環境危機に関する正教の声明 1990年 全地総主教区

「爾の賜を爾の諸僕より、衆の為、一切の為に 、爾に献りて」
       (金口イオアンネスの聖体礼儀より)

この言葉で、正教の聖体礼儀は被造物とその創造主への私たちの関わりについて、その見方と理解の核心を捉えている。人間自身も含め、被造物は神のものである。被造物は人間の所有物ではない。人間は被造物を創造主に捧げる自由な代理人である。

創造をどう理解すべきか

 万物が創造された目的は、突きつめれば創造主への礼拝である。降誕祭の聖歌が最も美しくそれを表現している。

ハリストスよ、爾(なんじ)が我等の為に人として地に現れしに因(よ)りて、我等何を以て爾に奉らん、蓋(けだし)爾が造りし物は各々爾に感謝を奉る。天使は歌を、天は星を、博士は礼物を、牧者は奇蹟を、地は洞を、野は芻槽(カヒバブネ)を、我等に於ては母、童(どう)貞(てい)女を奉る。世々の前(さき)より在(いま)す神よ、我等を憐み給へ (降誕祭晩課祭日のスティヒラより)

 全宇宙が創造主を礼拝し捧げ物を創造主に献じる。聖堂のかたちと、イコン、モザイク、フレスコの配置は全宇宙の縮図である。そこには人間とそれ以外の被造物の神に対する関係が明確に示されている。それは今、この地上にあるものだけではなく、天にあるもの、やがて来るべきもの、――ハリストス・イイススが成し遂げた救いがもたらす、終末の約束と全被造物の変容――の表現である。「ローマ人への手紙」第8章でパウェルが述べ、またギリシャ教父たちも教えてきたことだ。

神が人となったのは、人が神になり、被造物もまた神の造られざるエネルギアの働きによって変容されるためだ。(聖グレゴリオス・パラマス)

 正教会は礼拝の中で、この深遠な創造理解を伝える。とりわけ、被造物の司祭としての人間の役割が最も明瞭に表されている。たとえば、そこでとなえ歌われる祝文と聖詠は、全被造物の成聖を教える。正教会は毎日の晩課でこう歌う。

我が霊や主を讃め揚げよ…主よ、爾の工業(しわざ)は何ぞ多き、皆知恵を以て作れり、地は爾の造物にて満ちたり。 103聖詠(104詩編)

 その礼拝は被造物を構成する一つ一つを讃揚し、表し尽くす。教会による水の祝福は、聖神(しん)(聖霊)へ祈願することで、被造世界の一つの構成要素にどのように、成聖し救済する力が与えられるかを示す。農地、ぶどう畑、果物の初物、小麦…自然界を構成するあらゆるものが祝福される。その祝福は、人間の救いと栄化、そしてその結果である全被造物の栄化によってあらゆる被造物に実現する「変容」への教会の理解を表している。

人を愛する王よ、今も親ら爾が聖神(しん)の庇蔭(おおい)に藉(よ)りて来りて、此(こ)の水を聖にせよ。此(これ)に救の恩寵、イオルダンの祝福を與(あた)へ給へ。此を不朽の泉、成聖の賜(たまもの)、諸罪の赦(ゆるし)、諸病の醫(いやし)、悪魔を滅す者、敵軍の近づき難き者、天使の力に満たさるる者と為し給へ。凡そ此を挹(く)み、此を飲む者が之(これ)に由りて霊體の潔(きよめ)、諸慾の醫、家屋の成聖、及び悉(ことごと)くの善益を獲ん為なり。蓋(けだし)爾は我等の神、水と聖神(しん)とを以て罪に由りて古びたる我等の性を新(あらた)にせし者なり。爾は我等の神、水を以てノイの時に罪を溺らしし者なり。爾は我等の神、海を以てモイセイに藉りてエウレイの族をファラオンの奴隷より救ひし者なり。爾は我等の神、野に於て磐(いは)を鑿(うが)ちし者なり、即(すなはち)水は流れ、渓(たに)は溢れ、爾は渇ける爾の民を飽かしめ給へり。爾は我等の神、水と火とを以てイリヤに藉りてイズライリをワアルの迷より改めし者なり。
主宰よ、今も親(みずか)ら爾の聖神(しん)を以て此の水を聖にせよ。凡そ此に觸れ、此を飲み、此を傅(つ)くる者に成聖、壮健、潔浄、降福を與(あた)へ給へ。
(神現祭の大聖水式 「水を祝福する祝文」より)

