◆第15世紀◆

教皇

 十五世紀の西方教会では、教皇に至高の権威を認める人々と、公会議の権威は教皇の権威にまさると主張する人々との間で論争が続いていました。そんな中、劣勢に立たされていた教皇が、東西教会の再一致という格好の議題を得て、その主導権によってフェララ−フローレンス公会議(1438-1439)を召集しました。トルコ勢力との戦いに西方の助力を獲ようと東方教会の代表者たちも到着しました。ビザンティン皇帝イオアン八世、コンスタンティノープル総主教イオシフ、キエフの府主教イシドールが、ラテン教会からの出席者と「対等の資格」で受け入れられました。

フローレンス公会議

 東方教会の代表者たちは、大した議論も尽くすことなく、ラテン側の教皇権についての強硬な教義的主張と、「フィリオケ」及び「煉獄」の教義を受け入れてしまいました。政治的な思惑から、皇帝が東西教会の一致を実現するために代表者たちに圧力をかけ、神学的な議論を控えさせたのです。正教会側の出席者たちは、エフェスの主教、マルコ・エンゲニコス以外は皆、一致宣言に署名しました。フローレンス公会議での「一致」は一四五二年、コンスタンティノープルのハギヤ・ソフィヤ聖堂ではじめて発表されました。
 一四五三年五月二九日、モハメッド二世に率いられたオスマン・トルコ軍はコンスタンティノープルを陥落させ、イスタンブールと名付け、ビザンティン帝国は事実上滅亡しました。ゲンナディオス・スコラリオス総主教は帝都陥落後ただちにフローレンス公会議での「一致」を否認しました。総主教の背後にはエフェスの聖マルコの強い影響がありました。
 「不正なる一致」にあくまで反対し正教性を固く守ったマルコは後に聖人に列せられました。

ロシヤ

 ビザンティン帝国がイスラム勢力によって終焉を迎えつつあるとき、モスクワではロシヤ帝国がその基礎を築きつつありました。モスクワ大公、大イオアン三世(1462-1505)はロシヤ北方に勢力を広げノブゴロドに勝利し併合しました。一四七二年彼はビザンティン皇女ソフィヤ・パレオロゴスと結婚しツァーリ(古代の皇帝の称号「カエサル」のスラブ語表現)のタイトルと「双頭の鷲」のシンボルを継承しました。この頃から、コンスタンティノープル後の「第三のローマ」としてのモスクワという思想が芽生え始めました。

 十五世紀のロシヤでは、教会が社会や国家との関係で果たすべき役割について大論争が起きました。この論争の立て役者は、ソーラのニール(ニール・ソルスキイ1433-1508)とヴォローツクのイオシフ(1439-1508)です。彼らは対立したものの共に聖セルギイの伝統を受け継いだと言え、やがて聖人に列せられます。
 ニールはヴォルガ側対岸で「非所有派」というグループを率いました(「ヴォルガ対岸派」)。「非所有派」は、教会、とりわけ修道院は大きな財産の所有や管理から自由でなければならず、また国家からの直接的影響や支配を免れているべきだと主張しました。彼らは、修道士には、謙遜さと瞑想的で静謐な生活とともに、清貧が最も大切な徳として求められると考えたのです。彼らは聖セルギイや初期のキエフの精神性でもある神秘的で静寂主義的な自己否定(kenotic)の伝統を継承しました。 

 一方「所有派」は聖イオシフに率いられました(「イオシフ派」)。彼らは、教会と国家はできるだけ緊密に関係し、教会は新興ロシヤの社会的国家的な要請に応えなければならないと主張しました。所有派の理念は、教会、とりわけ修道院が莫大な財産を管理し、厳密に執行される奉神礼を中心にして、規律ある修道生活と人々のための社会的活動を育ててゆくことでした。この理念も聖セルギイから継承したものでした。聖セルギイと府主教アレキシイの二人は、十四世紀ロシヤの社会的政治的な分野と、キエフ時代から存在していた教会と国家に於けるビザンティンの遺産の継承に、極めて顕著な役割を演じました。
 「非所有派」の精神はロシヤ正教会の伝統の中に常に存在し続けましたが、その後のロシヤの教会と国家を発展に導いていったのは「所有派」の路線でした。

