◆第14世紀◆


グレゴリイ・パラマ

 東方教会の十四世紀はパラマ論争の時代でした。グレゴリイ・パラマ(パラマス、†1359)はアトス山の修道士でした。彼は「ヘシカズム(ヘシキヤは静寂を意味する)」とよばれる祈りの方法を実践していました。これは厳格な身体的実践とともにイイススの名を絶えず繰り返す祈りの方法で、これによって人は精神と心を神に一致させることができる、と考えられていました。イイススの名は、普通、今日に至るまで「イイススの祈り」として伝えられている次の祈りによって繰り返されます。
 「主イイスス・ハリストス神の子や、我罪人を憐れみ給え」
 ヘシカストの修道士たちは、この祈りの方法によって、神との真の交わりを体験することができると主張しました。そこでは、人は、モイセイがシナイ山で、また使徒たちがタボル山で主イイススの変容の姿の中に見たのと同じ、「神の造られざる光」に浴することができるというのです。
 一三二六年、カラブリア出身のバルラームがコンスタンティノープルにあらわれました。彼は、ローマ教会に帰属を余儀なくされていたイタリア在住のギリシャ人で、西方のルネッサンスを準備した人文主義(ヒューマニズム)の立場をとる者でした。バルラームと、西方の哲学や神学に強い影響を受けた何人かのビザンティンの人文主義者たちは、ヘシカズムの祈りの実践に疑問を投げかけました。彼らは一様に、人間が神と真に一致できる可能性を否定しました。一三三三年、グレゴリイ・パラマはバルラームの見解に真っ向から立ち向かい、ヘシカズムを擁護しました。パラマはその論争を通じて、ハリストスと教会にあふれる聖神によって、人は真に神を知り、神との交わりに入ることができるという、正教会の教義を確立しました。

本質とエネルギイ

 一三四六年の公会議はグレゴリイの教えを支持しました。聖なる修道士パラマは、知ることのできない、また把握することのできない神の本質ないし「超本質」と、神の「造られざる」わざ・働き・「エネルギイ」(例えば神性の光)を区別しました。この区別は画期的なことでした。これらのエネルギイは神の恵みによって人に伝えられ、人はそれらを体験的に知ることができます。
 当時起きていた政治的な混乱の中で続けられた神学論争の結果、一三四七年と一三五一年(この年グレゴリイはテサロニケの大主教に就任)の公会議で、グレゴリイの立場が、聖書と正教の聖伝に支持されるものであることが明確に再確認され、支持されました。それ以来、神の超本質と神のエネルギイの区別は正教会の公式的教義の一部になっています。
 グレゴリイは一三六八年、死後わずか九年で聖人に列せられました。

*ヘシカズムと聖体礼儀 (訳者注)

正教会の修道精神は、個人主義的な信心行に陥ることを常に警戒していました。

 「ヘシカストたちはしばしば半共同体的な生活形式を採用していた。数名の修道者が一人の師のもとに集まって、一緒に修行と祈りとに身をゆだね、土曜、日曜には、その所属する共同体の修道院に集まって、聖体礼儀に参加し、機密(ご聖体)を授かっていた。
…ここで、指摘したいのは、十四世紀のヘシカズムが発見した個人的霊性と共同体的祈りとの注目すべき調和である。」
(J.マイアンドルフ神父「聖グレゴリオス・パラマス」中央出版より)

イオアンネス・パレオロゴス五世とローマ

 十四世紀のビザンティン皇帝イオアンネス・パレオロゴス五世(1341-1391)は、東方から帝国に圧力を加え続け次第に大きな脅威となってきたイスラム・トルコ勢力に対し、西欧が何か手を打ってくれるものと期待し続けていました。一三六九年、イオアンネスは公式な教会合同への意図はなかったのですが、政治的な意図を持ってローマ教会との交わりを持ちました。ただ、この行為は西方の援助を引き出すこともできず、教会的にも政治的にも、ビザンティン帝国の運命に影響を与えることはなかったといえるでしょう。

