クロンウェシタトのイオアン神父


     イオアン神父の洞見と予言

 イオアン神父は洞見の賜を与えられた。それは人間的
先見とは異なる。洞見とは総ての自分の行為の内に神の
摂理とみ旨を見る人に与えられる神の賜である。神はわ
れら罪人に罪の赦しと,神の佑助について絶えず真剣に
祈る人々にのみこの賜は与えられるので,人間の総ての
不幸と喜びの内に,神のみ旨を観る所の人々に与えられ
るものである。
 霊的洞見の賜は人の総ての罪を見,悪を判断するが.
誰をも裁かない。上より輝かされた人は,イオアン神父
の言うとおりただ愛に徹することができるのみである。
 神父は常に祈りの内にあるが.祈りを行わないでどの
ような相談にのることもなかった。神父は言う「私は新
聞を読む。しかし.しばしば失われた時代を悲しむ。そ
こには余計なことが記され,無益なことが行われている。
 私は毎朝規定(カノン)を読む。この内には無限の深
い内容が含まれている。その日の聖者の記憶,その生活
その功績に養なわれて,少しづつ教会生活と記憶とに馴
れ,少しづつ教会に尊ばれる心情に徹せられて,霊は輝
き,自らをあざむくことを止めて,罪との戦いに力が出
て来る。誰でもこのカノンを読む習慣をつけるなら,そ
の霊はおもむろに高く上がり,力より力に進む,また特
に私は旧新約聖書を読む,これなくしては生きることは
できない。そこには人の霊の生活の法則が展開されてい
る。人の霊的復興,悪より善への転向など総てのことか
指示されている。以下少しく神父の洞見, これより生ず
る予言の事実についてのべよう。

(1)1893年ワルソウの聖堂新築の献金募集が開始され
た時, このことを知った神父は言われた「私は悲しみを
もってこの聖堂の新築を見ます。この工事完了の後露国
に多くの血が流れ,多くの臨時政府ができる。ポーラン
ドもそういうことになる。しかし私は露国の復興をも見
る。ただしそれはワルソウ聖堂破壊後,多くの年を経て
のあとである。

(2)ク港の市長の家へ神父はしばしば行かれた。そこ
に夫をもった娘がいた。その夫は海軍の士官であった。
この士官は妻の家へ行くことを好まなかった。それはそ
こに行ってあの山師(イオアン神父のこと)に会うこと
がいやだと言っていた。
 その内にこの士官は精神分裂症にかかった。そこで妻
はしばしばイオアン神父にきてくれるようにたのんだ。
しかし紳父は決して行こうとしなかった。そしてかれは
その内に自分のところに来ると言われた。やがて凡そ1
年もたってしまった。11月の朝,にわかに病士官は立ち
あがって服装を整え,付き添いの水兵と直ちにドウム教
会の早朝の聖体礼儀に行くことを命じたのである。そこ
ではイオアン神父の祈祷が行われるので,教会は多くの
人達がイオアン神父の来着を待っていた。
 神父は到着すると直ちに聖所に入られ,その病士官の
ために祭台を用意して,かれをその前に膝まずかせ,か
れの頭こエビタラヒリと福音書と十字架と聖爵をのせ,
かれは痛悔して,領聖したのである。かれは家に帰り,
ぐっすり寝こんだ。かれが眼を覚ました時に,自分の所
で祈祷を始められたイオアン神父の姿を見た。この祈祷
の中で士官は泣いた。祈り終わった神父は士官の妻に
「今は私自らあなたの所に来た,夫はあなたのところに
帰った。父の子として」と言うのであった。その後この
士官は丈夫になって,少将にまで進級した。

(3)イオアン神父に会いたいと切望していた若い士官
がモスコウで神父の聖体礼儀のあることを知って,聖堂
に来ていた。聖体礼儀が終わり,宝座から祭台に聖爵が
移されると,そのまま神父は聖所に降りて釆られ,その
若い士官の所に来られて,かれの手に接吻された。
 士官はとまどった。人々はあの士官は司祭ででもある
のであろうかと言っている。士官はただ驚いてほはえん
でいた。しばらくたって,この士官は叙聖されて司祭と
なり,また修道士となって,オプチナの荒野に苦業され
ワルソウの修道院の父となられた。

(4)神父がある家に祈祷に招かれた。その時多くの客
の内に1人の大学生がいた。かれは常に宗教的信仰に軽
蔑の眼を持っていたので,神父の祈祷に参加することを
好まず,神父が来られる前にこの家の台所にいて,祈祷
の終わるのを待っていた。神父はやって来るとすぐ祈祷
を始められた。
 終わって衆人の十字架への接吻がすむと,神父はその
まま十字架を持って台所に入って行き,そこにいた大学
生に「何故祈祷に来ないのか,遠からずあなたも衆人に
十字架の接吻を与えることになる」と言われた。はたし
て数年を過ぎてこの大学生は司祭の列に叙聖された。

(5)或る村の司祭が,イオアン神父が近くの停車場を
通過する事を知り,ほかの司祭と連れだって停車場へ馬
車をとばした。ところが駅は既に付近の人達でいっばい
であった。やむをえず遠くに止って見物をしていた。汽
車は駅に進行して果た。神父は車両から外に出て皆に祝
福された。この時何人か全く分からないが1人の男が多く
の人垣を押し分けて神父に近づき神父の祝福を求めたが
どうしたことか神父はこの男に祝福をあたえなかった。
後で分かったことだが,この男は甚だしく不道徳な人で
あったということである。
 いよいよ汽車は発車ということになり,村の2人の司
祭はついにイオアン神父に近づくことができず,残念そ
うに「何か記念になるものがほしかったのだが」と話し
合っていると,イオアン神父は汽車の窓から顔を出し,
2枚のハンケチを投げ, 2人の司祭の方を指して「あの
神父さんに上げて下さい」と叫び,汽車はそのまま進行
して行った。

