に除外された他の文書も含むこととなりました。
 
 新約聖書の執筆者たちが旧約聖書から引用する場合、ほとんどの場合でセプチュアギント(訳注・日本では「七十人訳」という言い方が一般的)からであり、初代教会のキリスト教徒たちが用いたのも大部分がこのギリシャ語訳です。そのような理由で、正教会ではいつの時代も、ヘブライ語原典よりもむしろこの七十人訳(セプチュアギント)を旧約聖書の権威ある版として尊重してきました。七十人訳の言い回しがヘブライ語原典と異なる箇所はたくさんあります。その場合、正教会では七十人訳の方を神の霊感を受けたものとして受け入れてきました*6。正教会は新約聖書記者たちに倣っているわけです。
 たとえば、イサイヤ(イザヤ)7:14のヘブライ語原典は「一人の若い女〔almah〕が男の子をはらみ産むだろう」となっていますが、ギリシャ語訳は「一人の処女〔parthenos〕が男の子をはらみ産むだろう」です。この旧約聖書の句は言うまでもなくメシアの誕生を指しています。それをふまえ新約聖書記者たちはこの重大な違いに対し、七十人訳の語法を採用することによって対処しました(マトフェイ1:23参照)。
 
〔解説・補論〕
・我が国の祈祷書や聖詠経に訳出されている旧約聖書の引用は、研究者によれば、厳密に七十人訳からのものではなく、ヘブライ原典を下敷きに教理的に重要な箇所を七十人訳を参照して訳した「ロシア宗務院訳」旧約聖書が底本として用いられているようです。
 
 ギリシャ語訳旧約聖書は四十九の文書で成り立ちます。これらの文書は更に四つに分類できます。
 
 第一は「律法書」ないしは「五書」です。
創世記、エギペトを出るの記(出エジプト記)、レヴィ記、民数記、復伝律例(申命記)。
 これらの書では神の天地創造、人の神への背きと堕落、神の選民イスラエルの歴史(アブラハムの時代〔2000BC頃〕からモイセイの時代〔1290-1250BC頃〕)が取り扱われています。そのもとになる資料は、紀元前十世紀から五世紀にかけて文書として成立してゆきました。五書の多くの部分が、神の民への神の律法の啓示を記録していることから、ユダヤ人たちは聖書のこの部分をトーラ(Torahヘブライ語で律法を意味する)と呼びました。
 
 第二は「歴史書」です。
「イイスス・ナウィン(ヨシュア)記」「士師記」「ルフ(ルツ)記」「列王紀1(サムエル上)」「列王紀2(サムエル下)」「列王紀3(列王紀上)」「列王紀4(列王紀下)」「歴代志上」「歴代志下」「1エズドラ(エズラ)」「エズドラ(エズラ)」「ネヘミヤ」「エスフィリ(エステル)」「ユディフ(ユディト)」「トウィト(トビト)」「1,2,3マッカウェイ(マカバイ)」。
 歴史的に旧約聖書に含まれてきた他の二つの文書は「2エズドラ(エズラ)」と「4マッカウェイ(マカバイ)」です。「2エズドラ」はギリシャ語訳旧約聖書には一度も含まれたことはありません。また「4マッカウェイ」は七十人訳の古代の写本のあるものには含まれています。この二書はいずれも正教会では正典とは認められていません。これらの「歴史書」は紀元前十二世紀から紀元後一世紀にかけて書かれ、紀元前十三世紀からハリストスの時代に至るまでの古代イスラエル人たちの歴史をたどっています。
 
 三番目は「知恵文学」です。
「イオフ(ヨブ)記」「聖詠(詩編)」「箴言」「伝道の書」「雅歌」「ソロモンの知恵書」「シラ書」。
 知恵文学は、幸福は神への信仰と従順によってのみ可能であることを詩的に、哲学的に、また神学的に述べています。これらの文書は紀元前十一世紀から紀元前一世紀にかけてまとめられました。
 
