◆第4世紀◆

コンスタンティン大帝

 第四世紀は初代教会を襲った最悪の迫害「ディオクレティアン帝の迫害」(303-306)で幕が上がりました。いくつかの大迫害の中で、致命(殉教)者の数が最大なのはこの迫害です。

 ディオクレティアン帝が退位すると権力闘争が始まりました。三一二年、コンスタンティンはローマ帝国西方の帝位を競ってマクセンティウスと戦いました。ローマ近郊のミルヴァの橋の戦いに先だち、コンスタンティンは(おそらく)夢の中で、ハリストスの十字架(ハリストスのモノグラム〈組み合わせ文字〉だったと言われます)のついたラバラム(軍旗)と、「このしるしを以て勝利せよ」という言葉を見ました。彼は兵士たちの軍装と武器にこのクリスチャンのシンボルを付けて戦いに勝ちました。コンスタンティンはただちにクリスチャンたちに信仰の自由を許し(ミラノの宗教寛容令312)、さらに教会に多くの特権と利益を与えることによってキリスト教への特別な好意を示しました。コンスタンティンは新しい帝都をビザンティウムと呼ばれていた地に建設しました。この都は彼の名をとり「コンスタンティノープル」と名付けられました。彼自身は死の床でようやく洗礼を受けました(337)。彼は、エルサレムで主のかかった十字架を発見した母のエレナとともに聖人に列せられています。キリスト教は後にテオドシウス(フェオドシイ)帝によって帝国の国教とされました(380)。

教会内の論争

 コンスタンティン時代に教会は没収されていた財産を返還され外部からの迫害は終わりを告げました。しかしすぐに起きたいくつかの内部抗争によって教会の平和は乱されました。

 第一は北アフリカでのドナティストの離教です。これはドナトスという神学者とそのグループによって引き起こされました。彼らは、カルタゴの主教に選ばれたカエキリアヌスを叙聖した主教たちの中に、かつて迫害時代に迫害に屈した者の一人がいたとして、カエキリアヌスの主教叙聖を無効として拒否しました。北アフリカの諸教会は有効とする正統派とドナティストに分かれて争いました。コンスタンティンは問題の解決を教会に委ねる代わりに、自身が論争に干渉しました。彼は最初ドナティストたちの側に、後にその反対者たちの側に立ち、彼の決定を押しつけるために皇帝の権力を用いました。この離教は北アフリカの輝かしい教会一致を破壊し、その後も繰り返される教会の問題への皇帝の干渉という先例を作り上げてしまいました。

 ついでアリウス論争が起こりました。アレキサンドリヤの司祭であったアリウスは人となった「神言葉」・神のロゴス、すなわちイイスス・ハリストスは神性を有する「神の子」ではないと説きました。彼の主張は次のようなものです。「ハリストスは、神によって無から創造された他の被造物と同じく単なる被造物である。神は造られざる聖三者(三位一体)ではない。創造者である父のみが神である。そして、この父なる神が、その被造物たちの中で最初の者、最も偉大な者として「ロゴス」(「御言葉」とも「御子」とも呼ぶ)を創造した。このロゴスは言葉の上でだけ「神のロゴス」と言われるにすぎず、世を救うための神の道具であり、イイススという人間として生まれた。このように、イイスス・ハリストスは「造られざる」方ではない。父なる神と同一の「造られざる」神としての「神の御子」ではない。彼は聖神(せいしん・聖霊)とともに被造物であり、神は聖三者ではない。

第一回全地公会

 この論争を憂慮したコンスタンティンは三二五年ニケヤの地に帝国(全地)内の全教会を召集しました。第一回全地公会として知られるこの会議で次のような宣言がなされました。ロゴス、すなわち御言葉・神の御子は被造物ではなく神である。彼は父から「生まれ」たのであり、父によって作られたり創造されたものではない。彼は父と同一の本質を分かち持つ(「ホモウシオス」「父と一体にして〈信経の日本正教会訳〉)。彼は「真の神」からの「真の神」であり、万物は彼、即ち「神の御言葉」によって創造された。童貞女マリヤからイイスス・ハリストス、イスラエルのメシヤ・世の救い主として人となられたのは、この造られざる、神の独生子(ひとり子)、神であるお方である。

第二回全地公会

 ニケヤ公会のアリウス主義に対する異端決定は、長い間全教会が受け入れるものとはなりませんでした。何十年にもわたって激しい論争が続きました。数多くの会議が各地で開かれ、それぞれが異なった信仰宣言を打ち出しました。アリウス派は皇帝の支持を受け、ニケヤ公会の信仰告白を守ろうとする人たちは迫害されました。この紛争は三八一年、ようやく第二回全地公会として知られるコンスタンチノープルでの会議で、ニケヤ公会の決定が再確認され聖神(せいしん・聖霊)の神性が宣言されることによって、決着しました。この二つの会議で確認された信仰告白が結合され、正教会の信経(Symbol of Faith、Creed)として確立し今日に及びます。

教会の聖師父たち

 ニケヤ公会で宣言された正統信仰を守るために活躍したのは次のような人々でした。
 アレキサンドリヤの主教聖大アファナシイ(†373)、カッパドキヤの三人の主教たち、聖大ワシリイ(†379)、彼の弟ニッサの聖グレゴリイ(†394)、彼らの友人、神学者ナジアンザスの聖グレゴリイ(†389)。
 彼らが正統的キリスト教の中心的教義として、厳しい圧迫に耐えて守り抜こうとしたのは、「至聖三者(三位一体の神)」でした。即ち、一つの同一の造られざる神的本性にあっての、造られざる三つの神的位格(ペルソナ)「父と子と聖神」です。

公会のカノン

 ニケヤ公会は教会の秩序や実践について多くのカノン(規則)を定めました。それによって、西方に於けるローマ教会の、アフリカに於けるアレキサンドリヤ教会の、東方に於けるアンティオキヤ教会の首位性が確認され(第六規則)、エルサレム教会の尊厳性も認められました(第七規則)。また、日曜の奉神礼では痛悔の表現としてのひざまづきが禁じられました(第二十規則:日曜は主の復活を祝う日だから)。
 コンスタンティープル公会もいくつかの規則を定め、その中で「コンスタンティノープルの主教はローマの主教に次ぐ名誉の特典を受ける。なぜならコンスタンティノープルは新ローマであるから」と宣言されました。  

奉神礼の発展

 四世紀には奉神礼の大きな発展が見られます。この時代に聖大ワシリイ、また聖金口イオアン(†407)の名を冠した聖体礼儀の「感謝祝文」が事実上成立しました。金口イオアンやエルサレムの聖キリル(†386)の啓蒙説教から、当時すでに洗礼機密・傅膏機密が今日正教会で行われているのとほとんど変わらない形で行われていたことがうかがわれます。復活大祭に先立つ四十日間の大斎も確立しました。主の降誕の祝いも、神現祭から分離され、人々を十二月二十五日に行われていた異教的な太陽祭から引き離すために独立した教会の祝祭とされました。

修道生活

 四世紀にはまた、エジプト(聖大アントニイ†356)、シリヤ、また西方においても修道生活が花開きました。この時期の修道の聖人たちの中には、テーベのパウェル、エジプトのパコミイ、ヒラリオン、サバ、マカリイ、キプロスのエピファニイ、シリヤのエフレムらがいます。西方ではヒエロニムス、イオアン・カシアン、トゥールスのマルティンらがいます。
 この時期最も有名な主教は、ミラ・リキヤの主教聖ニコライ、トゥリマンティスの聖スピリドン、ミラノのアンブロシイらです。