大斎の意味
カリストス・ウェア主教 著  ダビッド水口優明神父 翻訳









カリストス・ウェア主教
    「大斎の意味」


翻訳 司祭 ダヴィド 水口優明






■訳者前書き
 本書は、Mother Mary and Archimandrite(現在はBishop) Kallistos Wareによる英語訳「三歌斎経」THE LENTEN TRIODIONに付せられた解説文「大斎の意味(THE MEANING OF THE GREAT FAST)」(13〜64頁)を訳したものである。
 明治、大正期、日本正教会では数多くの出版物が発行されたが、これまでなぜか特別に「大斎」をテーマにしたものが見られなかった。正教会暦、そして我々の信仰そのものにとって「大斎」ほど重要な時期はない。その重要な「大斎」に関する解説書・入門書を作りたいと思い、微力ながら翻訳を試みたわけである。
 カリストス・ウェア主教の簡潔な解説とその深い内容は、私たちに文字通りほんとうの「大斎の意味」を見せてくれている。
 なお本文中、及び注において〔 〕内に記されたものは訳者による付加である。また、「fast」「fasting」はほとんど「斎」と訳し(一部の箇所では「断食」としているところもある)、「Spirit」は「霊」ではなく、「神」もしくは「聖神」と訳した。
 この小冊子が「大斎」に対する関心を人々の心に植え付けることかできたら、この上ない幸いである。
                           1990年の大斎に
                               ダヴィド 水口優明

大斎の真の姿

 「我々は待ちこがれた。そしてついにその時が来た」。セルビアの主教・オクリッドのニコライは、エルサレムで体験した復活大祭を再現して言う。「総主教が『ハリストス、復活! 』と唱えた時、重い荷が我々の霊から降ろされ、あたかも我々自身もまた今、死より復活したかのように感じた。突然に、堂内全体に同じ叫びが怒涛のように響き渡った。『ハリストス、復活!』。ギリシャ語で、ロシア語で、アラビア語で、セルビア語で、コプト語で、アルメニア語で、エチオピア語で次々と、それぞれの国語で、独自のメロディーで…。祈祷が終わり白々と明け初めた屋外に出た時、我々は見慣れたすべてのものをハリストスの復活の光栄の光の中に見い出した。すべてが昨日と違っていた。すべてのことがより善く、より意義深く、より光り輝いていた。生命は、復活の光の中ではじめて意味を持つのだ」*1。
 この復活の喜びの意義は、ニコライ主教があざやかに述べているように、正教会のすべての礼拝の基礎をなしている。すなわち、クリスチャンの生活と希望の、一つのそして唯一の基盤である。しかし、この復活大祭の喜びの力を完全に体験するためには、我々一人一人が準備の期間を過ごす必要がある。「我々は待ちこがれた」とニコライ主教は言っている。「そしてついに、その時が来た」のだ。この待機がなければ、そしてこの期待に満ちた準備がないなら、復活祭の祈祷のより深い意味は失われてしまうであろう。
 それゆえ復活祭の前に、今日の正教会の習慣では十週間以上にも拡大された悔い改めと断食の長い準備期間が発達してきた。まず予備的に守られる二十二日間(四つの主日)がおとずれ、次に六週間、すなわち大斎の四十日間が、そして最後に受難週間が来る。斎の七週間及び受難週とのバランスをとって、復活祭後にはそれと対応する五旬祭を含んだ感謝の五十日の期間が続く。
 これらの期間にはそれぞれ特別の奉神礼書が用いられる。準備の期間には『三歌斎経』(三歌頌の祈祷書)が、感謝の期間には『五旬経』、スラヴの習慣では別名『花の三歌経』として知られている奉神礼書が用いられる*2。聖大土曜日の深夜、復活祭主日早課の開始を期して三歌斎経は五旬経に切り替わるが、この明確な区別は実際的な都合によるのであって、一つの分かちがたい行為である主の十字架と復活の重要な一体性を切り離すものと捉えられてはならない。そして十字架と復活が一つ行為であるように、『三聖日』――聖大金曜日、聖大土曜日、復活祭主日――もまた、一体の奉神礼的儀式を構成している。実際、三歌斎経と五旬経の二つの書の区別は十一世紀頃まで普及していなかった。古い写本では両方とも同じコデックス(本)に含まれている。
 さて、「三歌斎経」と呼ばれるこの準備の書の中に何が見い出されるであろうか。この書はまず第一に「斎の本」である。イスラエルの子らが「過ぎ越しの祭」の準備に「悩みのパン」(申命記16:3)を食べたように、クリスチャンは斎によって「新しき過ぎ越しの祭」へと自分自身を準備する。しかし『斎』(ニステイア)という言葉は何を意味するのであろうか。ここで内面と外面の正しいバランスを保つために最大の注意が必要とされる。外面的には、斎は食べ物や飲み物の肉体的な禁欲を意味する。そのような十分な外面的禁欲なしでは真の斎は保たれない。しかし禁欲的斎は常に内面的な見えざる目的を持っているので、飲食のルールは決してそれ自体が目的として扱われてはならない。人は体と霊が一体のものであり、「三歌斎経」の言葉によれば「見ゆると見えざるの性より」の「生ける者」である*3。禁欲的斎は、それゆえに、これらの「性」の両方に関わるべきである。食べ物についてのルールを形式主義的に強調し過ぎる傾向と、反対にそれを時代遅れとか不必要だとしてこれらのルールを軽視する傾向は、共に真の正教会精神への悲しむべき裏切りである。この二つの傾向はそれぞれに内面と外面との正しいバランスを損なってしまっている。
 後者の傾向が今日特に西方で大きく広がっていることは疑いない。十四世紀までほとんどの西方教会のクリスチャンたちは、その兄弟である東方正教会と同じように斎の間、肉だけでなく卵、ミルク、バターやチーズのような他の動物性食品も避けていた。東方でも西方でも斎は厳しい肉体的な努力をともなった。しかし西方教会では、それから五百年以上を経た今日、斎の肉体面の条件はシンボルとしか見なされなくなり次々と取り払われていった。灰の水曜日の前日にパンケーキを食べる人々のどれだけが、この習慣――大斎が始まる前に卵やバターを残さないように使いきってしまう――のもともとの意味に気づいているだろうか? 実際、西方の世俗化の影響を受けた今日、正教会の世界もまた同じ緩和された楽な道を歩もうとし始めている。
 この斎の衰退の一つの理由が、人間性に対する異教的考え、すなわち肉体を拒否または無視し、人間をその理性的な頭脳という側面でしか見ない間違った『精神主義』にあるのは確かである。その結果、現代の多くのクリスチャンは、見えるものと見えないものが一体となった全体としての真の人間観を失っている。彼等は聖パウェルの「自分のからだは、…聖神(聖霊)の宮であって、…自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(コリンフ前書6:19-20)という言明を忘れ、精神的生活において肉体が果たす肯定的な役割を無視している。正教会で斎が衰退しているもう一つの理由は、伝統的なルールを守ることは今日もはや不可能であるという、すでに一般的になってしまった見方である。そこでは、これらのルールは、現在では急速に失われつつある農耕的生活様式に従って、民族的同質性のもとに緊密な共同体を構成していたキリスト教社会を前提条件としているものだと主張される。確かにそういう面もある。しかし斎は伝統的な形で行われるなら「いつの時代も」困難であり、常に労苦をともなうものだったことも忘れてはならない。多くの現代人は健康や美容のためになら体重を減らし進んで断食するではないか。我々クリスチャンが天国のために同じ骨折りができないはずはない。なぜ前世代の正教徒に喜んで受け入れられた自制が、今日その後継者に耐えられない重荷を負わせるはめになったのだろうか。かつてサーロフの聖セラフィムは、昔は頻繁に起きた恵みの奇跡が我々の時代にもはや現れないのはなぜかと聞かれた時、こう答えた。「ただ一つのことが欠けている。――それは確固とした意志である」*4。
 斎の第一の目的は我々に「神への依存」を自覚させることである。もしまじめに取り組めは、食事の斎は、――特にその始めの日々――実際かなりの空腹感と疲労感、肉体的疲弊をもたらす。この目的は、内面的挫折と痛悔の意志へと我々を導き戻すことである。すなわち「私から離れてはあなたがたは何一つできない」(イオアン15:5)と言ったハリストスの言葉の力を完全に理解させることである。もしいつも腹いっぱいに食べたり飲んだりしているなら、我々は間違った意味の自主性と自己満足を得て、自分自身の力をやすやすとうぬぼれるようになってゆく。肉体的斎の実践はこの罪深い自己満足を根底から覆す。大斎的禁欲はファリサイ人――実際に斎したけれども正しい精神ではなかった――のもっともらしい自信から人を引き離して、救いに導く「税吏の自己不満足」をもたらす(ルカ18:10-13)。すなわち空腹と疲労の目的は我々を「神(こころ)の貧しき者」にし、人間の無力と神の助けへの依存に気づかせることである。
 しかし疲労と空腹について語るだけでは誤解を招くであろう。禁欲はこれだけでなく輝く光、注意深さ、自由と喜びの意識をももたらすのである。斎はまず衰弱をもたらすが、やがて短い睡眠で足るようにし、より明確に考え、よりしっかりと働くための力を与える。多くの医者が認めているように定期的な斎は肉体的健康に役立つ。確かに斎は正真正銘の節制である。しかし肉体を責めつけ危険にさらすのではなく、むしろ健康と調和を回復するのである。西方世界に暮らす者は習慣的に必要以上のものを食べている。斎はそんな我々の体から過度の重たい束縛を解き、肉体を祈祷のための、また神・聖神(聖霊)の声に対する警醒と応答のための自発的な助手にさせる。
 正教会の習慣では一般的に「斎(fasting)」と「禁食(abstinence)」という言葉は相互交換できるものである。第二バチカン会議以前のローマン・カトリックはこの二つを明確に区別していた。すなわち、「禁食(abstinence)」は量には関係なく食べられる食品の種類の制限のことを指し、「斎(fasting)」は食事の回数、あるいは食べてもよい食品の量の制限を意味していた。ある時期には「斎(fasting)」と「禁食(abstinence)」が両方とも要求された。二者択一的に一方が命じられ、もう一方は命じられないこともある。正教会ではこの二つの言葉に明確な区別はない。大斎の間、毎日食品の種類が様々に制限される*5。しかしある食品が許されてもその量は制限されない。聖師父たちは、節制の指導として単にこう述べている。決して飽きるほど食べてはならない。もっと食べられると感じても、さあ祈祷への準備ができたと、常に食卓から立てるようにしなければならない。
 斎の肉体的必要条件を見過ごさないことが重要なら、その内的意味を見過ごさないことはもっと重要である。斎は食事規定の問題だけではない。肉体的と同様に精神的でもある。真の斎は心と意志の斎へと変換されていかねばならない。斎は神に帰ることであり、あの放蕩息子のように父の家に帰ることである。金口イオアンの言葉によれば、斎は「食べ物だけでなく、罪を避けること」を意味している。「斎とは、ただ口によってでなく、目や耳や手足や体のあらゆる部分によって守られなければならない」。目は不敬虔な光景を避け、耳は有害なうわさ話を避け、手は不義の行いを避ける*6。無慈悲な非難や中傷にふけりながら食べ物を斎しても無駄であると聖大ワシリイは断言する。「あなたは食事をしないが、あなたの兄弟をむさぼり食っている」*7。同じことが三歌斎経で、特に大斎第一週間に言われている。

食に於けるが如く、凡その欲を斎して…

我等、主に悦ばれ、善く受けらるる斎を守らん
真の斎は、乃ち、悪事を離れ、
舌を慎み、怒りを釈き
諸欲を断ち毀謗と詐偽と誓いに背くこととを除く
これらを去るは真の斎にして善く受けられるべき者なり

我等、斎を以て、唯、食を制するのみならず、
乃ち、凡そ物体の欲を離るる者となすべし*8

 斎の内的な意味は三つの要素に最もよく要約される。すなわち祈祷、斎、施しである。祈祷や聖機密から離れ、憐みの行為がともなっていないと、斎は偽りになり、悪魔的にさえなってしまう。そんな斎は我々を痛悔と喜びとに導かず、不安と短気を内に持った高慢へと導く。アレキサンドル・エルカニノフ神父は祈祷と斎の絆について簡潔に述べている。ある人が斎を批判して言った。「仕事ははかどらず、我々は短気になってしまう…革命前のロシアでは、受難週間がおし詰まってあんなに性悪になった召し使いは見たことがない。明らかに斎は神経にとって非常に悪い修行である」。これに対してアレキサンドル神父は「まったくあなたの言う通りである。…もし、斎が祈祷をともなわず、精神生活に広がって行かないなら、いらいらした気分を高めてしまうだけである。まじめに斎している召し使いが、斎の間過酷な労働を強いられ、その一方では教会に行くことが許されていないのだから、怒りっぽく、いらいらしてしまうのは当然である」と答えた。*9
 このように斎は祈りがともなわないなら無価値で危険でさえある。福音書では悪魔は斎だけでなく「祈りと斎」によって追い出された(マトフェイ17:21,マルコ9:29)。さらに初代のクリスチャンたちは単に斎したのではなく「斎と祈りをしていた」のである(使徒13:3,14:23)。旧約、新約両聖書において、斎とはそれ自体が目的ではなく、より熱心で生きた祈りを助けるものとして、また断固とした訴えのための、あるいは神との直接の出会いのための準備と見なされた。だからこそ主の荒野での四十日の斎はその公生涯開始直前の準備であった(マトフェイ4:1-11)。モイセイ〔モーセ〕がシナイ山で斎した時(出エジプト34:28)、そしてイリヤがホレブ山で斎した時(列王記上19:8-12)、どちらの場合にも斎は神の顕現と結びついていた。この見神体験と斎との関係はペトルの体験が明らかにしている(使徒10:9-17)。彼は「祈りをするために屋上にのぼった。時は昼の十二時頃であった。彼は空腹をおぼえて、何か食べたいと思った」。彼が夢見心地になり聖なる声を聞いたのはこんな状態においてであった。こうしたことは常に禁欲的斎の目的である。三歌斎経が指摘しているように、斎は人々を「祈祷の山に」近づけるのである*10。
 次に祈祷と斎には、施し――実践された他者への愛、憐れみと赦しの行為がともなわなければならない。大斎が始まる八日前、審判の主日に読まれる福音箇所は羊とやぎの譬え(マトフェイ25:31-46)である。それは来るべき審判での裁きの基準が、どれほど厳しく斎をしたかではなく、必要とされる人々にどれほど援助を与えたかであることを思い起こさせる。三歌斎経ではこう言われている。

