「信仰と宗教」

府主教セリギイ



  私共は外部の世界を知るのに,五感の作用によるのであります。 視る感覚,聴く感覚,触る感覚,味わう感覚,嗅ぐ感覚によるのあります。
  人々は何時でも此の五つの感覚を持っていました。 そしてこれから後も持っているでしょう。 ですから人々は何時でも,見ていました,見ています,そしてこれからも後も見るでしょう。 聞いていました,聞いています,そしてこれからも後に聞くでしょう・・・・
  この五感によって感じたこと・・是が外部の世界に就いての私共の知識の組立られる所の材料であります。 そして私共が此世に生存して死なないでいる為には,この自分の一個の感覚だけで充分です。

  けれども,もっと高尚な,もっと深い,もっと有益な生活をする為には,自分一個の感覚を,他の人々・・前に生きていた,又は今生きている・・他の人々の感覚と比べてみて,そして其の中から良いものを信じて受けて,自分一個の感覚を一層広く,また深くしなければなりません。
  其の様にして人は自分一個の経験に基づいた知識から,だんだん他の人々の知識を自分のものにする事,学問を覚える事に進んで行かなければなりません。
  人間の進歩の正しい道筋は何時でも,また何処でも必ずこう云うのであります・・最初は自分一個の経験,次は学問(即ち他の人々の経験を自分のものにする事)であります。 決して其の反対ではありません。 実際,例えば目についての経験を自身に持たない人(生まれながらの盲)は,色についての最も詳しい,美しい説明でも解かりません。
  外部の自然,外部の世界についての感覚もやはり之と同じであります。

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  併し外部の世界,私共が自分で見ている所の世界の外に,また内部の,見えない世界があります,神様を中心としている世界があります。 この見えない世界のある事は,見える外部の世界があるのと同様に疑いえないのであります。

  それではこの見えない内部の世界を,私共はどうしたら感じる事が出来るでしょうか,之に触れることが出来るでしょうか?
  内部の世界と其の中心なる神様を感じるには,私共は生まれながら心の中にある信仰の感念を以ってするのであります。
  総ての人々は何時でも,また何処でも,この信仰の感念を持っていました,持っています,そしてこの後も持っているでしょう。 故に総ての人々は何時でも,また何処でも,何かしら信じていました,信じています,そしてこの後も信じているでしょう。

  これに対して,或る人たちはこう云うかもしれません・・「私は自分の心の中に進行の感念を持っていたことはありませんでした,そして現に持っていません」。
  そうかもしれません,私は決して争いません。 何故ならば外部の世界に於いても盲者があります,聾者があります,香りを感じない人があります,味の解からない人があります。 併しこれらは皆当たり前の者ではありません,例外です。
 
  信仰の感念を持っていないと云う人は,よくよく自分の心を調べて御覧なさい・・其れが精神上健全であると云えましょうか?
  私共の聖書はそう云う人に,自分の心の病気を知るのに助ける言葉を示しています,其の言葉はこうです・・「愚かなる者は其の心に,『神なし』と云う」。
  そうすると通常の人,当たり前の人は皆何時でも,何処でも,信仰と云うものを持っているのです。
  自分の心の感覚,自分一個の精神上の経験・・是がそもそも私共各々の信仰が,譬えば一棟の家の様に,建て上げられる所の一つ一つの石であります。私共が只この世に生存している為には,この不完全な,狭い,薄っぺらな,自分一個の精神上の経験だけでも充分であります。
  