全感覚を動員しての「祝典」

 正教会の礼拝の殆どは「祝典」であり、すべての感覚を用いて行われる。見る、聴く、味わう、嗅ぐ、触れる、まさに五感の動員である。そのために様々な素材や道具を念入りに選び用いる。木材、絵の具、絵筆、パン、ぶどう酒、乳香…、様々なものを。

「もの」を尊ぶことを止めてはならない。それによって私の救いは完成されたのだから・・・ダマスクの聖イオアンネス「聖なるイコンについて」1:16

 イコンは物質(もの)を受け取り成聖する。イコン制作に物質を用いること、そしてほとんどのイコンには自然界の諸要素―動物、植物、田園、山々、河川が描かれていること、これらは何もかもが、神が与えた被造物の本性、すなわちその変容と人間の救いにおけるその役割をはっきり示している。教会は物質を卑しめるグノーシス主義的教えを退ける。物質的世界は神のものであり、本質的に善きものである。

 同様に、ビザンティン教会の聖堂は自然との調和の内に建てられている。自然との交わりの内にとも言えるほどだ。美術と建築物は、それぞれで独立した存在ではなく、イコンと聖歌と一体となって礼拝に身体的、物質的表現を与え、その独特の性格を形成している。だから、完全な左右対称が通常避けられるのは自然な成り行きだった。建築上の各部分の特徴はそれぞれの個性を保ち、かつ同時に全体を貫くコンセプトと完全に調和している。

礼拝の中心

 礼拝の中心にあるのは「聖体礼儀」Eucharistである。それは神聖神によって救われ、礼拝を通じて変容された被造世界の、表現と体験の極致である。被造物を素材として人間の手によって新たに形づくられた「もの」が、パンとぶどう酒として神に捧げられ、この「声明」の冒頭に掲げた言葉で、確認される。

  「爾の賜(たまもの)を爾の諸僕より、衆の為、一切の為に、爾に献りて」 

 この言葉は、すべての被造物は神のものであり、人間は、神のもの「一切」を神に献げ返すと宣言する。これは元祖アダムの神と被造物に対する原初の関係の的確な宣言であり、その関係が回復されたしるしであり、かつそれ以上のこと、すなわち終末での被造物の在り方の予兆でもある。私たちがハリストスの尊体血を受ける時、神は、人間の被造物との本質的な関係の内で私たちに出会い、その生理的現実に入ってくるのである。

 人間はすべての被造物の中で最も特別な位置を占めているが、それは被造物全体に対するものではない。到来する一切は神からのものであるので(イオフ38-39)、人間は被造物を尊重しなければならない。人間は被造物の所有者ではなく、たんに被造物をその創造主に献げ返すために、その持っている技術と技量を用いて被造物の「善さ」を、よりいっそうの「善さ」へと高めることが許されているにすぎない。それを心に刻み込まねばならない。人間は神に対して、被造物に配慮する責任がある。被造物の途方もない豊かさを守り、賢明に用い、貪欲な力の行使によってその豊かさを浪費せぬように守るのは、人間の責任である。

 ちょうど聖体礼儀(ユーカリスト)で司祭が神に捧げた「被造物の一切(fullness of creation)」が成聖されたパンとぶどう酒の形で、神の恵みの祝福として与え返され、皆で分かち合われるように、私たちも神の恵みと救いがすべての被造物に分かち合われるための通路でなければならない。人間存在とは被造物の完全さと被造物全体への来るべき神の救いを表すための栄光に輝く僕(しもべ)なのだ。