我等、主の誡めを知りて、かく行わん
飢うる者に食わせ、渇く者に飲ませ、
裸なる者に衣せ、旅する者に宿らせ、
病める者と獄にある者とを顧みん
全地を審判せん者が、我等にも言わんがためなり
「我が父に祝福せられし者よ、来りて、汝等のために備えられたる国を嗣げ」*11

 ちなみにこのスタンザ(祈祷文の一節)は正教会の祈祷の「福音書的」性格の典型的な例である。三歌斎経の他の多くの祈祷と同様に、ここには聖書の言葉の直截なパラフレーズがある。*12
 大斎の始まり「赦罪の主日」晩課で、特別な相互和解の儀式があるのは偶然ではない*13。他者への愛がなければ真の斎はあり得ないからである。この他者への愛は形式的な見せかけや、感傷的気分にとどまるべきものではなく、具体的な施しの行為として現れるべきものである。これは初代教会の不変の確信であった。二世紀の「ヘルマスの牧者」は、斎の間に節約されたお金は寡婦、孤児、貧者に与えられるべきだと断言している*14。しかし施しはこれ以上の意味を持っている。それは金銭だけでなく時間を与え、所有しているものだけでなく自分自身の存在そのものを与えるということである。すなわち我々自身の一部を与えるということである。三歌斎経に見られる施しについての言葉はほとんど常にこの深い意味を含んでいる。金銭の施しはしばしば身代わりであり、逃避、つまり人々の苦悩に深く個人的に関わらないように自分を守る方法でしかない。その一方、緊切な物質的困難にうちひしがれた人に励ましの言葉をかけてやる以外に何もしないというのは、責任逃れに等しい(イアコフ2:16を見よ)。すでに強調した人間の肉体と霊の一体性を心にとめて、我々は物質的なレベルにおいても精神的なレベルにおいても同時に助けを与えるよう努めなければならない。
 「裸の者を見て、これに着せ、自分の骨肉に身を隠さない」。東方教会の奉神礼的伝統は、西方教会と同じくイサイヤ書58:3-8を斎の基本的なテキストの一つとして扱っている。三歌斎経には次のようにある。

兄弟よ、肉体にて斎し、霊にても斎せん
凡その不義の結を解き、
強迫の羂を断ち、
凡その不正なる書券を裂き
飢うる者に糧を与え、
無宿の者を家に入れ
ハリストス神より、大いなる憐みを得んためなり*15

 斎を行うに当たって決して忘れてはならないのは、聖使徒パウェルが「厳しい斎をしていない人々をとがめてはならない」と訓戒していることである。「食べない者も食べる者をさばいてはならない」(ロマ書14:3)。同様に祈祷、斎、あるいは施しの誇示についてのハリストスの戒め(マトフェイ6:1-18)を忘れてはならない。これらの聖句は共に三歌斎経でしばしば記憶される。

我が霊よ、慎め。斎するか? 汝の近者を軽蔑するなかれ
自ら食を禁ずるか? 汝の兄弟を議するなかれ

来たりて、貧者に於ける恵与と矜恤とを以て己を潔めて、
角(ラッパ)を吹かず、我等の慈恵を顕さざらん、
左の手が右の手のなす所を知らざらんため、
虚栄が施恵の果を費やさざらんためなり
乃ち、隠かなるを鑑みる者に隠かに呼ばん
「父よ、我等の諸罪を赦し給え、汝は人を愛する主なればなり」*16

 三歌斎経のテキストとそれを明らかにする精神性を正確に理解するためには、斎についての五つの誤解を警戒しなければならない。第一は、斎は修道士や修道女たちだけが行うことではなく、すべてのクリスチャンに課せられているということである。どの全地公会や地方公会のカノンにも修道士だけが斎をすべきで一般信徒はしなくてよいなどという規則はない。洗礼を受けたことによって、すべてのクリスチャンは――結婚していても、修道の誓いをしていても――同じ神(霊)的な道を歩んでいく「十字架を負う者」である。クリスチャン一人一人の外貌は実に様々であっても、その内的意味においてその生活は一つである。修道士たちがその自由意志による克己によって神の創造物の本質的な善と美を確証するように迫られているように、結婚したクリスチャンもある程度の禁欲が必要とされるのである。否定の道と肯定の道は相互依存しており、クリスチャン一人一人は、その両方の道を同時に歩むように召されている。
 第二は、三歌斎経を「ペラギウスの異端」的に間違って解釈してはならないということである。三歌斎経が繰り返し我々にたゆみない人間的努力を促しているとしても、我々の進歩が我々自身の意志の力のみにかかっていると考えてはならない。それどころか大斎における修徳的達成はどんなものでも、神から与えらる自由な恵みの賜物と見なさなければならない。クリトの聖アンドレイの大カノンが指摘しているのはまさにこの点である。

我には、涙も、悔も、傷感もなし。
救世主よ、爾、自ら神として、我にこれを与え給え*17

 第三は、自分勝手にではなく、従順に斎しなければならないということである。斎する時、自分自身のために特別なルールを設けようとすべきではなく、聖伝が伝える一般的なパターンにできるだけ忠実に従うべきである。この一般的なパターンは、「神の民」の心を集成したものと表現されるように、人が勝手に考案したもっともらしい節制術などには見い出せない隠された知恵と均衡を持っている。その伝統的なルールが自分の個人的な事情に適合しない場合には、精神的な父(神父)の助言を請うべきである。――神父から形式的な「特別免除」を得るためではなく、自分に対する神の意志は何かを神父の助けによってへりくだって見い出すためである。とりわけ自分のために、斎の規定を緩和するのではなく、反対に厳しさを付け加えようとするときは、神父の祝福なしに決してそれに乗り出してはならない。これは教会史の初期からの慣習である。すなわち、
 「師父アントニイは言った。『自分自身の業により頼み、〈あなたの父に問え。彼はあなたに告げるであろう〉(申命記32:7)という戒めを無視したゆえに、多くの労苦の末に堕落し、狂気へと逸脱した修道士たちを私は知っている』」。
 「また彼は言った、『修道士は、自分が歩む一歩一歩のために、また自分の部屋で飲む水一滴のために、そのことについて何か過ちは犯していないか、できる限り長老たちの助言を求めるべきである』」。*18
 これらの言葉は修道士だけでなく、「この世」に生きる一般信徒にも当てはめられる。たとえ後者が神父への服従にあまり厳しく縛られていないとしてもである。もし高慢になり、わがままになるなら、斎は悪魔的な性格を帯びるようになり、神ではなくサタンへと我々を近づけさせる。斎は人を神(霊)的世界の現実に対して敏感にさせるゆえに、斎は逆方向の道へ人を導いてゆく危険がある。そこには善き神(霊)と同様に悪神(悪霊)もいるからである。
 第四は逆説的に聞こえるかもしれないが、斎の時期は暗く陰気な時ではなく喜びに溢れる時であることだ。斎が悔い改めと罪への嘆きをもたらすのは事実だが、この痛悔の嘆きは階梯者聖イオアンの的確な言葉によれば「喜びを生み出す悲しみ」である*19。三歌斎経は熟慮深く一つのセンテンスの中で涙と喜びの両方を語っている。

ハリストスよ、斎の美しき日に於いて、
我に涙の雨を与え給え*20

 大斎初日のテキストの中で、喜びと光の主題がいかに頻繁に繰り返されているかに注目しよう。                           
信者よ、我等、喜ばしく斎の入るを迎えて、
憂わしき容をなさず…
    
我等、喜ばしく、いと尊き節制を始めて
ハリストス我が神の聖なる誡めの光線…を以て輝かん

地に生まれし者の生命は一日なりと言えり、
愛を以て労する者のためには、四十日の斎あり、
我等、喜びてこれを送らん*21

 注意されるべきことは、大斎は自然が凍りつき死の様を呈する真冬の季節ではなく、万物が生命を取り戻す春の季節に当たっていることである。「レント」という英語はもともと「春の季節」という意味を持っていた。三歌斎経の根本的な重要テキストにおいても、大斎が「春の季節」として語られている。

斎の春、痛悔の花は輝けり
ゆえに、兄弟よ、我等は凡その汚れより身を潔めて、
光を賜う者に歌いて言わん、
独り人を慈しむ主よ、光栄は汝に帰す*22

 大斎は冬ではなく春を、闇ではなく光を、死ではなく更新された生命力を意味している。確かに大斎は暗い様相を帯びている。平日祈祷での伏拝の繰り返し、司祭の暗い色の祭服、静かな調子で歌われる痛悔に満ちた聖歌。キリスト教ビザンチン帝国では大斎の期間、劇場は閉ざされ、見せ物は禁じられた*23。今日でも大斎の七週間に結婚式をすることは禁じられている*24。しかしこれらの厳格さは斎が束縛や審判ではなく、神の恵みの賜物であるという真実を決して覆い隠さない。

人々よ、来たりて、今日、斎の賜を
神より賜りたる痛悔の時として受け…*25

 最後に第五は、斎は神の創造物の拒絶を意味していないということである。聖使徒パウェルは、「それ自体汚れているものは、一つもない」(ロマ書14:14)と強調している。神が造られたものはすべて「はなはだ善い」(創世記1:31)のである。斎はこの本質的な善の否定ではなく再確認である。「きよい人にはすべてのものがきよい」(ティト1:1)。それゆえ天国でのメシア的宴においては、斎も修道的自己否定も不要だろう。しかし我々が堕落した世界に住んでいる限り、また原罪にせよ自ら犯した罪にせよ、その結果によって苦しんでいる限り我々はきよくない。斎が必要なのである。悪は神の創造物の中にではなく、それらに対する我々の態度すなわち我々の意志の中に住む。したがって斎の目的は神の創造物の拒絶ではなく、我々の意志の浄化である。斎の期間中、我々が肉体の刺激――例えば、飲み食いへの自然な欲求――を拒否するのは、これらの刺激自体が悪であるからではなく、それらが罪のために混乱せられており、自己練達によって清められるべき必要があるからである。このように斎は体に対する闘いではなく、体のための闘いである。斎の目的は異質な汚れから体を清めることであり、それを神(霊)的にすることである。我々の意志の中にある罪深いものを拒絶することによって、我々は神の造った体を破壊するのではなく、その真のバランスと自由を取り戻すのである。セルギイ・ブルガコフ神父の言葉によれは「我々は体(body)を得るために肉体(fresh)を殺す」のである。
 しかし、体を神(霊)的にするとは、そのために物質的実在性を奪い取って、体を非物質化してしまうことではない。「神(霊)的(spiritual)」は非物質的と同義語ではなく、「肉体的(freshly)」もしくは物質的であることは「体であること」と等しいものでもない。聖使徒パウェルの語法によれば「肉(fresh)」とは、堕落し神から離れた人間の霊と体を含んだ総体をさし、そして同様に「神(霊 spirit)」とは、神の恵みに贖われ成聖された人間の霊と体を含んだ総体をさす*26。このように、体と同様に霊(soul)も物質的、肉体的になることができ、そして霊と同様に体も神(霊)的になることができる。パウェルが「肉の働き」を列挙する時(ガラティヤ5:19-20)、彼は、体よりもむしろ霊に関連した乱れ、異端、嫉妬などを挙げている。体を神(霊)的にするために、大斎は人間の自然な肉体的側面を抑圧せず、物質性を再び神の意図された状態に帰そうとする。
 こうしたことが飲食の制限としての斎を解釈する道である。パンやふどう酒やその他の地上の実は神よりの賜物であり、我々はそれを敬虔な心と感謝を持っていただく。正教会の信者がある一定期間肉を食べるのを避けるとしても、それは正教会が菜食主義であり、肉食が罪になると考えていることを意味するのではない。また我々が時々ぶどう酒を飲まないとしても、それは我々が絶対禁酒主義を支持していることを意味するのではない。我々が斎するのは食べる行為を恥ずべきものと見なしているからではなく、食事すべてを神(霊)的に、機密的に、ユーカリスティックに――食欲との妥協などではなく、賦与者である神との一体化の媒介――させるためである。斎は食物を汚れと見なさせるどころか、まさに全くその逆の働きを持っている。斎を通して、自分の食欲をコントロールすることを学んだ者だけが、神が我々に与えたものの完全な光栄と美を理解することができる。二十四時間何も食べない人にとって、一粒のオリーブは滋養分のかたまりと感じられる。斎の七週間の後、復活大祭の朝には、一枚のスライスチーズやゆで卵一個に始めて味わうようなおいしさを味わうことができる。
 我々は、性生活の問題にもまた、このアプローチを適応させることができる。大斎の期間には、夫婦は兄弟姉妹のような生活を送るべきであるというのが、古くからの教会の教えであった。しかしそれはまったく結婚における性的関係自体が罪深いということを意味するものではない。かえって、クリトの聖アンドレイの大カノン――三歌斎経の他のどの箇所よりも大斎の意義を凝縮している――は、少しのあいまさもなく、こう述べている。

