生きることをとらえ直してみたい人のために 第2集 (2008年1月〜)

キリスト教は文化でも学問でもありません。宗教ですらないかも知れません。生きる力そのものといってよいでしょう。

 「生きる力」…、そう、この力が私たち一人一人から、家庭から、社会から枯れ果ててしまったのではないだろうか、昨今の世相やいたましい出来事を耳にするにつけ、そんな疑問にとらわれます。
 教会には、うけいれられようと、しりぞけられようと、キリスト教という「生きる力」をうむことなく伝える責任があります。

 「信仰」の敷居をまだまたがずにいる、たくさんの「生きたい」人々、「生きなければならない」人々に少しずつメッセージを積み重ねていきたいと思います。信徒家庭の若い方たち向けに毎月ハガキで「神父の説教(おやじのこごと)」と題して送ったものなどから、ランダムに選んで掲載して行きます。何かのヒントになればと。

思いやりを持って それよりも… 2009/12/31
仕分け 頼まれもしないのに 2009/11/29
天国と地獄 長いおさじ 2009/10/30
謙遜さへの努力? 万一うまくいくと 2009/09/30
おこらないからさ 罪を認めるとき 2009/08/27
きらい! 私は「好き」かも知れないよ 2009/07/31
名古屋で食べても讃岐うどん ロシア正教? 2009/6/30
心に地獄を… なお絶望するな 2009/05/30
暗黒の中に住んでいる人々は まだ来ていない暗さで 2009/5/1
望み フランクル博士の報告 2009/3/31
ベストを尽くす 絡まったらすぐに呼べ 2009/02/27
態度 土砂降りの雨の中でも 2009/1/31
開き直り 神はウツ 2008/12/29
正直に嘆く 「ウツ」の時 2008/12/01
人にはできないことも 主に引き渡す 2008/10/31
死の陰の谷 通り抜けなければ 2008/09/30
卑しいことば 勝ち組、負け組? 2008/08/30
ぼくをあなたの… このパンを 2008/07/29
不都合な真実 自分は善良な人か? 2008/06/28
社会経験 会社経験? 2008/05/30
出会った者 使徒たちだけ? 2008/05/03
人を食わずにえびせんを 大斎の落とし穴 2008/03/31
十字架 ある漫画 2008/02/29
仕事 悪魔との一つの戦い方 2008/01/31

思いやりを持って…

 「思いやりをもって人に接しなさい」。その通りです。
 しかし、その思いやりが通じた経験より、うまく伝わらず歯がゆい思いをしたことのほうが多くはないでしょうか。とんだ誤解を招いたり、下手をすると相手を怒らせてしまうことさえありがちです。「そんなことはありません。いつも感謝されてます」という方はご用心。ほんとは伝わってないのに、幸い相手が「おとな」で、未熟な自分を、それこそ「思いやって」くれているだけかも知れません。

 「思いやりを持って…」と意気込むより、自分は人に思いやりを持って接することなどできない者だということを忘れず、いつも自分の言葉とふるまいに慎みをくださいと、主に祈りましょう。

 ようするに「謙遜であれ」ということですが、これも同じです。謙遜など、とてもとても自分には無理なんだと心に言い聞かせて、いつも唯一の真に謙遜なお方、イイススに助けを願いましょう。

 神であるのに、あえて身を低くされ人としてこの世にお生まれになったイイススこそがまことの謙遜、まことの思いやりをお持ちのお方です。思いやりの、謙遜の、愛のしくじりに苦しむ私たちを救う救世主(ハリストス)です。 ハリストス生まる!