  併しながら,精神界(見えない世界,無形の世界)と神様とをもっと完全に,もっと深く,もっと広く感じるが為には,自分一個の感覚を,他の人々,他の国々の人々の心の感覚と比べてみて,そして其の中から,もっと立派な,もっと広い,もっと深い所を信じて受けて,自分の心の感覚を完全にし,広くし,また深くしなければなりません。 言い換えれば,他の人々の
信仰を学んで,それを取って自分一個の信仰を補い,また深くしなければなりません。
  当たり前の,正しい精神上の進歩の道筋は,この場合でもやはり同様です。 最初には自分一個の信仰,其の次には他の人々の進行を研究する事に移るのであります。
  其れですから,自分一個だけの堅固な信仰を持っていて,然もこの信仰についての詳しい事柄をしらないでいる事もあります(即ち自分一個だけの経験に過ぎないのです)。 またその反対に,種々の人々の種々の信仰を詳しく知っていながら,自分の信仰は甚だ弱いことがあります。
  他の人々の信仰を研究したり,自分の信仰を他の人々の信仰と比べたりして,一層完全な自分の信仰を造り上げる事は,取りも直さず,自分の教義を造り上げる事なのであります。

  重ねて申しますが,当たり前の正しい精神上の進歩の道筋はこうであります・・最初には自分一個の信仰の経験,其の次は教義(信仰の箇条)を造る事に移るのです。 この道筋は逆にする事はできません。 其れですから私共伝道者の為には,仏教なり,神道なり,兎に角自分の信仰を固く守っている者の方が,信仰の温かでもなく,冷ややかでもない人よりも遥かに価値があります。
  この二人の内,第一の人には,自分の信仰を私共の信仰と比べて,足らない所を補う事も出来ます。 私共の教義を受けて,信仰の固い「ハリスティアニン」となる事も出来ます。
  併し,第二の人は,ハリストス教を受けて,「ハリスティアニン」という名を持つ事も出来るでしょうが,「ハリスティアニン」となって後,其の心の中に弱い信仰を持つのみでありましょう。 僧でありますから,一体に信仰の感念が心に充分に出来ていない人に向かって,ハリストス教の最も善い教えである事をどれ程説いても無駄であります。

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  人の心に生まれついている信仰は,最も貴い宝であります。 人は之によって慰められ,暖められ,照らされます。 併しいったい信仰というものは,どう云う力でありますか?

  視る力,聴く力,触る力,味わう力,嗅ぐ力によって人間は,外部の,終りある,限りある世界を感じ,知る事が出来ます。
  其れ故に人がこの世界をこの様に感じるのは,必然的に,余儀なくそう感じるのであります。 この世界が人の目の前にある其のまま,余儀なく感じるのであります。 
  目の前に青い色があるならば,当たり前の人は赤い色が見えるという訳はない。 丸い物が目の前にあるのを見て,当たり前の人は四角な物があるとは云わないでしょう。 冷たい水に手を触れて,人は之を熱いと感じる事はないでしょう。
  外部の世界は,それでありますから,必ずそうと,強いて人に感じさせるものであります。
  外部の世界に就いての総ての画鬼門も論証という,今述べた様な,強いる事,余儀なくせしめる事をを沢山集めたものにすぎません。 勿論,この論証は知恵の為には明白であります。 併し感情の為には冷ややかであります。 そして感情は之によって温味も,光も,慰藉も受ける事は出来ません・・・・・・

  五感の作用とは反対に,信仰の感念によって私共は精神上の世界と,其の中心なる,限りなき,終りなき神様に触れる事ができます。
  限りなき物は,私共の心に制限を加えません。 私共はこれで自分を強いるものの様には感じません。 また自分に説明を与えたり,証拠立て(論証を示し)たりするものの様にも感じません。 その反対に,私共は詩文の信仰の感念によって望む様に,即ちまったく自由に感じるのであります。

  私共の感覚は度々不完全な作用を現すものであります・・・・・・ところが自分の信仰を他の人々の信仰と比べてみて,其れよりも一層良いものを知り得た時は,私共の心はこの良いものを信じて受けます。 
そして之を受けるのは証拠立てられたからではなく,この良いものが自分の心の趣味に合うからです。 其れですから,自由に,強いられる事なく,之を受けます。 外から無理に押し付けられたの出ない,私自身の大切な信仰になるのであります。
  知識と反対に,信仰は絶対に自由なものであります。 其れですから私共の心にとって,信仰は最も貴いのです。 其れですから信仰があれば,私共の心に光りも在り,また温味もあります・・・・・・