 最後の四番目は預言書です。
「イサイヤ(イザヤ)」「イエレミヤ(エレミヤ)」「哀歌」「イエレミヤの書簡」「バラク」「イエゼキイル(エゼキエル)」「ダニイル(ダニエル)」「オシヤ(ホセア)」「イヲイリ(ヨエル)」「アモス」「アウディ(オバデヤ)」「イオナ(ヨナ)」「ミヘイ(ミカ)」「ナウム(ナホム)」「アウワクム(ハバクク)」「ソフォニヤ(ゼパニヤ)」「アッゲイ(ハガイ)」「ザハリヤ(ゼカリヤ)」「マラヒヤ(マラキ)」。
 これらの十九書の大部分は紀元前八世紀から紀元前四世紀にかけて書かれています。しかし、ダニイル書とバラク書は時代が下り紀元前二世紀頃に書かれた可能性があります。旧約聖書の預言書の中心的テーマはメシアの到来と「神の国」の預言です。
 
 七十人訳の文書の中でヘブライ原典に含まれないものは次の通りです。
「1エズドラ」「ユディフ」「トウィト」「1,2,3マッカウェイ」「ソロモンの知恵書」「シラ書」「イエレミヤの書簡」「バラク」「聖詠151」「マナシア(マナセ)の祈り」、エスフィリ記の一部とダニイル書の一部
 これらの文書の正典性については、初代教会時代すでに疑問に付されたことがあり、その後もキリスト教徒の学者たちは論議をくり返してきました。注目すべきことは、新約聖書の中には七十人訳からの引用が多数ありますが、「長い」カノン中の議論のある部分からは一つとして引用されていません。しかし、多くの初代教会の聖師父たちが七十人訳全体を神の霊感を受けた書として認めてきたことも、銘記しておかなければならないことです。それ故に、時を経るにしたがって正教会は七十人訳の議論のある文書を「第二正典」、すなわち「正典に準じる正典性をもつものであり、他の旧約聖書文書より低い位置に立つもの」*7として受け入れるようになりました。
 ローマ・カトリック教会も基本的には正教会と同じ見解ですが、「1エズドラ」「3マッカウェイ」「聖詠151」「マナシヤの祈り」を「第二正典性ももたないもの」として受け入れていません。したがって、これらの文書はローマ・カトリック教会が編纂した旧約聖書からは除外されています。
 プロテスタント教会は旧約聖書の権威ある版としてヘブライ語原典を受け入れてきました。プロテスタントの間ではギリシャ語訳旧約聖書の議論のある文書は「アポクリファ」(正典性を持たない、疑わしい、という意味)として知られています。プロテスタント教会が編纂した聖書では、アポクリファが旧約と新約の間に特別な部分を設けてそこに収めてあるもの、また、巻末にまとめられているものが見受けられますが、ほとんどの版ではまったく収録されていません。
 
〔解説・補論〕
この点については、講師が神学校時代に「比較神学」で用いたエプファノビッチ著「比較神学」(上田将訳)では、「第二正典」という考え方は正典と「議論のある文書」(旧約外典)を同等の価値を置くローマカトリック教会の誤った考え方であると批判しています。『正教会は、ローマカトリック教会とは異なり、「入典書」(正典)と「不入典書」(外典)の価値の違いをわきまえており同一視をしない。たんに「正典」と呼ぼうが、「第二正典」と呼ぼうが正典と見なしていることにかわりはないので、正教会は第二正典という呼び名はとらない。その点、ローマ教会は自己矛盾を来している。正典に第一も第二もあろうはずはないので「第二正典」と呼ぶのは暗に価値の違いを認めていることになり、同等の価値を持つとするローマ教会の公式見解と不整合を生じている』と主張しています。
 
四世紀前半のアレクサンドリアの主教聖大アファナシイはその「祭日についての第39書簡」で聖書の正典を列挙した後に次のようにいっています。「…此等の外他に成典に編入せられざるも諸父が新進者及敬虔の言にて啓蒙せられんと欲する者に読むべきものとして定めたるの書あり、即ちソロモンの智慧書シラフの智慧書エシフィリ記イウディフ記及トウィヤ記並に使徒の教訓(2)と稱するもの及牧師書是なり。(「聖規則書」)
 
