ハリストス復活! 実に復活!

「トマスとともに」
 (キリスト新聞2001年4月14日号への名古屋教会司祭松島執筆メッセージ、キリスト新聞社より転載許可有。一部転載にあたり加筆訂正しました)

 「キリストの復活なんてことを信じなくていいなら、いつでもクリスチャンになってやるさ」と言った友人がいました。
 「それは、あんこの入ってない『あんパン』を食べるようなもんだよ」と笑って返しましたが、そう考えている人はあんがい多いものです。
 イイススの徹底した愛の教えと、それを身をもって実践した「英雄的自己犠牲」に心を動かされない人は稀でしょう。言行一致の善い教師イイススが語った「善い人間になるための尊い教え」を学ぼうと、教会の門をたたく人々もたくさんいます。「心の貧しい人はさいわいである…(マタイ5:3)」、これを至高の道徳として聞き、感銘深くうなづき、受難の物語には涙ぐむ人さえいます。
 しかし復活が語られた瞬間、人々の心の中では、にわかに福音全体がおとぎ話めくようです。「イエスの精神」への思い入れが深ければ深いほど、当惑も大きく、人々は躓きます。パウロの説教に熱心に耳を傾けていたアテネの人々も、話が「死人のよみがえり」に及ぶや、嘲笑を浴びせ、「一昨日おいで」とシラケて去りました(使徒行実17:32)。
 「福音」に心を開きかけた人々を悲しませまいと、復活に象徴的な意味を与え、霊的な解釈をほどこし、復活を隠し戸棚のなかで安楽死させ、「罪の赦しの十字架」一本で行こうと躍起になる、現代の「クリスチャン」の気持ちもわからないではありません。

 しかし、それでもなお、キリスト教は「復活の福音」以外の何ものでもありません。復活のハリストスに実際に出会った者だけが「使徒」と名乗ることを許されました。彼らは世界各地に派遣され、ハリストスの復活をどんな困難にもひるむことなく証し続けました。パウェルは「もしハリストスがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい(コリント前書15:14)」と言い切ります。しかも、ここで証しされ続けているのは「弟子たちの精神の中に主イイススの精神が受け継がれた」といった類いの、巧みにすり替えられた「復活の意味」ではなく、まぎれなき「体の復活」そのものでした。
 復活の現実性を否定し、復活をたんに神話的な象徴ととらえるなら、キリスト教は「人類の歴史に於ける最高の精神的遺産・道徳的達成」の一つにすぎません。それがなぜ「むなしい」のかと問う人々には、半信半疑の弟子たちに自分は幽霊ではないと手足を見せ、焼いた魚をむしゃむしゃ食べて見せ(ルカ24:39-42)、トマスに「ここに手を入れてごらん」と傷口を見せた(イオアン20:27)ハリストスこそ、使徒たちの宣教のアルファでありオメガであったことを、申し上げるほかありません。おそらく「そんなこと俺だって信じたくなかったさ、でもね、見たんだもの、会ったんだもの、触れたんだもの」としか言いようがなかった「疑い深い」トマスこそ最も典型的な使徒でしょう。

 主は「わが主よ、わが神よ」とひれ伏すトマスに言いました。「あなたはわたしを見たから信じたのか。見ないで信ずる者はさいわいである」(イオアン20:29)。「見ないで信ずる者」とは「見た」人たちの証言を受けとめ信じるに至った私たちのことです。そう、私たちは信仰の「さいわい」の内に生きます。
 しかし実は、そのさいわい以上のさいわいを、私たちは恵まれているのです。やはり、それでもなお、よみがえりの主を実際に見ることができるからです。

 正教会では、復活祭の深夜、信徒が行列をくみ、それぞれ灯された蝋燭を手に聖堂を回ります。暗夜に無数の炎がゆれます。閉ざされた聖堂の門の前に戻ると、司祭が「ハリストス復活!」と高らかに宣言します。信徒は声をかぎりに「実に復活!」と応えます。門が開きます。すべての灯火が灯されシャンデリアが輝く堂内から、光がこぼれるように溢れ出します。至聖所の扉はみな開け放たれ、花々で美しく飾られています。主や、生神女マリア、聖人たちのイコンが私たちを迎えています。
 「ハリストス死より復活し、死をもって死を滅ぼし、墓にある者に生命を賜えり」(復活の讃詞)と、まさにとどろくように繰り返し歌いながら、教会は一つとなってハリストスのよみがえりの光の中に突入します。これは象徴でも、追想でもありません。追体験でさえもありません。香料を携えて空っぽの墓を発見した女弟子たちとの、食卓でさいたパンを渡されたとき主を悟ったエンマウスの二人の弟子たちとの、自分たちのまっただ中に現れた主をともに仰ぎ見た使徒たちとの、同じ「時」の分かち合いです。聖神(聖霊)が恵んでくださる、時空を越えた、同じ一つの現実の分かち合いです。

 弟子たちのうちに主が現れた最初の日曜日、「彼らと一緒にいなかった」トマスは、復活の主に出会えませんでした。一週間後、彼が、弟子たちの集りに帰ったとき、はじめてハリストスに出会えたのです。勇気を出してフォマとともに家を出ましょう。ほとんどヤケっぱちでのめり込む日々の忙しさや、黙想や聖書釈義に「沈潜」する「私なりの信仰」や、自己憐憫の甘さに酔う孤独な引きこもりから、「集い(エクレシア)=教会(エクレシア)」に立ち帰り、心をひろげ手をあげ声をあげ、主の御体を分かち合いましょう。そのとき始めて、神話でも象徴でもない、ほんとうにこの集いのただ中におられる復活の主に出会います。私たち自身のよみがえりとして。 ハリストス復活! 実に復活!