  或る人達はこう云います・・「私に証拠を見せて下さい,そうすれば私は信じます」。 併し其れは間違った考えです。 何故なれば,既に証拠を挙げたならば,其れは知識に属するものであって,信仰に属するものではないのであります。
  既に信者になった人の中にも,或る者は自分の信仰を固くするが為に,信仰の証拠(根拠)を見出そうとしています。 しかし無益な事です。 証拠を見出したならば,信仰は明白になるという利益はありましょうが,其の代わり自由と力を失います。 証拠を手にする時,人は自由な,熱烈な,自分の信仰を変じて,人を強いる論証から成り立つところの冷ややかな教義にしてしまうばかりであります。
  私は,知恵の作用を以って私に証拠立てられたが故に信じるのではありません。 そう望むが故に信じるのであります。 私が熱烈に信じるのは,私が望む様に信じるからであります。

  併しこの事からして,また信仰と云うものは,時々私共に苦行を求めるもの,克己を促すものであると云うことが判然と解かります。 私共の心は信仰によって満足を得ます。心の中に温味と,光と,喜びを覚えます・・・・・・ところが私共の知恵は,私共からしばしば私共の進行の証拠を求めます。
  知恵のこの要求に対して私共はこう答えなければなりません・・・・
「何の為に証拠がいるのか? 証拠はいらない!」
  それからまた,学問と学者達は,私共に対して云うでしょう・・・・
「其のような事を信じるのは愚である,が鬼門は其のような事を認めない」。
  私共は彼等にこう答えなければなりません・・「学問や知恵の見地から云ったなら,愚であるじゃに知れません。 けれどもこの信仰によって私共は心に温味を覚えます。 それ故私共はテルトリアンに倣ってこう云います・・『非合理であるから,愚であるから,私共は信じるのです』・・もし証拠立てられ他ならば,不合理とはいわれないでありましょう。 そうしたならば信仰も内,唯知識になってしまうでしょう。 私は信じます,自由に信じます,進行の証拠を求めません,其れ故に私は心の中に一層快く,温かく感じるのであります」。

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  信仰は唯一の神様に触れる事でありますから,唯一つであります。 凡そこの世に生きていた人々,また現に生きている総ての人々に,一様に生まれ付いているものであります。
 
  自由な信仰は,信仰を持たないで一生涯を送ろうと思う人や,信仰なしで青年を教育しようと考えている人達は,どおように大なる間違いをしている事でありましょう!
  実生活は何時でも実生活であります。 即ちここに唯喜びばかりあるのではありません。 多くの悲しみもあります。 また立派な実例や教訓ばかりあるのではありません,誘惑もやはり沢山あります。
  悲哀や,不幸の嵐に出会った人達は,もし其の心に信仰の慰めを得て折らなかったならば,何処に慰めを見出す事が出来ましょうか?
  実生活の冷酷に心を冷却された人達は,もし其の心に信仰の温味を感じて折らなかったならば,何処に心の温味を求める事が出来るでしょうか?
  多くの誘惑や,堕落を目の前に見ている人達は,もし其の心に信仰の光を持っていなかったならば,どうして堅く立っている事が出来るでしょうか?
  このような人達は,襲い来る実生活の嵐と冷酷に対して,堪えきれません,ひどく堕落します・・・・そして失望に陥るのみです。
  それから後はどうなるでしょう?・・・・この答えは彼等が既に与えています,それはこうです・・・・自殺!

  それとはまったく反対に,信仰を持っている心の温味と,信仰を持っている心の喜びと,信仰を持っている心の光は綿祖度もを救います。 実生活の嵐や,世中の冷酷や,世間の誘惑の中に在っても,私共を救います。
  信仰を持っている人達は失望に陥りません。 自殺をして世を終るような事をしません。

  併し自殺する者はハリストス教の間にもありはしませんか? そうです,有ります! けれどもこの不幸な人々は,少なくとも自殺する刹那に於いて,必ず自分の信仰を失っているのであります・・・・
  してみますと,信仰なしで青年を教育しようと思う人々は,どれ程強い力を排斥しているものでありましょう?
  