婚姻は尊く、牀(とこ)は?(きず)なし
蓋、ハリストスはカナの婚姻に於いて、
身にて食を食い、水を酒に変ずるを以て、これを祝福せり*27

 夫婦の禁欲はの目的は抑圧ではなく性の浄化である。このような禁欲は「合意の上で、しばらく斎と祈りのために専心するため(コリンフ前書7:51)」という常に肯定的な目的を持っている。自制は二元論的な体への蔑視を意味するどころか、逆に結婚の性的な面にさもなければ欠けてしまうに違いない神(霊)的広がりを与えるのに役立つ。
 斎への誤った二元論的解釈を避けるために三歌斎経は、再三再四、物質的被造物の固有の善について語っている。三歌斎経の最後の祈祷、聖大土曜日の晩課で十五箇所も続けて読まれる旧約聖書は創世記の冒頭の言葉で始まっている。「元始に、神、天地を造れり…」。すべての被造物は、神の手のわざである限り「はなはだ善い」のである。あらゆる神の創造物は三歌斎経が強調しているように創造者をこぞって讃美している。

凡そ呼吸ある者と造物は、
天軍の讃栄し、ヘルヴィムとセラフィムの戦く者を、
歌い、崇め讃めて、万世に讃め揚げよ

水の上に己の宮を建て、沙を以て海の界を定め、一切を保つ主よ、
   日は爾を歌い、月は爾を讃め、
造物は皆世々に、爾、万有の造成主に歌頌を献る

林の諸木は、皆、歌いて舞うべし…

山と悉くの陵とは、膏沢を以て盛んなる楽しみを滴らすべし
林の諸木は舞うべし*28

 こうした物質世界への肯定的な姿勢は、創造論ばかりでなく「キリスト論」においても基礎づけられる。三歌斎経では線り返しハリストスの人性の真の肉体的事実が強調される。神ご自身、自ら体をとり、体を成聖したのなら、どうして人間の体が悪であろうか。我々は大斎第一主日「正教勝利の主日」の早課で次のように唱える。

蓋、爾は、人を愛する主よ、
神の敵たるマネント〔マニ教徒〕の諸子の言うが如く、想像を以てするにあらず、
乃ち、真の人性の肉体を以て現れて…*29

 この正教勝利の主日の聖歌が明らかにしているように、ハリストスは真の物質の体をとったのだから、物質の木や絵の具を使って、ハリストスという「お方」(person)を聖なるイコンに描くことは可能であり、また実に不可欠である。

生神女よ、限られぬ父の言は、爾より身を取りて己を限り
汚されたる像を、神聖なる美麗に合せて、古の状に復し給えり
我等は、救いを受け認めて、行いと言葉とを以て之を顕す*30

 物質的被造物の神化の可能性は大斎期間一貫して主張される。大斎の第一主日において、我々は、ハリストスの籍身の肉体的な面、物質である聖なるイコンの現実、そして教会の見える美を思い起こす。第二主日には聖グリゴリイ・パラマス(1296-1359)の記憶を行う。彼は、すべての造物には神の力(エネルギー)が浸透しており、この世の生活においてさえ、この神の光栄は人間の肉体の目を通して知覚することができ、人の体は神の恵みによって神化されると教えた。第三主日には、物質である十字架の木に伏拝する。第六主日には物質であるしゅろの枝を祝福する。受難週の水曜日には聖体機密において物質であるオイルが信徒たちに塗布される。聖大木曜日にはハリストスが最後の晩餐で、尊体尊血となる物質であるパンとぶどう酒をいかに祝福されたかを思い起こす。
 斎をする人は物質的事物を拒絶するどころか、かえってそれらの贖いに助けの手を差し伸べている。彼等は聖パウェルによって「神の子」として任された使命を遂行しているのである。「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。…被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、私たちは知っている」(ロマ8:19-22)。我々は斎の実践によって、すべての被造物が原初の光栄を回復するよう、神の助けによって全被造物の司祭としての召命を果たそうと務めている。したがって、修道的自制はこの世が堕落によって腐敗しているという点においてのみ、この世の否定を意味しており、体が罪深い情念によって支配されているという点においてのみ、体の否定を意味している。快楽欲は愛を排除する。すなわち我々が他の人に対して、また他の事物に対して快楽欲を持っている限り、彼等を真実に愛することはできない。自己中心的な欲望から解放されてはじめて、我々はパラダイスにいるアダムの目で世界を見始める。自己否定は自己肯定の道である。すなわち斎は見えると見えざるすべてのものが己れの創造者に光栄を帰す宇宙的な奉神礼に参入する手段である。

大斎の発展の歴史

 正教会の大斎*31の今日の姿は、ここで簡単に要約できないほどの長い歴史的発展を経て形成されてきた*32。
 「三歌斎経」による教会暦にしたがえば、大斎期は次の三つの時期に分けられる。
1、大斎準備週間
 三つの主日(税吏とファリセイ、放蕩息子、審判)を含む赦罪の主日までの準備の週。食事の節 制はまだ部分的である。
2、四十日の大斎
 第一週の月曜(厳密には、日曜の晩課)から始まり、第六週の金曜日の九時課まで。
3、受難週
 ラザリのスボタと聖枝祭につづく一週間。

 三番目の受難週の斎は最も古く、すでに二世紀〜三世紀頃には存在した。四十日の斎は四世紀中頃からその形態が現れ始める。最後に大斎準備週間が時を追って付加されていった。すなわち、部分的な斎をする準備の一週に関する最も早い資料は、六世紀〜七世紀頃にさかのぼれるが、他の準備のための三主日が普及したのは十世紀〜十一世紀頃だった。

(1)二、三世紀における復活大祭前の斎
 二世紀頃、東西両キリスト教会ともに復活大祭直前に一日か二日の短い斎をするのが習慣であった。すなわち土曜日だけか、金曜、土曜の二日か*33。これが復活大祭の夜の祈祷への準備としての斎であった。それは花婿がいなくなる悲しみの斎であり、ハリストスご自身の言葉の成就であった。「しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食(斎)をするであろう」(マルコ2:20)。一日にせよ二日にせよ、この斎は原則的に完全な断食であり、食べ物も飲み物も一切口にしなかった。
 三世紀中頃になると、復活大祭前の斎はいたる所で月曜から土曜までの期間をあてるようになっていった。しかし決まった形態はなく、六日に満たない短い斎をしていた者たちもいる。ほんの数人だけが、その間ずっと完全な断食を何とか守ることができた。またある地域では、月曜から木曜の四日間は、第九時課(午後三時)にパンと水と塩を食し、もし可能なら金曜と土曜に完全な断食をする習慣があった。しかし、すべての信者がこの厳しい斎をしたのではない*34。この復活大祭前の六日間の斎は受難週の古い原型のように見えるかもしれない。しかし、我々が慣れ親しんでいる、それぞれの日に特別な記憶事項を持つ発展した受難週奉神礼式は、四世紀の終わり頃まで見い出せない*35。ニケヤ前期において、受難の奉神礼式は、土曜の夜の晩課の終わりから復活大祭の日曜の朝まで行われ、ハリストスの死と復活を一つの奇跡と見なして、一つの儀式を構成していたようである。金曜日はこの晩課の準備の斎として保たれたが、明確な独自の十字架の記憶にはまだなっていなかった。つまり、十字架と復活は復活大祭の夜に一緒に記憶されたのである。

(2)四十日の大斎
 四十日の斎に関する形跡はニケヤ公会議以前には見られない。大斎についての最初の明確な言及はニケヤ全地公会のカノン第五にある*36。そこでは大斎は何か全く新しいものとしてではなく、周知のものとして扱われている。四世紀の終わりには四十日の斎は大部分の教会で標準になっていたようである。しかしある地域では――多分ローマを含む――より短い斎が守られていたようである。
 明確にその存在が確認できるのは四世紀以後である。四十日の斎は、ニケヤ前期にすでにあった一週の斎と多少、その目的と性格を異にしている。この二つの密接な関係を把握するのは容易ではない。四十日の斎はもともと、復活大祭よりもむしろ神現祭と関連していたという説があるが、これに関する証拠は決定的ではない。しかし、ニケヤ前期の一週間の斎が復活大祭の準備のための特別な習慣であったのに対して、四十日の斎は、洗礼機密を待ちうける啓蒙者もしくは「光照者」の準備期間の仕上げという性格を強く持っていた。洗礼志願者たちはこれらの期間に毎日の教育、特別な祈祷、斎によって厳しい訓練を受けた。信者たちはこの祈祷と斎を啓蒙者と分かち合って自らの信仰を深めた。このように、洗礼によって一度実現したハリストスへの献身は繰り返し毎年新たにされた。つまり、四十日の斎は洗礼へと準備している人々だけでなく、信者全体をも含めて行われた。
 今日の大斎は、これら二つの要素―ニケヤ前期の復活大祭の直接的な準備である六日と、ニケヤ以後の元来洗礼志願者の啓蒙期間として形作られた四十日とが合わせられたものである。これら二つの要素が、それらは両方とも同じ目的――聖大土曙日の夜――を持つために、一つの斎として結合したのは当然のことである。ハリストスの死と葬りと復活を記憶するパスハに洗礼が施されたのは明らかな理由による。すなわち洗礼は主の十字架と復活へのあずかりに他ならないからだ(ロマ6:3-4参照)。
 今日のほとんどの教会は、正式に啓蒙者として位置づけられた人々の組織を持ってない。また、聖大土曜日の夜以外の、他の多くの機会にも洗礼を施すのが習慣になっている。それでも大斎の洗礼準備期間としての意義はいまだに生きた重要さを持っている。教会のすべての信者にとって、大斎は精神訓練の時、光照を新たにする時期である。また、洗礼とはハリストスと共に十字架にかかり、葬られ、復活することであるということを、改めて知る時である。すなわち、「生きているのはもはや、私ではない、ハリストスが私のうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2:20)という聖使徒パウェルの言葉を、我々自身に再び当てはめる時である。また洗礼の水への「葬り」の直後、傅膏機密によって印づけられた聖神(聖霊)の声をより近くで聞く時である。
 大斎の日数に四十という数を選んだのは、明らかに聖書的根拠によっている。イスラエルの人々は、荒野で四十年を過ごした(出エジプト16:35)。モイセイ〔モーセ〕はシナイ山で四十日の斎を行なった(出エジプト34:28)。イリヤはホレブ山への旅に四十日間食物を断った(列王上19:8)。中でも最も重要なのは、ハリストスが四十日四十夜荒野で斎し、悪魔の試みにあわれたことである(マトフェイ4:1)。
 しかし、「四十日」とはどう計算するのだろうか? 四世紀〜五世紀において、その総計方法は多様であった。あるものは六週間の斎を含み、あるものは七週間もしくは八週間を要した*37。ここに三つのポイントがあげられる。

(a)四十日に受難週を含ませるか、それとも別個に付加としてみるか。
(b)土曜日を斎の日と見なすか。
(c)四十日に土曜日と日曜日を含ませて継続して数えるか。それとも日曜日は四十日の中に入れ   ないか。もし斎の日と見なすべきでないとしたら、土曜日も入れないのか。

 これらの質問に対する異なった答えが今日の西方教会と正教会の大斎の相違をもたらした。ローマでは受難週を四十日の中に含め土曜日を斎の日と見なすが*38、四十日の中のすべての日曜を斎から除外する。これでいくと、各週六日の六週間で、総計三十六日になる。そして四十日にするために、その始めにもう四日の斎を付け加える。その結果、西方教会の大斎は水曜日に開始される。*39
 一方コンスタンチノープルでは、受難週――ラザリのスボタと聖枝祭主日も加えて――を厳密な意味で四十日の中に入れない。ラザリのスボタの直前までの四十日の斎と、ここから始まる受難週の違いが、「三歌斎経」の中の第六週の金曜の夜の晩課で非常に明らかに示されている。

