教会建設の三勢力
(日曜日の説教)


府主教セリギイ

『ぱんだね』誌より

 
  『サウルは教会を残害し,家家に入り,男女をひきて,獄にわたせり』(行実八の三)彼サウルの名は基督教徒をして恐怖を抱かせた。 『アナニヤ答えて言えり,主よ,多くの者よりこの人の事を聞きしに,彼はイエルサリムに於いて汝の聖徒に害を加えしこと,如何ばかりぞ』(同、九の十三)しかれども神の恩寵はサウルがダマスクに行く途中に於いて彼をとりこにし(同,九の三ー十九)手はこのサウルを以て異邦民と諸王とイズライリの諸子の前に己の御名を播くべき器と見給うた。(同、九の十五) そして基督教の迫害者サウルは『人によるに非ず,人を以てするに非ず,すなわちイイスス・ハリストスによりて立てられたる使徒パウル』(ガラテヤ書一の一)となった。
  熱心なユダヤ教徒は熱心な基督者となり,熱心な基督迫害者はさらに熱心な基督宣伝者となり、『ハリストスのはかり難い富を異邦人に福音すべき』(エフェス三の八)大任務は彼に与えられたのであった。
  しかれどもパウルは基督の使徒となり,他の使徒の中でも,その勤労のために大使徒となったのであつたが,常に己の心を謙遜に保ち『最後には月たらぬ者(原語では早産の者の意)の如き我にも主(イイスス)が現れ給えり。 蓋し我は使徒の中,いと小さき者にして,使徒と名ずけられるにたえず,神の教会を迫害せしが故なり』(コリント前書十五の八,九)と告白している。
  この「月足らぬ者」「使徒の中でいと小さき者」「使徒と名ずけらるるに耐えざる者」の語などは,彼のロから偶然に出た空言であったのではなく,全く使徒パウルの真心から出た言葉であって,パウルの気分をそのまま表わしたものであります。 こうした例を我らは彼の他の書にも見ることができるので,たとえば『我衆聖徒(基督教徒)の中でいと小さき者に,ハリストスのはかり難き富を異邦人に福音すべき・・・その恩寵は与えられたり』(エフェス三の七,八)というが如きは大使徒としての謙遜が如何に大きな謙遜であったのではありませんか。 パウルのこの謙遜はとりもなおさず彼の心に神の恩寵を降し,彼を他しけて助けて基督教会を建設させた勢力であったのです。  愛すべせき兄弟姉妹よ、我らは皆『ハリストスのはかり難き富を異邦人に福音すべく召されたる者』(エフェス三の入)なのであります。 我らも福音することをつとめましょう。
  しかし,しかし,記憶しておくべきことは,もしも私は神学博士であり,哲学博士である,などと思って,謙遜の心がなかったのなら,それは決して成功しないでしょう。 
  たとえ何十億万のお金を持っていたとしても,もしもその心に謙遜な心がなかったならば,私はその伝道には成功しないことでしょう。 たとえ我らは皆シセロやデモステネスのような雄弁家であったとしても,もし謙遜の心がなかったとしたなら、その伝道には成功しないでしよう。
  ただ嫌遜のみが神の佑助を我らに引きつけるものです,神の佑助なくしては,我らは何も良いことを成し遂げることはできないものです。
  そこで我らは心に謙遜を作ることに急いで着手しましょう。 謙遜は実に神の教会を建設するための第一の大切な勢力であります。

