リストスの
真価を見出す



府主教セリギイ

『アケボノ』誌より


  日本の信徒の多くは仏教もしくは神道などからハリストス教に為った者であります。 そうしますとハリスティアニンとなってから今まで用いてきた仏教或いは神道の一切の道具類は不浄のものとして破壊,放棄しなければならないのでしょうか。 これらの物にハリストス教的意義を付けて用いる事はできないものでしょうか。 旧き人を殺し新しき人となる。 旧き衣を棄てて新しき衣を着る。 という事は信者にとってとても大切な事でありますが,外面の問題を今一度考えてみましょう。

 (1)家庭祭壇
  日本の仏教徒の家には大抵どの家でも時には不相応に立派な仏壇が置いてあります。 また,神道の家では神々しい神棚を造って御燈明をあげ榊を飾ってます。 しかし,私共信者のあいだでも往々にして聖像を飾っていない家庭があります。 聖像があっても製造の額は破れ蜘蛛の巣がかかり,すすけたガラスの中には何があるのか分からないような家を見ることがあります。 何故,ハリストス教徒は仏壇や神棚に聖像を祭らないのでしょうか。 長い間の習慣でこれを罪と考えているのでしょうか。 しかし,思うに仏壇であろうが神棚であろうが一向に差支えない。 かえって天井の真っ暗な隅に聖像を吊しておくよりは仏壇や神棚を応用して十字架があれば十字架,聖書も,聖像を一緒に飾ったならばどんなにか,美しくなりましょう。 家庭の神に対する畏敬の念も増す事になると思われるのです。

 (2)香炉
  香炉も多くの仏教徒の家庭で用いられています。 もし,この香炉を信者がハリストス教的意味に於いて用いるならば(香炉に十字架やモノグランマを付ける),これは完全に教会に用いられる聖物となりましょう。 ある人は「余りに仏教臭い」というかも知れません,しかし香炉が仏教臭いといって煙草の灰皿を用いているのを見たことがありますが,これは随分「俗臭い」といえます。 灰皿を用いるよりは仏教が使っている「仏教臭い」香炉を使った方がどれほど目的に適ったものか知れないのです。

 (3)乳 香
  教会も信者も異教人も一様に香を利用しています。 どちらの香を使わなければならないか,乳香か線香か? どちらの香が神様に入れられるのでしょう。 勿論神様の前に香の区別はありません。 仏教の線香を使おうと,教会の乳香を用いようと少しも変わりはありません。 香を使う意味は即ち香の煙が天に昇るがごとくに私共の祈りも天に昇るようにと,香をたくのですから香の区別はないわけです。 ロシアに於いても様々な香があります。 イエルサリム香。 アホン香。 スミルナ香。 香水入りの香等で決して教会の香が一定している訳ではありません。 伽羅沈香及びその他日本の香は外国の香に勝るとも劣るものではないと思います。

 
 (4)十字架
  私共はよく四端(+)の十字架は新教(プロテスタント)か天主教(カトリック)。八端が正教会(オーソドクス)と区別し,新教臭い,天主教臭いと十字架によって区別します。昔から十字架にはインミッサ,コンミッサ,デクサッタ等の種類があって一定しては無いのです。  例えばペトログラードの小神学校には八瑞,神学校には六端の十字架。神科大学には四端の十字架が掲げられていました。 いずれの十字架もハリストスが釘せられた尊いい記憶の為の十字架であるのですから形式的,外面的な事を問題にする必要はいささかもないと思うのです。 また,ハリストスの釘が三つだから天主教であるという人もおります。 或いはハリストスが釘打たれた時に片足づつ別々に打たれたか,両足が重ねて打たれたかという点についても,歴史は詳しく伝えていません。 何れにしましても十字架であるならば,十字架そのものを尊ばねばならないと思います。

 (5)燭 台   
  今信者が一般に用いてる燭台の多くは十字架の上に受け皿を付けた(雨宮氏の造った)燭台でありますが、異教人達の用いてるような美しい燭台を何故使わないのでしょうか ?昔のものを掘り出したものの中には極めて美しい形の燭台がたくさん有りました。 燭台の意義からいきますと十字架の付いている台の方に疑問が起こります。 何故なら燭台に十字架を付けて使用するならば台を聖にする意味で立派な事でありまが,十字架自体を燭台にする事はかえって十字架の神聖を汚すものになるのではないかと思います。