人を愛する主よ、我等は霊を益する四旬斎を終えて、
爾の苦しみの聖なる週間をも見んことを求む…

 コンスタンチノープル及び東方一般では、聖大土曜日以外の土曜日は斎の日とは見なされなかった。しかし土曜日、日曜日を併せて四十日の数の中に継続的に教え入れた。つまり、四十日の斎は斎の第一週の月曜から始まり、第六週の金曜に終わる。そうして、ラザリのスボタ、聖枝祭、受難週が続く。それらは四十日の斎とは区別されるが、広い意味で「大斎」として扱われる。このようにして四十日と受難週とで七週の斎を構成する。その結果西方教会では灰の水曜日に大斎が始まるのに対し、東方教会では二日早く月曜日に始まることになる。
 しかしギリシャ東部のクリスチャンたちは、こうした四十日の数え方の他に、時々、土曜日、日曜日を斎から除外し、受難週をその数に含め、その結果、各週五日の七週で、三十五日としていた。しかし、聖大土曜日は斎であるため、これもまた含めてトータルで三十六日を数える。そして、すでに見たように、多少計算法が異なるが、西方教会と同様、準備的な四日を三十六日に付け加えた。西方でも東方でもこの三十六という数は象徴的な意味を持って来た。ちょうどイスラエルの民が収穫の十分の一を神に捧げたように、クリスチャンも一年の十分の一を斎の期間として神に捧げるのである。その十分の一は全体のしるしとして捧げられる。すなわち、神が与えてくださったものの十分の一を神にお返しすることによって、その残りのものに神の祝福を呼び求め、すべての物質、すべての時間は神の手からの贈物であることを承認するのである。この一年の「十分の一の献げ物」としての大斎の見方は、三歌斎経の中ではあまり重要視されていない。しかし、赦罪の日曜日のシナクサリオンに、それについての言及が見られる。〔「…一年の十分の一を万有の王に捧げん、愛を持って彼の復活をも見ん為なり」。〈乾酪週間・月曜日の早課のセダレン〉〕*40

(3)大斎の最終的編集
 コンスタンチノープルでは、六世紀〜七世紀頃から、七週の斎の前に学びの期間、すなわち緩和された斎の予備的な八日間、もしくは一週間が付加されていた。我々のこの「三歌斎経」の英語訳では、「大斎前の週」、またしばしば「乾酪週」もしくは「断肉週」と呼んでいる〔日本正教会訳「三歌斎経」では「乾酪週」と訳出されている〕。なぜなら、これらの日には肉食が禁じられるが、乾酪や他の製品は許可されているからである。この予備的な週が付け加えられた理由として様々なものが考えられるが、特に重要なものとして西方教会が大斎の始めに四十日の日数を満たすために四日を付け加えたのと同じ要因があるだろう。西方での各週六日の六週の斎は、必要な総計から四日を落としていた。一方コンスタンチノープルでは大斎は(すでに見たように)土曜日曜も含めて継続して数えられたので、四十日の総計に余分な予備の期間を付け加える必要はなかった。しかし、パレスチナの教会では各週五日の八週(この数え方では聖大土曜日を特別に大斎と見なすことはしない)の計算で大斎を数えていた。つまり七週の大斎の他に付加的な週が必要であった。現在の「三歌斎経」にある「乾酪週」の慣習は、コンスタンチノープルとパレスチナの教会の見解を融合させたものである。すなわち「乾酪週」は斎の期間と見なすが大斎の範囲には入れない*41。
 六世紀〜十一世紀の間、大斎の準備期間は次第に広がり、他の三つの予備的な日曜日を含むようになった。すなわち復活大祭から十週前の「税吏とファリセイの主日」、続いて「放蕩息子の主日」、そして「乾酪週」の始まる直前に位置する「審判の主日」である。こうして「乾酪週」の終わりに位置する「赦罪の主日」とあわせ、全部で予備的な四つの主日があることになる。このようにして、大斎期の完全な形ができあがったのである。現在の「三歌斎経」は、最後に付け加えられた「税吏とファリセイの主日」から始まっている。

斎のルール

 このように発展した大斎の中で、厳密にはどのような斎のルールが要求されているだろうか。
 古代でも現代においてもそれは一字一句同一のものではなかった。しかし、ほとんどの正教会は次のルールを守っている。

(1)「税更とファリセイの主日」と「放蕩息子の主日」の間の週には、一般にすべての斎が免除   される。肉や、動物性の食品は水曜、金曜でも食べてよい。
(2)それに続く週、しばしば「カーニバル(謝肉祭)の週」と名付けられる週は、通常期の斎が   水曜、金曜に守られる。言い変えるなら特別な斎はない。
(3)大斎の直前の週には肉食が禁じられるが、卵やチーズなど酪農製品は水曜、金曜を含み毎日   食べてよい。
(4)大斎の七週の平日(月曜から金曜)には、その日にとる食事の「回数」も、許された「食べ   物の種類」も制限される。しかし、食事することがが認められる時、食べる食物の「量」の   の固定された制限はない。

(a)第一週の平日の斎は特に厳しい。その厳しい規定によると最初の五日間にたった二度しかとらない。すなわち水曜と金曜の先備聖体礼儀後に食事をとる。他の三日〔月火木〕には、その力がある人は完全な断食を守り、それが実行不可能な人は火曜と木曜の晩課後の夜に、調理された食事でなくパンと水、もしくはお茶やフルーツジュースをとる(もし可能なら、月曜には食べない)。同時に今日の習慣では、これらのルールは一般的に緩和されていることを付言しておこう。水曜と金曜の食事には、「クシロファギイ(xerophagy)」が指示されている。文字通り訳せば「乾燥食品(転じて禁欲的な食事)」である。厳密に言うと、水と塩で調理された野菜のみを、また果物、木の実、パン、蜂蜜といったものを食べる、ということである。実際にはクシロファギイの日には、タコや貝類も認められている。また、植物性マーガリンとコーンや他の植物性油(オリーブから作られていないもの)も同様である。しかし次にあげた食べ物のカテゴリーは確実に断食される。
 @、肉
 A、動物性の食品(チーズ、ミルク、バター、卵、ラード、脂肪)
 B、魚(すなわち背骨のある魚)
 C、油(すなわちオリーブオイル)とワイン(すなわちすべてのアルコール飲料)

(b)大斎第二、三、四、五、六週の平日(月曜から金曜)には、一日一食が認められる。それは、晩課後の夜にとる。この一食では「クシロファギイ」が認められる*42。

(c)受難週。最初の三日間ではそれぞれ「クシロファギイ」で一日一食とる。しかしこれらの日に完全な断食を守ろうとする人、もしくは調理していない食ベ物のみを食べようとする人は大斎第一週と同じようにする。
 聖大木曜日には、ワインと油(すなわちオリーブオイル)で一食のみ食べる。
 聖大金曜日には、その力のある人は初代教会の慣習にならい完全な断食を守る。それができない人は少量の水、お茶またはフルーツジュースでパンを食べるようにするが、しかし、日没までか、とにかく晩課の眠りの聖像の伏拝が終わるまで食事しない。
 聖大土曜日には原則的に食事をとらない。古代教会の習慣に従うと、聖大ワシリイの聖体礼儀が終わった後「使徒行伝」を誦読するために信者は教会に残る。そして、彼等の持久のために少量のパンと乾燥した果物とカップ一杯のワインが与えられる。現在普通になっているように、信者がもし家に帰って食事するならば、オイルは食さないがワインは飲んでよい。すなわち、一年間の土曜日の中でこの日だけがオリーブオイルの許されない土曜日である。

 次のような日には、「クシロファギイ」の規定がゆるめられる。
@ 聖大土曜日を除く斎中の土曜日、日曜日にはいつものように日中と夜に主要の食事を二回とる。ワインとオリーブオイルは許される、肉、動物性の食品、魚などは許されない。
A 生神女福音祭(3月25日〔4月7日〕)と聖枝祭には、ワインとオイルと同様に魚が認められる。しかし肉や、魚以外の動物性の食品は許されない。もし、生神女福音祭が受難週の最初の四日に当たったら、ワインとオイルは許されるが魚は認められない。もし聖大金曜日、聖大土曜日に当たったら、ワインは許されるがオイルと魚は認められない。
B もし次にあげる日が第二、三、四、五、六週の平日に当たれば、その日はワインとオイルが許される。
・授洗イオアンの聖首の第一、第二の発見(2月24日〔3月8日〕)
・セヴァスティヤの四十人の聖大致命者(3月9日〔3月22日〕)
・生神女福音祭の前期(3月24日〔4月6日〕)
・神使首ガウリイルの会衆祭(3月26日〔4月8日〕)
・その聖堂または修道院の守護聖人の祭
C 大斎第五週の水曜日と木曜日にも、アンドレイの大カノンの祈祷のためにワインとオイルが許される。同じ週の金曜日には、アカフィストの晩祷のためにワインが――ある典拠によればオイルも――許される。

 これらの斎のルールは、年老いた人や体の虚弱な人の場合には緩和されることが常に守られてきた。現代の斎の習慣では普通、健康な人でさえも、斎のその完全な厳しさは軽減されている。今日では大斎第一週の月曜日、火曜日、木曜日に、または受難週の最初の三日間に、完全な断食を守ることを試みているのはほんのわずかな人たちである。平日には――おそらく第一週と受難週の間は除いて――一日一食でなく、一日二回の調理された食事を食べるのが、現在一般となっている。第二週から第六週まで火曜日、木曜日に、また一般的とは言えないが月曜日にも多くの正教徒はワインを飲み、そして多分オイルも使っている。たとえば、正教徒でない家庭に生活していたり、会社や学校の食堂で食事をとることを余儀なくされている狐立した正教徒の立場など、個人的な要因を考慮する必要がある。あいまいな場合はそれぞれ、その人の精神的な父〔神父〕の助言を求めるべきである。いつの時でも、「あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にある」(ロマ6:14)ということ、そして「文字は人を殺し、霊は人を生かす」(コリンフ後3:6)ということを心の中に言い聞かせていることが絶対必要である。斎のルールは、まじめに取り組む必要はあるけれども、陰鬱な、ひけらかしの律法主義に解されてはならない。「神の国は飲食ではなく、義と平和と聖神(聖霊)に於ける喜びとである」(ロマ14:17)。

三歌斎経の内容

 大斎期の祈祷書「三歌斎経」の中には、二つの構成要素が見い出される。第一は聖詠(詩編)とその他の聖書の誦読のサイクル、第二は奉神礼聖歌――カノン、ステイヒラ、セダレンなど――のサイクルである。

聖詠とその他の聖書の誦読(The Psalter and the Scriptural Readings)
 大斎が年一度の聖書的根源への回帰であるゆえに*43、これらの誦読は測りしれないほど重要である。さらに特定して言えば、それは旧約聖書における根源への回帰である。大斎期の聖書の読みは、年間の他のどの時よりも旧約聖書が大きな割合を占めている。
 この旧約聖書の強調は、とりわけ、大斎を通して聖詠誦読に重要な位置づけが与えられている点に明らかである。他の時期では一週間に全体を一回読むのに対して、大斎の時期は各週そっくり二回ずつ読まれる*44。それによって、我等の主が自ら子供のころ暗唱し、朝夕の祈祷に使用した聖詠の言葉の中に斎の心は、集中させられる。この聖詠の中心的な位置は、特に大斎の平日早課に顕著である。その半分近くの祈祷が聖詠の誦読で占められる一方、カノンは他の時期よりかなり短くなっている。カノンそれ自体の中でも、同様に、旧約聖書に卓越した位置が与えられている。概して、旧約歌頌は他の時期に大幅に省略されるのに対し、大斎の平日には完全に誦読される。この祈祷の形は、聖書からとられた句と句の間にあるほんの短い聖書の歌頌のリフレインで成り立っていた初期の頃のオリジナルなカノンの形を偲ばせる*45。
 旧約聖書の幅広い使用は、大斎の早課にのみ顕著なのではない。平日の一時課、三時課、六時課、九時課には、聖詠の誦読〔カフイズマ〕が追加されている。年間の毎日の聖体礼儀に指定されている使徒経と福音経の読みの代わりに、大斎の平日には三つの旧約聖書の読みがある。一つは六時課で、あと二つは晩課で読まれる。しかし大斎中でも土曜日と日曜日には、完全な聖体礼儀が執行されるので、使徒経と福音経の読みが通常通り指定されている。大斎中の使徒経の読みはほとんど「エウレイ書(ヘブル書)」からとられており、福音経の読みは「マルコ伝」からとられている。それらは、両方とも、注意深く工夫された順序で割り振られている。*46

 三歌斎経の中の旧約聖者の読みの体系は、おそらく、五世紀から七世紀の間に成立したと思われる。その三つの書は旧約聖書の三つの主要なカテゴリー――歴史書、預言書、知恵文学――を代表するものである。それは、次の通りである。

(1)歴史書(すなわちモイセイ〔モーセ〕五書)………………晩課・一番目
    創世記(大斎の六週間)
    出エジプト記(受難週間)
(2)預言書………………………………………………六時課
    イサイヤ書〔イザヤ書〕(大斎の六週間)
    イエゼキイリ書〔エゼキエル書〕(受難週間)
(3)知恵文学……………………………………………晩課・二番目
    箴言(大斎の六週間)
    イオフ記〔ヨブ記〕(受難週間)

 旧約聖書文学の異なるカテゴリーを提示するだけでなく、これらの書は大斎にふさわしいものとしても選ばれている。
(1)創世記は人の堕落と楽園からの追放を記している。それは、三歌斎経を一貫するモティーフである*47。創世記の終わりに近く、イオシフ〔ヨセフ〕の物語が語られている。イオシフ〔ヨセフ〕の罪なき受難は、ハリストスの「かたどり」と見なされる。
(2)出エジプト記からの学びによれば、モイセイ〔モーセ〕は、ハリストスを予象し、古き過ぎ越しは、新しき過ぎ越しを先取りし、紅海の奇跡は、救世主の贖罪の死と復活をかたどっている。
(3)イサイヤ〔イサイヤ〕書は、悔い改めと斎への呼び掛けをもって始まっている。
(4)イエゼキイリ〔エゼキエル〕書からの読みは、神の光栄――主の十字架と復活によってさらに明らかにされる光栄――について語っている。「今や、人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった」(イオアン13:31)。
(5)箴言による倫理的な学習は、大斎が道徳的な努力の時期であるということを思い起こさせる。悔い改めとは単に一つの感情であるだけでなく、神の恵みに助けられて生き方を改め、それを実行する行為に具体化されるものである。もし、我々が、箴言からの読みをつまらなく思ったり、もっと「劇的な」もの、「興奮する」ものを求めようとしたりするなら、それは、我々が歩くことを学ばない内に走ろうとしているのに他ならない。
(6)イオフ〔ヨブ〕の痛ましい苦難と、その最後の潔白証明は、ハリストスの受難と復活を先取りしている。