「仕分け」

 会社であれ役所であれ、何であれ人の組織には人を評価して「仕分け」る立場の人が必ずいます。組織にとってふさわしい能力や知識や経験を、また人柄を備えているかをたえずチェックし、調整し、場合によっては辞めてもらいます。いつも人を値踏みしていなければなりません。こういう仕事はとても「しんどい」ものです。願わくはそんな役割はごめんこうむりたいと誰でも思うでしょう。「人を裁くな」(マトフェイ7:1)と戒められ、「衆罪人の内、我第一なり」(すべての罪人の中で自分が一番罪深い)という砕かれた心(「痛悔のたましい」)を、「神に喜ばれる献げもの」(50聖詠)として献げなければならない私たちクリスチャンは、特にそうであるはずです。

 しかしいっぽう、私たちは、そんなクリスチャンでありながらも、なんとしばしば、頼まれもしないのに人の値踏みに興じているでしょう。噂話にふけり、悪口や陰口をささやき、瞳をランランと輝かせて人物批評に熱中します。

 こんな時は思い出し十字架をきりましょう。人を評価しなければならない立場の人たちが、どれほどのストレスに耐えて、この、ある意味で悪口や無責任な批判にいちばんさらされる役割をいやいや引き受けてくれているかを…。


天国と地獄

 ある聖師父が天国と地獄を次のように伝えています。

 大宴会。人々が大きな丸いテーブルを取り囲んでいます。そこにはごちそうが山盛り。ところがごちそうはテーブルの真ん中に置かれ、人の手よりももっと長いおさじでしか届きません。人々はそれぞれにあてがわれた長いおさじでごちそうをすくいますが、おさじが長すぎて口にはどうやっても届きません。楽しいはずの宴会には次第にいらだちの歯ぎしり、嘆息、八つ当たりの罵りあい、ついには招待者への怒りの声があふれています。地獄です。

 いっぽう隣りの部屋でも大宴会。やはりテーブルの中央にごちそうが山盛りで、人々には長いおさじがあてがわれています。しかしこちらでは、和やかで楽しい会話がはずんでいます。素晴らしいごちそうが讃えられ、招待してくれた主人への感謝の声があふれています。
 なぜでしょう。おさじが長すぎて、せっかくのごちそうを口に入れることができなかったのでは…。

 じつはこちらの部屋では、人々が互いにおさじでテーブルの真ん中のごちそうをすくっては、向かい側に座っている人の口に、運んでやっていたのです。天国です。

謙遜さへの努力?

 謙遜になろうといくら努力しても謙遜にはなれません。人の話にいつも謙虚に耳を傾けよう、いつも自分を省みて、自分の過ちや弱さを忘れないようにしよう、そういう努力は、私たちの努力であるかぎり、万一うまくいってしまうと、みるみる内にその謙遜は高慢に転じてしまいます。

 正教は謙遜を悪魔と戦う最も有力な武器と教えます。そして、自分の弱さを肉体で痛感し、神へひたすら寄り頼むことが不可欠であることを知るため、特定の期間や曜日(水・金)に肉類を断つ斎という伝統を守っています。しかしこの斎でさえ、節制できた自分への思い上がりと、できない人々への蔑みを生み出してしまう危険と裏腹です。聖師父たちは斎を奨めつつも「愛のない斎は悪魔の斎」と教え、「あなたたちは肉は食わないが、人は食っている」と辛辣に警告し続けてきました。悪魔は実に巧妙なのです。

 謙遜さは罪の重みに、心がぼろぼろに砕かれたとき、そして砕いてくださったのが他でもない神であることを知ったとき、はじめて、ただただ温かい涙と深い喜びの内に「主よ、憐れんでください」という祈りとして実現されるものです。悪魔は、すでに倒れきっている者には関心はなく、神を頼りきっている者には手を出せません。


怒らないからさ

 自分の正しさを言いつのり、他人を容赦なく裁いてやまない方に、時々であいます。しかし自己正当化は、たいていは無意識に知っている己れの罪深さや不正へのおびえの反動です。彼らはある意味で「裁く神」の前でふるえあがっているのです。その不幸は、神を正邪を分かち罪を罰するお方としてしか、知らないことです。

 「赦す神」を知ったとき、人ははじめて、自分の罪を、自分自身の前に、すなわち神の前にありのままに認められるようになります。罪を認め、罪に負ける自分の弱さを認め、神に赦しと助力を願えるようになります。他人の罪や弱さも、自分同様に神の愛の眼差しの下にあるものとして、その赦しを祈れるようになります。