(6)ある貧しい家で4人の子供をのこして夫が死んだ。
妻はその日の生活から困りだし,ある家に働きに出よう
と決心した。それがかなえられないなら子供達と共に死
のうと思ってその家に頼みに行ったが, ことわられてし
まった。失望落胆して歩いていると,乞食の一団がいて
ガヤガヤしているのに出会った。そこには十字架が立っ
ている。
 この時イオアン神父ではないかなとの思いが頭の中を
走った。乞食の集まりのいた家に行くと香の薫りが家か
ら出ている。はたしてイオアン神父であった。この婦人
が人の集まりの中に入ると,神父は直ぐにこの娘人に眼
を向け,群衆を通じてこの寡婦にお金を与えられた。そ
れは丁度借金を返して,当分の間生活することのできる
お金であった。そして間もなく役場から子供達を孤児院
に収容し,母はその孤児院の労働者として雇われるとい
う通知を受け取った。

(7)1人の修道司祭が書いている。私は大いなる祈績
者イオアン長司祭を深く尊敬している。1903年私はセル
ビヤのラウレルにいたが,間もなく私の希望していたペ
テルブルグに来ることができた。この時市を離れたオラ
ニエンブルグでイオアン神父の祈橿に参加することので
きる喜びをえた。祈祷が終わった後,私はイオアン神父
に自分の希望を話した「私は最早セルビヤへは帰らない
で,ロシヤに留まりたい,セルビヤでは自分の命に危険
がありますから」と言った。その時神父は「あなたはそ
れでも修道土か,死を恐れているのか」と言われました。
「私は死を恐れませんが,未だ歳は若いし,人様のため
にも,神様のためにも何もしていませんから」と,洞見
者は「セルビヤではあなたが必要です。あなたを待って
いる。主は汝と共にする。私もあなたのために祈る」と
言われた。
 別れて都に帰るとコンスタンチノーブルから「速やか
にセルビヤに帰るべし」との電報が来ていた。私は直ち
に帰った。多少の危険はあったが,イオアン神父の予言
の通り主はわが命を守り給うた。
 1907年私はロシヤに帰って女修道院の司祭に任命され
た。毎日多くの信者が痛悔に集まって釆た。晩祷にこの
ような大衆の痛悔をして,明日の祈祷の準備には到底た
えられなかった。疲れきって自分の僧坊に帰り,明日の
聖体礼儀の祈祷はできないと通知をして,ペットに入る
と間もなく深い眠りに入った。すると夢を見た。イオア
ン神父が私を呼んで「一緒に祈祷をしましょう」と「私
は準備をしておりません」「準備が何です」「さあ行き
ましょう」と連れられて聖堂に行き「兄弟よ,あなたは
敵に降るのか,敵はあなたをくらまさんことを欲してい
るのだ,あなたはできるのか,できないのか,天使はあ
なたに代わって勤めるのだ,決して主の奉事を捨てては
いけない」と言われて,私の手に接吻をされた。それが
丁度2時,私は目が覚めたのである。喜びと満足とを以
て修道院に行き.祈祷の鐘をならし,祈祷の準備をして,
特別の感動を以て聖体礼儀を行った。
 その後再び神父に会いこのことを話して感謝を申し上
げたら,その時神父は私に「決して暗い心に負けてはい
けない,自分で勤めに当たれないと思う時には天使が代
って勤めてくれるということを記憶して,勤めを止めて
はいけない」と申されました。

(8)1907年ロシヤの運命を予言された。ロシヤ帝国は
変動する。無神者とアナルヒストが整理されず.数多き
罪悪が清められないならば,滅亡することであろう。神
の義判は触神者や不法のために,この国を地の面より解
放するであろう。至る所に人変動や生命, 財産への恐怖
がみなぎり,第一に政治が薄弱化する。不幸なるかな祖
国。何時良くなるのであろうか,それは唯 総ての人々
か改悔して,神と教会と祖国に対して強い関心をよせる
ようになった時だけである。
 またドイツ人やポーランド人フイン人らが露国と教会
に対して何を考えているのであろうか,かれらは神の教
を,奉神礼を,聖使徒の定めを,全地公会を,地方公会
を徹底的に破壊せんとしている。
 神父は晩年をペテルブルグのレウシンスキイ修道院で
おくられた。そこで人々に何かって改悔の伝道をしきり
に叫ばれた。「皆さん悔改めなさい。恐るべき時は近づ
いた。自ら考えることもできないような恐るべき時が」
80才になる修道士が「神父さんそれは何時ですか」との
問いに「私とあなたはその時まで生きませんよ」ただ神
父は修士に手で示して「独裁者が地より取られる時, そ
の時アンテハリストは来る」と。

 神父は15年前に自分の死を予言していた。その時のこ
とばに「壁が屋根の下に落ちる時,私は既に無しと。
1908年12月18日(露暦)かれは問うて「今日は何日です
か」「18日」と答えると「スワラ・ポ一グ,今2日でわ
れは万事を終わらん」と,12月20日7時40分,最後の息
を引き取る。時に聖堂の璧は屋根の下に崩れ落ちた。


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