謙遜な人に向かって軽蔑的に話し、彼を生きた被造物と見なさない人は、その口を神に向かって開いている者のようだ。彼の目には謙遜な人は軽蔑されるべき者に見えようが、その栄誉はすべての被造物が認めている。謙遜な人は野獣に近づく。しかし、野獣たちの目が彼を捉えると、彼らのどう猛さは和らげられてしまう。彼らはやってきて、僕(しもべ)が主人にするように彼にまとわりつき、尾を振り、手や足をなめる。アダムは罪を犯す前に、パラダイスで、周りに集まっている動物たちに名を与えたが、この謙遜な人から発する香りに、動物たちはアダムの香りと同じ香りを嗅ぐ。この香りは、私たちから取り去られたが、ハリストスはこれを回復なさり、この世に来られた時、私たちに再び与えて下さった。それによって、人間性の香りをかぐわしいものにして下さった。 シリアの聖イサアクの説教より

現実を直視すれば

 しかし、今日の世界の現実は、全く違う。人間性の反逆、高慢そして貪欲がアダムとの原初の関係を閉ざしてしまった。被造物の司祭としての人間の役割への理解は無視され、捨て去られてしまった。いまや人間は、「盗っ人」として振る舞い、被造物を食い物にしている。そうすることで、私たちは「種」のみならず生態系全体に破壊をもたらした。私たちの世界はかつて経験したことのない死と腐敗の危機に直面している。教会の教父たちは、この世の腐敗の根本原因として罪を認識していたものの、今日私たちが犯しているような、被造物への包括的な、そして生命を脅かす、その結果までは知らなかった。

地は全くむなしくされ、全くかすめられる。
主がこの言葉を告げられたからである。
地は悲しみ、衰え、世はしおれ、衰え、天も地と共にしおれはてる。
地はその住む民の下に汚された。
これは彼らが律法にそむき、定めを犯し、とこしえの契約を破ったからだ。
それゆえ、のろいは地をのみつくし、
そこに住む者はその罪に苦しみ、
また地の民は焼かれて、わずかの者が残される。
イサイヤ24:3-6

 世界中で、森林は火事や伐採によって破壊され、湿地は開発と農業のための干拓によって失われてゆく。貪欲と無知によっていくつもの種が消えつつある。浪費された天然資源を取り戻すことはできない。水も空も汚染されてゆく。地球規模の危機が、私たち人類が依存してきたこの世界そのものを脅かしている。

 私たちは創造主と被造物との正しい関係の回復を試みなければならない。これはまさに、羊飼いが最大の危険の時に、自分の群れのためにいのちを投げ出すように、人間が自然界の生き残りのためにその欲求と必要の一部を放棄しなければならないことを意味する。この新たな状況と挑戦は、人類が被造物の痛みのいく分かを負うこと、同時に自然を享受し、讃美することを呼びかける。そして何よりもまず悔い改めを呼びかける。しかしこれまで多くの人たちには、この順序が理解されていなかった。

「神の創られたすべてを愛しなさい、その全体も、砂粒の一つ一つも。木々の葉の一枚一枚、射し込んでくる神の光の一筋一筋を愛しなさい。動物、植物、あらゆるものを愛しなさい。あらゆるものを愛するなら、あなたはそれらの内に神の神秘を知るでしょう。一度それを知ったなら、日々いっそう、たゆみなくその神秘を認識してゆくようになるでしょう。そして最後には、全世界をたえまなく、あらゆるものに及ぶ愛で愛するようになるでしょう。動物たちを愛しなさい。神は彼らに思考の芽生えと誰も取り去れない喜びを与えています。だから、それを邪魔したり、彼らを苦しめたり、喜びを奪ったりして、神のみこころに反しないで下さい」。ドストエフスキー 「カラマゾフの兄弟」第2部第6編より

