クロンシュタットの聖イオアン Св. Иоанн  Кронштадтский


静思録−−我が生命、ハリストスにあって

МОЯ ЖИЗНЬ ВО ХРИСТЕ

「およそ爾の喜ぶところを思い、かつ行いて」(福音書を読む前の祝文から)

長司祭、イオアン・セルギエフ


「注」
この本にはいかなる序文もつけようと思わない。本そのものが語るだろう。書いたことはすべて、深く心に思いを凝らしたとき、深く自分を見つめたとき、とくに祈りの中でそうしたときに遍く照らす聖なる~°(霊)によって私の魂に授けられた恩寵の光である。私の心を訪れた教えや感覚を、暇を見てノートに書き留めてきた。何年ものノートからこの本を編集した。内容が多岐にわたると思われるかもしれない。判断はお任せする。
「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。(1コリント2:15)」


第1部

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイイスス・ハリストスを知ることです(イオアン17:3)。」

1.神よ、あなたは私に、ご自分の真実、真理を豊かに開示された。科学によって私を啓発し、信仰、自然、人間の知性をことごとく見せた。「精神と霊とを切り離すほどに刺し通す(ヘブル4:12)」あなたのことばを知り、人知の法則、哲理を慕うこと、論述の形式と美を研究した。自然の神秘とその法則、世界創造の深淵、世界流転の法則にもほぼ通じ、地球上の人口分布、さまざまな民族、この世界で次々と変わる最近の著名人の言行を知った。自己認識の偉大な科学、あなたに近づく方法についても少々学んだ。

ことばを用いてたくさんたくさん学んだ。「おまえに示されたことは、既に人間の理解を超えたものなのだから(シラ3:23)」これからも、さらに多く学ぶだろう。
様々な内容の本をたくさん読んだ。何度も読み返した。それでも満足できなかった。私の~°(霊)はさらなる知識を渇望し、私の心は飽き足らなかった。飢え乾き、知性を用いて得られる知識を総動員しても、十分しあわせになれなかった。

「わたしは御顔を仰ぎ望み目覚めるときには御姿を拝して満ち足りることができるでしょう(詩編17:15)。」その時まで飢え乾く。

「この水(この世の水)を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ4:13-14)」


2.聖人はどのようにして、我々を見、我々の必要を知り、我々の祈りを聞くのだろうか。こんなたとえをしてみよう。

たとえばあなたが太陽の上に移動させられて太陽と合体したとしよう。太陽は地球全体を光線で照らし、地球の小さな部分部分にも光を注ぐ。これらの光線の中で、あなたもまた一つの光線として地球を見ているが、太陽全体から見ればとても小さい。言ってみれば、無数の光線の中の一つにしか過ぎない。太陽と一体になっているが、この光は太陽を通して世界全体を照らしていて、密接な部分をなしている。

だから聖人の魂も、霊(~°)の太陽である神と結ばれて、霊(~°)の太陽のただ中から、宇宙全体、すべての人々を照らし、祈るものの必要を照らし出すのだ。

3.あなたは在らざるところなき「智恵」、生きて働く「ことば」、生命をほどこす「聖神」として神を見、神のまえに自分自身を表すことを学んだか。

聖書は智恵とことばと聖神の領分、至聖三者としての神の領地である。聖書のなかで神はご自身を明らかに顕される。主は言った。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(ヨハネ6:63)」。
聖師父の著作もまた至聖三者の神の思惟、ことば、~°(霊)の表れである。そこには人間の霊が多く加わっている。

この世の普通の人間の書物は罪深い執着、習慣、情念を用いて人の堕落した霊を表現する。聖書の中では、ありのままの私たちが神と顔と顔を合わせて向き合う。人は聖書を通じて自分を知り、常に神の臨在の中にあるように歩む。

4.ご存じのとおり、人はそのことばにおいては滅びない。人はそのことばにおいては不死である。本人の死後もことばは語り続ける。私はいずれ死ぬが、死んだ後にも語り続けるだろう。ときには、とうの昔に死んでしまった人の語ったことばが残されて、今も人類全体のことばとして生きている。普通の人のことばでさえ、大きな力を持つ。