 「父さん、怒らないからさ、怖がらずに、何をしたのか正直に言ってごらん」、そう父親にやさしく問われて、子供ははじめて「ごめんなさい」と泣きじゃくります。あたたかい涙と、父親のぬくもりが、傷ついた心をいやします。
 ハリストスへの信仰は、この「赦す神」を知ることから始まります。福音記者イオアンはこう言います(3:17)。
 「神が御子を世につかわされたのは、世を裁くためではなく、御子によってこの世が救われるためである」。


名古屋で食べても讃岐うどん

 ある信徒子弟から「神父さん、うちはギリシャ正教?ロシア正教?」とたずねられました。

 教会が一致していた古代、東西両教会は「カトリック」(普遍的)と「オーソドックス」(正しい教え)という二つの呼び方をともに分かち合っていました。中世末期から一部の教えやローマ教皇の位置づけで意見が分かれくると、西方は自らを「カトリック」と、また東方は対抗的に「オーソドックス(正教)」と強調しあうようになります。その後、東方教会はギリシャ文明の濃い地域で成熟していったので、一般的に「ギリシャ正教」と呼ばれるようになりました。このギリシャ正教がさらにロシアに伝わり、ロシア的味付けの濃い「ロシア正教」に熟成しました。
 ロシアから伝道されその影響が強い日本教会を「ロシア正教」と呼ぶのは自然です。また遡れば「ギリシャ正教」でもあります。正教の不変の教えを守っているということでたんに「正教」と呼ぶのも明快です。讃岐うどん、稲庭うどん、いろいろありますが、うどんはうどんですもの。

 ただ教会統治面でいえば、日本教会は独立教会であるロシアの正教会下の自治教会として「ロシア正教会」に属し、「ギリシャ正教会」には属していません。ご注意を


きらい!

 どうやらイイススは、物ごとに対しても人に対しても、福音書が伝える限り一度も、ご自身の「好き」「きらい」を表明されたことはなかったようです。聖書テキストを検索できるソフトで調べてみました。

 私たち戦後教育を受けた者は、自分の感情や思いを抑制することを否定的に考えてしまいがちです。「のびのびと」、「率直に」思いや感情を表わすのが「人間的」というわけです。でも、ほんとかな…。戦後教育がめざした、封建的因習や権威に屈しない気概としてなら、うなずけなくもありませんが、よい人間関係を作ってゆく上では、あまり賢明ではありません。特に話題に上った対象を、即座に「きらい」と言い切ってしまうのは、じっくりと心を通わせていくチャンスをつぶしてしまいます。対話の相手はそれを「好き」かもしれないでしょう。「なんで、なんで。わたし大好きよ」と食ってかかってくれたら、まだいいんですが、何も言えずに黙ってしまう相手は、もう心を開いてくれません。

 しかしイイススが「好き嫌い」を言わないのは、人の感情のこのデリケートさをよくわきまえていたからではありません。主の心を満たしているのは、この世界と私たちへの熱く、溢れこぼれんばかりの「あわれみ」だからです。


心に地獄を…

 金口イオアンはこう言います。
 「良心の呵責に苦しむ人は魂に冬を宿す。その冬の荒波が心をたたき続ける。おびえと恐れが心を引き裂き、甘い安息の眠りは永遠に取り去られてしまったかのようだ。ごちそうも、語らいも、どんな娯楽も、この苦しみを一時も忘れさせてくれない。サタンが罪を犯した私たちを絶望に追いやろうとしている」。

 だからこそ、聖師父たちは口をそろえて強調します。
 「悔い改めによって赦されない罪はない。たとえ何度罪に落ちても、それは絶望の理由にはならない」と。
 金口イオアン自身が「どんな大きな罪も、神の寛大さを打ち負かすことはできない」と述べています。

