◆第6世紀◆

ユスティニアン一世と単性論者たち

 6世紀の東方教会を支配していたのはユスティニアン一世(527-65)とその政策でした。
 彼は教会と国家の関係を、聖なるものに関わる「司祭性」と死すべきものを統制する「帝国」の、一致と協力の関係と理解しました。彼の目標は蛮族の侵入によって失われたローマ帝国の西半分を奪還することと、単性論者たちをカルケドン公会で確認された正統信仰に連れ戻すことでした。完全に再結合された「一つの教会・一つの帝国」こそ彼が望んだものでした。第一の目標はベルサリウス将軍の率いる軍隊の活躍によって達成されました。しかし、第二の目標については彼の大胆で根気強い努力も実を結びませんでした。

 単性論者たちを正統教会に連れ戻そうと、ユスティニアン帝は、三人の神学者が異端宣告されるように画策しました。カルケドン公会の支持者たちは彼らに対して好意的でしたが、カルケドンの反対者たちからは嫌悪されていました。544年の帝国布告と553年の公会議(第二コンスタンティノープル公会議・第5回全地公会)の決定によって、ユスティニアンは公式に、いわゆる「三章」を異端宣告しました。「三章」とはキュロスのテオドレトス、エデッサのイバス、モプスエスティヤのテオドロスらの「問題文書」をさします。(注・この三人はネストリウス派に好意的と考えられていた前世紀の有名な神学者たち。帝は単性論派が目の敵にする者たちへの強硬姿勢を示すことによって、単性論派を融和しようとしたのです。テオドレトスとイバスについては文書についてのみの断罪でしたが、テオドロスは人物についても断罪されました。)

 「三章」の異端宣告は、カルケドン公会議を積極的に支持した者たちに不快感を与えました。彼らはこれらの三人の間違った野心的な教えには賛成しませんでしたが、異端宣告を下すいかなる理由も認めませんでした。
 「三章」を異端宣告してカルケドン公会議の決定への単性論からの反対者をなだめようというユスティニアンの努力は、結果的に実りませんでした。反対者たちを再び教会と帝国に復帰させることはできませんでした。

第5回全地公会議

 「三章」への異端宣告に加え、第5回全地公会議は、ハリストスにおける人間性と神性の「位格的結合」を入念かつ明確に定義しました。長い宣言文の最後に、公会議はいささかのあいまいさも交えず次のように宣言しています。
 イイスス・ハリストス、神の子は、至聖三者の一つであり、ご自身の内に神性と人性の二つの本性を、どのようなかたちの混同も分離もなくペルソナ的に(「位格的に」)結合する、一つの同一の神的位格(ペルソナ)である。

 第5回全地公会議はまた、オリゲネス(254没)と彼の6世紀における追随者たちの教えを異端宣告しました。彼らは正統信仰から逸脱した「霊的」な教えと実践をとなえました。彼らは次のように考えました。
 ハリストスは罪によって物質的なものへ堕落しなかった唯一の霊的被造物であり、また人間も元来は純粋な霊的存在であった。すべての被造物は救世主ハリストスの内にあって神による「霊化」を受けて究極的に救われる。
(注・このような物質を悪と見なす二元論的な考え方はキリスト教に本来無縁なものです)

ユスティニアンと改革

 ユスティニアンはまた、帝国内に残存していたギリシャ的な異教に集中攻撃を加えました。アテネの大学は529年に廃止されキリスト教の学問や文化のみが促進されました。
 ユスティニアンは帝国内の都市、とりわけエルサレム、ベツレヘム、エジプトのシナイ山にたくさんの教会建築を建造しました。神の知恵(ソフィヤ)・ハリストスに献じてコンスタンティノープルに造られた巨大な「ハギヤ・ソフィヤ」大聖堂が最も名高いものです。
 イコン、彫刻、モザイクがこの時代に発達しました。蛮族の征服下の西方で、帝国の権威を示していたラベンナに、大聖堂が建てられました。

奉神礼の発展

 この時代には多くの聖歌が作られました。聖歌者・聖ロマンによる、降誕祭のコンダック(小讃詞)をはじめとする聖歌が有名です。ユスティニアン帝自身も「神の独生の子」という聖歌を作りました。今も正教会は聖体礼儀の「啓蒙者の礼儀」でこの聖歌を歌っています。

 6世紀には東方キリスト教世界全体に及ぶ奉神礼式が確立し定着しました。首都コンスタンティノープルでの奉神礼式が帝国内の他の都市にも受け入れられるようになったことが、大きな要因です。また、コンスタンティノープル教会は、キリスト教の中心地であるパレスティナ地方ですでに行われていた祭日を幾つか採用しました。降誕祭、生神女就寝祭、迎接祭です。変容祭がコンスタンティノープルで祝われるようになったのもこの時期のようです。
 首都から全帝国内へ広がっていった祭日に加え、聖体礼儀では儀式化された入堂、トリサギオン(聖三詞)、信経の歌唱が付け加えられました。

 いくつかの要因が重なり合い、奉神礼の儀式と所作に無数の変更が生じました。その要因の主なものは、コンスタンティノープル教会の奉神礼のやり方が他の諸教会の範例となっていったこと、帝国宮廷の儀式の影響、ディオニシウス・アレオパギトの名のもとに書かれた神秘主義神学の出現、単性論者たちを融和させようとする帝国の様々な試みなどでした。

 この時期、コンスタンティノープル教会の奉神礼式は、初代教会のユダヤ人クリスチャンの奉神礼式と、また修道院で発展していた奉事規定(ティピコン)、さらにエルサレム教会の奉神礼式と結合しました。正教会史における最初の大規模な奉神礼的総合といえます。

五大総主教区

 6世紀には、少なくとも東方クリスチャンの精神の中では、ユスティニアン帝が「宇宙の五感」とまで言ったコンスタンティノープル・ローマ・アレキサンドリヤ・アンティオキヤ・エルサレムというキリスト教五大中心地の中で、コンスタンティノープルの「首位」としての立場がしっかり確立していました。
 エキュメニカル(全地の)というタイトルは帝国内の都市のどの主要な行政府にもつけられていましたが、コンスタンティノープルの主教修斎者イオアン(528-95)がエキュメニカル総主教というタイトルを名乗ったとき、その名称はローマ主教・教皇聖大グレゴリイ(590-604)から、教会の牧者としてふさわしくないと強い反対を受けました。このグレゴリイは神学者として、また優れた牧者として名高く、正教会では今日も大斎の平日に行っている先備聖体礼儀の編纂者として伝えられています。

西方

 聖グレゴリイに加え、聖ベネディクト(480-542)とその修道院制は以後の西方教会に大きな影響を与えるものでした。この世紀の聖人たちとして、聖グレゴリイの同時代者である聖コルンバとカンタベリイの聖アウグスティンには触れないわけにはいきません。彼らは蛮族たちの地、ヨーロッパ西部、イングランド、アイルランドへの伝道に働いたことで有名です。

 6世紀のスペインでは、ニケヤ・コンスタンティノープル信経に「フィリオクェ(及び子からも)」という句が付け加えられるようになりました。これは、アリウス派の蛮族たちにハリストスの神性を強調するためのものでしたが、後の教会史に重大な影響を与えることになるものでした。