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  併し,信仰が唯一のものであるならば,何故に宗教が沢山あるのでしょうか? 実際ハリストス教,マホメット教,仏教と云うように分れています。 ハリストス教の中にも正教,カトリック教,英国教その他新教の分派が沢山あります。 仏教の中にも真宗,禅宗,日蓮宗など沢山の分派があります。
  唯一つの信仰でありながら,このように多くの宗教があるということは,私共の惑いとなりはしないせしょうか?
  併しそれよりも一層惑いとなるべき事がある,他でもない,一つ一つの宗教,また其の宗教の中の一つ一つのの分派は,皆自分ばかり真実の宗教であると思っている事であります。 ところがっ心理というものは唯つきりありません,ですから総ての宗教が動じに皆真理である筈はありません。

  それでは何処に,何の宗教に真理があるのでしょう? それとも真理は何処にも散ってあるもので,総ての宗教にすこしづつ含まれているものでしょうか?
  実際ある学者はそう考えています。 そして総ての処に散っている光の分子を一つの処に集めて,新しい星を輝かそうと思っています。即ち種々の宗教の間に分れている真理の一粒づつを取って(分解),之を一つに合わせて(総合),そして唯一つの真実の宗教を創ろうと企てています。
  
  併し切り取られて一緒に集められた花は,勿論美しい花束にはなります,けれども生きていません,ついには必ず枯れてしまいます。
  丁度そのように片々の真理を取って,之を一つに合わせて作った宗教は,活きた信仰を与えません,それ故に人の心に満足を与えません。

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  それでは宗教が沢山あるのは何故でありましょう?
「信仰が唯一つのものであるならば,何故多くの宗教があるか?」
という問いに答える事は難しくはありません。
  総ての人々は,目がありますから,見えます。 けれども視る力はそれぞれ同じではありません。 強い,健全な目は,遠くからでもはっきり人を視分けます。 弱くなった目は近くでなければ,はっきり人が見えません・・・・病気で,傷んでいる目は,近くにいても,人だか木だか視分けられません。
  丁度そのように神様を感じるものは,人の心であります・・・・併し総ての人々の心は皆一様ではありません。
  清き心を持っている人は,はっきり神様を感じます・・・・さほど清くない心の人は,只ぼんやりと神様を感じとるばかりであります。
  罪に汚れた心の人は,神様を感じとることが出来ません。 罪の為に心が盲になっていますから・・・
  こういう訳で宗教が沢山あるのです。 こういう訳ですから,歴史上文明の進んだ時期に甚だしく不似合いな宗教がまだ有るのです。

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  次に「種々の宗教はみな同じ価値をもっているでしょうか? 言い換えれば,夫々の宗教の比較上の価値はどこに有りましょうか?」
  この問題にもやはり譬を取って答えましょう。
  全く健全な目で見る所のもののみ,物に就いての正しい,そして価値のある考えを与えることが出来るのであります。
  弱い目で見た所では誤りが生じ易いのです。 併し勿論其中にも幾分かの真実はあるでしょう。
  只全く見えなくなった目ばかりは,人に何も示す事が出来ないのです。
  丁度それと同じように,只清き心の感覚である所の信仰のみが,充分の価値をもつ事が出来るのであります。
  併し,罪に悩んでいる心の感覚である所の信仰は,たとえ貴い真理の分子を含んでいても,必ずその内に沢山の誤りがあります。
  また精神上の盲になった罪深き心は,最早価値ある信仰を人に与えることは全く出来ません。
  して見ますと,熱烈な信仰の実例は何処にも見る事が出来ます。 ハリストス教以外でも,比較上清い心の人々の間にはこう云う実例を見る事があります。
  その反対に,ハリストス教の信者の間にも,只信じているだけで熱烈な信仰をもたないものがあります。