 現代の偉大な師父、ソフロニイ神父も、その師であるアトス山の聖シルワン長老にならって、こう教えました。
 「心に地獄を持ち続け、しかもなお絶望するな」。
 言いかえれば「自分の罪と、罪深さを片時も忘れるな。しかし、憐れみぶかい救い主・ハリストスがいつも共にいてくれることも決して忘れてはならない。悔い、祈れ」。

 祈りは、絶望せず持ちこたえていることの証しです。


暗黒の中に住んでいる人々は

 「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうだろう」(マトフェイ6:34)。

 たくさんのわずらいで、いつも心を暗くしている私たちへの、主イイススのことばです。「まだ来ていない明日の暗さで、今日を暗くするのはおやめなさい」、そう言い換えてもよいでしょう。「この世では悩みがあります(イオアン16:33)」。今日耐えねばならない暗さでせいいっぱいです。この暗さにさらに、まだ来ていない明日の暗さを重ねてわずらえば、私たちはもうペシャンコです。もし今日少しでも陽がさしているなら、その明るさをいつくしみませんか。
 反対に、過ぎ去った昨日の暗さで今日を暗くするのもやめましょう。つらかった昨日に目隠しされて、今日、さし始めた光に気づかないのは、悲しいことです。

 生きてゆくことが、つらく、いつも暗い影にまとわれている人と、元気はつらつスイスイ生きられる人がいます。実は暗さを知る人こそが、イイススがこの世にもたらした復活の光の明るさに、ついにはほんとうに与れるのです。 「暗黒の中に住んでいる人々は大いなる光を見る」(イサイヤ9:1)からです。       ハリストス復活! 


望み

 望みなしでは生きられません。聖使徒パウェルは言います。「望みはたましいの錨である」(ヘブライ書6:19)。
ナチス強制収容所体験を伝える「夜と霧」の著者、フランクル博士は、「あそこで生き続けるためには望みが不可欠だった」と言い切ります。釈放への、家族との再会への望み、人によっては毎朝収容所の窓に訪れてくれる小鳥への待ち望み、博士の場合は精神医としてこの極限状況での人々の病理を論文に発表する望み…、それらが想像を絶する悲惨の中で、多くの人々の精神と肉体をかろうじて支えました。反対に望みを失った、また捨ててしまった人は、とたんに、まさに崩れ落ちるように死んでいったそうです。

 絶望しそうなら、究極の「望み」であるお方に訴えましょう。聖ヘシキウスはこう言います。
 「望みを失ったら、(聖詠作者)ダヴィド王に倣おう。
思いを神に注ぎ出し、自分が何を必要としているか、どんな苦難にあるのか、その嘆きをありのままに告げなさい」。
 また、ぜひ聖詠(旧約聖書「詩編」)を開いてみてください。私たちの心の叫びに響きあう祈りがあふれています。

「神よ、私の叫びを聞いてください…、心がくずおれるとき、私は地の果てからあなたを呼びます…」(61編)。


ベストを尽くす

 ある織物工場、織機ごとにステッカーが貼ってありました。そこには…「糸が絡まったらすぐに親方を呼べ」。

 勤め始めたばかりのある女性社員、見習いを終え担当の機械が与えられました。三十分もすると、糸がちょっと絡まってしまいました。彼女は自分でも簡単に直せると考え、糸をほどきにかかりましたが、案に相違して、いじればいじるほど糸は複雑に絡まってゆきました。それでも「私の責任、あきらめちゃだめ」と、涙ぐみさえしながら、絡まってもう小さな手まりほどの糸だまと格闘し続けました。

 その時、親方が通りかかりました。「やっちゃったか…、手を出さずに見ていなさい」。そう言うと親方は簡単に直してしまいました。親方は笑いをかみ殺しながら言いました。
 「どうして僕を呼ばなかったんだ。ここに書いてあるだろう。『からまったらすぐに親方を呼べ』って」。
 「だって、あたしはベストを尽くしたんですよ」。
 親方の一言、…「君にとってベストを尽くすってことは、すぐに僕を呼ぶことだったのさ」。

