◆第6世紀◆


ディオニシウス・アレオパギト

 聖使徒パウェルの弟子ディオニシウス・アレオパギト(使徒行伝17:34)の名を冠して書かれたいくつかの著作が六世紀にあらわれました。これらは四、五世紀の全地公会で定められた教義への賛成者も反対者も、ともに受け入れるものとなり、その礼拝儀式への象徴的な説明によって、奉神礼に対する教会の姿勢に大きな影響を与えました。そこで展開される「神秘神学」は、神は人間の理解を絶対的に越えたものであり、神ご自身はその創造された一切のものと完全に異なること(他者性)を強調します。
 ところが、そこにあった一つの考え方が、七世紀の教会に重大な混乱を引き起こしました。

「ディオニシウス」文書は次のように教えていました。
 「イイスス・ハリストス、人となった『神の子』は、その人性と神性の、異なった活動と作用を完全に結合した『一つの神人両性的な意志と活動』を有している」
 この教えは、ハリストスは唯一の神人両性的意志を持っているという意味で「単意論」、またハリストスは唯一の神人両性的な活動・作用・働き(エネルギイ)を持っているという意味で「単勢力論(monoenergism)」と呼ばれました。この教えは、これによって単性論者たちの分裂の問題は解決し、彼らを再び正統教会に引き戻せるだろうと考えた人々から歓迎されました。

 実際、単性論者たちは偽ディオニシウスの著作を高く評価していました。これらの著作の匿名の著者自身おそらく単性論者だったでしょう。しかし、この新しい教義は、五世紀半ば以来正統教会を離れた人々を引き戻すことはできませんでした。表信者聖マキシマス(†662)とローマ教皇聖マルティヌス(†655)が強硬に反対したからです。

表信者聖マキシマスと聖マルティヌス

 この二人はともに、彼らを強く支持する人々とともに、「イイスス・ハリストスは、ちょうど彼が一つの位格(ペルソナ)のうちに二つの異なった別々の本性(神性と人性)を持っているように、二つの異なった別々の意志と活動を持っていなければならない」「マリヤの唯一の子である神の唯一の子は、神と人として別々に意志し活動する」と主張しました。
 
 ハリストスは完全な神の意志、働き、活動、作用、そして神父と聖神の持つものと同じ力をお持ちです。またハリストスは、完全な人間の意志、働き、活動、作用、そしてすべての人間が持つものと同じ力をお持ちです。「救い」は、イイスス・ハリストスが、真の人間として、自由に自発的に、ご自身の人間としての意志(この意志は私たちすべての人間が持つ意志と何ら変わらない)を、神としての意志に従わせたことにあります。神である「神の子」が真の人間的意志を持ち真の人間となりました。これは、ハリストスご自身が、真の人間として、御父に自発的に服従することによって「すべての義を完全に成就する」ためです。イイスス・ハリストスが新しいアダム・最後のアダムとしてすべての人々を罪と死から解放したのは、まさにこの、彼の真正なる人間としての行為によってなのです。

 単意論を単性論者の教会復帰に利用しようとした帝国権力は、「単意論」という妥協策に真っ向から反対したマキシマスとマルティヌスを厳しく迫害しました。マキシマスは投獄され、拷問され、舌を抜かれ右手を切断されました。マルティヌスも流刑されその地で処刑されました。彼は最後の殉教教皇として伝えられています。

第六回全地公会

 しかし最後には、この聖人たちの教えが勝利を得ました。第三回コンスタンティノープル公会議(第六全地公会、680-681)は、彼らの教えを正統的なものと宣言し、逆に単勢力論・単意論を唱えたコンスタンティノープル総主教セルギウスとローマ教皇ホノリウスを、イイススに真正な人間性を認めない誤った考えを擁護する他のすべての者とともに、断罪しました。

神学的著作

 表信者マキシマス(マクシム)は霊的なまた修道的なテーマについても書き残しています。また、エジプトにおける彼の同時代者で、シナイ山の聖カタリナ修道院の修道院長だった階梯者・聖イオアンは、霊的な生き方についての古典的な著作「天国への階梯(はしご)」を、クリト(クレタ島)の聖アンドレイは今日でも正教会で大斎の期間に読まれる痛悔の祈り「アンドレイの大カノン(規程)」を残しました。
 (訳注・マキシマスと階梯者イオアンの著作は平凡社「中世思想原典集成3・後期ギリシャ教父・ビザンティン思想」7800円で抄訳ですが現代日本語で読めます。高い本ですがお薦めです)

イスラム教の勃興

 第七世紀には、預言者モハメッドが迫害を避けメッカへ避難したこと(622、ヘジラ)によりイスラム教の拡大が開始されました。モハメッドの後継者たちが、ペルシャとの長い戦争で疲弊していたキリスト教ローマ帝国を攻略するのには、大した時間はかかりませんでした。
 ちなみに、ペルシャとの戦争の最中、いったん敵に奪われた主の受難した十字架を、ヘラクリウス帝は取り返し、コンスタンティノープルに持ち帰りました。この出来事をきっかけに十字架挙栄祭は全帝国で祝われるようになりました。七世紀の三十年代までは、九月のこの祭りはエルサレムだけで祝われていたのです。

トゥルーリ公会議(Quinisext公会議)

 七世紀の終わり頃(おそらく692年)、コンスタンティノープル宮廷内の「ドームの部屋」(「トゥルーロ」)で公会議が行われました。この会議では百二箇条の規則(カノン)が定められました。これらのカノンは、カノンを定めなかった第五回と第六回の全地公会を補うものと見なされ、Quinisext(5-6)公会議の規定と呼ばれています。
 そのカノンの多くは、それまでの公式の教会法を、ユスティニアン帝が定めた帝国公法(ユスティニアン法典)にあわせて改訂したものです。他は、古くからの教会の習慣や決まりをより明確な言葉で言い表したものです。
 これらのカノンの中には、例えば、既婚の男性は輔祭また司祭に叙聖(神品機密によって任命)されることができるが、すでに輔祭・司祭となっている者が結婚することは許されないというものがあります。また、ユスティニアン時代から定められている独身者だけが主教職をつとめ得るという規則が再確認されました。叙聖されるべき年齢については、輔祭二十五歳以上、司祭三十歳以上と定められ、さらに聖職者がこの世の政治・軍事・経済活動に直接かかわることを禁じた初代からの伝統的な規定が再確認されました。

奉神礼の展開

 トゥルーリ公会のカノンは、復活祭に先立つ四十日間の斎と、その間の週日(ウィーク・デイ)には通常の聖体礼儀は行われず、かわりに先備聖体礼儀(日曜日に聖変化し用意された聖体が分かちあわれる)が行われるべきことを、明確に規定しています(第五二条)。また、主日(日曜)にはひざまづきを禁じ主の復活をたたえて立つことが求められています(第九十条)。さらに一般信徒が聖堂の至聖所に入ること、正教徒と正教徒でない者との婚配機密が禁じられています(第六九条、七二条)。教会で聖歌を歌う者に対しては「秩序を乱すような大声を出したり、教会にふさわしくないいかなるメロディ」を用いることを禁じています(第七五条)。また正当な理由(事故もしくは教会からの参祷禁止)なく、三回続けて主日聖体礼儀を欠席した者は「親与を断つ(破門する)」ことが定められています(第八十条)。最後に、もう一つ紹介しましょう。「避妊薬を与えた者、また妊娠中絶のための薬を服用した者は殺人者としての罰を受けなければならない(第九一条)」。