なごや「聖歌」だより 3  2002年6月号

口をひとつに、心をひとつにして

「ならびに我等に、口を一にし心を一にして、爾父と子と聖神の至尊至厳の名を讃栄讃頌するを賜え」
(訳:それから、口と心を一つにして、神であるあなた父と子と聖神の三つの尊く厳かな名を、讃美し歌い上げることを与えて下さい。)

 聖体礼儀中「万民をも」のあと、司祭の祈りのことばですが、聖歌を歌う時の基本姿勢が呼びかけられています。

 正教会のお祈りは、聖歌だけを切り離すことができません。まるで一つの舞台作品のように、司祭、誦経、聖歌など各々の動きが「ひとながれ」になることが求められます。
 もちろん、聖歌だけを見れば、全員の声が一つにまとまっていることが必要でしょう。
 私たち一人一人の祈りの歌をひとつにまとめて、司祭の祈りと「ひとながれ」にしていく黒子のような役目を負うのが指揮者です。指揮者がいなくても声をひとつに歌えれば最高ですが、人数が多いとき、また合唱聖歌の場合はどうしても、音を出し、タイミングをあわせるための指揮者が必要になってきます。 
 しかし、単に指揮者が手を振り回して孤軍奮闘しても一つにはなりません。では具体的に、どうすれば「口を一つに」できるでしょうか。まず「出る」タイミングを合わせましょう。指揮者のサインを見てから出るのではなく、息をひそめて、「さあっ」というタイミングを感じとります。気配をつかまえます。
 次に、連祷では、どう続ければ司祭の祈りのことばと「主憐れめよ」が一つになれるでしょうか。歌の流れ、ことばの流れを感じとります。「・・・祈らん」→「主憐れめよ」の流れです。流れに乗ります。実際に口に出して唱えてみると、流れの感じがわかります。
 個々の歌では、他のパート、他の人の声を耳をそばだてて聞き合います。音の高さだけではなく、ことばを刻むスピード、ことばの句切り、息づかいにまで気を配ります。
「合わせよう」と心がけていれば、そうなりたいと祈っていれば、神が恩寵として「口と心が一つになった」歌を与えて下さるはずです。
「讃美讚頌するを賜え」という祈りは、私たちの祈りは神の助けなしには歌えないことを示しているのではないでしょうか。(M)

 復活祭以来昇天祭まで、何十回、何百回この歌を歌うでしょうか。聖体礼儀の始まり、終わり、墓地で、廻家祈祷で、小さな子供でもすぐ覚えてしまいます。
 こんなに短い簡単な歌ですが、主が復活したことの喜びとともに、それが今の私たちにとっても「よみがえり」であることが、高らかに宣言されています。

 ハリストスが十字架上で確かに死んで、3日目に確かに復活した。これは二千年前、確かにイイススハリストスの身に起こったことです。
 しかし、その時イイススおひとりに起こった奇跡のできごとではありません。

 私たちにとって、どうしても避けられない一番の悲しみ、苦しみは「死」です。その「死」が、今、主である神ご自身が死んで下さったことによって、滅ぼされたのです。
「墓にあるもの」は文字通り、神にそむいて死に定められた人間の死でもありますが、神を離れたために、希望を失い、この世のしがらみに振り回され、死んだようにしか生きられなくなった私たちでもあります。主の復活は、そんな私たちに新しい生命(いのち)をあたえ、永遠の生命に生きるものとして、よみがえらせて下さったのです。
 パスハのトロパリは、その喜びを力強く歌い上げます。昇天祭まであと二週間足らずですが、何度も何度も歌いましょう。
「ハリストス、死より復活し・・・・・・」(G)