 旧約聖書の場合とは異なり、プロテスタント、ローマ・カトリック、正教会は新約聖書を構成する二十七の文書の数と順序について一致しています。紀元五十年から百年頃の間に、新約聖書の全文書は、ハリストスの使徒たちであるマトフェイ(マタイ)、イオアン(ヨハネ)、パウェル(パウロ)、また彼らにきわめて近しく忠実な同労者マルコ、ルカ、イアコフ(ヤコブ)、イウダ(ユダ)によってギリシャ語で書かれました。それらの文書は、ハリストスというお方(位格)とそのお働きの目撃証言であり、またその神学的解釈となっています。すでにお話したように、新約聖書全体のメッセージは、ハリストスへの信仰を通じて、人は神と和解し、無知と罪と死の力から救われるというものでした。
 
 二世紀の中頃までに、イイススの生涯と行跡について非常に多くの文書が書かれました。その内のあるものは空想的で信頼できないものだったので、教会は、ハリストスの救いについての使徒たちのメッセージを正しく保持し伝えてゆくために、使徒たちに由来する権威を持つ文書と持たない文書を明瞭に区別しなければならなくなりました。その結果、今日私たちが知る新約聖書の正典(カノン)が確定されたのです。初代教会では、黙示録、エウレイ(ヘブライ)書、イヤコフ公書、ペートル(ペテロ)公書、イオアン公書。イウダ公書の正典性について議論がありました。しかし、五世紀までに、これらの文書は四福音書、聖使徒行実、パウェルの書簡とともに、その成立が使徒的であり、神の霊感に溢れていること、すなわち正典であることが教会によって認められました。
 
〔解説・補論〕
今日の四福音書を正典(カノン)としてハッキリと示したのは二世紀のイリナイ(エイレナイオス)と言われます。また、書簡、黙示録も含めた今日見られる新約聖書正典のリストは、上述の聖大アファナシイの書簡に見られるものがもっとも古いといわれています。
 
 新約聖書の二十七の文書は四つの種類に分けることができます。
 
 新約聖書はマトフェイ、マルコ、ルカ、イオアンによる四つの福音書から始まります。福音書はハリストスの生涯における主要な出来事を詳しく述べ、「ハリストスによる救い」の福音(善き知らせ)を宣言します。学者たちは各福音書の執筆年代を次のように推定しています。「マルコ」は紀元六十五年ごろ、「マトフェイ」と「ルカ」は七十年頃、「イオアン」は八十五年から九十年頃です。
 
 第二はルカによって七十年頃書かれた「聖使徒行実」です。この書は第一世紀の教会の設立と成長の歴史であり、主の昇天(30年頃)から、パウェルの伝道旅行(47〜56年頃)を経て、パウェルのローマでの最初の軟禁生活(56-61年頃)に至るまでの教会の発展をたどります。
 
 第三は書簡です。新約聖書には二十一の書簡が収められています。その内の十四通はパウェルが書いたものとして伝えられてきました。
「ローマ書」「コリンフ(コリント)前書」「コリンフ後書」「ガラティヤ書」「エフェス(エペソ)書」「フィリップ(ピリピ)書」「コロサイ書」「フェサロニケ(テサロニケ)前書」「フェサロニケ後書」「ティモフェイ(テモテ)前書」「ティモフェイ後書」「ティート(テトス)書」「フィレモン(ピレモン)書」「エウレイ(ヘブル)書」
 
〔解説・補論〕
今日の聖書学の研究の進歩により、これらの書のうちの幾つかがパウェル自身の書ではない、また断定できないとされています。今日、どのような立場に立つ聖書学者も一致してパウェルの書であると認めているのは、次の諸書です。
ロマ書、コリンフ前書、コリンフ後書、ガラティヤ書、フィリップ書、フェサロニケ前書、フィレモン書。
 
 残りの七通の書簡は、それらが特定の教会(たとえばローマ教会やガラティア教会)や個人(たとえばティモフェイやティート)に宛てられたものではなくすべての(普遍的、公同的〔カトリック〕な)キリスト教徒の共同体に宛てられているところから「公同書簡」として知られています。
「イアコフ(ヤコブ)書」「ペートル(ペテロ)前書」「ペートル後書」「イオアン(ヨハネ)第一公書」「イオアン第二公書」「イオアン第三公書」「イウダ(ユダ)書」
 パウェルの書簡は紀元五十年から六十七年頃にかけて書かれ、公同書簡は六十年から百年の間に書かれました。
 新約聖書の書簡はキリスト教信仰の道徳的なまた教義的な内容を提示しています。これらの書簡の執筆者たち(パウェル、イアコフ、ペートル、イオアン、イウダ)は、第一世紀の中頃までに地中海世界の各地に生まれたたくさんのキリスト教徒共同体に善き秩序と正統な信仰が保たれることを願って、これらの多くの書簡を送ったのです。
 
