ザドンスクの聖ティーホン
教  訓


  (1)
 仰いで天を望めば、天のかくの如く奇異にして、高く且つ広く、種々の星辰にてかざらるるを見ん、日と月の光かがやきて、すべて天の下にあるものを照らすを見ん、雲の空中をここかしこと行きすぎて、雨をそそぐことポンプの如く、我等が青田を潤すを見ん。
 汝には感覚と霊智とあり、彼は地及びこれにみつる草木、家畜、野獣、湖、海、河、泉また其他のもろもろの修飾を汝の前にあらわさん。 汝は智を以て見ゆるものより見えざるものに移り、造成物より造成者に移るべし。 この偶然の事は汝をして
 1、このすべてを一言にて無より造り給いし(創世記一章)我等の神の全能に驚かしむるべし、
 2、かくの如くきわめて睿智を以て造り給いし神の智慧に驚かしむべし、
 3、このすべてを我等の為に造り給いし神の仁慈に驚かしむべし。
 かくの如く造成物によりて造成者の力と睿智と仁慈とを沈思黙識する者は、先ず聖詠者と共に心神の喜に堪うるあたわず、歌いていわん、『主よ汝の工業(しわざ)は何ぞ多きや、みな智慧を以て作れり』(聖詠103:24)


  (2)
 すべての造物は衆人に等しくつとむるを見ん。日と月と星とは衆人をひとしく照らし、空気は衆人の生命をひとしく守り、地は衆人を保ち、且養い、水は衆人に等しく飲ましむるなり(衆人に等しくとは、富める、貧しみ、高き卑しき、主人と僕の差別なくみな等しきを言う)。
 さらば神より我等に与えられたる我等の幸福も、我等と吾が近者とに共通なるべきことは此により学び知らるるなり。我等が食物と、我等が衣服と、我等が智慧と、我等が家屋とは我等の近者に共通ならざるべからざるなり。


  (3)
 一の造物は他の造物をたすけ、高き元素はひくき元素にたすくるを見ん。日は空気と地とをてらし且あたため、雲は空気と地とをうるおし、空気は生物の呼吸の為に益し、地は我等と吾が家畜とに食物をあたうるなり。これ皆霊智ある造物たる我等の特に相互いに助くべきことを我等に教うるなり。
 富めるは貧しきにたすくべく、智慧ある者は智慧なき者にたすくべく、健康なる者は病める者に、自由なる者は獄にある者に、強きものは弱きものに、権を有する者は保護なき者にたすくべきことをおいうるなり。我は彼に何の要あらん、とかくいえる言はハリスティアニンの境界より何処にか駆逐されざるべからざるなり。


  (4)
 僕が主人の前に達、全く従順にして、その命令にしたがいおこなうを見ん。此の事は我等主神の前に比類無く大なる尊敬を以て立ちて為すあるべきを汝に思わしむべし(けだし神は何処にも在らざるなし、されば我等いづくにありとも、何を為すとも、我等をかんがみる神の面前にありて為すなり)。故に神の命令は我等いと熱心なる従順を以て行わざるべからず。
 けだし主人は位高しといえども日となり、牧と同じき人なり、さりながら僕は彼にかくの如き恭敬をあらわす。然るに神は主人と僕との主にして、奥と其の臣民との奥なり。されば主人も其の僕も、奥も其の臣民も彼には僕なり。
 主は代にして恐るべし。天の衆軍も畏れて彼の前に立ち、恭謹にして其命令に遵い、行うなり。さらば我等は僕の其の主人に、即ち同じき人にあらわす如きの尊敬と恭謹とさえ彼にあらわさずして、其の誡を破らんとする時は、いかに恥ずべく行為し、いかに重く罪を犯すや、思うべきなり。
 主は自ら預言者により我等をいかに責め給うか、曰く『子は父を尊び、僕は其主人を畏る、我もし父たらば、我を尊ぶこといづくにあるや。我もし主たらば、我を畏るることいづくにあるや、万軍の主いい給う』(マラヒヤ1:6)。
 我等の盲昧と無感覚なることのいかに代なるを我等は此によりて学ぶべく、併せて又我等が神の仁慈と久忍とに驚くべし。彼は我等無益の僕に対して書くの如き温柔に、且久忍を以て行うなり。これ汝は何処にありとも、悪しき事又は不適当なる事をなすべからず、又言うべからざるのみならず、これを思うだにせざるべきことを汝におしうるなり。それすべてを洞察せざるなき神の前には言も行も思も差別あらざるなり。けだし彼は我等の尾濃いを看破すと実事の如し。さらば思いを以て彼を辱かしむるは悪しき行いを以てすると同然にして、悪しく行為する者のみ彼に対して無礼なるにあらず、悪しく思う者も無礼なり。


