終章 聖書のメッセージ

 

 私たちは聖書全巻の詳しい検討を一通り終えました。最後に、その内容とメッセージを簡単に要約しておきましょう。

 

 教会の聖伝では聖書は救いの書です。律法書、歴史書、知恵文学、預言書によってなる旧約聖書を通じて、またイイスス・ハリストスの救いの「福音」の啓示、初代教会の記録、イオアンの終末についての黙示によってなる新約聖書を通じて、救済史の全体が私たちに示されます。救済史とは、人類と世界を悪の力から救うための、また神の国における人と世界の究極的な栄化を実現するための神の計画に他なりません。

 

 創世記の最初の諸章は、神の人間に対する本来の計画を教えます。聖書は男と女は神のかたち(像)に、神の似姿(肖)として創造され、神は人類に地とそこにあるすべての物を治めさせようとしたことを伝えます。神の像とは神との完全な交わりへの可能性です。神の肖とはその可能性の実現です。このように人は、神との一致(神化、テオシス)へと成長するために創造され、被造物の筆頭者として全宇宙を自らと共に神に献げることを使命として与えられたのです。

 

 創世記の最初の諸章はまた、人はその自由意志によって、神から差し出されたご自身との恵み深い交わりを拒否し、自分自身の意志に従い、神の愛と意志を拒絶することを選んでしまったことを伝えます。これが人類の堕落です。第3章でアダムとエヴァが禁じられた木の実を食べてしまったことは、この堕落の象徴です。人は神の肖となる可能性を失いました。人はいのちを与える神の臨在から離れてしまったために、人を真に人として生かす神の本性を分かち合うことができなくなってしまいました。この堕落の結果、人は悪の支配に服し、霊的な盲目、そして死と罪を自らに招き入れてしまいました。

 

 旧約聖書はイズライリ民族の歴史を通じて、この堕落した人間のあり方を衝撃的に描出します。創世記の最後の部分に伝えられる、イズライリ民族がエギペトで奴隷状態におかれた事件、出エギペト記に伝えられる荒野の彷徨、イイスス・ナウィンによる約束の地の回復のための戦い、国家存続のために繰り返された士師たちを指導者とする戦い、二つの王国の被った艱難、サムイル記・列王記・歴代志に記されている王国の崩壊と流浪と捕囚、これらすべてが、罪と悪に支配された世界での、人間の絶望的な状況と、よるべないあり方を明らかにしています。人類の一員として、古代イズライリ民族は私たち同様、またあらゆる時代のあらゆる人々と同様、神にのみ愛と従順をつくさねばなりませんでした。しかし、人類は皆この世と肉と悪魔の誘惑に屈しました。人は神ではなく自己を愛しました。このように人類は神の臨在と生命から切り離され、神の愛と意志を無視し、悪と死と罪の支配に完全に服したのです。

 

 しかし神はその堕落した被造物に対しても恵みを注ぎ続け、究極的な救いの約束を与えました。創世記では、アダムとエヴァは楽園から追放された後、神から皮衣を着せられました。これは彼らは依然として神の愛の計らいの内にいたことを意味します。創世記はまた神が人に与えた二つの契約を記録しています。悪がどれほど世界に広がっても生命を滅ぼすことはもう決してしないという神の約束のもとで「ノイの契約」が結ばれました。そして「アウラアムとの契約」では、神はアウラアムの子孫をご自身の民として選び、そこから人類を救うメシヤを生まれさせると約束しました。この契約がモイセイとの間で更新された時、神はご自身の民に神との愛の交わりを結ぶために守らなければならない戒め、「律法」を啓示しました。さらに神は旧約聖書の記者たちに霊感を与え、彼らの言葉を通じてご自身の民へ、どのようにご自身の名をたたえるべきかの教え(たとえば「聖詠」)、律法を実際にどのように守ってゆくべきなのかについての教訓(たとえば「箴言」)、堕落した世界の不正と悲惨を理解させるための導き(たとえばイオフ記、「伝道の書」)を与えました。そして最後に神は、堕落したこの世の闇の中に真理の光を語り、やがてこの世の力から人類を解放するという偉大な約束を示すために預言者たちを遣わしました。

