クロンシュタットの聖イオアンと日本

             マリア 松島純子 (正教時報 2007年6月号/9月号掲載)


19世紀ロシアは多くの聖人を輩出した。クロンシュタットの聖イオアン(セルギエフ)は最も尊敬を集めるひとりで、日本教会とも少なからぬかかわりがあった。イオアン神父は妻帯司祭で五〇余年にわたってクロンシュタットの聖アンドレイ大聖堂に奉職し、市井の人々の教化と伝道に一生を献げた。今回の旅行中、聖アンドレイ大聖堂は取り壊されてしまって見ることができなかったが、イオアン神父が創設しその棺が安置されている聖イオアン女子修道院と晩年に「霊的な子」として育てたレウシンスキー女子修道院のポドヴォリエを訪れた。しばし聖歌を離れて聖イオアンの足跡を紹介する。

 イオアン神父は一八二九年、極北のアルハンゲリスク近郊のスーラという貧しい村に生まれた。苦学して神学校に進み、二六歳の時ペテルブルグ沖の軍港島クロンシュタットの聖アンドレイ大聖堂に司祭として赴任した。初めての聖体礼儀でイオアン神父はこう語った。「私が司祭として与えられたこの地における神の使命は、主ハリストスに対する愛、ただこれだけである。愛ほど偉大なものはない。弱いものを強くし、滅びようとするものをおこし、小さなものを大いなる者とするこれが福音の教えようとする純な愛の性質である(『クロウェンシタトのイオアン神父』京都ハリストス正教会)」。彼はこの確信を生涯実践した。当時のクロンシュタットには帝政末期の不穏な空気が漂い、盗みが横行し、物乞いがあふれ、人々の心はすさんでいた。イオアン神父は毎日聖体礼儀を行い、人々の話に耳を傾け、病人をいやし、数々の奇蹟を行った。貧しい人々のためには施すだけでなく自立を促すために職業訓練所、孤児院、無料宿泊所、製パン所などを創設した。

日本正教会の機関誌『正教新報』にはしばしばイオアン神父の活躍が報じられ、明治一七年一一月五日には「祈祷の応験」として病者をいやした奇蹟が紹介され、二七年二月一〇日付けでは「イオアン神父の慈善事業」として、労働の家、裁縫所、身よりのない人たちのための宿泊所、学校などが紹介されている。

イオアン神父寄贈の福音書(京都教会蔵)と成聖式(後ろの方で司祭が掲げているのが福音書と思われる)

 イオアン神父と七歳年下のニコライ大主教とは早くから親交があり、神父は日本への宣教を物心両面から応援した。明治三三年(一九〇〇年)七月八日の日記に「クロンシュタットのイオアン神父から荷物が届く。中身は聖福音経、宝座用十字架三個、聖櫃、灯明皿、司祭用祭服二名分、大気小伏六揃い、聖体礼儀用聖器物一式二揃い、その他。すべては純銀製あるいは絹地で、優雅な新品。イオアン神父の慈愛のため、更なる神の祝福がイオアン神父にありますように。献納された物は信徒に見せるために洗礼室に展示した。信徒は皆、神の僕クロンシュタットのイオアン神父の名を知っている」とある。この中から明治三六年五月に京都生神女福音聖堂の成聖の記念として福音経が京都教会に贈られた。裏表紙にはニコライ大主教の筆跡でイオアン神父から贈られたという由緒書きがあり、アレクセイ総主教聖下も二〇〇〇年の京都訪問の際の祝辞で言及された。