ビザンティン帝国の崩壊

 一四五九年にセルビアがトルコの手に落ち、一四五九から一四六〇にかけてギリシャが、一四六三年にはボスニヤが、そしてエジプトは一五一七年にそれぞれ運命を共にしました。以来四百年間、トルコはかつてのビザンティン帝国の領域内の正教徒を支配し続けることになります。

西方

 十五世紀、西方教会では既に述べた公会議運動による教皇権力への抵抗が続きます。教皇の権威はさらに、西ヨーローッパ諸国の民族意識の高揚、宗教改革の先駆けとなる様々な宗教運動、ギリシャ・ローマ古典文化の再発見によって自然的人間の解放を力強く謳ったルネッサンスの人文主義運動などによって脅かされてゆきました。この点では、レオナルド・ダ・ビンチ(1519没)、ラファエル(1520没)ら芸術家や科学者たちとともに、人文主義者エラスムス(1536没)の名を忘れることはできません。さらに、チェコの指導者ヤン・フスも重要です。彼は一四一五年、教皇とローマ教会の慣行に反対したかどにより、コンスタンスの公会議で断罪され火刑に処せられました。またフローレンスのドミニコ会修道士サボナローラは燃えるような激しさで教会の不正や罪悪を告発し、一四九八年教皇の扇動によって焼き殺されました。フローレンスの画家、フラ・アンジェリコ(1455没)が書いた多くの作品は、フローレンスのサンマルコのサボナローラ修道院を飾っています。ドナッテロ(1466没)、フラ・フィリッポ・リッピ(1469没)、ボッティチェリ(1510没)も忘れることはできません。
─────────────────────
【訳者付録】

最後の聖体礼儀
 イギリスの著名なビザンティン史家であり、かつ正教会への熱い共鳴者であったスティーブン・ランシマン卿は、ビザンティン帝国の崩壊を象徴するコンスタンティノープルの陥落を「コンスタンティノープル陥落」(護雅夫訳 みずず書房)で描いています。帝都を包囲するモハメッド二世に率いられるオスマン・トルコの大軍の突入を控え、帝都市民が在留のローマ教会信徒も交えて最後の聖体礼儀に望む場面は印象的です。

「その日も暮れようとしていた。すでに群衆の列が、聖ソフィヤ大聖堂にむかってつづいていた。ここ五ヶ月の間、敬虔なギリシャ人なら誰ひとり、その門をくぐって足を踏み入れ、ラテン人と背教者に汚された聖礼典(奉神礼)を拝聴したことはなかった。しかし、このたそがれ時には、こうした痛恨は消え去っていた。城壁警備の兵士たちを除き、この望みなき代願の礼拝に望まぬ住民はほとんどいなかった。ローマとの合同は大罪であると主張した司祭たちも、いまは、祭壇にあらわれて、合同に賛成する同信の友とともに式を勤めた。枢機卿イシドロスが臨席し、その傍らには彼の権威を決して認めようとしなかった主教たちの姿が見えた。あらゆる人々が来て、正教徒からであれカトリック教徒からであれ気にすることなく、告解と聖体拝領(領聖)の秘蹟(機密)を受けた。ギリシャ人と並んでイタリア人もカタロニア人もいた。キリストとその諸聖人、ビザンティウムの諸皇帝と皇后たちとの像をちりばめ描いた黄金色のモザイクが、多数の燈火と蝋燭との光にきらめいた。そして、それらの下で、司祭たちが目もあやなる祭服をまとい、これが最後と、典礼(奉神礼)の荘厳な讃歌にあわせて動いていた。まさにこの瞬間、コンスタンティノープルのこの教会堂では教会合同が存在していたのである。皇帝の顧問会議が終わると、宰相たち、司令官たちは、市中を騎行してこの礼拝に加わった。告解と聖体拝領との秘蹟を授与されたのち、それぞれ、勝利か、さもなくば死を決意しつつ、その部署についた」。

 翌日、コンスタンティン・パレオロゴス帝は玉砕を遂げました。遺体は未だ発見されません。