 

 ご自身の民への神の摂理的な配慮(照管)を顕すこれらのしるしは、全て神の聖性の顕れです。神は人に、これらのしるしに聖性をもって応えること――神への完全な愛と律法への絶対の従順――をお求めになります。(「あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」レヴィ記19:2)。これらの聖性は人が神の臨在の完全さの中に入ってゆくための必要条件です。しかし一方で聖書は、人が自らの努力によっては神の愛と神との交わりにふさわしい者へ高まっていくことはできないということを証言しています。神は何度も選民を敵の手から救いました。ご自身の真実と愛と聖性を何度も彼らに啓示しました。何度も預言者たちや知恵者たちに霊感を与えて、人々が捨て去った真理へと立ち帰るよう呼び掛けさせました。しかし、人類は悪魔の罠に落ち続け、神に背を向け偶像を拝し続けました。その偶像はある時は木や土でできた文字通りの像であり、ある時は自己愛、プライド、自己の利益でした。ここにあるメッセージは明快です。人は、堕落したため完全に道を見失い、根本的な救いが必要となったということです。堕落した人間は救い主を必要とする、すなわち神ご自身による救いを必要とします。

 

 旧約時代から示し続けられた神の聖性の顕現は、ナザレトのイイススにおいて成就しました。イイススは律法の教えに完全に従う唯一の人間です。彼自身が神の永遠の知恵です。預言者たちに霊感を与え、彼らの預言を実現する者です。イズライリの選ばれた民に約束されたメシヤ、全ての国々を照らす光です。

 神と人との「新しい契約」の書である新約聖書は四つの福音書から始まります。すでに学びましたが「福音」という語は「よい報せ」という意味です。その「よい報せ」とは、神の「子」(神の「ロゴス」「みことば」)が人類を至聖三者との交わりに立ち帰らせるために「人となった」ということです。福音書は、神ご自身がどのように、その「子」の藉身によって、人の苦しみと艱難を背負い、堕落した被造物のために完全な愛を注いで十字架の死を忍び、私たちの罪の贖いをなし、三日目の復活によって罪とその結果を滅ぼしたかを証言しています。そして今、神の子の藉身、その生涯、死、復活、昇天、父の右の座への着座、再臨によって、人は闇の力から、悪と虚無から、「罪と死の法則」から、霊的な無知と死と罪から解放されることができるのです。

 

 イオアン福音書に伝えられる「告別の説教」で、ハリストスは弟子たちに、彼らを真理に導く聖神、「慰むる者」を遣わすことを約束しました。そして、聖使徒行実の最初の幾つかの章はこの約束が果たされたことを伝えます。五旬祭の日、「火の舌のかたち」で聖神が最初のクリスチャンの共同体に降りました。人は、「ハリストスにある」全ての者に与えられるこの聖神の賜物によって成聖され、道徳的、霊的に神の似姿を実現してゆくという本来の使命の遂行を再開します。「子の経綸」と「聖神の経綸」によって、人は神と和解し、この和解を基礎にして、神の子としての究極的な「栄化」を受け取り、神のいのちの完全さを分かち合う者となることができます。ハリストスへの信仰と聖神の働きによってのみ、男も女も神と和解し、イイススが世の終わりに再臨して生者と死者を裁くとき、永遠の断罪を免れることができます。

 

 神は子の伝道、聖神の働きによって私たちに救いを差し出しました。しかし、この差し出しは「自由な」者としての私たちに向けられています。その救いと栄化を実現は、私たちが自由意志でその差し出しを自らの人生に受け入れるかどうかに掛かっています。聖使徒行実と使徒の書簡によって初代教会に向けて証された使徒たちのメッセージは、私たちは差し出された救いを「生き」、畏れつつ戦慄しつつ、至聖三者を恃み、その救いを実現しなければならないということです。私たちはこの救いを自分のものにしなければなりません。救いのために示された神の憐れみと愛に、自由に決然として、応えなければなりません。救われるためには、私たちはまず最初に、自分が神から罪深くも遠く離れてしまったことを認め、私たち自身の力では神に対して正しいものとして立つことはできないことを認識しなければなりません。堕落の結果、人が行うあらゆる自力救済の試みには希望も実りもありません。それゆえ私たちは、神が人のためにハリストスにあってなし遂げてくださったことを、信仰によって受け入れなければなりません。聖神の助けを得て、ハリストスを己の人生の「主」、「主宰」として服従しなければなりません。これによってのみ、私たちは神に対して正しいものとして立つことができるようになり、神の子としての条件を回復します。

