なごや「聖歌」だより 4  2002年7月号

なぜ美しく歌いたいか。

「聖歌はお祈りですか、それとも美しく歌うものですか」。そんな疑問が聞かれました。「お祈り」にはちがいありませんが、だからといって、それは「美しさ」を否定することではありません。ただ、忘れてならないのは、どんなにシンプルな聖体礼儀でも、プロ級のひとが歌う大合唱であっても、祈りの心のこもった聖歌を神さまは喜んでくださるだろうということです。カタチではないでしょう。
そんな疑問へのヒントになりそうな一文をご紹介します。

 聖体礼儀は、よみがえった主と出会い、主とともに花嫁の部屋へ入っていく喜びの集いです。美しい歌声や祈りの儀式、ぴかぴかの祭服がゆきかい、香炉の香りたちこめます。
 この美しさは、私たちがずっとこの喜びを待ちわびていたことと、待つことそのものの喜びを表しています。儀式を美しく飾ることは不必要でむしろ罪深いものとして排斥されたことも何度もあります。
 確かに「不必要」です。しかし「必要」かどうかが判断基準ではありません。祈祷を美しくするのは、「必要」だからでも、何らかの「はたらき」があるからでも、「有益」だからでもありません。
 たとえば、愛する人がお客に来るのを待っている時、あなたは食卓にきれいなテーブルクロスをかけ、燭台や花で飾りませんか。必要だからではなく「愛」からです。教会は愛です。教会は待ち望み、喜びます。正教会はこれを「地上にある神の国」として体験し続けてきました。自由で、何の条件もない無心の喜びがあります。この喜びこそ世界を変えることができます。・・・・(中略)・・・・神の国を愛するから、芸術や美という手段で、その愛を表現したいと思うのです。
 この喜びの機密を行う者、つまり聖体礼儀に集まった人たちは神の国の光栄の内にあります。光栄の内に神は人のかたちで現れたのですから、美しい祭服をまといます。聖体礼儀では、私たちはハリストスのおられるところ、そのただ中に立ちます。神の前のモーセのように、私たちも主の光栄に覆われています。


A.シュメーマン著 『世のいのちのために』(聖ウラディミル神学校出版会)から抄訳

天の王、慰むる者よ、真実の~°、
在らざる所なき者、満たざる所なき者よ、
万善の宝蔵なる者、生命を賜う主よ、
臨みて我等のうちにおり、我等を諸々の穢れより潔くせよ、
至善者よ、我等のたましいを救い給え。(6調)


(口語訳)天の王であり、慰めてくださるお方、真実の霊、あらゆる所に居てくださり、すべての物を満たしておられるお方、すべての善きものの宝、生命を与えてくださるお方、どうぞ私たちの中に入り、私たちを汚れから清くしてください、最も善なるお方よ、私たちのたましいをお救いください

「天の王」のトロパリは、祈祷の中だけではなく、会議の時、勉強会の時、集会の時など、教会活動の始まりに必ず歌われます。
 この歌は「聖神降臨祭」(五旬祭)から歌い始められます。(復活祭から五旬祭までは歌われません。)
 ハリストスは、復活後40日間弟子たちとともにありました。40日目に昇天なさる時に、「父の約束されたもの」を待つように言われました。それが、50日目に降った聖神です。聖神の力を受けた弟子たちは、それまでの弱腰が嘘のように、力強く伝道を始めます。(使徒行伝1章)
「天の王」は「父」と「子」と「聖神」の三位一体の神の三番目のお方である「聖神」に捧げられた歌です。「聖神」は、神父、神子ハリストスに比べててイメージがとらえにくいと言われますが、いつでも、どこでも、私たちのそばに居てくださり、私たちの祈りに対して、具体的に働いてくださる方です。ですから、教会が何か活動をしようとする時には、聖神が導いて助けて下さるように願って歌うのです。

歌い方のヒント
「天の王慰むる者よ」とひとつながりに歌われてしまっていることが多いですが、これだと「天の王を慰めるもの」に聞こえてしまうかも知れません。「天の王」と「慰むる者」の間を、ほんの少し区切って歌うと、意味がわかりやすくなるでしょう