 四番目は「黙示録」です。黙示(apocalyps)という言葉は歴史の終末への預言を特徴づけるために用いられ、まさに新約聖書の黙示録はそのような終末預言の書です。きわめて象徴的な言い回しで、ハリストスの再臨、最後の審判、神の国の究極的な完成の幻像を描写します。この幻想的な書は紀元一世紀の最後の十年間の間に書かれ、伝統的に聖使徒イオアンの執筆であるとみなされてきました。
 
 聖書が、これまで見てきたように旧新二つの「契約(testament)」に分かれていても、伝統的なキリスト教は常に聖書の啓示の一貫性を強調してきました。旧約聖書も、新約聖書もともに聖神(せいしん)(聖霊)による霊感を受けて書かれ、ともに人類の救済についての神のご計画を主題とし、また宣言し、ともに来るべき神の国の到来を待望しているという点で、同一です。聖書は一つの啓示を二つの段階に分けて示しているのです。この二つの段階を統一する鍵はイイスス・ハリストスです。このお方こそ、書き記された神のみことば全体の中で啓示される神の人類救済計画の中心におられる方です。キリスト教徒の観点からは、「旧約」とはメシアの到来、人類の救済を実現されるハリストスの約束であり、その到来への準備でした。そして、新約聖書は、ナザレト(ナザレ)のイイススをハリストスとして告知することにより、旧約聖書の救いのメッセージが成就されたことと、イイスス・ハリストスにあって、また彼を通じて、神は人類と世界を救ったという宣言です。
 
〔解説・補論〕
旧約と新約の統一性、またそれつなぐ糸としてのハリストスについては、カリストス主教「正教徒は聖書をどう読むべきか」
http://www.orthodox-jp.com/nagoya/htrb.htm
に詳論されています。またこのウェア主教の小さなリーフレットは私たちが聖書に触れる際の精神性をたいへん説得力豊かに教えてくれる好著です。
 
 
神の霊感と、聖書の不可謬性
 既に見てきた通り、聖書はたくさんの文書を集めた一つの書物、聖なる文書の集成、ないしは図書館とも言えましょう。聖書に収められている諸文書はいろいろな時代に、いろいろな場所で、いろいろな執筆者によって書かれ編集され集積されてきました。しかし、正教会はこの文書集を、神と人と世界についての真理の真正にして権威ある(すなわち「カノン的」な)啓示として尊重します。聖書は書き記された神のみことばであり、「神の人類への啓示の至高の表現」*8です。
 聖書の諸書は人によって、すなわち旧新約の聖人たちによって書かれましたが、彼らの記述を導いていたのは神の霊感でした。正教会の観点からは「聖書全体が神に霊感を与えられています」。これは「神と人と世界の関係について聖書が語るところには基本的な誤りも矛盾もない」*9ということです。恵み深い神は悪魔の支配のもとに堕ちた人類をそこから救うためにハリストスにあって、またハリストスを通じて働いたという聖書全体のメッセージは、誤り得ない真理です。正教会の不可誤謬性の教理から言えば、教会は全体として「神からの永遠の霊的、教義的メッセージの守護者」*10であり、聖神によって誤りから守られています。それ故、神の啓示した救済計画についての教会による証言と宣言としての聖書には、その中心になる神学的主題と主張について誤りはあり得ません。
 しかしこれは、聖書の一言一句が文字通り真理であると主張しているのではありません。正教の立場に立つ学者たちの多くは、「本質的ではない部分で偶然的な不正確さが」*11聖書にはあり得ると認めています。たとえば、ダニイル書の著者はワルタサル(ベルシャザル)をワヴィロンの王として、またナワゥホドノソル(ネブカドネザル605-562BC)の息子として述べていますが、実際はワルタサルはナボニダス王(556-539BC)の息子であり、父が不在の時に総督をつとめてはいますが一度も王にはなっていません(参照ダニイル5:1-31)。もう一つ例をあげると、創世記第一章の天地創造物語では「世界は蒼穹と呼ばれる釣り鐘型のかたい防御壁によって支えられた水の層に包まれている」*12ことが仮定されていると多くの学者たちは考えていますが、現代の科学からみると確かにこれはとても風変わりな世界観です。しかし、この類の歴史的また科学的な不正確さは、聖書の本質的な神学的メッセージの一貫性と有効性を損なうことはありません。正教会は聖書の記述を支える神の霊感とその不可謬性を語るに際し、聖書には幾つかの些細な誤りがあり得ることを否定しません。しかし、聖書の救いのメッセージ全体の絶対の真実性に関しては疑問の余地のないものと信じます。
 