 聖イオアンのイコンの多くはポティールを手にした姿で描かれる。神父は主の機密にあずかることの大切さを説き続けた。
「準備ができていない。ふさわしくない」と領聖しない人にイオアン神父はこう呼びかけた。「謙遜というもっともらしい口実の下に、実は無関心や怠りの心が潜んでいないか。準備を怠ってはならない。己を省みよ。罪のない者はなく、至聖なる主との交わりに『ふさわしい』人などひとりもいない。(中略)あなたは、ふさわしくないと言う。機密にあずかることを許すかどうかは、機密を領ける者ではなく、機密を執行する者の任務であり、決める任務が自分にあるなどと思ってはならない。(中略)主は、聖堂において気前よくその豊かなる食卓を私たちのために用意し、その晩餐に私たちを招いてくださっている。私たちは、その慈しみ深い招きに対し、『参ることができません』(ルカ一四、一八)という恩知らずの答えをすることを恥としなければならない」。むしろ「『招かれていた人はふさわしくない人々だった』(マトフェイ22、8)という恐るべき宣告をおそれなければならない。ゆえに、自分の不当さをおそれながらも、恩寵を信じ、いと甘美なるイイススへの愛を渇望する心で、できるだけ頻繁に主の食卓に就くように、奮闘しなければならない。主の聖体尊血こそ真のパンだからである」。







 七千人収容可能の聖アンドレイ大聖堂ではほとんど毎日聖体礼儀が行われ、ロシアのことわざで「リンゴの落ちる隙間もない」ほど人々であふれた。軍港町のクロンシュタットには短い寄港滞在期間しかない水兵も多く、一人一人の痛悔を聞く時間的余裕がないため「集団痛悔」を行って領聖に備えさせた。首司祭ワシリー・シュスチンは若い頃集団痛悔に参加したときのことを語る。朝四時からの早課に続いて痛悔が始まった。「痛悔前の祝文が唱えられ、痛悔について二言三言ことばがあった。イオアン神父は全教会に聞こえる声で『悔い改めよ』と告げた。信じられない光景が起こった。すすり泣き、叫び、隠された罪の告白。イオアン神父の耳に届くようにできる限り大声で告白する人もいた。その間イオアン神父は宝座にひざまずき、額をつけて熱心に祈った。叫び声が静まり、泣き声になり、一五分ほど続いた。イオアン神父の顔にたらたらと汗が流れていた。立ち上がりアンボンに出てきた。神父はエピタラヒリを持ち上げ、頭を垂れた人々の上にかざし、罪を解く祝文を読んだ」。

 イオアン神父の訓戒に耳を傾けて、多くの人は生き方を改め、心から痛悔をし、博愛の牧者の手から喜びながらご聖体を領け、病の癒しを受けた。

 日露戦争後日本にはたくさんのロシア人捕虜がいた。中でも松山の捕虜収容所には三千人もが収容されていた。担当のセルギイ鈴木九八神父は「痛悔領聖を望む者が多いので、クロンシュタットのイオアン神父の行っているという集団痛悔を許可して頂けないか」とニコライ大主教に手紙を書き送った。「私はためらうことなく許可を与え、集団痛悔を行うための手引き書を送った。(中略)ただし重い罪を告白するもののためには個々の痛悔を行うように言い添えた」と一九〇五年三月五日の日記に記している。おそらく捕虜の中にクロンシュタットでの集団痛悔を知っているものがおり、セルギイ鈴木神父に進言したものと思われるが、ニコライ大主教もイオアン神父の活動に深く共鳴していたことがわかる。(続く)

 イオアン神父の著作は早くから日本語に翻訳紹介されていた。『説教集』は第一巻が明治三一年に、随筆集『静思録』は三三年から相次いで出版された。『説教集』は明治二八年九月、ペテルブルグの神学校に留学中だったイオアン瀬沼格二郎(後の神学校校長)が神父から直接手渡されたもので、序文にはその時の様子が記されている。瀬沼は帰国前に高名なイオアン神父に会いたいと思い、神父の創設した「労働の家」で待っていた。