 このように、旧約聖書の学びが、偶然に選ばれたのではなく、三歌斎経の全体を貫く統一性をもって、それぞれ独自の位置に置かれていることは明白である。

奉神礼【聖歌】(The Liturgical Hymnography )
 三歌斎経の聖書以外の構成要素は、六世紀から十七世紀の千年近くにわたって取り入れられてきた。それは、三つの主な時代に分けられる。

(1)初期(六〜八世紀)
 おそらく、最も古いものは、六時課の旧約聖者の読みの直前に毎日のサイクルで唱えられる「預言のトロパリ」である。それらは、聖書のテキストを韻律をつけてパラフレーズしたと言っていいほど、非常に単純な形をしている。ほとんど同じくらい古いものは、「アカフィストの聖歌」である。おそらく、聖歌作者聖ロマン(†560)の作であろう*48。
 いくらか後になるが、最も古いカノンは、「クリトの聖アンドレイ(660-740)の大カノン」である。それは明らかに、彼の生涯の終わりの頃に作られた。――彼はこのために、その老年の多くの時間を費やした――作者にとっては、共同体の奉神礼に使用するためよりむしろ、個人的な信仰心の吐露であった。八世紀末には、「ピロス」または「盲人」として知られる聖サウワのラウラの修道士のアンドレイが、大斎の平日にそれぞれ二つある「イディオメラの(自調の)サイクル」を作った。その一つは、早課の挿句のスティヒラにおいて歌われ、もう一つは、晩課の挿句のスティヒラにおいて歌われる。そのサイクルは、アンドレイと同時代の人で修道の仲間であったダマスコの聖イオアンの甥サウワのステファン(725-807)によって、広げられ完成された。普通、二回繰り返して歌うように指示されたこれらのイディオメラは、大斎の神学全体を要約した非常に豊かな教義的内容を持っており、それらは、特に注意して学ばれるべきものである。
 三歌斎経の中に見られる六世紀から八世紀の時期の他の作者の中には、エルサレムの総主教聖ソフロニイ(†638)、ダマスコの聖イオアン(680-749)、マユムの聖コスマ(685-750)などがいる。この第一期に属する聖歌作者はほとんどが、シリヤもしくはパレスチナ地方に関係しており、彼等の大半は特に、エルサレム郊外の聖サウワのラウラ修道院に関係している.

(2)編集期(九世紀)
 九世紀の間に、活動の中心は、パレスチナからコンスタンチノープルへ、つまり、コンスタンチノープルのストゥディト修道院へ移行した。ストゥディト修道院の影響は多大なものであった。九世紀に、ストゥディトの修道士たちは、三歌斎経を現在の構成に編集したばかりでなく、彼等自身もまた、その中の重要な部分を作成したのである。この三歌斎経、さらに五旬経は、ほとんどストゥディト修道院の編集労作の産物である。そんな中で二人の兄弟が特色ある軌跡を残している。すなわち聖フェオドル・ストゥディト(759-826)と、テサロニケの大主教聖イオシフ・ストゥディト(762-832)である。聖フェオドルは、大斎中の平日のために第二のカノンを作り、彼の弟イオシフは第一のカノンを作った*49。これらのカノンは、曜日のテーマよって内容が異なっている。すなわち、月曜日と火曜日は悔い改めを、水曜と金曜は十字架を、木曜日は聖使徒を、土曜日は致命者と死者をそれぞれ主題としている。
 三歌斎経に見られる九世紀頃の他の著者には、グラプトスの聖フェオファン(778-845)、詩頌著者聖イオシフ(816-886)、賢者皇帝レオ六世(886-912治世)、女性作詞者カッシア(またはカシーニア)などである。カッシアは皇帝フェオフィル(829-842)との結婚の機会を、彼女の機転の利いた快活な性格によって破談にし、その後修道女になった*50。彼女は聖大木曜日の早課に歌われる聖歌の作者である。「主よ、多くの罪に陥りし婦は…」〔「三歌斎経」p1038-1039を見よ〕。

(3)付加(十〜十五世紀)
 三歌斎経の基本的な編集は九世紀に完成したが、その後の五世紀間に、ストゥディトの編集者が明確にしたその全体の形を変更せずに、多くの付加がなされた。八世紀からの残存する三歌斎経の写本は、地方の習慣によって非常に様々だった時代もあったが、しかし、十二世紀頃から統一性がもたれてきたことを示している。この第三の時代におけるより有名な著者たちの中には、「翻訳者」として知られるシメオン・ロゴフェト(十世紀)がいる。後は、聖大金曜日の晩堂小課に採用されている生神女の哀歌の作者である〔「三歌斎経」p1147を見よ〕。また、エウハイトの府主教イオアン・マヴロプウス(十一世紀)は、大斎第一週の土曜日の聖フェオドルの二つのカノンの作者〔「三歌斉経」p337を見よ〕、コンスタンチノープルの総主教フィロフェイ(十四世紀)は、大斎第二主日の聖グリゴリイ・パラマスをたたえる奉事の作者である〔「三歌斎経」p459を見よ〕。
 意外にも、三歌斎経で最も愛される祈祷文のいくつかには、さらに新しい時代のものもある。大斎中の主日の早課で、福音書の読みの後に歌われる三つのトロバリ「生命を賜うの主よ、我に痛悔の門を開けよ…」「神の母よ、我を救いの道に導けよ…」「我、不当の者、多くの犯せし罪を思い…」は、そのテキスト自体はおそらくもっと古いものかもしれないが、十四世紀以前にはこの位置には現れて来ない。聖大土曜日の早課で歌う「エンコミヤ」または「讃美詞」は、十四世紀〜十五世紀頃の写本に初めて見い出される。
 三歌斎経の写本には、現在使用している印刷された三歌斎経には含まれていないたくさんの付加――カノン、イディオメラ、スティヒラなど――がある。これらの公にされていないテキストの多くは、かなり高い芸術性や精神性を持っている。このことから、現存する三歌斎経は、豊かで複雑であるけれども、もっと大きな全体からの抜粋にしかすぎないことかわかる。
 その修道的な祈祷書の原形を特にストゥディトの兄弟たちの祈祷儀式によってもたらされた三歌斎経は、教区教会によっても採用される時代がやってきた。古い「大聖堂の奉神礼」が次第に「修道院の奉神礼」によってとって代わられたこの過程は、すでに、十二世紀には始まっており、十四世紀にほぼ完了した。「大聖堂の奉神礼」にどんな長所があっても――その緩和された形の復興を願う人々がたくさんいたとしても――、教会による修道的な三歌斎経の採用に、何の矛盾も精神的な不適応もない。三歌斎経の祈祷文は、修道士たちだけでなく、すべてのクリスチャンに向けられているのであり、我々を導く痛侮と斎の道は、普遍的に生きているのである。

三歌斎経の内面を貫くもの

 三歌斎経は、一見して明白ではないにせよ内面的な一貫性と統一性を持っている。例えば、兵士聖フェオドルが第一週の土曜日に記憶され、また大斎第一主日に「聖像(イコン)」が、第二主日に聖グリゴリイ・パラマスが記憶されるのはなぜか。これら三つの奉事は、大斎の修道的な斎とどんな特別な関連を持っているのか。三歌斎経の十週間における様々な記憶と全体とのつながりのパターンを少しだけ考察しよう。しかしあまり細かい所には入らずに、簡単に、大斎全体の構成の中のそれぞれの奉事の位置にふれてみよう。

(1)大斎準備週間

(a)「ザクヘイの主日」
 三歌斎経を使用し始める一週間前の主日に、やがて来る大斎を待ち望む福音が読まれる(ルカ19:1-10)。それは、ザクヘイ〔ザアカイ〕が、どのようにして、ハリストスの通って行く道端の木に登ったかを記している。この福音に我々はザクヘイの、主を見たいという「熱切な欲求」と、その「欲求の激しさ」を見い出し、それを我々自身にも当てはめる。もし、我々が大斎のために準備をし、我々の心の中に本当の熱心さがあれば、そして、もし、我々がハリストスのはっきりしたヴィジョンを激しく渇望するならば、その時、我々の希望は大斎の間に満たされるであろう。実に、我々はザクヘイのように期待していた以上のものを与えられるであろう。しかし、もし、我々の中に熱心な期待も心からの渇望もないとしたら、我々は何も見ないし、何も得ないであろう。だから、我々は自分自身に尋ねるのである、「私の心の状態、大斎の旅に参加するための準備をしよう、という私の意志は、さてどうなっているだろうか」*51。

(b)「税吏とファリセイの主日」(ルカ18:10-24)
 この日と続く二つの日曜日では、「悔い改め」が主題となっている。悔い改めは、我々が大斎へ入っていく入口であり、復活大祭への旅の出発点である。悔い改めは自己憐憫や、過去に行なったことについての無益な後悔から、はるかにかけ離れたものである。ギリシャ語の「メタノイア」は「心を向け換えること」を意味している。すなわち、悔い改めることは再生であり、内的見解の変容であり、我々の、神と人との関係への新しい見方への到達である。ファリセイの誤りは、彼が自分の考え方を変えようとしていないことにある。すなわち、彼はひとりよがりで、自己満足していて、それゆえに自分の内に神が生きるための場所を一つも用意してない。一方、税吏は本当に「心を向け換えること」を求めた。すなわち、彼は自己に不満足であり、「心の貧しき者」である。それゆえに、この自己不満足から救う場所には神が生きる部屋がある。もし税吏の隠れた内なる貧しさを学びとらなければ、斎の春にあずかることはできないであろう。この日の主題は、砂漠の聖師父たちの言葉に要約される。「私は、罪を犯さず自分は正義を行う者であると考える人よりも、罪を犯したことを認めて回心する人が好きだ」*52。

(c)「放蕩息子の主日」(ルカ15:11-32)
 放蕩息子の譬えは、その異なった次元での、的確な悔い改めの像(イコン)を形作っている。罪とは放浪であり、異邦人の奴隷となることであり、飢えることである。悔い改めとは、放浪から本当の我が家に帰ることである。すなわちそれは、神・父の家で我々の嗣業と自由を受け戻してもらうことである。しかし、悔い改めには行動がともなう。「立って、父の所へ帰って‥‥‥」(18節)。悔い改めるということは、単に満たされないと「感じる」ことだけでなく、決心し、そして「行動する」ことである。
 この日と次の二つの日曜日の早課には、喜びに満ちた荘厳な多油祭(ポリエレイ)の直後に、嘆きに満ちた聖詠百三十六の聖句が付加される。「我等、かつて、ワビロンの川辺に座し、シオンを思うて泣けり…」。バビロン捕囚にあったイスラエルの民が歌ったこの捕囚の聖詠は、放蕩息子の主日に特別にあてられている。ここで我々は、現在の自分自身の罪による捕囚(放蕩)を心に訴えかけ、家に帰る決心をする。

(d)「死者の土曜日」
 「審判の主日」の前日には、その主日の主題に関連して、「すべての時代」の死者の全記憶がある(大斎の第二、第三、第四の土曜日の死者の記憶より大きなものである)。審判の主日の祈祷の中でハリストスの第二の到来を心に言い聞かせる前に、我々は、我々より先に死に、今、最後の審判を待っているすべての人のために神に祈祷する。この土曜日のテキストの中では、死者と生者すなわち教会のすべての信者をつなぐ相互愛の絆が強く結ばれていることが感じられる。復活のハリストスを信仰するすべての人々にとって、死者たちはすべてハリストスのうちに生きているゆえに、死は交流を妨げる壁を作らない。すなわち、死者は今も我々の兄弟であり、我々と同じ家族の一員である。だから、我々は彼等のための熱心な祈祷の必要を感じるのである。

(e)「審判の主日」(マトフェイ25:31-46)
 前の二つの主日は、神の忍耐と限り無い憐みを、そして、自分の元へ帰るすべての罪人を受け入れようと待っている神を語ってくれた。この三つ目の主日は、我々に助け合いの真実を強く思い起こさせる。すなわち、神ほど忍耐強く憐み深い者は他に誰もないが、神は悔い改めない人々を赦すことはしない。愛の神はまた義の神でもある。そして、ハリストスが光栄の内に再び来られる時、それは「我々の審判」にやって来るのである。「神の慈愛と峻厳とを見よ」(ロマ11:22)。時間のまだあるうちに戻れ。終わりの来ない前に悔い改めよ。これが我々一人一人に対する大斎のメッセージである。アンドレイの大カノンでは次のように言っている。

  霊よ、終わりは近づく。近づけども汝は慎まず、己を備えず
  時は縮まる。起きよ。審判者はすでに近し。門に及べり
  生命の日の過ぐるは夢の如く、花の如し
  我等、何すれぞ、徒に心を煩わす*53