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 それではどのような信仰でも,それが心から出るものであるならば,不信仰に勝るもので,比較上価値をもっているものであるという事はお解りになりましたでしょうが,此処に今一つの問題があります。 即ち「どういう信仰が唯一つ,救いとなる信仰で,従って人間の為に無くてはならないものでしょうか? ハリストス教を自分の心に受けて,そして之を実際の生活に現わして行く事が,救いの為に絶対必要な条件でありましょうか? それとも総ての信仰は救いを与えるものでありましょうか?」
  この問題に対して,こう答えなければなりません。
  いいえ,総ての信仰,総ての宗教が救いを与えるものではありません。 救いを与えるものは只ハリストス教のみであります・・・・・・只之ばかりが唯一の救いの道であります。
  勿論,どの宗教でも,多少は神様も人に示しています。 之が総ての宗教の功であります。
  勿論,どの宗教でも人を神様に導いています。 之が総ての宗教の功であります。
  勿論,どの宗教に於いても人は,はるか遠くに在す神様と,精神上一つに合わせられます。 之が総ての宗教の功であります。

  それでは「救われる」という事は何の事でありますか? 「救われる」というのはこういう事です,・・只神様を感じるばかりではなく,只上様を慕うばかりではなく,只心の内に神様と合わさるばかりではなく,(イ)身体を以っても,物質上に於いても神様に触れる事であります。(ロ)これによってまた神様から力を得る,恩寵を得る事であります。(ハ)また精神を以っても神様と一つに体合して,自分の知恵,自分の感情,自分の意志に神様の完全な性質を受ける事であります。

  このような救いを学者等は与えましょうか?
  いいえ,与えません。 勿論彼等は人を地の上から高く昇らせます,人を点に向かわせます。 天に向い,神様に向かって昇るが為の階梯をも人に備えてくれます。 けれども人を天にまで揚げて,神様にまで達せしめて,人を神様と体合せしめる事は,彼等にまだ出来ませんでした,今も後も出来ないでしょう。
  それでは,此のような救いを,ハリストス教以外の他の宗教は与えることが出来ましょうか?
  いいえ,出来ません。 勿論この階梯でも,人は神様に達しようとして,天に向かって揚がります。 そして時としては大層高く揚がって,下の方からは「もう見えない,多分天に昇っているのでしょう」と思われる程にまでなる事も出来ます。 併しながらこの階梯は天にまで達しません。 それ故に此等の宗教によって,人は神様と体合するまでに昇ったことはまだありませんでした,今も後も,そこまで昇る事は出来ません。

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(イ)只ハリストス教に於いてのみ神様は人になられました。 そして人になられても神様は神様たる事を失われません。 即ち只ハリストス教に於いてのみ神人が現れました。神人とは誰であります? 是は人が神様まで昇ることの出来る為に,神様が人にまで降りられたのであります。 是は人が神様に触れることの出来る為に,神様が人に触れられたのであります。 人間が神様と一つに合わさることの出来る為に,神様が人間と一つになられたのであります。 神人に於いて人間は神様と体合するのであります,神様まで昇るのであります,神様から力と恩寵とを受けるのであります,実際の生活に於いて神人を模範とするのであります。 一言で云えば,神人に由って人間は救われるのであります。 実に天を地にまで下し,地を転にまで上らした所の神人は,全人類がそれに由って天に昇ることの出来る階梯であります。 この階梯に由って,人類の中の多くの者は最早天に昇りつつあるのであります・・・・・・
  この神様の階梯の外に即ち神人の外には,天に,神様に昇る道,救いに至る道は今も,後も,何時もないのであります。 
  そして神人を識って,之を公然信じ,また伝えるものは,只ハリストス教ばかりであります。
  して見ますと,神人に由って救われることも,八張只ハリストス教に於いてのみ出来るのであります。

(ロ)「救われる」ということは,その他にまたどう云う意味でありましょうか?
  是は神様から私共の無力を助ける恩寵の力を受けることであります・・・・この力,この恩寵を与えることの出来る者は,只人と直接に体合した所の神人のみであります・・・・神人に由って,恩寵の源なる神様と,恩寵を受ける者なる人間とが,分れないように結び合わされたのであります・・・・・・