イオアン神父は黒塗りの箱馬車を降り、輔祭誦経者に伴われて走るように建物に入り、待ち受ける人々に向かって活発に挨拶のことばをかけた。日本から来たと瀬沼が紹介されると、神父はたいへん喜び、近づいて抱きしめ、祝福した。「異教の国である日本のために祈って欲しい」との瀬沼の願いに答えて「私は信徒のためだけではなく、日本の異教人のためにも常に祈りましょう」と言われた。自書六巻(『説教集』三巻、『随感随筆』(静思録)二巻、『奉神礼についての随筆』一巻)を手渡され、「国に帰ったら、至聖三者の道のために尽力しなさい」と励まされた。
 『静思録』はニコライ大主教に贈られたロシア語版を明治三三年に上田将が翻訳した。完訳本出版前にもしばしば『随感随筆』として正教新報に抄訳が紹介されていた。『静思録』第一巻を開くとイオアン神父の肖像写真が掲載されている。写真の下には「およそ爾の喜ぶところを思い、かつ行いて」というメッセージと「長司祭イオアン・セルギエフ」の自筆のサインがある。これは聖体礼儀の福音前の祝文からの引用で、原書にも副題として添えられている。

 『静思録』はイオアン神父の代表作ともいえる著作で、原題を『ハリストスにおける我が人生』、さまざまな折りに聖神に鼓吹されて書き留めたノートから神父自身が選択編集したものである。世界中の正教徒に愛読されインターネット上でもロシア語版、英語版で全文が紹介されている。聖書のことばや聖師父のことばが縦横に散りばめられているが、単なる引用ではなくイオアン神父自身のことばに言い換えられ、現代人の私たちにも身近に感じられる。産業革命や近代化の時代にあって、イオアン神父は科学の進歩や学問の知識を無闇に否定するのではなく、神の真理、神の智恵の光に照らして、より高い次元から捉えなおす。科学や常識に縛られて閉塞した心に聖神の自由な風が吹き、新しい視野が開ける。


神よ、あなたは私に、ご自分の真実、真理を豊かに開示された。科学によって私を啓発し、信仰、自然、人間の知性をことごとく見せた。「精神と霊とを切り離すほどに刺し通す(エウレイ四、一二)」あなたのことばを知り、人知の法則、哲理を慕うこと、論述の形式と美を研究した。自然の神秘とその法則、世界創造の深淵、世界流転の法則にもほぼ通じ、地球上の人口分布、さまざまな民族、この世界で次々と変わる最近の著名人の言行を知った。自己認識の偉大な科学、あなたに近づく方法についても少々学んだ。(中略)
様々な内容の本をたくさん読んだ。何度も読み返した。それでも満足できなかった。私のしん神(霊)はさらなる知識を渇望し、私の心は飽き足らなかった。飢え乾き、知性を用いて得られる知識を総動員しても、十分しあわせになれなかった。(中略)

「この水(この世の水)を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(イオアン四、一三ー一四)」

もっと頻繁に考えようではないか。あなたの体の構造には誰の知恵が顕れているか、生存と機能という点で、誰がその体を常に支えているかを。思考の法則を命じたのは誰か。だから今に至るまで、その法則にすべての人間が従っている。すべての人の心に良心の法を刻印したのは誰か。だから今に至るまで、善にはむく賞い、悪には罰がくだる。全知全能の栄光の神よ。あなたの手は常に我罪人の上にある。あなたの憐れみが私から離れることはない。常に生きた信仰をもって、あなたの栄光の手に接吻させてください。(『静思録』)


さて、イオアン神父はいくつもの教会や修道院の設立に尽力したが、なかでも修道院長マートシュカ・タイシャとともに建てたレウシンスキー女子修道院(ペテルブルグの南東三〇〇キロほどにあった)は晩年のイオアン神父の霊的な子となり、サーロフの聖セラフィムにおけるディヴィーエヴォ修道院の役割をになった。イオアン神父は霊的師父として修道院を指導し、マートシュカ・タイシャはイオアン神父の活動を助けた。一八九四年には同修道院のポドヴォリエ(出張所)をペテルブルグ市内に建てた。ここは神父お気に入りの場所となり、晩年の一四年間に一五〇回もの聖体礼儀を行った。神父はこの聖堂のアンボン上でロシア革命を予見し、「恐ろしいときが近づいた。悔い改めなさい」と神への立ち帰りを訴えた。