 私もたびたびのことですが、神さまを呼ぶことを忘れ、しくじっていませんか。


態度

 ある朝、少女が目を覚まして鏡に向かったら、髪の毛が三本しかなかった。
 「さて、どうしましょう。そうだわ、三つ編みがいい」。
 すてきな一日だった。

 翌朝、また鏡をのぞいたら、髪の毛は二本。
 「うーん、よし今日は真ん中から分けてみましょう」。
 その日も、うきうきと一日中弾んでいた。

 次の朝、髪の毛は一本だけ。
 「ふふっ」とほほえんで、「きっとポニーテールが似合うわよね」。
 一日中、楽しくって、楽しくって…。

 そして今朝は、とうとう…。
 「やったあ! これなら、毎朝、ヘアスタイルを考えなくてもいいわ」。
 彼女は、はればれと町に出た。

 「態度」がすべてです。
人生で大切なのは、嵐が過ぎ去るまでじっと耐えることではなく、
土砂降りの雨の中でも、ダンスが踊れるようになること、
…のようですね。


開き直り

 老いた悪霊が、もうノンビリ余生を過ごしたいと親分に願い出て退職を許されました。そこで、これまで使ってきた道具類を、それぞれ値をつけてバーゲンに出しました。いちばん高値がつけられたのは何だったでしょう。
 「落胆」でした。ようするに「落ち込み」。ひどくなると「絶望」と呼ばれる死に至る病です。人の善意も愛も見えなくなり、神もホトケも信じられなくなり、そこにはまってしまったら脱出は至難の業です。しかし起死回生、逆転のチャンスがないわけではありません。開き直りです。

 ある日、ある家で食事をしていたイイススに、一人の女が高価な香油が入った石膏の壺を砕いて、油を注ぎました。すると香りが家いっぱいに広がりました(マルコ14:3、イオアン12:3)。砕かれて始めて、その香りは部屋にあふれました。落ち込んだとき、「いま神が私を砕こうと、撃っておられる」、そう思ってみませんか。「砕かれて、壊されて、はじめて、かぐわしい香りを発する新しい人に、私はよみがえることができる、この時を耐えよう」と。

 神からの贈り物、ハリストスへの、私たちにできるただ一つのお返しは、砕かれた霊ではなかったでしょうか。「神に喜ばれる祭は痛悔の霊、痛悔して謙遜なる心は、神は軽んじたまわず」(50聖詠、51詩編)。


正直に嘆く

 「もう、死んでしまえたら」と思うほどの「ウツ」(鬱)を多くの人が体験しています。自ら命を絶つ人もいます。いのちの力が衰弱し、病気にかかって死んでしまう人もいます。生きていても死んでしまったかのように虚空を眺めているばかりの人も。
 ウツは自分の惨めさを実際より拡大してみせ、事態は現実よりもはるかに絶望的だと思いこませます。こんなときある聖師父は、自分の心をありのままに打ち明けて、神さまにこう祈りました。

 「いのちの神よ、背負ってゆかねばならない重い荷が肩に食い込み、疲れ果ててしまいました。見えるのは、目の前にはてしなく続く誰もいない荒れ果てた道です。灰色の空がおびやかすように覆い被さり、心浮き立つ楽しい音楽も、笑い声もどこからも聞こえてきません。心は孤独に閉じこめられ、歩き出す勇気も、引き返す気力さえも萎えはてました。…この道を、神さまお願いです。光にあふれさせてください。約束の空を見上げさせてください」。

 神さまに向かい、まずは正直に嘆くことが必要のようです。涙をこらえてはなりません。
 そして思い出しましょう。どんなにどんより曇った日でも、厚い黒雲の上には必ず太陽が輝いていることを。


人にはできないことも

 聖人たちも人を愛せないことに苦しみました。西方教会のリジューの聖テレーズについてこんな話があります。
 修道生活を送っていた彼女には一人の「むかついて」しかたない仲間がいました。そんな気持ちは捨て去ろうと、どんなにがんばっても、イイススがお求めになっているようには、その姉妹を愛することができませんでした。