ロシヤ

 ロシヤの南半分が依然としてタタールのくびきに繋がれたままであったのに対し、イオアン・カリタ大公と彼を助けたアレクセイ府主教(†1341)に率いられた北方の森林地帯は、自由を保ち繁栄し続けました。
 しかし、この時代の真のロシヤの建設者はラドネジの聖セルギイ(†1392)でした。

聖セルギイ

 聖セルギイは一三一四年ロストフに生まれました。一三三四年に修道士となり、一人森の奥深くに入り、小さな堂を建て「至聖三者」にささげ、祈りと斎の生活を送りました。たくさんの人々がセルギイのもとに集まりました。ある者たちはセルギイと共に修道生活に専念し、また他のある者たちは、修道者たちの共同体の周辺で開拓者として働きました。
 聖セルギイは極めて謙遜な人物でした。一番粗末な服を着て、他の者たちのために働き続けました。彼は府主教アレクセイによって修道院長の地位に上げられました。彼はひたすら模範を示すことによって教え、修道士たちが彼が示す厳格な指導に反発したと感じたとき、彼はその地位を捨てて去り、別の修道院を作ったこともあります。彼は厳格な苦行者であり、心の祈りの実践者であり、すばらしい神秘体験を何度も体験し神との生きた交わりの恵みを受けた神秘家でもありました。
 一三八〇年、しばしば府主教アレクセイや指導者たちから相談を受けていた聖セルギイは、当時イスラムに改宗し正教への寛容をもはや期待できなくなったタタールとの戦いに臨もうとする、デミトリイ・ドンスコイを祝福しました。聖セルギイに精神的な支えを与えられたロシヤ連合軍の勝利によって、ロシヤ全土におよぶタタールの支配は次第に崩れてゆきました。
 聖セルギイがロシヤとその教会にもたらした遺産ははかり知ることのできないほど大きなものでした。彼の十一人の弟子たちは北ロシヤに修道の中心地をいくつも設立し、そこからやがて国土の開発が進んでゆきました。ロシヤ正教会の神秘的、霊的な信仰生活と、後々まで続く教会とロシヤ国家の政治社会的な分野との相互関係の起源は、ラドネジの聖セルギイの人格と業績に帰することができます。

聖セルギイと至聖三者への信仰(訳者補足)
 (ゼルーノフ「ロシヤ正教会の歴史」より)

 「聖セルギイはロシヤ人に奇跡を行った。…しかし彼は、偉大な指導者や改革者から通常連想させる方法を何一つ用いなかった。説教は一度も行われなかったし、一冊の書物も著さなかった。全生涯を通じて、最も謙虚な者、最も無名な者の如く振る舞った。それにもかかわらず他ならぬ彼が、全国民の一致した声によって国民の師かつ解放者に選ばれたのであった。聖セルギイの影響力の秘密は、その生活の並はずれた清廉性に存在する。彼の唯一の活動は至聖三者に仕えることにあった。そして、彼自身が神の調和と愛の非常に忠実な反映となるため、彼と接する者はすべて天の映像に気づくようになるのであった。神は至聖三者であるというキリスト教の信仰は、この世界の創造者が三つの位格の完全な交わりであり、この三位格の関係は相互的な愛の関係であるということを意味している。聖セルギイは通常の意味での神学者ではなかった。至聖三者の教理について書いたり語ったりしたことは一度もなかった。しかし、彼自身が、神の本性のキリスト教的啓示の本質である自由に於ける神的一致の生きた実例であった。」

ペルミの主教聖ステファン


 聖セルギイの同時代者にペルミの主教聖ステファン(†1396)がいます。彼は学問のある人で、ズィリアン族への伝道に携わりました。彼はズィリアン族のためにアルファベットを考案し、教会の文書を彼らの言語に翻訳しました。彼はビザンティン教会以来の、各民族独自の文化を尊重しつつその地に教会を育ててゆくという宣教のの路線を受け継ぎ、後のシベリヤやアラスカ、そして日本へのロシヤ教会による正教伝道へと結びつく霊的伝統を打ち立てました。