神の「ことば」は時代を超えて生き、常に生きて働く。

5.神は創造し、生き、生命を与える智恵である。自分の霊の意思に従って、至聖三者の智恵に背を向け、物質的な朽ちやすいもので自身を満たし、霊自身をも物質的にしてしまう者は罪深い。まして教会の奉事や家庭の祈りの時に、自分の意思を神から離し、聖堂の外のさまざまな場所をさまよわせてしまう者はさらに罪が重い。祈りの時は心を神に固定せねばならないのに、神を侮辱している。

6.ものいみと痛悔によって最終的に何に導かれるか。何の目的で修行を行うのか。斎と痛悔は罪から魂を清め、心の平和、神との一致、神の子であること、神の前に立つ大胆さを与える。斎と心の底から痛悔する理由はここにある。自発的な努力には計り知れない恩恵が与えられる。私たちの多くが「子」としての神への愛を感じているだろうか。私たちの多くが罪を得ずして(何のとがめもなく)、大胆に天の父に向かって「私たちのおとうさん」と呼びかけているだろうか。

逆に私たちの心の中に「子」としての声が聞こえない。この世の無駄ごとやその目的や快楽への愛着によって弱まっている。私たちの心から天の父が遠くなっていないか?私たちは神を離れて遠い国に行ってしまった。想像してみよう。神は復讐の神ではなかったか。そう、私たち誰もが自分の罪によって、神の正義の怒りと罰を受けて当然なのだ。神はどれほど長い間我慢し、耐えてくださったか。神は実のないいちじくのように私たちを打たなかった。さあ、痛悔と涙によって神に憐れみを願おう。自分を顧み、幾多の汚れが神の恩寵への通路を塞いでいる。自分が霊的に死んでいたことを悟ろう。

7.愛の神はここにいるのだ。影といえども悪を自分の心に入れることができようか。自分の中の悪を完全に殺してしまおう。よき香りの善で満たそう。生まれつき悪い私たちを悪へと扇動する邪悪なサタンよ、神の愛がおまえに打ち勝つようにしよう。悪は心にとっても体にとっても一番害がある。悪は燃えさかり、破壊し、歪める。悪に縛られたものはあえて愛の神の玉座に近づいてはならない。

8.祈るときにはしっかりと心を意志に服従させて、神に向けなければならない。冷淡、狡猾、虚偽、二心であってはならない。でないと、私たちの祈りや機密の準備は何になるだろうか。神の怒りの声を聞くがよい。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている(マタイ15:8)」

だから、聖堂では霊的に弱々しくてはならない。一人一人の心は神への仕事に燃えよう。もし私たちが礼拝を習慣的、あるいは冷淡に行うなら、誰もその祈りに価値を見いださない。神は私たちに心を求めておられる。「わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ(箴言23:26)」。なぜなら心は人とその生命の主要部分だから。心をこめて祈り、神に奉事しないなら何もしないのと同じだ。

なぜなら心のない体だけの祈りは「地」にすぎない。祈りに立つときは、すべての知識を持つ神の前に立っていることを思いなさい。全霊全智を総動員して祈りを行わねばならない。

9.神の聖人は死後も生きる。私は教会で神の母の心を通した素晴らしい歌、天使首から受胎告知されたあと従姉のエリザベタの家で歌った歌を聴く。モイセイ(モーゼ)の歌を聞くこともある。前駆イオアンの父ザカリアの歌、サムエルの母アンナの歌、三人の少年の歌、ミリアムの歌を聴く。今に至るまで新約の聖なる歌い手たちの歌が神の教会の耳を楽しませるのを何度聴いただろうか。

神の奉事そのもの、機密、儀式はどうだろうか。誰の~°(霊)が動き、心にふれるのだろうか。神とその聖人たちの~°だ。人の魂の不死は証される。これらの人々はみな死んだが、死後もわたしたちの生命を治めている。彼らは死んだが、今でも語り、教え、ふれる。