 この主日は、大斎の終末論的な次元を我々に提示している。大斎は救世主の第二の到来の準備であり、来るべき時代の永遠の「過ぎ越し」のための備えである(これは、受難週の最初の三日間で取り上げられる主題である)。しかし、審判は未来にあるだけでない。今、ここに、日々刻々行われている。我々の他人に対する心の頑なさによって、そして人に助けを与える機会を無駄にすることによって、すでに自分自身に審判を受けているのである。

(f)「大斎前の週(乾酪週間)の土曜日」
 この日に、教会の古代の聖人たち、男も女もすべての聖人たちの全記憶がある。大斎の旅を始めるに当たって、我々は一人でなく、家族全員で旅するのであり、日に見えないたくさんの扶助者のとりなしに助けられるということを思い起こすのである。

(g)「大斎直前の主日」
 最後の準備の主日は二つの主題を持っている。すなわち「アダムの楽園からの放逐」の記憶と、「赦し合い」でもある。これらの二つが、大斎の入口に立つ我々に注意をうながすのには、明らかな理由がある。三歌斎経の基本的なイメージの一つは、楽園への帰還である。大斎は、神との自由な交わりを我々から奪った罪をアダムとイヴと共に悔い改めて、エデンの閉ざされた門の前で彼等と共に泣く時である。しかし大斎はまた、もう一度我々に楽園を開く(ルカ23:43)ハリストスの死と復活、その救いの出来事を祝う準備をする時でもある。そのゆえに、我々の罪の放浪に対する嘆きは、楽園に再び入るという希望によって、慰められる。

  至りて尊き楽園、輝ける華麗、神の造りし居所、絶えざる楽しみと音び、
  義者の光栄、預言者の装飾、聖者の住所よ、
  汝の葉の声をもって、万有の造成主に祈りて、
  我が犯罪をもって閉じたる門を我がために啓け、
  また、我に生命の樹に与かりて、
  先に汝の内に受けし楽しみを得しめんことを求めよ*54

 ここで、三歌斎経が語っているのが、実は「アダム」でなく「私」のことであるのに注意したい。「私が閉ざしたその門を神が私に開いてくださるのである」。三歌斎経全体について言えることだが、聖なる歴史の出来事が、遠く離れた過去や未来の出来事としてでなく、私が、聖なる時間の広がりの中で経験する、今、ここでの体験として扱われている。
 赦罪という第二の主題は、この主日の福音書の読み(マトフェイ6:14-21)と、この日曜日の夕方の晩課の終わりにある特別な赦し合いの儀式に強調されている。大斎に入る前に、我々は、隣人との和解なしでは本当の斎も、真実の悔い改めも、神との和解もないことを思い起こす。愛のない斎は悪魔の斎である。先の土曜日の古代の聖人たちの記憶が我々に明らかにしてくれたように、我々は個人的に一人だけで斎するのでなく、家族全員で大斎の道を旅するのである。我々の節制と斎は、我々と仲間とを引き離すものではなく、より強い絆をもって彼等と結びつくものである。大斎の行いは「他者のための自分になる」ことを要求している。

(2)四十日の斎
 前の二つの主日、すなわち審判の主日、赦罪の主日は共に――順序は逆だが――最初は楽園のアダムから、最後はすべての時間と歴史が永遠の中へ組み込まれて行くハリストスの第二の到来までの、聖なる歴史の範囲全体を要約している。
 それに続く大斎の四十日間、この広大な展望は決して忘れられることはない。しかし、聖なる歴史の中心的瞬間、すなわち人の楽園への帰還を可能にし終末を開始したハリストスの受難と復活の救いの出来事に集中力が増される。大斎はこの見方によれば、明確な目的を持つ旅である。すなわち、それは「パスハへの旅」である*55。我々の旅のゴールは先備聖体礼儀の最後の祈祷の中に簡潔に表現されている。
「…聖なる復活に至りて、これに伏拝するを得せしめ給え」。四十日を通して、我々は、我々が「旅をしている」ことを思い起こす。それは、ゴルゴタと空っぽの墓へ、真っ直ぐに続く道を行く旅であるである。それゆえに、我々は第一週の始まりに次のように唱える。

  我等、喜ばしく斎の時を始め…

  …斎の大いなる海を渡りて、
  我が救世主、イイスス・ハリストス、
  我等の霊を救う主の三日日の復活に至らんためなり。

  …三日目の聖なる復活に至らんためなり

 我々は旅行者として、旅がどれだけ進行しているかを定期的に心に呼び掛ける。

  主よ、我等、救いを施す節制の二日に於いて…

  我等、喜ばしく、斎の第二の週を始めん‥‥‥

  信者よ、我等は、斎の第三の週間を始めて、尊き三者を讃め揚げ、
  喜ばしく節制の時を経て、…日日の首のために冠を編まん・‥・・・

   その「日日の首」とは主の復活の日である。ゆえに、我々は続ける、

  今、斎の時の半ばを過ぎて、神聖なる度生の始めをなし、
  徳行の生命の終わりに至らんことを熱切に勤めん…
  …ハリストス我が神の神聖なる苦しみに伏拝して、
  その畏るべき聖なる復活にも至るを得んためなり

 大斎の各週、我々の眼差しは旅の目的へ向け続けられる。すなわちそれは、救世主の苦難と勝利の過ぎ越しである。
 大斎四十日の旅は明らかに選民が荒野を旅した四十年を呼び起こす。「新たなるイスラエル」である我々にとっても、〔新しき〕イスラエルの民として、大斎は旅(pilgrim)の時である。それは「エジプトのくびき」すなわち罪深い情念の支配からの解放の時である。水の無い不毛の砂摸を信仰によって進行して行く時である。我々の飢えを満たす天からのマナによって、思いがけなく元気づく時である。シナイ山の暗闇から神が語りかける時である。そして約束の地に、楽園の中の本当の我が家に近づく時である。十字架にかかり復活したハリストスが我々のために楽園の扉をもう一度開いたのである。

大斎の平日
 大斎の平日には、聖エフレムの祝文「主、我が生命の主宰よ…」に併せて何度も繰り返される「伏拝」によって、独特の精神性が与えられる*56。簡潔に、冷静に、その上際立った完全性をもって、この祈祷は我々を、まさに大斎の意図するその心へ連れて行く。
 大斎の平日を特徴づけるもう一つの要素は「先備聖体礼儀」である。先備聖体礼儀は現在の習慣では毎水曜、金曜に執行されるが、ある時期には大斎の平日すべてに行われたこともあった*57。厳密に言えば、「聖体礼儀」という呼び名は誤称である。そこには聖体機密の聖変化がないからである。それは単に晩課の祈祷であり、前の主日で聖変化した聖体の領聖がその最後に付加されるのである。聖体礼儀の完全な執行は常に祝祭的な凱旋の行事であるため、大斎の平日の峻厳さとは相容れない。それゆえに、すでに四世紀に大斎中には土曜、日曜を除いて聖体礼儀の完全な執行をしないように規定された*58。しかし、信者が大斎の平日に領聖できるようにと、――古代教会では、毎日、どこかで領聖するのが普通だった――先備聖体礼儀が編み出されたのである。
 先備聖体礼儀の多くの場面は、大斎が洗礼という光、または「光照」の機密を受けるための最後の啓蒙の時であったことを思い起こさせる。二つの旧約聖書の読みの間に、司祭が香炉と火のと持ったロウソクを持って、「ハリストスの光は衆人を照らす」と言いながら会衆を祝福する。また啓蒙者の連祷とその退出の呼び掛けの間に、大斎中週から「光照に備うる者のための」連祷が付加される。我々は、先備聖体礼儀にあずかるたびに自分自身に尋ねるべきである。ハリストスからどんどんかけ離れて行くこの世の中で、福音の光を広げるために、昨年の大斎以来私は何をしただろうか。今日、我々の正教会の中に啓蒙者がどれだけいるだろうかと。
 大斎の水曜と金曜には、年間を通してそうであるが、「テオトキア(生神女讃詞)」として知られる神の母の普通の聖歌が、「スタヴロテオトキア(十字架生神女讃詞)」にとって代わる。それは、十字架と生神女の両方に関する聖歌であり、生神女マリヤが十字架上の息子の側に立った時の、母としての深い悲しみが歌われている。この聖歌によって我々は、大斎に福いなる童貞女が共に参加していることに気づかされる。

 四十日の斎を順を追ってより詳細に考察して行こう。

(a)大斎第一週:月曜から金曜まで
 大斎の最初の四日間の晩堂大課には「クリトの聖アンドレイの大カノン」が、四つのセクションに分けて読まれる。また第五週の木曜日には、もう一度、今度は全部通した形で読まれる。その一定のリフレイン「神よ我を憐れみ、我を憐れみ給え」と共に、大カノンは悔い改めへの絶え間ない呼び掛けの中で、連綿と罪を告白し続ける。同時にそれは、この世の創造からハリストスの到来までのすべての罪人、すべての義人を含んだ聖書の登場人物全体の瞑想でもある。ここで三歌斎経のどんな場所よりも、我々は「源泉としての聖書」を再確認する時として大斎を経験する。この大カノンでは「歴史」と「個人」という二つのレベルが巧みに織り合わせられている。「聖なる歴史の出来事は、『私』の生活の出来事として啓示されている。過去の神の行為は、私と私の救いに働き、罪の悲劇と裏切りは、私個人の悲劇と重なる」*59。大カノンの影響力は非常に大きい。スコットランド長老派教会のアレキサンダー・ホワイト氏は、この大カノンが「最もすばらしいもの、とにかく、ギリシャ正教会のすべての奉神礼書の中で、最も感興するものである」と評価している*60。

(b)大斎第一週の土曜日
 大斎最初の五日の厳しい斎の後に、土曜日と日曜日が喜びに満ちた感謝の祭として待ちうけている。土曜日には聖大致命者フェオドル・ティロンを記憶する。彼は小アジアのローマ軍の「兵士」で、皇帝マキシミアン(286-305)治下、四世紀初頭に致命した。ここで、四世紀以後、教会によって採用されていたと思われる一つのルールが働いている。それは、大斎の平日には完全な聖体礼儀か執行できないために、固定の暦によって平日に当たってしまう聖人たちの記憶が土曜日か日曜日に移動されることである。それゆえ*61、二月一七日〔三月二日〕がその記憶日である聖フェオドルの記憶は大斎第一土曜日に移動されてきた。三歌斎経におけるこの日のテキストは、フェオドルという名前の文字通りの意味が「神の賜物」であることをいくどとなく引き合いに出している。
 聖フェオドルが、大斎の第一週に関連づけられるようになったのには特別な理由がある。シナクサリオンに記録されている聖伝によると*62、背教者ユリアン帝(361-3年治世)が、キリスト教迫害の一端として、大斎第一週を守れなくしてしまおうと、コンスタンチノープルの市場に売られているすべての食料品に、異教の犠牲からとった血を降り注ぐよう命じた。その時、聖フェオドルが、大主教エウドクシイの夢に現れて、市場から何も買ってはならないことを信者たちに警告するよう言い付け、その代わりに、煮た小麦(糖飯)のみを食べるように言った。この事件を記憶して、第一週金曜日の先備聖体礼儀の後に、とりなしのカノンが聖フェオドルのために歌われ、糖飯がその光栄の内に祝福される*63。
 しかし、聖大致命者フェオドルが大斎の時期に記憶されることには、大斎第一週とフェオドルとの歴史的な関連とは別の精神的な意味合いがある。大斎は見えざる闘い、見えざる致命の時期であり、罪に対する修道的な死によって、我々が致命者の自己犠牲にならおうとする時である。このようなわけで、大斎第一土曜日の聖フェオドルの記憶とは別に、大斎のすべての平日に通常の致命者讃詞が唱えられる。それら一つ一つは、大斎四十日の間、修道的努力をする我々にとって特別な意義を持っている。

(c)正教勝利の主日
 すでに聖フェオドルの土曜日に表された喜悦と感謝は、正教勝利を祝う大斎第一主日には一層色濃く現れてくる。この日に教会は、聖像論争の終結と、幼い息子ミハイル三世の摂政をしていた女帝フェオドラによって教会に聖像が完全に復帰したことを記憶する。この出来事は八四三年三月十一日の大斎第一主日に起こった*64。しかし、大斎第一主日と聖像の復帰とを結びつけるのは、歴史的なものだけでなく、聖フェオドルの場合と同じような精神的な意味合いをも持っている。聖像論争に正教が勝利したのは、大多数の信者が真実のために、捕囚と拷問とそして死さえ被る覚悟をしたからである。正教勝利の祭はとりわけ、信仰のために闘い受難した致命者と表信者の光栄の祭である。つまり、我々が修道的な克己の意味において致命者にならおうと努力すべきことを、大斎の課題として教えるのである。大斎第一主日に正教勝利が固定されたのは、歴史的な理由のみによるのではない。
 三歌斎経は、正教勝利の主日のための特別の奉事式を伝えている。〔日本正教会訳の「三歌斎経」には無い〕。それは早課の終わりに、あるいはこの主日の聖体礼儀の終わりに行われる。この奉事式は、聖像の復帰を祝うだけでなく、すべての異端、誤説に対する真実の信仰の勝利を祝うものである。聖像を掲げて行列が行われ、その後、第七全地公会(787年)の決議事項からの引用が読まれる。六十のアナフェマが、三世紀から十四世紀までの様々な異端に対して宣告される。正教会の信仰を守った皇帝、主教、師父たちの光栄のために「永遠の記憶」が歌われ、現在の我々の統治者と主教の光栄のために「いくとせも」が唱歌される*65。不幸にも、今日多くの正教会では、この感動的な奉事を行っていない。たとえ行われても大幅に省略されている。
 大斎第一主日に正教勝利を祝うようになる前、この日にはモイセイ〔モーセ〕、アアロン、サムイルなどの預言者たちの記憶がなされていた。このより古い奉事の形跡は、いまだにこの主日の聖体礼儀に読まれる使徒経(エウレイ11:24-6,32-40)の中、そして福音経誦読に先立つ「アリルイヤ唱」の句の中に見い出すことができる。「司祭の中にモイセイ及びアアロンあり。彼の名を呼ぶ者の中にサムイルあり」〔聖詠98(詩篤99):6〕。