 彼女は熱心に祈り続けました。するとある日、「人にはできないことも、神にはできる」(マトフェイ19:26)というなじみ深い聖句が突然、ふだん耳にするのとは全く異なった温かさで胸に宿りました。彼女は祈りました。
 「私はあの姉妹を愛せません。しかし主よ、あなたなら私の内で、私を通じて彼女を愛することができます」。

 彼女は長いあいだ心を責め続けてきた問題を、あっさりイイススに引き渡しました。彼女は、胸の内にわだかまり続ける姉妹への思いは「無視する」ことにしました。そして福音が求める完全な愛と赦しは、イイススがもたらしてくれると信じました。
 やがて主は、それにお応えになって下さいました。

「救い主の血と共に十字架から流れてくる神の赦しを、私たち自身の内でせき止めてはならない。」 
            ――東方教会の無名の修道士


死の陰の谷

 「死の陰の谷を歩むとも、わたしはわざわいを恐れません。あなたがわたしとともにおられるからです」。
 主は、「死の陰の谷」を通って私たちを「青草の牧場、いこいの水辺」へと導く「わたしの牧者」です。(23詩編)

 クリスチャンはこの「青草の牧場、いこいの水辺」に、信じて従う者に主イイススが約束する「神の国の永遠のいのち」のイメージを託します。「死の陰の谷」とは苦悩と暗黒の時です。この世では私たちには「なやみがあり」(イオアン16:33)、それを通り抜けなければ「青草の牧場、いこいの水辺」へはたどり着けません。そして文字通り死に面した苦悩は人間の苦悩の極まりです。しかし主は励まします。「勇気を出せ。わたしはすでに世に勝っている」(イオアン16:33)。この方が「ともにおられる」こと、それだけが死の陰の谷を歩む私たちの支えです。

 多くの信仰の友、兄弟姉妹がこの歩みへと旅立ちました。どんな人にも死は全くの未知の体験です。どれほどのおびえが彼らをとらえたことでしょう…。私たちにもやがてその時が来ます。この世で出会う多くの「なやみ」を、避けられない闇、しかし光への道として主に委ねて生きる…、
 そのイメージの積み重ねが、ついに旅立ちを迎えた時、私たちに「勇気」を与えてくれます。


卑しい言葉

 絶対使いたくない言葉、その筆頭が「勝ち組、負け組」。卑しい下品な言葉です。しかし秋葉原の通り魔殺人者は「勝ち組はみんな殺したい」と言ったと聞きます。

 この言葉は、現代社会の厳しい現実をげっそりするような露骨さで単純化しています。しかし生活は厳しくても「勝ち負け」とは別の次元で充実した毎日を生きている人たちはたくさんいます。この言葉を好んで使うある人に「勝ち組と負け組の境目はどこ?」と尋ねたら、「そうね、年収『○百万円』くらい」と一流企業大卒社員の平均くらいの金額を言った人がいます。「あ然…」としました。
 現代社会の一面だけを切り取った、真実とはほど遠い言葉です。しかし親が子に、教師が生徒に、先輩が後輩に「そんなことじゃ、負け組に入っちゃうぞ」と「容赦ない競争社会の現実」を強調すればするほど、それはますます「現実」になってゆきます。秋葉原が繰り返されます。

 負けず嫌いで、初めての成績表を級友と較べっこした小学一年のときから、ずっとファイティング・ポーズをとり続けてきました。それが嫌でクリスチャンとなった今も、「謙遜さでは誰にも負けるまい」と、気がつくと拳を胸に構えています。ばかげたことです。つらいことです。
 そのつらさが実は、「勝ち組、負け組」がほんとうは「現実」ではないことを教えてくれるのです。


ぼくをあなたの…

 「オペラ座の怪人」。ガストン・ルルーのはっきりいってつまんない伝奇ミステリーをイギリスの天才、アンドリュー・ロイド・ウェーバーがすばらしいミュージカルに仕立て今も世界各地でロング・ランを続けています。青年貴族ラウルは幼なじみクリスティーヌに再会し、たちまち恋に落ち、歌いかけます。「君に願うすべて」、とろけるように甘く、聞く者の身も心もまきこんで、うねるように舞いあげてゆく、ちょっとやばいバラードです。
 お察しの通りこの歌にぞっこんなのですが、先日、運転しながらうっとり聞いていて、突然ある歌詞に心をとらえられました。
 Let me be your life…
 ぼくをあなたのいのちにして…。