聖書の解釈:聖書と聖伝
 正教会はみずからをニケア・コンスタンティノープル信経が告白する「一つの、聖なる、公なる、使徒の教会」、使徒たちを通じてハリストスによって立てられた信仰共同体(マトフェイ16:13-20、18:15-20、ペートル前2:4-10)、「新たなるイスラエル」として信じます。主教たちの役割と権威はハリストスの使徒たちから歴史的に継承されてきているとし(「使徒承伝(Apostric succession)」の考え方)、主教たちの教会治理(統治)上の、また霊的なリーダーシップのもとで、教会はその伝統的な生活と体験(「聖伝」)を、使徒たちが伝えたものの忠実な保存、継承、展開であると見なします。聖伝とはハリストスによって使徒たちに与えられ、使徒たちによって後の世代に受け渡されていった霊的な遺産なのです。正教の信徒であるということは、正教会の聖伝を「キリスト教の伝統そのもの」として受け入れ、正教会を神に指名されたキリスト教信仰の守り手、教師として理解し、ハリストスとその使徒たちの生きた継承者、その代表者である主教たちの霊的な権威と導きのもとで生きることです。
 
 正教会の信仰は体験的な生きた信仰です。その信仰は、神は、ご自身とその救済計画を旧約と新約の選ばれた民に、すなわち古代イスラエル民族とキリスト教共同体に啓示したという確信を土台としています。正教信徒は、神はご自身を、ご自身の民の生活と体験の中で、すなわち教会の聖なる伝統(「聖伝」)のうちに、臨在させ知らしめてきた、また知らせ続けておられると信じています。聖伝は正教信仰表現の生きた展開であり、神の恩寵と愛の体験の深化であり、それらへの応答です。聖伝はたんなる書かれた文書の集積、一連の教義的信仰告白、教会習慣の寄せ集めではありません。トマス・ホプコ神父によれば、それは「地域から地域へと、世代から世代へと伝えられていった教会全体の生活と体
験のすべて、聖神に息吹きを与えられ導かれてきた、まさに教会の『いのち』」*13です。教会の聖なる伝統の内に生きるということは、その神の民の中心に神、すなわち父と子と聖神の現実性と臨在を体験することです。
 
 聖伝は外面的な様々なかたちによって、明確に示されてきました。その第一の規範となる明示は聖書そのものに見出されます。聖書は「書き記された信仰の源泉と、時代を追って展開されていった神の霊感として最も主要な」*14ものです。聖伝のその他の具体的な表現は、教会の奉神礼とその祈祷文、ニケアコンスタンティノープル信経、四世紀から八世紀にかけて開催された七回の全地公会での教義的決定、教会の聖師父(それぞれの時代の中でキリスト教信仰を説明し擁護してきた偉大な神学者や霊的教師)たちの文書、全教会に受け入れられてきた地方教会や個々の主教たちの宣言、教会の聖規則、信仰に表現を与えるためのたゆみない努力の実りとして「イコン」などの教会芸術です。聖伝のこれらの外的な表現を通じて、正教会はハリストスと使徒たちから委託された信仰を保存し、守り、宣言しようとつとめてきました。
 
 聖書は教会の聖伝の一部です。教会の生きた体験と神に対する忠実な応答の一部です。聖書と聖伝はキリスト教信仰の二つの異なった源泉ではありません。聖伝は聖書の源泉なのです。聖伝は、聖書をその一つの表現とする信仰の伝承です。聖書は聖伝のなかに存在し、そこに生き、その意味を表します。聖書と聖伝を切り離し、個別に取り扱い、対照的に考えることは、「両者の意味をともに貧しくして」*15しまいます。書き記された神のみことばの完全な意味は、教会の信仰の歴史的な展開とその表現、また聖伝全体の指し示すところからのみ説明できるものです。
 