 しかし行いの伴わない、言葉だけの「悔い改め」は無意味である。ハリストスがこう言っている。

「わたしに向かつて、『主よ、主よ』と言う者がみな、天国に入るのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが入るのである」。マトフェイ7:21

 私たちにはこの悔い改めを日常生活で目に見えるものとするための取り組み方が求められている。

修道の伝統に学ぶ

 正教会の修道の伝統は大切な洞察を与えてくれる。
1)修道を生きる者たちは、あらゆる被造物への共感を深める。動物たちに寄り添い、彼らと日々の生活を分かち合った多くの偉大な聖人たちがいる。
2)彼らは被造物が提供する富を、「節制(エンクラテイア)」と、情念からの自由のために、「祝い」に用いることを提案している。そんな伝統の中で彼らは、つかの間の幻想に過ぎない快楽を次々と差し出す「消費社会」が人々に獲得可能であると思わせる「歓び」より、はるかに深い歓びと永続的な満足を経験してきた。
3)修道的伝統の中にある、個人よりむしろ人間の共同性の強調は、私たちに何が必要かについての偏りのない理解のために、重要な視角を提供している。

 私たちの多くが、この正教の修道性が示す生き方の内で、群れのために進んで苦難を受ける羊飼いの苦痛を体験するであろう。なぜならどのように生き、何を人生に期待するかについての本質的な「変更(くいああため)」がなければ、神が人に与えた被造世界における役割を果たし損ねることになるからである。

神の創造した世界の略奪

 私たちの多く、あまりにも多くが、貪欲と自己中心性、そして世界と世界への関わり方の変更への無関心を、自らに許している。かつては清潔で豊穣だった農地が、化学肥料と除草剤の過度の使用で台無しになってしまった。急速に消滅してゆく森林地帯をさらに燃やし尽くすことで、無法な土地簒奪者たちは脆弱な自然資源を、土地所有権を獲得するために不法に破壊している。かつては水晶のように澄み切った海に未処理の汚水を垂れ流し、海辺に無計画に建築物を建てる住宅開発業者(デベロツパー)たちは自然との調和の内に生きることに満足している人々だけでなく、被造世界全体の多くの様々な側面に襲いかかっている。

 神の創造物を略奪することを続けるなら、最後にはそれらを破壊してしまうことになるのは必然である。肝に銘じるべきは、私たち人間は被造物を見て何が役に立ち、何が立たないかを判断できないことだ。イイススは、人間が馬鹿げていると呼ぶものを通じて、神はしばしば人々に語りかけてきたと教えている。弱いもの、役に立たないもの、馬鹿げたもの、壊れたものは被造物全体の一部として受け止められなければならない。それらを通じて、偉大なもの、力に溢れたもの、有益なものよりもしばしば、神を垣間見ることができるからだ。

桃色のちっぽけな森の花

 この地上の誰が桃色のちっぽけな森の花を見て、バラ色のツルニチニチソウが小児白血病の治療に有効であるなどと気づいただろうか。ザキントス島とアカマス(地中海地域での希少なウミガメ繁殖地)で巣作りし繁殖するためにウミガメに必要な条件が、そこへ遊びに来る旅行者たちに十分に認識されていただろうか。ちょっと見ただけでは無益で有害でさえある幾千種もの虫、爬虫類、植物、哺乳類が自然界には溢れている。もっと念入りに調べてみればある種には害があり無益でも、他の種に対してはきわめて重要な(crucial)ものであることもあろう。私たちにはそれを判断する力はない。何が生き残り何が生き残るべきではないかを判断するための、(状況の変化に応じて)変動する価値基準(sliding scale)を神(He who is)は設定していない。私たちはたゆみなく困難に直面し、教会の深い教えと被造物の叫びによってチャレンジされなければならない。被造物たちは既に私たちに委ねられた、しかし今はまだ、私たちの不信仰の犠牲になっている。私たちが模範とすべきは羊飼いとしておいでになったお方、イイスス・ハリストスを措いて他にはない。