 (6)蝋 燭 
  日本の正教会では通常ハルピンからの蜜蝋製のローソクを使って居ります。 また,地方の教会で此のロ←ソクが無い時はパラフィン製のローソクを使い,純日本製のローソクはまだ使った事がないようです。 しかし,私の考えとしては教会の為に用いるローソクならば,パラフィン製のローソクよりも純日本製のローソクに改造を加えたものを使用する方が適当ではないかと思います。 純日本製のロ−ソクの原料は植物物より採ったものでありますが,パラフィン製のものは幾分,動物の油が混ざって居りますから神様の前に捧げるものならば純日本製の方が遥かに相応しいものだと思います。

 (7) 花
  私が以前地方を巡回した時に聖像の前に美しい花を飾ってあるのを見掛けました。 しかし、神父や伝教師の「仏教臭いから」という注意で取り除いたという事がありました。 考えてみますと,正教会でも聖神降臨祭の時には美しい花で聖堂内や聖像を飾ります。 教会でこのようにできるならば何故信者の家では出来ないのでしょうか? 神様の御前に花を飾る事は決して仏教臭いということではありません。 天主教も古くから花を飾ることが続けられて来ましたし,モスクワのパトリアルフ(総主教)の大聖堂も宝座にまで花で飾った事が有ります。 宗教に最も大切な美の観念を養うという点からいっても決して悪い事ではない。 むしろ進んで行うべき善行であると思います。

 (8)野菜と果物
  巡回の時によく見受ける事で有りますが,聖像の前に新しい野菜,果物等が置かれているのを見て,誰かの注意でいつの間にかこれらのものが下げられてしまう時があります。 その場合いつも私はこれを再び聖像の前に捧げるように願います。 何故ならばロシアの8月14日,8月19日の祭りを見たことがある人はこの信者のした事を止めさせないでしょう。 即,14日には新しい野菜を,19日には初なりの果物を捧げて祈り,感謝するのです。 日本の新嘗祭もこの意味だろうと思います。 日本の信者もこの習慣を続けていったならば大変良いだろうと思います。

 (9)新年の餅
  神の御前に飾るという事では大変美しい行為だと思います。 過ぎし年を感謝し,来る年の幸福を祈って,神も人も共に喜び楽しむのであります。 太古のユダヤに於いても一切の初ものはすべて第一番目に神様に捧げられたので有ります。

 (10) 墓
  信者の墓は従来十字架で有りました。 しかし,ハリストス教がまだ一般こ伝播されていない国,地方に於いては,往々この十字架が野人によって汚されるので普通の墓石に十字架を刻んだものもあります。 しかし,必ずしも十字架や墓石に十字架を付けているとは限りません。 十字架の代りには魚(T]ΘΥΣ)やモノグランマ,良き牧者,などハリストスを象るものは沢山有るのです。 これらのものを装飾に代えて墓標にするならば,その昔カタコンベに見られたような実に古典的な芸術的価値があるものが出来上ると思います。

 (11)聖名(洗礼名)
  カタコンベの墓標を見ますと,ある名に錨の絵が描かれていますがこれは「エルピス」(望)という名の人の墓であったのでその名前を書く代わりに錨の絵を描いたのでしょう。 所によってはギリシア語の「エルピス」の代わりに「スペス」いうラテン語で記されているのも有りました。 ギリシア教会では「ピステス」(信),「エルピス」(望),「アガヒ」(愛),という聖名を用いていたもので,ロシアの「ウェラ」(信),「ナヂェジュタ」(望),「リボフ」(愛)はこれらのギリシア語の聖名をその意味に従ってロシア語に訳したものなのです。 只「ソフィア」(知恵)という聖名だけはギリシア語をそのまま使っております。 そうしますと日本では何故聖名をロシア語のまま使って日本語に訳して使わないのでしょうか? 例えば「ウェラ」を信子,「リボフ」を愛子,というように。 勿論これには様々と神学上の関係があることでしょうが,ギリシア語の聖名をロシア語に訳して使っているのですから,ロシア語の聖名を日本語に訳して使う事もできないことは有りません。 ロシア語の中には,日本人の為には随分難しい名が有りますから,出来る事ならば日本人の為には,日本語に訳した方がどれほど白身の本当の名前のようになるでしょう。 もし,自分の聖名が満足に言えないほど難しいものならば,まるで借り物の名前の様な気がするでしょう。 聖名を日本語に訳して「信子」「愛子」等と呼び慣れるまでは何だか俗名さいと思う人が有るかも知れません。 しかし「オリガ」という名(今では聖名となっている)は昔は俗名であって洗礼を受けて「エレナ」に代わったのでありまずが,今ではその俗名を聖名にして呼んでいます。 また,「ウラジイミル」という名も昔は俗名で聖名は「ワシリイ」であったのですが,現在では「ウラジイミル」という聖名として取り扱われております。