 神はご自身に背いたアダムとエヴァが木陰に隠れていることを知っていました。しかしあえて「あなたはどこにいるのか」と問いかけました。その時以来、神は気も狂わんばかりに呼びかけ続けています。この愛が神の人へのあらゆる働きかけを貫いています。そしてついに神の子・ハリストスを通じて、ご自身のいのちの一切を差し出して訴えます。「わたしは天から下ってきたいのちのパンである」。
 ぼくをあなたのいのちにしてほしい…。このパンを分かち合って。


不都合な真実

 「通りいっぺんのことを言いたくないから言うけど…」、「当たり障りのないことでお茶を濁したくないから…」、よく言うことばです。そう言うとき、私たちは自分の「誠実さ」を疑っていません。自分の「誠実さ」に自己満足しています。その「誠実さ」に、言われた人がひどく傷つくことがあるのに気づいていません。

 人の心はやっかいなものです。通りいっぺんのことは聞きたくないものの、だからといってむき出しの真実を突きつけられたくはありません。私もたくさん悲しいしくじりをしてきました。裏にある傲慢や、時には悪意に気づかない「誠実さ」の犯す、人を打ちのめす「暴力」です。
 その悲しさを知っているなら、少なくとも「否定的な感情」を抱いている相手には、まずは「通りいっぺんの当たり障りのないこと」に止めておくべきです。聖使徒パウェルが言うように「不作法はしない」(コリンフ前13:5)のです。

 誰にでも否定的な感情を抱いている人、ありていに言えばキライな人はいます。それを自分にも認めるのは辛いことです。人は皆「誰も嫌わず憎んでいない」という「善良な人」という自己イメージを保ちたいから。…しかしこの「むき出しの真実」とどう向かい合い、どう克服するのか、それがハリストスの愛を生きたい私たちの重い課題です。


社会経験

 私は十三年間の会社勤めの後、神学校に入学し、四年後司祭として名古屋教会に赴任しました。最初の頃、信者さんからよく言われました。「社会経験がある神父のほうが自分たちの気持ちや事情をよくわかってくれて、いい」。それを聞いて、悪い気持ちはしませんでした。

 しかし最近、「ちょっと待てよ」と思い始めています。ここでいう「社会経験」とは、少なくとも私の場合「会社経験」に過ぎないのではないかと。会社は社会の一部ですが社会そのものではありません。そこで知ったこと経験したことには実はとても偏りがあります。それを社会経験とカンチガイして、信者さんへ「ものわかりのいい」神父ぶりを振り回してきたのが自分ではないだろうか…。

 生え抜きの神父さんたちは教会という、実に様々な人たちがそれぞれの経験や事情を背負って集う場で、実は私のような「脱サラ神父」よりはるかに豊かな「社会経験」を積んでおられるに違いありません。

 「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない」(コリンフ前8:2)。知らねばならないこと、クリスチャンにとってはこの世での成功の極意ではないはずです。


出会った者

 聖使徒パウェルは自分が最も大事なこととして伝え続けてきたことをこう述べます。(コリンフ前書15:3-8)
 「ハリストスが、…わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、…三日目によみがえったこと、ケパ(ペトル)に現れ、次に、十二人(の弟子たち)に現れたことである。そののち五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。…イアコフに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、…わたしにもあらわれたのである」。

 ハリストスの十字架の惨めな死に、みな失望して家路につきました。弟子たちはおびえて隠れました。これで終わりなら今日のキリスト教はなかったはずです。パウェルが伝えるように、身近な弟子たちが何人も復活の主に出会い、その死の意味を根底からとらえなおし、神の救いと理解したからこそ、福音は困難をはねのけて世界に広がりました。
しかし復活の主に出会ったのはこの何人かの使徒たちだけだったのでしょうか。他の人たちは彼らの証言をただ固く、固く信じただけだったのでしょうか。

