生きることをとらえ直してみたい人のために 第2集 (2008年1月〜)

キリスト教は文化でも学問でもありません。宗教ですらないかも知れません。生きる力そのものといってよいでしょう。

 「生きる力」…、そう、この力が私たち一人一人から、家庭から、社会から枯れ果ててしまったのではないだろうか、昨今の世相やいたましい出来事を耳にするにつけ、そんな疑問にとらわれます。
 教会には、うけいれられようと、しりぞけられようと、キリスト教という「生きる力」をうむことなく伝える責任があります。

 「信仰」の敷居をまだまたがずにいる、たくさんの「生きたい」人々、「生きなければならない」人々に少しずつメッセージを積み重ねていきたいと思います。信徒家庭の若い方たち向けに毎月ハガキで「神父の説教(おやじのこごと)」と題して送ったものなどから、ランダムに選んで掲載して行きます。何かのヒントになればと。

出会った者 使徒たちだけ? 2008/05/03
人を食わずにえびせんを 大斎の落とし穴 2008/03/31
十字架 ある漫画 2008/02/29
仕事 悪魔との一つの戦い方 2008/01/31

出会った者

 聖使徒パウェルは自分が最も大事なこととして伝え続けてきたことをこう述べます。(コリンフ前書15:3-8)
 「ハリストスが、…わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、…三日目によみがえったこと、ケパ(ペトル)に現れ、次に、十二人(の弟子たち)に現れたことである。そののち五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。…イアコフに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、…わたしにもあらわれたのである」。

 ハリストスの十字架の惨めな死に、みな失望して家路につきました。弟子たちはおびえて隠れました。これで終わりなら今日のキリスト教はなかったはずです。パウェルが伝えるように、身近な弟子たちが何人も復活の主に出会い、その死の意味を根底からとらえなおし、神の救いと理解したからこそ、福音は困難をはねのけて世界に広がりました。
しかし復活の主に出会ったのはこの何人かの使徒たちだけだったのでしょうか。他の人たちは彼らの証言をただ固く、固く信じただけだったのでしょうか。

 そうではありません。復活祭にきてみてください。復活の主がその深夜の礼拝、あふれる光と喜びのうねりの中で、私たちを迎えます。私たちも「出会った者」として伝道へ促されます。


人を食わずにえびせんを

 神学生時代、肉や乳・卵製品を断つ「大斎」期に、ある神父から「えびせん」の詰め合わせが差し入れられました。添え書きにはひと言、「人を食わずにえびせんを食べよう」。

 聖大ワシリイをはじめ多くの聖師父たちが、大斎をただ形式的に特定の食物を節制することで十分とする人々を「君たちは肉は食わないが、人をむさぼり食っている」と叱っています。それを踏まえた激励です。神学校での男ばかりの寄宿生活、そのつれづれについ人のうわさ話や、悪口に花を咲かせがちの神学生たち、「図星です」とエリを正します。でも数日後、気づいてみると、そのえびせんをポリポリ食べながら、教官の神父さんたちの物まねに興じて馬鹿笑いをしていました。手のひらのえびせんをじっと見て「いやんなっちゃうね」と頭をかきました。
 人への愛を欠いた形だけの節制は、「悪魔の斎」とも言われます。

 しかし、たかが数十日、たかが肉を食べるのを我慢できない私たちが、やっかいな情念や悪い思いを克服できるはずもありません。…今はその大斎の真っ最中。肉でも悪口でもけっこう、何か一つ断ってみませんか。神さまが助けてくれなければ、何もできない自分の弱さがわかります。



十字架

 ハリストスは「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マルコ8:34)と招いています。ある正教の神父さんのブログにこういう漫画が紹介されていました。

 大勢の人々がそれぞれに十字架を背負って歩んでゆきます。一人の男がその重荷に耐えかねて、「主よ、私の十字架を少しだけ小さくしてもいいですか」と願い、許されます。彼は十字架の根本を少しのこぎりで切り落とします。「これで楽になった」とすいすい歩み出す男…。しばらく行くと地面に大きな裂け目がぽっかり口を開けています。他の人々は自分の十字架をその裂け目に、橋のように掛けわたして、難なく裂け目を渡ってゆきます。ところが例の男は、背負っている十字架がほんの少し裂け目より短くて、渡れません。後悔しても、もう「後の祭り」です。

 ハリストスは人にもう一度、愛による互いの分かち合いへの道を開いたと正教は教えます。しかし私たち一人一人が、互いにかけがえのない人格である限り、私たちには、それぞれに「とりかえっこ」のきかない自分だけの十字架があります。それが重くてつらく、放り出したくなったとき、思い出してみたい漫画でした。


仕事

 しつこく心にまとわりついて私たちを苦しめる様々な「悪い思い」とどう戦うべきかについて、四世紀初頭、エジプトの砂漠で魂の救いを求めてひたすら祈りの生活を送った聖アントニイのエピソードは参考になります。

 悪い思いにとりつかれた彼は、「主よ、私は救われたいのです。どうしたらよいでしょう」と神に祈り続けました。ふと気がつくと、自分に似た者が傍らに座り、縄を編んで働き、ついで仕事の手を休めて祈り、また仕事に戻り、やがて再び立ち上がり祈りました。これは神がアントニイを教えるために遣わした天使だったのです。天使は「このようにせよ。そうすれば、救われる」と言いました。(あかし書房「砂漠の師父の言葉」所載)

 しなければならない日常の単純な仕事に精を出し、時々手を休めて祈るだけです。「悪い思い」と真っ向から戦えとは天使は言いません。思い詰めないことです。自分の「思い」に引きづり込まれ心の暗闇に一度閉じこもってしまえば、そこを脱出するのは容易なことではありません。
 仕事は大切ですね。どんなに骨の折れる仕事でも、忙しい仕事でも、それを与えてくれ、私たちを無用の思い詰めから、否応なく引き離してくれる神に、感謝です。