 (12)お守りとお札
  巡回の時,何々様のお守り。 何処何処のお札というものを見ます。 勿論これは単なる迷信に過ぎませんが,もし信仰の弱い人がこの御守りとか御札によって信仰の動揺を防ぐことが出来るならば,教会でも信者の為に,その御守りや御礼に代わる同様のものが出来るわけです。 例えば成聖式の祈祷文にハリストスのモノグランマを付けたならばこれは最早立派な御守りと御礼となる事でしょう。

 (13)祭りの装飾
  町の祭り,あるいは中元大売り出し,歳暮大売り出しの商店街を見ますと,綺麗な旗などで色とりどりに飾っております。 教会に於いても降誕祝賀会,星会(日曜学校),歓迎会等,万国旗などが意味なしに飾られています。 もし,単に装飾して飾るだけならばハリストスのモノグランマ,或いはその他教会の色々な意味深いものを旗として造って,万国旗の代りに飾ったならば美しく意味深いものになるでしょう。

 (14)教会の旗
  教会では昔から「旗じるし」として白地に十字架インミッサを付けたものを使用しておりましたが,これは赤十字の「旗じるし」で戦争のある場合は必ず誤解されるでしょう。 教会の旗としては震災前まで本会で用いていた「しるし」ハリストスのモノグランマが一番良いと思います。 教会として非常に意義深い旗「しるし」だと思います。

 (15)教会の印
  現在の教会の印は異教の風を取り入れた即,支那(中国)式のものであります。 若し教会がハリストスのモノグランマから印を造るならば意味深いものが出来ると思います。 何故ならば昔に於いてはこれらのモノグランマの多数が印に用いられていたのです。

 (16) 鐘
  教会の鐘楼にある鐘は日本の寺の鐘とは大分形も異なっています。 しかし,これら鐘の出生地を調べるとヨーロッパの西カンパニアという地方で生まれたもので,その昔は鐘のことを「カンパン」と言ったものであります。 天主教と関係の近いものであります。 しかし,地方に巡回してみますと鐘がないために祈祷の最も大切なる時に小さな振鈴を鳴らしているのを聞きますが,私が思うには小さい振鈴を鳴らすよりも日本のお寺で鳴らす鐘にハリストスのモノグランマを付けて鳴らしたならばどんなにか厳粛,且つ落ち着いた気持ちで祈祷出来るでしょう。 私はこれを仏教臭いとは思いません。

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  日本の正教会の信者は教えの道をロシア人から聴き,ロシア正教会を受け続けてきたもので,又続けていくものであります。 しかし,正しい意味で言うならばロシア正教会というものは何処にも存在しておりません。 ハリストス教は世界に唯一の宗教であって何処のハリストス教,何式のハリストス教というものは無いのです。 しかし,形式的・外面的に言うならばハリストス教がロシアに入った時,その宗教には既にロシア式というべき一つの形式が出来たのであります。 アメリカ,イギリス,フランス等,何処の国にしてもハリストス教教理の根本は少しも変わりはないのです。 宗教はその国々の風俗習慣の影響を受けて外面的,形式的に表し方が違ってきたので有ります。 日本に於いてハリストス教が盛んに伝道される今日,日本のハリストス教は,いわゆる日本式のハリストス教となっても良いのではないかと思います。  即ち、日本に於いては日本の風俗習慣に従ってハリストスの形式的,外面的な表し方が違って来ても差支えないと思います。 これが為に根本教理が覆される事はないのです。  二千年前のギリシア時代の形式モノグラン々を取り入れるのも良いでしょうが,しかし,日本独特なる風俗,習慣なるものから形式を取って新しい日本に適ったハリストス教をつくるという事が最も良い事であろうと思います。 どこまでも,なんでもロシア式に,ロシア人の教えをそのまま受け継がねばならないという事は有りません。 日本に入ったハリストス教は最も日本人の風俗,習慣に適ったように外面的形式なるものを造り直して初めてくつろいだ気持ちでハリストス教を自分のものにすることが出来,ここに於いて初めてハリストスの真価を見出す事が出来るのであろうと思います。

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