 イオアン神父は一九〇八年一二月二〇日に永眠し、遺体は神父の創設したペテルブルグの聖イオアン修道院に安置された。人々は永眠後も神父を慕って墓所に詣で、取りなしの祈りを願った。革命後修道院は閉鎖され墓参りは禁止されたが、人々は棺のある窓に十字架の印をつけ窓辺で祈り続けた。当局は何度も消したが、そのたびに誰かがまた新しい十字架を描き、イオアン神父に祈り続けた。今は総主教庁直属の修道院として美しく修復され、何度も十字架が描かれ真っ黒になった壁には新しい十字架が彫り込まれて、ロウソクが献げられている。
一九二〇年レウシンスキー修道院も閉鎖され、共産党政府によるモスクワ・ペテルブルグ運河とダム建設のために水没させられてしまった。残ったポドヴォリエの建物も精神病院に転用されていたが、三階部分の聖堂が返還修復された。聖アンドレイ聖堂のクーポールの壁画を模写して描かれた至聖三者のイコンは奇跡的に残っていた。
 現在の主任司祭ゲンナディ神父は聖イオアンが愛したこの聖堂を誇りにし積極的な伝道活動を行っている。イコノスタスは、まだベニヤ板を張っただけの簡単なもので天使門の扉もなかったが、持ち寄られた赤い花の列が美しく、百人ほどが熱心な祈りを捧げ領聖者も多かった。朝八時から痛悔機密が始まったが希望者が多く聖体礼儀の開始時刻になってしまった。神父は第三アンティフォンまで聖所にとどまり痛悔を聴いていた。

 さまざまな夜間コースも開かれていて誦経者や聖歌者養成のほかに聖堂用フラワーアレンジメントのコースもある。水曜夜は聖歌のコースでロシア古来のズナメニイ聖歌を取り入れ、女性信徒たちがペテルブルグ音楽院でロシア古聖歌を学んだナタリアさんについて、クリューキという記号を見ながら、スティヒラ五調(パスハのスティヒラと同じ)のメロディのパターンを何度も何度も繰り返していた。口から耳への昔ながらの伝授である。

 最近窓枠を新しいものに取り替えたが古い窓枠の廃材で十字架を作るという。「この窓枠はイオアン神父の声を聴いていたんですからね」とゲンナディ神父はほほえんだ。確かな伝統の上に正教を復活していこうという意気込みが感じられた。

 日曜日、聖体礼儀が終わり、私は日本のマートシュカとして紹介された。人々は「日本の教会のみなさんのために」と一枚二枚とイコンカードを買い求め、私の手にはあふれるほどのカードが積み重ねられた。かつてイオアン神父が『異教の地』にある日本教会と日本の人々のために祈ったように、聖イオアンゆかりの聖堂に集う人々が日本の教会のために祈ってくれる。時を越え、海を越えてイオアン神父の祈りは続いている。


ハリストスの教会に生きるということは神の「近さ」を感じることだ。同時に、天の教会を近くに感じることだ。「近さ」とは歴史的な記憶や教会の伝統保持だけではなく、天の教会に生きる使徒達、致命者、聖人、師父、すべての義人と密着して祈ることだ。教会の中に生きるとは霊的な世界とコンタクトを保ち、神の恵みが入って来られるようにあなたの心を開くことだ。ハリストスの体と血を分かちあうこと、教会の機密、交わりの祈りは私たちを地上から天上へと持ち上げるために神が与えた方法なのだ。(『静思録』)

この原稿の執筆にあたっては仙台のセラフィム主教座下、京都のイオアン小野神父、レウシンスキー・ポドヴォリエのゲンナディ神父、中村喜和教授、A・ポタポフ兄、G・ベストレミヤナヤ姉ほか内外の多くの友人の協力を頂きました。)