◆第10世紀◆

文化的復興

 十世紀、東方では九世紀以来の文化的復興の流れが続き、教会の聖師父たちの著作が収集されました。聖シメオン・メタフラストは聖人たちの生涯を編集して一つにまとめました。古代ギリシャの古典文化への関心も新たに芽生えましたが、ミカエル・プセロスやイオアンネス・イタロスなどのギリシャ古典への行き過ぎた傾倒は教会から批判されました。
 九百六十年、アトスの聖アタナシウス(†1000)は大ラヴラを創立し、今日にまで至るアトス山の偉大な修道共和国の発展の端緒を開きました。新神学者シメオン(†1022)はクリスチャンへの聖神の宿りについて多くの著作を書き、影響を与えました。

教会と国家

 十世紀にはビザンツ社会の教会的な側面と社会的な側面の相互浸透が深まりました。教会は結婚や家族に関して一層大きな統制力を持つようになりました。例えば、結婚が市民社会で有効なものとして認められるためには、正教会の教会法に則った「教会の祝福」が必要とされるようになりました。同時に教会は(結婚の)「最低必要条件」の確立に以前にも増して躍起になってゆきました。それは九二五年コンスタンティノープル総主教ニコラス・ミスティコスが皇帝レオ六世の第四回目の結婚の承認を拒否したことに端を発する、いわゆる「四婚論争」に見ることができます。ここから、正教会の教会法の中に四婚を誰に対しても無条件に禁止する条項が加えられました。しかし、元来教会の結婚の神学は永続的な一夫一婦制を原則とします。一組の男女の結合は死をもってしても分かつことはできません。再婚は人間的な弱さへの譲歩として認められることはあっても、基本的には配偶者と死別した者の場合でもこの原則には調和しないと考えられます。しかしながら「四婚論争」は、最低条件の方ばかりに関心を向ける結果となり、正教会は三回までの結婚を「許す」という間違った理解を生み出してしまいました。

ブルガリヤ

 ブルガリヤのボリス王は、コンスタンティノープルの皇帝ミカエル三世を代父に八六九年受洗し、ローマ教会からコンスタンティノープル側へ決定的かつ最終的に転じ、十世紀にはすでに東方ビザンティンの奉神礼をその教会に確立しました。特に、彼の息子のシメオン王のもとで、ブルガリヤは強国へと発展しビザンティン的ブルガリヤ文化が花開きました。しかし、この世紀の終わり近くに、マニ教の流れを汲む二元論的、霊的熱狂主義的な異端派ボゴミル派が広がりました。

訳注

*ボゴミル派
は十世紀半ば同名の司祭によって始められた。聖職者制度を否定し、洗礼・聖体も含め機密を認めず、教会と国家の権威に反抗的な姿勢を持っていた。目に見える物質的世界は悪魔によって創られたと考え、創造物を神から人間への賜物として肯定的に理解するキリスト教的な物質理解をすべて否定し、結婚・肉食・飲酒を断罪し、厳しい禁欲を実行した。道徳的にも極めて厳格な姿勢を維持した。やがて、バルカン半島全体に広がり、西方でのカタリ派異端の勃興を促したと考えられている。千四百五十三年以降のオスマントルコによる征服下にも存続した。(訳者注)

キエフ大公ウラジミール

 九八八年、キエフ公国の国民が、ウラジミル大公の指導のもとでドニエプル川で洗礼を受け、ウクライナ及びロシヤの正教会が始まりました。この信仰はコンスタンティノープルから伝えられ、ウラジミールの洗礼の代父はワシリー帝でした。各地に派遣されたウラジミールの使節が、ビザンティンの宗教より美しいものを他に見いだせなかった末の正教受容だったという伝説が残っています(「原初年代記」訳注参照)。また、ウラジミールは、ビザンティンの王女アンナと結婚しコンスタンティノープルの帝国と提携することに、政治的、経済的な利益を感じていた、ということもよく知られています。
 洗礼を受けてから、ウラジミールは真の霊的な回心をしました。彼は、その領国にキリスト教の原則を植え付け、正教の信仰によって彼の臣民たちを覚醒させようと多くの努力を惜しみませんでした。彼の時代に行われた、キリスト教君主としての個人的また公的な多くの高徳の行動によって、彼は教会の聖人に列せられています。彼以前にすでに改宗しており、彼の決定と行動に明らかに大きな影響を与えた祖母・大公女オリガも、ともに列聖されています。

奉神礼の展開

 生神女マリヤ庇護祭が十世紀から行われるようになりました。「ハリストスのための愚者(『佯狂者』訳注参照)」アンドレイ(†956)は、コンスタンティノープルが異教徒のスラブ人に包囲され攻撃を受けた時、生神女マリヤが手にオモフォル(ベール)を持って、救いを祈る人々を守り、その祈りを神にとりなしているのを目撃しました。皮肉なことに、生神女庇護祭はこの歴史的な謂われから離れ、教会に生神女が臨在することを祝う祭りとして、むしろスラブ系の教会でのみ人気の高い祭りとなっています。

西方

 九世紀の末から、西ヨーロッパは暗黒時代に入りました。シャルルマーニュの帝国がかろうじて保っていた相対的な安定は、新たな侵入の波によって破壊されました。教会は領主たちに牛耳られ、東方との交流は事実上断たれてしまいました。しかし、フランスのクリニュー修道院から広がってゆく改革運動が始まりました。

訳注 

ロシヤの受洗 
 ロシヤの「原初年代記」によると、ウラジミール大公はロシヤ民族がよって立つべき宗教を選ぶため、イスラム教、ユダヤ教、ローマ教会、コンスタンティノープル教会へ使節を派遣しました。それぞれの奉神礼(礼拝)に参加した使節たちは帰国して報告した。
 「イスラム教の祈りには何の喜びもありませんでした。うめきとひどい臭いに満ちていて、何の善きものも見いだせませんでした」
 「ローマ教会の祈りはそこそこでしたが、美がそこにはありません」
 「コンスタンティノープルのハギヤ・ソフィヤ大聖堂での奉神礼では、私たちは天上にいるのか、地上にいるのかわかりませんでした。あんな驚異と美とは地上の他の場所では決して見いだせません。言葉では言い表せませんが、これだけは言えると思います。『そこでは、神が人々の間におられました…』」
 この報告を聞いて、ウラジミールは正教を国教とすることを決意したという。

佯狂者
 正教会では、狂人や愚者を装い一般社会や教会の規範や秩序を無視または挑戦する形で、預言者的警告を与えたり教会権威者たちの偽善や腐敗を告発し教会に息吹きを与えた一群の人々を佯狂者として聖人に加えている。真の佯狂者か否かの評価のために聖人として認定されるまで、何世紀にもわたる場合が多い。 
(生神女庇護祭の聖像。佯狂者アンドレイも右下に右手を生神女にさしのべる形で描かれている)