〔解説・補論〕
おおざっぱに、プロテスタント教会は「聖書のみ」、ローマ・カトリック教会は「聖書と聖伝」、正教会は「聖伝」をその信仰の拠り所とするとよく言われます。
 
 聖伝の中で聖書はその存在を与えられました。したがって、その同じ聖伝の中で聖書は読まれ、解釈され、理解されなければなりません。そして、既に見たように、聖伝は教会の「生活と体験の全体」です。だからこそ教会は聖書の唯一の権威ある解釈者です。ハリストスは教会の設立者でありその「かしら」、教会はそのハリストスの体です(エフェス4:1-16、5:21-33)。これはハリストスが聖神の働きを通じて教会に生き、教会に息吹きを与え、教会を導いていることを意味します。ハリストスは教会にあって、そして教会を通じて「聖書の正しい解釈」と同時に、聖伝の他の諸側面についての解釈を提供します。「聖書の適切な解釈がなされ得るのは、教会の生きた伝統とそこにあるハリストスの霊の直接的な息吹きの中でのみ」*16なのです。だからこそ正教信徒は聖書を教会の伝統的かつ生きた信仰の光の中で読むためにあらゆる努力を惜しんではならないのです。できるだけ全面的に、できるだけ忠実に教会生活に入り込むこと、すなわち教会の奉神礼や機密に規則的に与り、たえず熱心に祈り、聖伝のさまざまな側面、特に教会の偉大な師父たちの書を勤勉に学ぶことを通じて、正教信仰全体の精神性と教義的内容に一致し、またそれらを表現する聖書理解を求めなければなりません。正教信徒の聖書の真理への解釈はたんなる個人的な解釈であってはならないのみならず(2ペトル公書1:20)、聖伝の中に表現された教会の精神に調和するものでなけれななりません。
 
〔解説・補論〕
・そういう意味で祈祷書は私たちにもっとも身近な聖書注解書と言えるでしょう。
・「できるだけ全面的に」について具体的に教えて欲しいという受講者のご質問をいただきました。もちろん、聖体礼儀を始め教会の奉事に欠かさず参加すること、斎や祭りの意味を理解しそれを守ること、生活の重要な場面では機密によって神の恵みを受けることなどはきわめて大切なことです。しかし、もっと大切なことは、自分の生活の中の一つの大切な部分として「信仰生活」「教会生活」をとらえるという見方から、「自分の生活全体を正教の信仰生活」ととらえ、職業生活も、学校生活も、近隣社会での生活も、趣味生活でさえ…、あらゆる生活の局面が「信仰生活・教会生活の表現」「ハリストスのよみがえりのいのちの伝達の場」であるという見方に転換することです。言うはやすしで実際に実行するのはなかなか大変なことですが、このような意識に貫かれた体験の積み重ねこそが信仰生活の深まりをもたらし、自己中心的な「我」(自我)を脱ぎ捨ててゆき、正教徒としてのほんとうの主体性(人格)を形成していくことになるのではないでしょうか。

*1Kallistos Ware, The Orthodox Church(Penguin Books,1972)p209
*2前掲書p204
*3前掲書
*4George Florovsky, Bible,Church,Tradition:An Eastern Orthodox View(Nordland Publishing Co.,1972) p9-16
*5Georges A.Barrois, The Face of Christ in the Old Testament(SVS Press,1974), p19
*6Ware, The Orthodox Church, P208
*7前掲書p209
*8前掲書p207
*9Thomas Hopko,The Orthodox Faith,vol3:Bible and Church History(O.C.A.Department of Religious Education,1973)p5-6
*10前掲書p5
*11前掲書
*12Raymond E.Brown,et al.,eds.,The Jerome Biblical Commentary,vol.2:“The New Testament”(Prentice-Hall 1968)p512
*13Hopko,The Orthodox Faith,vol.1:Doctrine,"2nd.ed.(Orthodox Church in America,Department of Religious Education,1976)p12
*14前掲書
*15Ware,The Orthodox Church, p205
*16Hopko,Bible and Church History,p9