(ハ)「救いわれる」と云うことは,他にまたどう云う意味がありましょうか?
  こういう意味であります。 「最も完全なる,最も義なる者を自分の身に映すこと」であります。 言い換えれば,出来るだけ完全なる,義なる者となることであります。 何故なれば不完全なる者は,苦しみます。 苦しむ者は幸福を感じていません。 幸福を感じて居ない者は救われた者ではありません。 
  併しどのような宗教が,人間の目前にこのように高い理想を立てるばかりでなく,また実際にこの理想に近づく途を示すことが出来ましょうか?
  矢張只神人の宗教ばかりこれが出来るのであります。 此の宗教に於いて,遠い天は人間の為に近くなったのであります。 人間の弱い力は,神様の力(恩寵)に補われるのであります。 この宗教に於いては,どのような行いをすべきであるとか,どういう道をふんで行くべきであるとか,何処に真理を求むべきであるとかいうような,只抽象的な教訓ばかりでなく,「我は道なり,真実なり,生命なり」と云った神人ハリストスの活きた面影が私共に示されるのであります。

  このように高い理想,而もまた神様の力の助けに伴われる理想を心の目前に立てているハリストス教の人は,
 T 悪から遠ざかるばかりでなく,悪に勝つのであります。
 U 総てを皆悪であるとして排けるのではなく,総てを改めて造る事,総てを新たにする事(新天,新地)に向って進んでいるのであります。
 V 自分を悪しき者として無くするのではなく,出来るだけ之を神様に肖た者とする事に向って進んでいるのであります。
  以上述べた事を皆合わせて救いというのであります! そして是は只ハリストス教に於いてのみ与えられるのであります!

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  それ故に,「信仰」は唯一つで総ての人々に一様に生れ附いているのであります,けれども宗教は沢山あるのです。
  それ故に,総ての宗教は比較上価値を持っていました,そして持っています。 けれども絶対の価値は唯ハリストス教ばかり持っています。

  何故ならば,唯ハリストス教に於いてばかり,人は(イ)精神上にも,肉体上にも神様と体合することができます。 (ロ)この体合に由って特別な精神上の力(恩寵)を受けることが出来ます。 また,(ハ)この力の助けに由って自分の身に,自分の行いに,唯ハリストス教のみ示す所の,最も完全な理想を映すことが出来ます。
  私共は「神様と体合することが出来る」といいます。 何故ならば神様は既に天を地にまで下され,自らは人にまで下がられました。 併し今や私共人間が,神様にまで上らなければなりません。 地を天にまで上らせなければなりません。 私共人間が,神人を信ずることを以って,神様にまで,天にまで上るが為に,苦行をしなければなりません。
  私共は「力を受けることが出来る」といいます。 何故ならば神様は既に正教会に於いて,その七つの機密に於いて,恩寵の力の尽きざる泉を人々に与えられました。 併し今や私共人間が,神人を信じて,正教会に来て,此の泉から,機密の中にある神様の力を汲まなければなりません。 この機密の中,最初教会に入るときに行われるのは洗礼と傅膏であります・・・・私共人間は,この第二の苦行をする決心を起して,之を実行しなければなりません。
  私共は「最も完全な理想を自分の身に映すことが出来る」といいます。 何故ならば神様は既に理想を私共の目前に立てられました。 そして其れに向って進むことを私どもに命じられました。 併し完全の徳は,贈物のように私共に与えられなかったのです。 私共人間は,神様の力に助けられつつこの完全の徳に達するように,正教会の内にいて,一生涯の苦行を積むまねばなりません。

  何と高き理想の事業ではありませんか? この衣装外にわたる事業,この終ることのない修養の事業に,正教会は建っております。 信仰に由って神様の力の助けを受ける事ができるのであります。

  故に私共に降臨された神人を私共は迎えましょう。 彼と共に天に上がりましょう。 彼から,正教会に於いて,恩寵の地彼を受けましょう。 そして一生涯の苦行を以って,私共の天の父の美しく,且完全であられるように,私共も其れと同じように,美しく,且完全なる者となるように努めましょう!

                      1915年