(d)大斎第二主日
 一三六八年から、この主日はテサロニケの大主教聖グリゴリイ・パラマスの記憶が捧げられてきた。この記憶は先の主日に祝われた祭と同じ性格のものである。すなわち、ワルラアム、アキンデノス、その他の当時の異端者に対する聖グリゴリイの勝利は、正教勝利の更新として解釈される。初期の頃この日には、スミルナの聖大致命者ポリカルプ(†155年)の記憶が固定暦(二月二三日〔三月八日〕)から移動されて祝われていた。この記憶は聖フェオドルのそれと似ており、大斎的な修道と致命の業との関連性を強調している。大斎第二主日は、また、悔い改めのモデルとして、放蕩息子の主題を取り上げている。つまり、この日の早課の二つのカノンのうち第一のものが、この譬えをテーマとしている。

(e)大斎第三主日(十字架叩拝の主日)
 この日の早課において「尊貴にして生命を施す十字架」の伏拝の奉事が行われる。この儀式は、十字架挙栄祭(九月十四日〔九月二十七日〕)*66と十字架の出行の祭(八月一日〔八月十四日〕)に行われる儀式と非常に類似している。大斎第三主日の十字架叩拝は、間もなく受難週においてたどっていく主の十字架の記憶のために、我々を準備させるものである。そして、同時にそれは、大斎全体が、我々がハリストスと共に十字架につけられる時であることを思い起こさせる。この日の早課のシナクサリオンには次のようにある。「四十日の斎を通して、我等も苦難と死を受けて、十字架の道を行かん」*67。この主日の主要な特徴は、前の二つの主日と同じように、喜びと勝利のそれである。早課のカノンのイルモスは、復活大祭の時と同じものが歌われる。「復活の日をもって…」。そして、カノンの中のトロパリは、ダマスコのイオアンが作った復活大祭のカノンを、ある程度敷衍したものである。ハリストスの死と復活は分離されない。主の十字架は、勝利の象徴として見なされ、カルバリー〔ゴルゴタの丘〕は、空っぽの墓の光の中で見られる。

(f)大斎第四主日
 この日は、シナイの修道院長であった階梯者聖イオアン(6〜7世紀)を記憶する。彼は、その著書と生涯の徳によって、大斎中のこの主日に記憶されるのである。彼はクリスチャンの真の修道の型を作った。聖イオアンは大斎中に教会で読まれるように指示された精神書「天国への梯子」の著者である。彼の記憶は聖フェオドルと似ており、固定歴による三月三日〔四月十二日〕の記憶日から移動された。この主日の早課の第一のカノンは、善きサマリヤ人の譬えを基礎としている(ルカ10:30-35)。すなわち、悔い改めるクリスチャンは襲われた人に似ている。

(g)大斎第五週間
 この週間には、二つの特別な奉事がある。

@、木曜日の早課に、「クリトの聖アンドレイの大カノン」が、エジプトの聖マリヤのカノンと共に全部読まれる。そしてマリヤの生涯についても*68、この祈祷の中で読まれる〔「三歌斎経」p737参照、ただし現在、日本では行われていない〕

A、土曜日の早課に、「生神女のためのアカフィストの聖歌」が歌われる。これは、ギリシャ正教の宗教詩の中で最もすばらしいものの一つであり、翻訳者たちがまったくお手上げになってしまうほど豊かな比喩的表現に溢れている。アカフィストの聖歌は、二十四の主要な段(スタンザ)を持ち、それぞれ、長いものと短いものとが交互に唱えられる。長い段は「同讃詞(イコス)」と名付けられ、その終わり毎に「嫁ならぬ嫁よ、慶べ」というリフレインが歌われる。一方、短い段は「小讃詞(コンダク)」と名付けられ、その終わり毎に「アリルイヤ」というリフレインが歌われる。「アカフィスト」という名称は、文字通りには「座らない」という意味であり、そう呼ばれるのは、この聖歌が歌われる間は全員立ったままだからである。この聖歌の重要な部分は、生神女への讃美によって構成され、そしてそれぞれが天使長ガウリイル〔ガブリエル〕の「喜べよ」というあいさつ(ルカ1:28)によって始められている〔日本語訳は、翻訳上、「始められる」のでなく「終わりにある」〕。この聖歌は、ハリストスの藉身(受肉)と関連した主要な出来事を回顧する。すなわち、生神女福音(受胎告知)〈第一イコス〉から、エジプトへの逃避〈第六イコス〉と主の迎接〈第七コンダク〉までである。
 アカフィストの聖歌は、生神女福音祭が主の降誕祭と共に祝われ、この二つがまだ分かれていなかった時代に起源を持つ*69。アカフィストはおそらく、ある時代には十二月二十六日〔一月八日〕の生神女マリヤの会衆祭に歌われていた。生神女福音祭が三月二十五日〔四月七日〕に祝われ始めたのは、おそらくユスティニアン皇帝の治世(527-65年)の間であったろう。このことが始まった時か、またはそのすぐ後か――その場合七一八年より後ではない――に、アカフィストは三月二十五日〔四月七日〕に歌われるようになった。それから時を経て、おそらくコンスタンチノープル陥落(1453)後の「トルコ支配」の時代に、この聖歌は固定歴から移動暦になり、三月二十五日〔四月七日〕に歌われる代わりに大斎第五週の土曜日に指定された。最近のギリシャ教会では、大斎の最初の四つの金曜日の晩堂課でこの聖歌を分けて歌う習慣がある(ロシアの正教会にはない)。
 アカフィスト聖歌と生神女福音祭の関連は、今なお非常に密接である。
 例えば、アカフィストの前晩祷である金曜日の晩課におけるテキストのほとんどは、三月二十五日〔四月七日〕の祈祷文から直接とられたものである*70。生神女福音祭は、ほとんどいつも大斎の期間内に当たる*71。そういうわけで、神の母を讃美する特別の祈祷が三歌斎経の中で一つの位置を確保しているのである。
 アカフィストの聖歌の始まりに、正教会の信者に大いに愛されているコンダクが歌われる。「生神女や、我等汝の僕婢は…汝、よく勝つの将帥に…」*72。これは生神女の助けによってコンスタンチノープルの町が敵軍から救われたことを祝ったものである。アカフィストの聖歌には、そのような救助をほのめかすものはどこにもないので、このコンダクはもともとアカフィストのものではないようである。このコンダクは、六二六年にペルシャとアヴァールの進軍からビザンチンの首都が免れたことを記念して、大主教セルギイが書いたものと思われる。この場合、アカフィストがこのコンダクより古いということは確実である。このコンダクとアカフィストの聖歌それ自体は、その後の、別のコンスタンチノープルの救いの感謝祭としても歌われたのかもしれない。すなわち六七〇年中頃のアラブからの救い、七一七〜一八年のアラブからの再びの救い、そして八六〇年のロシア(まだ正教に変わっていなかった)からの救いである。より拡大して考えてみると、このコンダクは、あらゆる危機危難の時に、いつでも生神女の庇護のとりなしを頼みとする正教会の信者の思いを表現している。

(h)大斎第五主日
 この主日は前の主日と似通っている。すなわち、第四主日が修道のモデルとして階梯者聖イオアンを記憶しているように、第五主日は悔い改めのモデルとしてエジプトのマリヤを記憶する。階梯者聖イオアンの祭日同様に、エジプトのマリヤの祭は、固定暦である四月一日〔四月一四日〕から移動された。エルサレムの大主教聖ソフロニイによって詳述された彼女の生涯は、すでにふれたように第五週の木曜日に読まれ、悔い改めの本質の的確な言葉のイコンとなっている。マリヤは若いころ、アレキサンドリヤの町でふしだらな罪深い生活をしていた。彼女は好奇心から、何人かの巡礼者と共にエルサレムへ旅に出た。十字架拳栄祭の時に到着した彼女が、他の人たちと一緒に聖墳墓教会の中に入ろうとすると、見えない力が、彼女を入口に押し戻したのである。これが三、四回起こった。この不思議な体験によって、突然、痛悔の心がわき起こり、彼女は一晩中泣きながら生神女に祈った。そして次の日、何の困難もなく教会に入ることができ、彼女は喜びに溢れた。十字架への伏拝の後、彼女は、その日のうちにエルサレムを離れて、ヨルダン川の向こう側へ行き、人里離れた砂漠で隠遁生活を始めた。彼女はここで四十七年間、この世から隠れて生きていた。ついに、彼女は聖ゾシマ修道士に発見された。聖ゾシマはマリヤが死ぬそのすぐ前に、御聖体を彼女に与えることができた。何人かの現代の著作家は、聖ソフロニイの叙述の歴史的正確さに疑問を持っている。しかし、この物語それ自体については不可能なことは何もない。一八九〇年に、ギリシャのヨアキム・セペツリス神父が、ヨルダンの向こうの砂漠で一人の女隠遁者を見つけた。彼女はほとんどエジプトのマリヤと同じような生活をしていた*73。
 この主日の早課の第一のカノンは、富める者と貧しきラザリの話を主題としている(ルカ16:19-31)。これは、前の主日の善きサマリヤ人の譬えに似ており、悔い改めるクリスチャンを象徴的に描いている。

(i)大斎第六週
 三歌斎経は、「歴史的叙述」の性格をこの週間の祈祷に与え、その性格は受難週間には一層濃厚に反映される。我々はハリストスにつき従い、ハリストスと共におり、エルサレムに近づき、ラザリの復活のためにベタニヤに着き、枝の主日に聖なる都に入城し、日々刻々受難の日に迫って行く。毎日の奉事は動的に展開し劇的なリアリズムによって記憶される。日毎、我々は、ハリストスのこの世での業の最後の時に起こった出来事を、できるだけ正確に対応させて記憶していく。
 このすべては、遠い過去に起こった出来事の単なる記念としてのみ考えられるべきではない。そうではなく、奉神礼的儀礼を通して、我々は「瞑想」によってこれらに与かり、これらの出来事を「再体験」するのである。我々は、時計やカレンダーで計るこの世の時間のレベルから、「奉神礼的な」もしくは「聖なる」時間のレベルへ揚げられる。すなわち我々は、永遠の垂直的次元が直線的時間へ割り込む所に移行される。この過去から現在への、記憶から現実への転換は、奉神礼書の中の、とりわけ「今日」という言葉によって表現されている。それで我々は、ラザリのスボタに次のように歌う、「今日、ヴィファニヤ〔ベタニヤ〕は、…ハリストスの復活を前兆す」。枝の主日には、こう確言する、「今日、救世主は…イエルサリムの城に来れり」。そして、我々は聖大水曜日に見つめる、「今日、ハリストスがファリセイの家に来れるに、婦女はその足に近づき、…」「今日、イウダは承諾によりて縊れを聘定し…」。また、聖大金曜日に唱える、「今日、造物の主宰はピラトの前に立ち、…」「地を水の上に懸けし者は、今日、木に懸かり…」。そうして、復活大祭の夜に断言する、「ハリストスや、我、昨日汝と共に葬られ、今汝の復活に従い起きる。昨日、汝と共に十字架に釘打たる…」。我々は、奉事ごとに繰り返して唱えられるこの「今日」という言葉を聞くことなしには、三歌斎経の最後の二週間の持つこれらの意味を理解しないであろう。それは、単なる詩的な比喩や例証だけではなく、特別な精神的経験の具体化である。このすべては、受難週の民衆によって証しされ、そのすべての言葉は、弟子たちにあてられ、そのすべての苦難は、ハリストスによって担われた。―そして、それらはすべて、ここで、今、「私によって」経験される。

(3)受難週

(a)ラザリのスボタ
 この日は、枝の主日とともに、大斎から受難週をつなぐ特別な位置を占めている。ちょうど終わりを迎えた痛悔の四十日に続いて、受難週に流れる暗闇と苦しみの日のすぐ前に、教会が祭として守ってきた喜びと凱旋の二つの日がやってくる。枝の祭の前の土曜日は、ベタニヤでのラザリの復活(イオアン11:1-46)を祝う。この奇跡は、来るべき受難の前に弟子たちを勇気づけるために、ハリストスが行ったものである。すなわち、弟子たちは、イイススの苦難と死とを通じて、イイススが主であり、死の勝利者であることを理解すべきなのである。ラザリの復活は、行動をともなった預言である。それは八日後のハリストス自身の復活の先取りであり、そして同時に、最後の日におけるすべての義人の復活の予型である。すなわちラザリは「この世の新生の救いの初穂」である。
 奉神礼書が強調するように、ベタニヤでの奇跡は、ハリストスの神・人としての「二性」を明らかにしている。ハリストスはラザリの葬られた場所を尋ね、ラザリのために涙を流した。その人間的な無知と愛する友のためのほんとうの悲しみが意味しているようにハリストスはご自身が完全に人間であることを示された。そして、ハリストスは完全なる神性の力を表して、もうその死体が腐敗し臭い始めたにもかかわらず、ラザリを死よりよみがえらせた。この主の神性と人性における二重の完全性は受難週を通して、またとりわけ聖大金曜日に保たれている見解である。我々は主の十字架上に肉体的にも、精神的にも苦悶する真の人間の姿を見る。しかし、我々はそれ以上のことを見る。すなわち、我々は苦しむ人間だけではなく「苦しむ神」を見るのである。