聖アンドレイ・ルブリョフ(†1430)

 ロシヤ教会史上、またおそらくは正教会史上最大のイコン画家アンドレイ・ルブリョフは、十四世紀末から十五世紀始めにかけてそのすばらしい作品を残しました。彼は聖セルギイ修道院の修道士でした。イコン画家「ギリシャ人」フェオファンの弟子で、友人のダニエル・コールニイとともに仕事をしました。ルブリョフのもっとも有名な作品は、至聖三者・聖セルギイ修道院のために描かれた「至聖三者」と呼ばれるイコンです。そこには、色彩と描線の完全な調和をもって、旧約聖書から、アブラハムを訪れた三人の天使の姿が描かれています。同時代のビザンティン帝国でも、教会美術のルネッサンス(「パレオロゴス朝ルネッサンス」)を迎え、多くの今日にも名高いフレスコ画やモザイク画が制作されました。

セルビヤとブルガリヤ

 セルビヤは、ステファン・ドゥシャンのもとで、繁栄を謳歌していました。セルビヤ教会は一三四六年総主教区となりました。また、この時期のブルガリヤでは、オチッドの聖クレメント(†1375)が活躍し国家全体の教化に指導的役割を果たしました。またアトス山にブルガリヤ教会のゾグラフォス修道院が設立されました。

奉神礼の展開

 奉神礼の面では、今日と実際上変わらない礼拝が成立したのはこの世紀と言われます。ニコラス・カバシラスは「聖体礼儀注解」と「ハリストスにある生活」という著作を書き、今日もそのままに行われている奉神礼の各部分の象徴的な意味を解説しました。この世紀の奉神礼書にはじめて、「み言葉の礼儀」(聖書誦読と説教を中心とする聖体礼儀の前半部分で「啓蒙者の礼儀」とも呼ばれる)に先だって行われる奉献礼儀(プロセシス、プロスコメディヤ)が現れます。テサロニケのシメオン(†1420)の注解からは、この当時の奉神礼の細部について多くの情報が得られます。シメオンの著作の中の興味深い注釈によると、この当時なお婚配機密を受ける正教徒は聖体機密(のパンとぶどう酒)を与えられ、「相愛のさかずき」は教会で聖体を受けることが許されていない者たちだけに与えられたことがわかります。

西方

 十四世紀の西方では、ローマ教皇たちがローマを離れてアビニョンに教皇庁を設けた「バビロン捕囚」(1303-1378)と、それに続く教会全体が二つの党派に別れて争い合った「大分裂」が起こりました。シエナのカタリナ、イギリスに於ける宗教改革の先駆者ウィクリフ、イギリス人で神秘主義的な著作を書いたウォルター・ヒルトン、ノーウィッチのジュリアンらはこの時代の人々です。十四世紀末から十五世紀はじめにかけて、今日のオランダ、ベルギー、ルクセンブルグなどにあたる「低地帯」で「共同生活兄弟会」が発展しました。トマス・ア・ケンピスの「ハリストスにならいて」はこの運動の重要な達成といえます。ダンテ(1337没)は「人間喜劇」を著し、ジオット(1337没)は多くの絵画を残しました。

訳者補足 14世紀のビザンティン神学者 ニコラス・カバシラスの言葉

「神はその最愛の僕(人)がそのままで留まることに満足せず、お呼びかけになる。しかも、神自らがお降りになって下さり、人を捜し求める。全能者であられるお方が、敢えて私たちの貧しさを身に帯びて、おいでになる。神は私たちへの愛をお告げになる。しかしそれは、まるで私たちにへつらっておられるかのようにさえ見える。私たちがその呼びかけを拒絶しても、神はお引き下がりにはならない。神は私たちの拒絶によってを傷つけられはしない。はねつけられても、私たちの扉の前でお待ちになり、私たちへの変わらぬ愛をお示し続ける」(「ハリストスにある生活」より)