  次に聖使徒パウルは我らに教訓をしています。 『我は総ての使徒よりも多く労せり』 『しかれども,これは我に非ず,我と共にする神の恩寵なり』 (コリンフ前一五の十)『総ての使徒よりも多く』これは傲慢から出た言葉ではないのです。 パウルが己れを助けた神の恩寵を認めているからなのです。 今しばらく彼の「労せり」という言葉について考えてみましよう。
  聖使徒パウルがどのように働いていたのか,は使徒行実を読めばよく分かるのです。 その十三章から二十八草の終わりまでは,おもにパウルの働きが記されたものでありますが,試みに新約聖書の目録を通覧して見ると,そこには
四人の使徒(ペトル、イオアン、ヤコフ、及びイウダ)は七公書(総計二十一章)を書いていましたが,パウルは一人で十四の書札(総計百章)を教会に遺していました。 そしてその書札中には,定理神学(ロマ書及びその他)もあれば,また倫理神学(ロマ書十二章及びその他)もあり,また牧会神学(テモフェイ書一,ニ章・テイト書)が含まれているのです。
  このようにパウロはよく労しました,如何にも熱心に,如何にも大胆に働きました。 パウル自身の言われた青葉を聞いて御覧なさい『我が労は更に多く』・・・『鞭うたれしこと過度(甚だしく)』・・・『死に頻せしことしばしばなり』・・・ 『ユダヤ人より四十に一つ足りぬ鞭を受けしこと五度』・・・『杖にて打たれしこと三度』・・・『石にて撃たれしこと一度』・・・『破船にあいしこと三度』・・・『一日一夜深淵にありき』・・・『しばしば旅をなし』・・・『河の難』・・・『盗賊の難』・・・『同族の難』・・・『異邦人の難』・・・『市中の難』・・・『荒野の難』・・・『海上の難』・・・『偽兄弟の難』・・・『労し疲れ』・・・『しばしば寝ねず』・・・『飢え乾き』・・・『しばしば禁食し』『凍え裸なりき』・・・『その他の出来事の外に,故に毎日の人々の集会,諸教会の慮りあり』・・・『誰か弱りて我弱らざらん』・・・『誰か躓きて我燃えざらんや』・・・『神我らの主イイスス・ハリストスの父,世世に祝讃せらるべき者は我が偽わらざるを知る』(コリンフ後書十一の二十三〜二十九・三十一)
  これが聖使徒パウルが自ら記した伝記であって,パウルが熱心に人間の力以上に労していたことを知るものであります。
  我ら愛すべき兄弟姉妹らも,もしも我が心中に教会を建設し,我が家庭に教会を建設し,我が村に,我が市に,我が日本の国に教会を建設せんと欲するならば,我らも労し,且つ熱心に働かなければならないのであります。
  熱心なる労働,これが神の教会を建設する第二の勢力であると知るべきであります。

  聖使徒パウルが福音伝道のために熱心に働らいていたことは,後世の宣教師中誰一人未だかってそのように働いた人がない程でした。 それにもかかわらず彼パウルは大きな謙遜を表していました,『我は使徒中いと小さき者』『我 は月足らぬ者』と言っております。 こんなに功績があるのに,なぜそのように謙遜であったのでありましょうか,それは聖パウルが教会を建設するための第三の勢力,『神の恩寵』を親しく自分の限で明らかに見るように感知してい
たからでした。 パウルの言っていることを聞いてご覧なさい『我が今の如くであるのは神の恩寵によるなり』(コリンフ前十五の十,エフェス三の七)
  『我はその福音の役者となれり,これ神の力の働きに従いて我に賜う恩寵の賜ものによるなり』と申しています。 『我に在する神の恩寵は空しからずして,総ての使徒よりも我は多く働けり,これ我に非ず,我と共にある神の恩寵なり』(コリンフ前一五の十) 今この聖使徒の言葉を分かり易い言葉に言い変えるなら,それは『我は使徒であるが,しかしそれは自分のてがらによっているのではなく,神の恩寵のお選びにかかったからなのである。』『我は働いた,しかしその真実は我ではなく,神の恩寵が働いていたのであった』『我は鋤(すき)にすぎない,地を耕している者は神の恩寵である。 我は筆であるにすぎない,書札を書くものは神の恩寵である。 我はラッパ、我は口であるに外ならない,伝道しているものは恩寵である』 しからば何時もパウルの中にやどりパウルと共にあった恩寵とはどのようなことであつたのでしょうか。
  『我れ父に求めん,彼は別に慰むる者を汝らに与えん』(イオアン十四の十六)『彼すなわち真実の(しん)来らん時、汝らを総ての真実に導びかん』と,主ハリストスは言い給うた。 これより以前,主は言い給うた『汝らがわたされる時,いかに或いは何を言うべきかを慮るなかれ,その時言うべきこと汝らに与えられんとすればなり,蓋し汝ら言わんとするに非ず,すなわち汝らの父の(しん)は汝らのうちに言わん』(マトフエイ十の十九)主ハリストスのお約束通りこの慰むる者,真実の,我が父の神は五旬節の日に聖使徒らの上に降り給うた(行実ニの一〜四)使徒らは聖神(せいしん)に満たされ,その力すなわち恩寵に満たされた。 彼等は聖神に満ち,その力すなわち恩寵を受けて更生し,新らしき聖なる人々と化した。
  彼らは聖神を受け,その後継者すなわち主教ら,長老らをへて,聖神の恩寵(能力)を総て基督を信じる輩に授け,今なお授けつつあるのであります。
  聖神,その力すなわち恩寵を我らはその眼で見ることが出来るのかということは,決してできません。 それはあたかも風や熱や寒さを直接見ることができないことと同じことです。
  しかし我の中に聖神の臨在すること,その能力の我の中に臨在することは,我らは感じることが出来るのです,あたかも我らが風や熱風や寒気を感じることが出来るように聖使徒パウルは自分の中に,聖神,そのカすなわち恩寵を感じていた,大聖人は皆あたかも聖神の恩寵を呼吸しておられるようであつた。 あたかも聖神の恩寵の中に沐洛しておられるが如くであつた。
  神の教会においては,昔もそのようであつたし,今もそのようであり,将来も神の教会においては,永遠にそのようなのである。 またそのようにあらざるを得ないのである。
  我らは恩寵の国の内に住んでいるのであるから,聖神はそのカすなわち恩寵を以て,我らと共に,我らの中にしばしば我らに代わって働き,ものを言い,歌を歌い,書くことをするのである。 