10.体のために呼吸が必要なように、また呼吸しなければ人は生きられないように、魂は神の息なしには本当には生きられない。空気は体のために必要だが、聖神は魂のために必要。空気はちょっと聖神と似ている。風が吹くとき、それを聞くことができる。「風は思いのままに吹く。(イオアン3:8)」

11.罪への誘惑を畏れるとき、自分向かって「罪は不正を憎む神を怒らせる」ことを思い出しなさい。「爾は不法を喜ばざる神なり(詩編5:5)」

 わかりやすくお話ししよう。正義漢で厳格な父親を想像してほしい。彼は家族を愛していて、あらゆる機会に子供たちを道理をわきまえたまっすぐな人間に育てようとしている。子供たちの正しい行いに対して巨万の富を報償として与ようとして、苦労して育てた。しかし子供たちは父親の愛に目もくれず、父を愛さず、父が子供たちのために用意した財産に何の関心も示さず、でたらめに滅亡に向かってなだれ堕ちていくのを見たら、どんなに悲しむだろう。見なさい、「罪が熟して死を生みます(ヤコ1:15)。」罪は魂を殺し、悪魔すなわち人殺しの奴隷にしてしまう。罪にかかわればかかわるほど、戻るのが難しく、廃人になってゆく。だから心をつくして、すべての罪を恐れなさい。

12.あなたの心が狡猾な思いに傾くとき、悪はあなたの心を浸食し始めている。信仰の岩から離れそうになるときは、心ひそかに言おう。「私は自分が~°(霊)において貧しいことを知っている。信仰なしには私には何もない。私は弱いので、ハリストスの名によってのみ生き、平安を得、喜び、心がふくらむ。ハリストスなしには~°(霊)において死んでいる。私は悩み、私の心は憂鬱。主の十字架なしに、最も邪悪な苦しみと絶望の犠牲になるだろう、ハリストスだけが私を生かす。十字架は私の平和と慰めである。

13. 私たちは誰でも考えることができる。まるで無限の大気が存在しているから息をすることができるように、無限の思考が存在しているからだ。だから、あるテーマにおいて素晴らしいアイディアが浮かぶのをインスピレーションという。

使徒は言う。「独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。(2コリ3:5)」主もまた「何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。(マタ10:19)」だから考え、ことばそのもの(インスピレーション)さ外から来ることがわかる。これはもちろん、恩寵の状態と必要に応じて来る。

しかし普通のときでも、よい考えはすべて守護天使、あるいは神の聖神から来る。反対に不潔な暗い考えは私たちの堕ちた本性や、虎視眈々と私たちを待ちかまえている悪魔から来る。

クリスチャンはどのようにふるまうべきだろうか。「行わせておられるのは神であるからです。(フィリピ2:13)」
総じて、この世の中に見える世界の成分の中に思考の王国を見る。特に地において、地の地球の回転や生命において。光、風、水、大地、火(隠された)などの要素の分配において。すべての動物たち、鳥や魚、爬虫類や獣の中に広がる他の自然の配分において。人間、理にかなった構造、才能、性質または習慣において。植物、その構造、栄養補給などにおいて。ことばのなかのどこにでも思考の王国を見る。いや生命のない石や砂の中にも。

14. 神の司祭よ。どうやったら、苦しみにあるクリスチャンの悲しみの床を信仰のなぐさめによる喜びに変えられるか学びなさい。苦しむ者は自分は最も不幸だと思っている。最もしあわせな人にしてあげられるか考えなさい。「わずかな試練をうけたのち、豊かな恵みを得る(知恵3:5)」あなたは人類の友、慰めの天使、聖神すなわち慰むる者の道具になるのだ。

15. もし、心の中の信仰の熱をかきたてようとしないなら、そのうち怠慢によって信仰は完全に消えてしまうだろう。キリスト教は機密もろとも死んだようになってしまう。敵は私たちの心にある信仰を消し、忘却の中に埋めてしまおうと努力している。
名前はクリスチャンでも行いは異教徒のような人を見ることがあるのはそういうわけだ。

16. 信仰は私たち牧者に生気を与えないと思うのか。自分は神に偽善的に仕えていると思うのか。違う。私たちは誰よりも先に、誰よりも多く神の憐れみを受けている。私たちは、主の機密において、主が私たちとともにあり、至浄なる[神の]母、聖人たちがともにあることを経験として知っているだろう。