(b)枝の主日
 この日はハリストス、王の祭である。「主のみ名によって来る者に祝福あれ…」、幼子たちは、主がエルサレムに入城されるのを歓迎した。私たち一人一人も同じように心から歓迎すべきである。「主のみ名によって来る者に祝福あれ…」、過去からというよりむしろ「未来から」来るのである。すなわち我々は枝の主日に、遠い昔にロバに乗ってエルサレム入城した主だけでなく、来世の王として大いなる光栄と権能の内に再び来る主を歓迎する。しゅろや木々の枝が、早課の福音の読みの後に祝福される。そしてその後の祈祷の間、その枝は火のついたロウソクと共に手に持たれる。ある時期、東方教会は今日の西方教会のように枝の祭の行列を催していたけれども今では行われなくなり、三歌斎経は何も言及していない*74。
 祈祷の中でこの祭日の最初のスティヒラがしばしば繰り返される。「今日、聖神の恩寵は我等を集めたり…」。五、六世紀の聖エウフイミイ、聖サウワ、他のパレスチナの修道士の習慣とこれとを関係づけて見ることが可能である。神現祭のすぐ後に、彼等は、自分の修道院を離れて、一人で、もしくは友をつれて大斎のために荒野に退き、静寂と絶えざる祈りに時を費やし、草木の根のみを食べて過ごした。そうして、大斎第六週の土曜日の午後に、彼等は皆、自分の修道院へ帰った。それは枝の主日の前晩祷にあずかり、兄弟たちと共に受難週を過ごすためである。西方世界の中の孤立した正教会の教区でもよく似たことが毎年繰り返されている。聖堂から遠く離れて生活し、ふだんはほとんど参祷できない教区内に散在した信者たちは、枝の主日の徹夜祷のために教会に集まりはじめる。受難週が進むにつれて、そんな信者たちがどんどん増えてゆく。昔のパレスチナの修道士たちのように、二十世紀の我々もまた枝の主日に、心から言うことができる、「今日、聖神の恩寵は、我等を集めたり…」。

(c)受難週:聖大月曜日、火曜日、水曜日
 エルサレム入城のあくる日、ハリストスは弟子たちにこの世の最後の日に先立つ前兆について詳しく話した(マトフェイ24、25章)。受難週の最初の部分の重要な主題である。一方、西方教会の礼拝では、「最後のこと」はクリスマス前のアドベントの時期に主に記憶される。受難週の最初の三日問の終末的な主題は、早課のトロパリと差遣詞(エクサポスティラリイ)に要約されている*75。その両方とも、ゆったりとした荘厳なメロディーで三度繰り返される。トロパリ「見よ花婿は夜半に来る…」は、十人の乙女の譬え(マトフェイ25:1-13)がもとにされている。差遣詞(エクサポスティラリイ)「我が救世主よ、我、汝の飾りたる宮を見れども、これに入らんために衣を有たず…」は、礼服を持っていなかったゆえに婚宴から追い出された人の譬え(マトフェイ22:11-13)からきている。ここに、我々が、大斎中の多くの機会に執拗に繰り返された主題が提示される。すなわち、終わりはすぐそこに来ている、目を覚ましていよ、時間のまだあるうちに悔い改めよ。
 この三日は、それぞれ独自の主題を持っている。
 @、聖大月曜日には「族長イオシフ〔ヨセフ〕」が記憶される。被の罪なき苦難は(創世記37、39、40章)ハリストスの受難のかたどりである。また、ハリストスにのろわれた「実の無いいちじくの木」も記憶される(マトフェイ21:18-20)。これは、悔い改めの実を結ばない者に及ぶ審判の象徴である。さらに限定して言えば、ユダヤ・シナゴーグの不信仰の象徴である。
 A、聖大火曜日には、奉神礼のテキストは「十人の乙女」の譬えに言及する。それはこの三日間の一貫した主題でもある。また、そのすぐ後に続くタラントの譬え(マトフェイ25:14-30)についても記憶される。それらは両方とも、審判の譬えとして解されている。
 B、聖大水曜日には、シモンの家で席座していたハリストスの足に香油を塗った「一人の罪の女」を記憶する。この日の聖歌では、マトフェイ26:6-13の記事がルカ7:36-50の記事(イオアン12:1-8も参照)と結びつけられている。第二の主題は、ユダヤ当局に対してなされた「イウダ〔ユダ〕による裏切りの約束」である。すなわち、罪深い売春婦の悔い改めは、選ばれた弟子の悲劇的な堕落と対比されている。三歌斎経は、イウダは単に師を裏切ったためでなく、背信の罪のために、つまり赦しの可能性を信じることを拒んだために滅びに至ったということを明らかにしている。「蓋、その時予め、悔やみの縊死をもって、悪しく命を失わんことを定めたり」〔英語を直訳すると「悔改より首つりを選んだ」となる〕*76。我々が、イウダの行為を嘆かわしいと感じるなら、独善的に彼を非難するのでなく、我々自身の罪を常に自覚してそう感じるのである。「主よ、彼の定罪より、我等の霊を救い給え」*77。一見ユダヤ人に向けられているように思われる三歌斎経の祈祷文は皆、同じように理解されるべきである。ハリストスを拒み、ハリストスを死に渡した人々を三歌斎経が非難する時、我々はこれらの言葉が、他でもない自分自身にあてられているということを認識する。すなわち我々は何度も心の中で救世主を裏切り、主を再び十字架につけなかっただろうか。
 聖大水曜日の夕方には、普通、聖傅機密が聖堂で行われ、肉体的に病気であってもなくても全員が油をつけられる。それは肉体的な病いと精神的な病いの間を明確に区分する線はないから、そしてこの機密が肉体のいやしだけでなく罪の赦しをもたらすからで、このようにして、翌日の領聖の準備をするのである〔日本正教会にはこの習慣はない〕。

(d)聖火木曜日
 この日は、四つの出来事が記憶される。すなわち、弟子たちの洗足、最後の晩餐での聖体機密の制定、ゲッセマネの園での苦悶(ただし、奉神礼のテキストではあまりこれにはふれられない)、そしてイウダの裏切りである。ある聖堂や修道院では聖体礼儀の最後に特別な洗足の儀式が行われる。主教もしくは修道院長がハリストスの役を引き受け、十二人の司祭が弟子たちをかたどる。コンスタンチノープルの総主教区や他の総主教区、完全独立教会の本山では、この日の聖体礼儀中に聖膏が成聖される。しかし毎年必ず行われるわけではない。聖大木曜日の意味は、聖体礼儀で何度も繰り返される非常に美しい祈祷文に要約されている。そこでは聖体機密、イウダの裏切り、善なる盗賊の痛悔が結びつけられている。

  神の子よ、今、我を汝が機密の宴に与かる者として容れ給え
  蓋、我、汝の仇に機密を告げざらん
  又、汝にイウダの如き接吻をなさざらん
  乃ち、盗賊の如く、汝を承け認めて言う、
  「主よ、汝の国に於いて我を記憶せよ」

(e)聖大金曜日
 この日、ハリストスの苦難が記憶される。すなわち、人々の嘲笑、いばらの冠、むち、釘、渇き、膽と酢〔酢いぶどう酒〕、狐独の叫び、救世主が十字架上で忍んだすべてのこと、また、善なる盗賊の痛悔であるる。それと同時にその受難は、復活と分離されない。すなわち、主の最も深いへりくだりの日においてさえ、我々は主の永遠なる光栄の啓示を待ち望むのである。

  ハリストスよ、我等、汝の苦しみに伏拝す
  汝の光栄なる復活をも我等に顕し給え

 すでに見たように、十字架と復活は一つとして受けとめられ、救いの業として分離されない。

  主よ、汝の十字架は、汝の人々のために生命なり守護なり…

 聖大金曜日の早課ハリストスの最後の晩餐でのハリストス説教から、その葬りの場面までの福音書記事が、十二に区分して読まれる。ギリシャの教会では、第六福音の直前に「重要な場面」がある。司祭は大十字架を至聖所から持ってきて、聖堂の中央に安置する。この儀式はアンティオケの教会に端を発し、千八百二十四年にコンスタンチノープルで採用された新しいものである*78。スラヴ系の教会の習慣にはない。ここで、我々は、言葉だけでなく見える行為を用いることによって、これまでより一層進んだ段階を持った劇的な儀式の本質を知る。
 聖大金曜日に、降誕祭や神現祭の前日のように*79、旧約聖書〔パレミヤ〕と、使徒経、福音経が読まれる時課式が厳粛に行われる。時課の直後(ギリシャ系教会)か、その日の午後(スラヴ系教会)に晩課が続いて行われる。晩課の終わりに、ギリシャの教会で早課の中で行なったように、聖大金曜日の出来事が言葉ばかりでなく劇的な行為を通して演じられる*80。「眠りの聖像」(葬られたハリストスの死体の姿を描いた、または刺繍した長方形の堅い布)が、至聖所から行列を組んで聖堂の中央に運び出され、信者はそれに伏拝する。教会の一年の中でこれほど感動的な時は少ない。ギリシャ系教会とスラヴ系教会の三歌斎経は、晩課の終わりの眠りの聖像の行列について、また聖大土曜日の早課の同じような行列について、何も言ってない〔日本正教会訳「三歌斎経」には、聖大土曜日の早課に行う十字行についての注意書きがある。p1199を見よ〕。この二つの場で列をなして眠りの聖像を運ぶという習慣は、比較的遅い起源を持ち、十五世紀か十六世紀頃のもののようである。
 現在では、聖大金曜日には聖体礼儀を――完全な聖体礼儀(生神女福音祭が当たった時を除いて)も、先備聖体礼儀も――執行しないようになっている。しかし初期のころは、この日にも先備聖体礼儀が行われていた*81。

(f)聖大土曜日〔「聖大スボタ」とも言う〕
 この日にはハリストスの葬りと、主の黄泉降りが記憶される。早課が通常金曜日の夕方に行われるが、その祈祷は聖堂の中央にある眠りの聖像の前で歌われる「讃美詞」(ギリシャ語では「エンコミヤ」)によって始められる。この祈祷の大きな特徴は、嘆きというよりむしろ溢れる期待である。神様が墓でスボタに安息されている時、我々は主が新しい生命とこの世の新生をもたらして、再び起き上がる時を待ち望んでいる。

 我が救世主よ、汝、初めに業を息うをもって祝福せし第七日を、今、聖にせり
 蓋、汝は安息して、万有を己に就かしめて、これを起こし、且つ新たにし給う

 この祈祷の終わりに全員が、まさに埋葬式のように「聖なる神」を歌いながら、眠りの聖像と共に聖堂を回る。しかし、それでもこれは埋葬式の行列ではない。神は十字架上で死んだが、それでもなお死んだのではない。死んだ神・「神言葉」は、彼自身が聖なる永遠なる生命である。つまり、その夜の中を行く我々の行列は、神が今、地獄の闇の中へつき進んでいることを意味している。そして主は、アダムとすべての死者に、来るべき主の復活と彼等もまた復活に与かることを告知する。
 聖大土曜日の午前から午後早くにかけて、晩課に続いて聖大ワシリイの聖体礼儀が行われる*82。元来この祈祷は遅く始められた。すなわち夕方に始まり、復活大祭の朝へと続いた。しかし、今は、時間がずらされている。それは、ダマスコの聖イオアンのカノン「復活の日をもって…」を歌う深夜の復活大祭早課と、続いて行われる金ロイオアンの聖体礼儀にとって代わられた。もっと古い時期の晩の祈祷、現在聖大土曜日の朝に行われている祈祷は、洗礼機密が復活大祭の夜に執行されていた時代を反映して洗礼的性格を強く持っている。晩課の祈祷文のテーマは、三つの関連した主題「過ぎ越し」「復活」「洗礼による入会」である。旧約聖書の十五箇所の読み(洗礼を受ける前の啓蒙者に授ける最終段階の学びのため)がある。第三、五、六、十の読みは直接的、あるいは象徴的に「過ぎ越し」に関連し、第四、七、八、十二、十五は「復活」と関連し、四、六、十四、十五は、象徴的に「洗礼」に関連している。加えて聖大土曜日の奉事の洗礼的性格は、聖三の歌の代わりに歌われる聖歌「ハリストスによって洗を受けし者…」、また、指定された使徒経の読み(ロマ6:3-11)にも表れている。使徒経の後にくる聖歌「神や、起きて…」をもって、主の復活の祭は、すでに始まっている。
 聖大土曜日の夕方、使徒行伝が読まれている明かりを落とした聖堂の中へ人々がだんだん集まってくる。やがて夜半課が唱えられる。午前0時が迫った時、聖堂の中の明かりが全部消される。全員は、司祭が、復活したハリストスの光をかたどる火のついたロウソクを持って、至聖所から出てくる瞬間を静かに待つ。そうして、熱気と切望のうちに三歌斎経の時期が終わる。救世主は、我々に言う、「しかり、私はすぐに来る」(黙示録22:20)。そして、我々は復活したハリストスを受け入れる用意がすでにととのった心に言う、「アミン、主イイススよ、来りませ!」。