 

 神の救いは人格的に、また自由意志を持って決然と受け入れられた信仰をもとに、イイススを主と承認する者たち、また絶え間ない痛悔と神の意志への従順によって主イイススに服従する者たちに訪れます。しかしハリストスへの従順と神の意志への服従は、自己の存在のすべてをあげてハリストスの体の一部分となることを意味します。天の王国の門はイイスス・ハリストスによって、その藉身と救いと和解のわざを通じて開けられました。しかし、この門を通って入っていくためには、堕落した私たちは神聖神の賜物を受け入れなければなりません。最初、この賜物は決して一人一人のクリスチャンに与えられたのではなく、クリスチャンの共同体――教会――全体に贈られたものでした。それが今は、教会の生活を通じて、また教会の生活の内で各人に与えられます。「ハリストスの体」の機密的、道徳的な働き、そしてその祈りの生活を通じて、クリスチャンは再生され、教化され、究極的には聖神の力と内在によって栄化されます。少数の例外を除いて(たとえば教会の主教としてのティモフェイやティト)、新約聖書の書簡はほとんどのものが特定の教会や教会全体に向けて書かれています。黙示録も元来はその中で触れられている七つの教会に向けて書かれたものです。現代の学者たちは、福音書そのものも特定の主要な教会共同体のそれぞれの歴史的成り立ちの中で構成されたものであることを明らかにしています。神の救いは「ハリストスの体=教会」を仲立ちにして私たちに届けられます。そのように教会はこの世を救うサクラメントそれ自体であり、それによって人が神の働き(エネルギイ)と至聖三者のいのちへとあげられていく「恩寵の目に見える手段」なのです。

 

 あらゆる時代へと受け継がれてゆく教会の生活の連続性は、その聖伝によって確かなものとして守られます。まず口伝えによってハリストスの言葉と行いが注意深く保存されました。これは聖伝の働きです。また聖伝は、ハリストスについて書かれたさまざまな記録全体に調和を与えました。また、聖伝はあらゆる時代の全ての信徒の教化と成聖のために、新約聖書を世代から世代へと受け渡してきました。このように、聖書と聖伝の間にはいかなる対立もありえません。そもそも新約聖書はそれ自体、まず最初に、そして規範として、教会の聖伝が明確に表現されたものです。第二に、しかし同様の重要性をもっていることですが、この聖伝を知り、それに忠実たらんとする人は誰でも、何よりもまず聖書に向かい、間断なく読み、かつ学ぶでしょう。その言葉を心に宝として蓄え、それらの聖なる言葉を教会の兄弟姉妹と共に、教会の奉神礼の中で、また教会における信仰生活を一貫して唱え歌うでしょう。

 

 要約すると、私たちの救いは、私たちが信仰によってハリストスと一つになることです。信仰を通じて、人はハリストスのいのちに入ります。それは神のいのちであり、聖神の恵みによって教会という体の完全さの中で生きられるものです。聖神の恵みによって、人はハリストスの完全さのイメージに向かって、道徳的、霊的に成長する力を受け取ります。救いへの神の招きを自由にかつ人格的に受け入れることによって、私たちの一人一人は悪と罪と死のなわめから解かれます。教会の生活を通じて、私たちは子を通じて、聖神の内にあって、神との交わりに入ってゆきます。教会の聖なる諸巻に明らかにされ、その聖伝によって世代から世代に伝えられ続ける神の救いの経綸は、私たち一人一人を、「神の性質にあずかる者」、至聖三者の光栄溢れる働きといのちを分かち合う者、「神の生けるイコン」へと成長させてゆきます。