 たとえば生命を施す救世主の血と体の機密を分かち合うとき、自分の中に、私たちを生かす力、聖神における平和と喜びの天の贈り物を体験しないか。[この世の]王様の目にとまって感激する喜びなど、天の主宰の慈愛に満ちたまなざし、主の機密による喜びに比べれば微々たるものだ。主が愛する者に生命を与える機密の栄光を知ろうとしないなら、また、聖体礼儀を行うたびに完遂される主の奇蹟を讃美しないとしたら、私たちは主に対して恩知らずで、心が頑ななのだ。

主の光栄と生命をほどこす十字架の神性な、無敵の、計り知れない力の効果を感じる。その力によってこそ、私たちは自分の心から邪悪な情熱、落胆、無気力、恐れ、他の悪魔の罠を追い出すことができるのだ。十字架は私たちの友、私たちの恩人。
私は、自分のいうことが真実であること、そのことばの力を信じて、心中から申し上げる。

17. あなたは理解できないことを理解しようと願っている。あなたの心を圧倒した内的な悲しみがどのようにしてあなたをとらえたか理解できるのか。主以外に、誰かそれを追い出してくれる人を見つけることができるか。まず、その悲しみから自由になる方法、心の平安を確実にする方法を学びなさい。その上でもし必要ならば、理解できないことを思索しなさい。「こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか(ルカ12:26)」とあるから。

18. もっと頻繁に考えよう。あなたの体の構造には誰の知恵が顕れているか、生存と機能という点で、常に誰がその体を支えているかを。思考の法則を命じたのは誰か。だから今に至るまで、その法則には今でもすべての人間が従っている。すべての人の心に良心の法を刻印したのは誰か。だから今に至るまで、善いことには賞い、悪には罰がくだる。全知全能の栄光の神よ。あなたの手は常に我罪人の上にある。あなたの憐れみが私から離れることはない。常に生きた信仰とともにあなたの栄光の手に接吻させてください。

なにゆえ、あなたの憐れみと知恵と全能の力の形跡を探しに遠くまでいく必要があるか。ああ、なんと間近にその形跡が見えることか。私、私自身が神の全、知恵、全能の奇蹟なのだ。私自身が全世界のミニチュアなのだ。私の魂は見えざる世界の顕れ、私の体は見えざる者の顕れ。

19. 兄弟よ、我々のこの世での人生の目的は何だろう?この世の悩みや不運による試練を体験し、諸機密の中で与えられる神の賜物によって助けられながら私たちが少しずつ善において進歩して死んだ後、私たちの魂の安息である神において安らうためである。だから私たちは死者のために「主よ、爾の寝むりし僕の霊を安んぜしめ給え」と歌う。我々は死者が平安の中で憩うことを願う。すべての願いの極みとして神に祈る。だから死者のために悲しみすぎるのは賢くない。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マタ11:28)。だから私たちの死者、キリスト教徒として眠りについた者は、神のこの声のところに至って、安らぎを得る。そこでは何を悲しむのか。

20. 聖神に満ちた人生を目指すものは、人生の一刻一刻、思いにおいて、最も技巧を要する難しい戦い、スピリチュアルな戦いを遂行しなければならない。いかなる時にもクリアな目が必要だ。魂の中に誘惑から入りこむ考えを見つけて、撃退する目である。こういう人の心はいつも信仰と謙遜と愛に燃えていなければならない。でなければ悪魔の奸計は易々と近づく道を見つけ、信仰の減退や全くの不信仰に陥り、悪は次々起こり、涙をもってしても拭い難くなる。

あなたの心を冷淡にしてはならない。特に祈りの時には冷淡な放心を避けなさい。よくあることだが、口先だけで祈っていても、心は狡猾、疑心、不信にある人は、口だけは神に近づいたような気になっているが、心は神から離れている。祈りの中で、悪は目に見えないあらん限りの方法で私たちの心を凍らせ、狡猾にしようとする。祈れよ、自らを堅固にせよ、心を固めよ。