  愛すべき兄弟姉妹らよ,あなたがたは家庭の小教会を建設しようと思っておられるなら,婚配機密において聖神を受け,その恩寵の力を受けなさい,あなたがたに赤子が生まれたなら,これに洗礼機密を授けて,聖神の恩寵を以て原罪から洗い清められるようにしなさい。
  幼児は弱くて力が足りないものです。 我々成人であっても,経験も不足で,幼児教育には下手なのです,傅膏機密によって幼児の弱きを堅める所の聖神の恩寵を求めなさい,必ず得ることができます。
  罪を犯しましたか,罪に陥りましたか,痛悔機密によって,恩寵の保持者且つ分配者である牧者の前で痛悔をするなら,聖神の恩寵はあなたがたの霊を清めるのであります。 痛悔して,ハリストスの聖体を拝領しますと,ハリストス及び聖神来り臨み,あなたがたの心の中に住居を設け給うのであります。
  あなたがたがもし病気にかかり,助けが必要とするなら,教会の司祭を招きなさい,かれらは祈祷し油を傅けます。(ヤコフ公書五の十四,五)この見える油のうちには聖神,その力すなわち恩寵が潜んでいるのです,この恩寵は聖傅機密によってあなたがたにあたえられるのであり ます。
  司祭すなわち聖神及びその恩寵の分配者の必要が更に必要であるとしますか,現代での使徒すなわち主教にお願いしなさい,主教は選ばれた人の頭にその手を按ずることによって,その人は『常に弱きを癒し,足らざるを補う神の恩寵のカにより』司祭となるのであります。
  数名の主教の按手により,聖神の最高の分配者たる主教も,その聖神の能力によって立てられるものなのであります。
  そのようにして我らの全生涯は,聖神と共に,或いは聖神の中に,或いは聖神をへて,経過してゆくものなのです。
  聖神,その能力,その恩寵は,とりもなおさず教会を建設する所の『第三の勢力』であります。

  私が『第三の勢力』と申しましたのは,聖パウルの言われた言葉の順序に従ってあなたがたを教訓したからなのです。 本当はこの順序を逆にしなければならないのです。
  それはすなわち,
  第一の勢力は,聖神の恩寵,
  第二の勢力は,我らの熱心な働き,
  第三の勢力は,我らの深い大きな謙遜なのです。
  我らは常に謙遜を守りつつ、神の教会の建設のために熱心に努力しましょう。 そしてこの聖なる勤労に着手するに際しては,先ず祈祷を献じましょう。
  至聖なる主よ,我に霊的な能力を与え給え。 またこれを竪むる所の汝の聖神の恩寵を我らに降し給え「アミン」
                

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