◆第11世紀◆

大分離


 十一世紀の中頃、コンスタンティノープルとローマの間で大論争が起こりました。この衝突の直接的な引き金は、ローマ教皇が南イタリヤのビザンティン領内(訳注・ノルマン人によって次々に征服され教皇に献上されていった)の教会にラテン式奉神礼を強要したことと、コンスタンティノープル総主教による在コンスタンティノープルのラテン教会にギリシャ式の慣例を強要しようとしたことでした。一〇五三年、教皇は使節をコンスタンティノープルに派遣して教会間の交わりを回復しようとしました。しかし、この使節派遣には政治的な意図があると判断したコンスタンティノープル総主教のミカエル・ケルラリウスは、彼らとの会談を拒絶しました。
 一〇五四年、七月一六日、教皇使節団長の枢機卿フンベルトは、ローマの使節への敬意ある処遇がなされないまま長期間待たされたことへの怒りも加わって、ついに聖ソフィヤ大聖堂の宝座の上に、アナフェマ(破門)と領聖禁止を通告する文書を置きました。もっともこれは「総主教ミカエル・ケルラリウスとその同調者」たちのみに対してのもので、フンベルトはコンスタンティノープル自体は、ぬかりなく「もっとも正統な都市」としてたたえることは忘れませんでした。

 フンベルトのケルラリウスへのアナフェマの公式的な理由は、「フィリオケ」の文言を信経から「取り去った」こと(訳注:実際はローマ教会が付け加えた)、妻帯司祭を認めていること、「奉神礼における間違った執行方法」でした。総主教ミカエル・ケルラリウスは七月一六日の出来事に「責任のあるすべての者」を破門に処することによってフンベルトの行為に対処しました。彼は、聖体機密に無発酵のパンを用いることなど、異なった奉神礼の習慣を中心にしたラテン教会の悪弊を連ねた長大なリストを作成しました。

 枢機卿フンベルトの行動は総主教とその同調者たちにのみ向けられ、また総主教の対応はフンベルト自身にのみ向けられたものだったにもかかわらず、この一〇五四年の東西の亀裂を回復しようという試みは結局、今日にまで続く長い分裂状態を打開することはできませんでした。一九六六年の教皇パウロ六世と総主教アテナゴラス一世の象徴的なものとしての「一〇五四年の両者間のアナフェマの取り消し」など、幾つかの和解への試みは行われてきていますが、有効なものとはなっていません。

教皇制

 十一世紀中頃にはまた、教皇制を強化するための大改革運動がはじまりました。その推進者である教皇グレゴリイ七世(ヒルデブラントとも呼ばれる、1073-1085)にちなみ、しばしばこの運動はグレゴリイ改革とも呼ばれます。この運動はいかなる世俗的権威からも教会が独立することをめざし、教皇の権威が大きく拡大されました。これによって、東方教会とのどんな和解も困難なものになってしまいました。例えば一〇八九年、両教会の友好関係を回復するための試みの一つとして、東方教会は教皇ウルバン二世に信仰告白を求めました。教皇は応じませんでした。なぜなら、それはローマの主教が他の主教から教会において審問されるに等しいと感じたからです。かくして、コンスタンティノープル総主教ニコラス三世(1084)が「教皇によって、まず正統信仰を告白していただこう。それでこそ、彼は第一の者だ」とあえて言ったにもかかわらず、ついに再び歴史上このようなことは起こりませんでした。

十字軍

 一〇九五年の第一回十字軍派遣の頃には、西方ヨーロッパでの教皇の指導的地位は十分に確立していました。教会の大分離を最終的に固定化してしまった責任は十字軍にあります。
 十字軍は一〇九九年、エルサレムを占領し、イスラム教徒を駆逐し、そこにその地に綿々と続く従来の教会秩序に代えて、ラテン教会の一組織をそこに構築しました。

キエフ朝ロシヤ

 十一世紀のキエフ朝ロシヤでは、受け入れられて間もないキリスト教信仰がさっそく花開き始めました。聖アントニイ(†1051)はキエフの洞窟の中に修道院を設立しました。「キエフの洞窟修道院」です。そこで修行した最も偉大な聖人、聖フェオドシイ(†1074)は「ロシヤ修道精神の確立者」と呼ばれています。聖フェオドシイはその福音的な霊的生活の中で、福音書に伝えられたハリストスの謙遜な姿を模範としました。そこで形成された生活のあり方は、ロシヤのケノティシズムとして知られています。これは自分を無にした(「自己無化・ケノーシス」)謙遜と兄弟姉妹への愛の生活です(フィリップ2:6)。キエフ洞窟修道院は霊的なまた知的な照明の場であると同時に、キリスト教的な愛と社会的な関心の中心地でもありました。

ボリスとグレブ

 キエフの聖人たちの中に、ロシヤを正教化した聖ウラジミールの息子たちであるボリスとグレブの兄弟がいます。彼らは、父ウラジミールの死後、彼らの兄スビャトポルクとの間で権力闘争を争わねばならない立場に追い込まれましたが戦いを放棄し、無抵抗に殺されました。彼らは戦いに勝つ見込みの無いこと知り、もし彼らが闘えば殺されるにきまっている忠実な部下たちの命を救うために、戦いを放棄したのです。「無抵抗な受難者」として、ボリスとグレブは一〇二〇年ロシヤ教会の最初の聖人に列せられました。彼らは致命者やキリスト教的平和主義者としてではなく、他の人たちを生かすために自分たちの命を捨てた者として讃えられます。

神学的著作

 この期間、東方ではブルガリヤのフェオフィラクトが膨大な聖書注解を書きつづっていました。西方ではカンタベリーのアンセルムス(†1109)が彼の最も影響力のある神学的論説を生み出していました。それらの中で彼は、神の存在のいわゆる「存在論的な証明」を試み、また「フィリオケ」を弁護し、さらに、ハリストスの十字架の死は父なる神の正義を満足させ怒りをなだめるのに必要でふさわしい「いけにえ」であったとする、贖いについてのいわゆる「満足(なだめ)説」を展開しました。

西方

 十一世紀の西方では、ベネディクト派修道会(今日では「トラピスト」として知られます)のシトー会改革運動が起こりました。この運動の最大の代表者クレルボーのベルナルドスは修道的、神秘的な神学者であり、かつ教会のための実践的活動家でした。彼は十字軍を鼓吹し、「然りと否」の著者アベラールと闘いました。カルトジオ修道会の隠修的な修道運動が始まったのもこの時期でした。

訳注 「ボリスとグレブ」についてロシヤ正教会史の定番「ロシヤ正教会の歴史」(ゼルーノフ、日本キリスト教団出版局)は次のように述べています。
「ボリスとグレブの物語が示しているのは、キリスト教の種子がロシヤで肥沃な土壌に落ちたこと、国民がその新しい教えを誠意を持って受容したことである。それはまた、キリスト教がロシヤの人々によって教理体系あるいは制度としてではなく、何よりも生き方として理解されたことをも明らかにしている。同様のアプローチは、さらに、初期ロシヤ修道主義の独特の性格によっても例証される。その創始者、聖フェオドシイは修道士の社会的奉仕を非常に強調した。また、彼の有名な洞窟修道院は真の兄弟愛や困窮した人々への惜しみない援助の模範となった。」(訳書18ページ)