 そうではありません。復活祭にきてみてください。復活の主がその深夜の礼拝、あふれる光と喜びのうねりの中で、私たちを迎えます。私たちも「出会った者」として伝道へ促されます。


人を食わずにえびせんを

 神学生時代、肉や乳・卵製品を断つ「大斎」期に、ある神父から「えびせん」の詰め合わせが差し入れられました。添え書きにはひと言、「人を食わずにえびせんを食べよう」。

 聖大ワシリイをはじめ多くの聖師父たちが、大斎をただ形式的に特定の食物を節制することで十分とする人々を「君たちは肉は食わないが、人をむさぼり食っている」と叱っています。それを踏まえた激励です。神学校での男ばかりの寄宿生活、そのつれづれについ人のうわさ話や、悪口に花を咲かせがちの神学生たち、「図星です」とエリを正します。でも数日後、気づいてみると、そのえびせんをポリポリ食べながら、教官の神父さんたちの物まねに興じて馬鹿笑いをしていました。手のひらのえびせんをじっと見て「いやんなっちゃうね」と頭をかきました。
 人への愛を欠いた形だけの節制は、「悪魔の斎」とも言われます。

 しかし、たかが数十日、たかが肉を食べるのを我慢できない私たちが、やっかいな情念や悪い思いを克服できるはずもありません。…今はその大斎の真っ最中。肉でも悪口でもけっこう、何か一つ断ってみませんか。神さまが助けてくれなければ、何もできない自分の弱さがわかります。



十字架

 ハリストスは「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マルコ8:34)と招いています。ある正教の神父さんのブログにこういう漫画が紹介されていました。

 大勢の人々がそれぞれに十字架を背負って歩んでゆきます。一人の男がその重荷に耐えかねて、「主よ、私の十字架を少しだけ小さくしてもいいですか」と願い、許されます。彼は十字架の根本を少しのこぎりで切り落とします。「これで楽になった」とすいすい歩み出す男…。しばらく行くと地面に大きな裂け目がぽっかり口を開けています。他の人々は自分の十字架をその裂け目に、橋のように掛けわたして、難なく裂け目を渡ってゆきます。ところが例の男は、背負っている十字架がほんの少し裂け目より短くて、渡れません。後悔しても、もう「後の祭り」です。

 ハリストスは人にもう一度、愛による互いの分かち合いへの道を開いたと正教は教えます。しかし私たち一人一人が、互いにかけがえのない人格である限り、私たちには、それぞれに「とりかえっこ」のきかない自分だけの十字架があります。それが重くてつらく、放り出したくなったとき、思い出してみたい漫画でした。


仕事

 しつこく心にまとわりついて私たちを苦しめる様々な「悪い思い」とどう戦うべきかについて、四世紀初頭、エジプトの砂漠で魂の救いを求めてひたすら祈りの生活を送った聖アントニイのエピソードは参考になります。

 悪い思いにとりつかれた彼は、「主よ、私は救われたいのです。どうしたらよいでしょう」と神に祈り続けました。ふと気がつくと、自分に似た者が傍らに座り、縄を編んで働き、ついで仕事の手を休めて祈り、また仕事に戻り、やがて再び立ち上がり祈りました。これは神がアントニイを教えるために遣わした天使だったのです。天使は「このようにせよ。そうすれば、救われる」と言いました。(あかし書房「砂漠の師父の言葉」所載)

 しなければならない日常の単純な仕事に精を出し、時々手を休めて祈るだけです。「悪い思い」と真っ向から戦えとは天使は言いません。思い詰めないことです。自分の「思い」に引きづり込まれ心の暗闇に一度閉じこもってしまえば、そこを脱出するのは容易なことではありません。
 仕事は大切ですね。どんなに骨の折れる仕事でも、忙しい仕事でも、それを与えてくれ、私たちを無用の思い詰めから、否応なく引き離してくれる神に、感謝です。