  (5)
 或は母の其子に対し、或は鳥の其雛に対して、或は家畜野獣の其児に対するもゆるが如くなる熱愛を見ん。此の事より汝の心を神の愛に昇すべし。即ち神が己の像(かたち)によりて造り給いし霊智ある造物、即ち人に対して有する所の愛に昇すべし。
 彼は其の造物、例えば其子に対する母にさえかくのごとき愛を種付けしならば、まして己の像により己に肖(に)せて造りし人には比類なき代なる愛を有するなり。ただに数えつくされざるのみならず、智力も了解するあたわざる恩恵を彼ただ人にのみあらわすは、此の泉より流るるなり。
 得もいわれざる彼の愛は彼をして我等の救いを書くの如く望み渇想せしめ、罪ある我等をかくの如く大に忍耐せしめ、我等の後悔をかくの如く望み待たしめ、悔ゆる者をかかる善望と喜びとを以てうけしめ、悔いざる者を書くの如き不快を以て罰せしむるなり。『神は世を愛して其の独生の子を賜うに至る、凡そ彼を信ずる者亡びずして永生を得んが為なり』(イコアン3:16)。
 神は自ら預言者によりつげて、曰く『婦は其乳児を忘れ、己が腹の子をあわれまざることあらんや、もし婦はこれを忘るることありとも我は汝を忘るることなし』(イサイヤ49:15)。
 在天の父の此の慈愛は義人を楽しませ、罪人を慰めて、彼に父の憐みに失望なからんことを勧め、殊に悔改を以て父に走り付き、疑わずして其憐みを待たんことを奨励するなり。

 (6)
 日の煌々とひかりかがやきて、およそ天の下にあるものを照らし、我等を楽しましむるを見ん。此の物体上の日より汝の心を形而上(かたちよりうえ)なる、永遠なる義の日ハリストス神の子に昇すべし。彼は信者を奇跡にててらし、永遠にてらしかがやかして楽しましむるなり。よりて信者は自ら彼の偽わざる約の如く、『其の父の国に於て日の如く輝くかんとす』(マトフェイ13:43)。
 されば汝は日の光線の光にて照らさるる此の見ゆる世界より彼の黙示録にしるさるる天上のイェルサリム城に心にて登るべし、曰く『城(まち)に日月の照らすことを需めず、そは神の愛好これを照らし、且つ羔(こひつじ)は城の燈なればなり』(黙示録21:23)。『彼処には夜あることなく、燈の光と日の光とを用うることなし。盖主なる神はかれらを照らし給えばなり、かれらは世々窮なく王たらん』(黙示録22:5)。


  (7)
 春に当りて万物の組成するが如く新に芽を出すを見ん。智は懐より諸の種子を発生し、樹々は葉におおわれ、百草は青々と繁りて花にて飾られん。これみな冬季に死せるが如くなりしものなり。厳寒に氷結したる水は融然として融け流れ、全て地上にあるものは新たなる姿態をこうむりて新たに造らるるが如くならん。
 信仰は此の物体上の春より聖書にいう如く至善なる神が約したまえる美にして慕わしき春に昇さん。 世の始より死せる信者の体はここに神の力を持って地中より芽を出すこと種子の如くならん。起ちて新に美わしき形状をこうむり、不死の衣を服し、主の手より美善の冠をうけ、棕櫚の如く栄え、リワンの柏香木の如く繁りて、主の室と吾が神の院とに植付けられん(聖詠91:13,14)。 新婦の美しく飾らるるが如く、地上の花の盛んに開くが如く、園中の種子の芽を出すが如くならん。永遠の楽しみは其の頭上にのぞみて、主の為に欣喜せん(イサイヤ61)。
 其時は『此の壊るものは壊ざるものを衣(き)、この死ぬる者は死なざるものを衣ん』其時は聖書の言は応ぜん、曰く『死は勝ちを呑まれん、死よ、汝の刺は安くにあるや、陰府よ、汝の勝はいづくにあるや』(コリンフ前15:54,55)、此の如く彼の慕わしき春に驚喜して、信と望と神の助けとを以て美善なる労苦の種子を今日種くべし。願わくは彼の時に喜を以て穫らん。

TOP