なごや聖歌だより
聖王ダヴィード
聖詠作者
2008年6月号

奉神礼(礼拝)と聖書

聖詠(詩編)に親しむ


102聖詠(103詩編) 145聖詠(146詩編)

我が霊よ、主を讃め揚げよ、
主や爾は崇め讃めらる。


 聖体礼儀の第1アンティフォンでは102聖詠が、第2アンティフォンは145聖詠が歌われます。修道院では聖詠全部を歌うこともありますが、街の教会では聖詠の中からいくつか句を選んで歌われるのが一般的です。
 いずれの聖詠も冒頭「我が霊よ、主を讃め揚げよ」と自分のたましいの内面に呼びかけられています。
 102聖詠では罪にまみれた自分に対する主の大いなる憐れみを讃美します。「我が不法に因りて我等に行わず、我が罪において我等に報いず(10)」神の旨に従うよりも、自分の意思を優先し罪を重ねる人間に対し、それに報復するのではなく、神の独り子主イイススを遣わし、ご自身を献げものとし、「諸々の不法を赦し、諸々の病をいや」し、十字架と復活によって、神との和解の道を立て、私たちの「生命を墓より救い、憐れみと恵みとを冠らせ」ました。
 145聖詠では「主は衆人を釈き、主は瞽者の目を開き、主は屈められし者を起こし・・・」と救い主が行う奇跡の預言が歌われ、イイススがまさしく救世主(ハリストス)であったことが歌われます。

  聖体礼儀の始まりに、自分のたましいの内面に呼びかけ、神の国への宴へといざないます。第3アンティフォンとして神の子イイススが教えた『真福詞』9つの幸いの歌が歌われ、教会は天の国へ入って行きます。

 アンティフォンという歌の形式はもともと街の教会で行われた屋外の行進の歌で、聖歌者が聖詠の句を歌い、会衆は「救世主や、生神女の祈祷によって我等を救い給え」などの短いリフレイン(繰り返し)を歌うものでした。

 それに対して、二つの聖詠を歌うのはエルサレム近郊の聖サワ修道院で行われていた形です。この102、145聖詠は別名を「ティピカの聖詠」と言い、時課経の『聖体礼儀代式』(いわゆる代式祈祷とは全く別物です)の冒頭に収録されています。大斎中の平日の祈りでは、9時課のあとに続いてかかれています。

 昔の砂漠の修道院では聖職者がおらず聖体礼儀は行われなかったので、修道士たちはご聖体を受けるために街の教会に行き、持ち帰って保存して領聖することもありました。『聖体礼儀代式』はもともと持ち帰ったご聖体を領聖するときのお祈りでした。

 のちにご聖体を持ち帰ることが禁止され、修道院でも聖体礼儀が行われるようになりました。先備聖体礼儀の前の9時課の終わりにティピカ「聖体礼儀代式」が読まれるのは、古い時代の名残でしょう。 

 ニコライ大主教の日記を読むと、主教の巡回時にも、パンやワインが揃わなかったり、聖堂がなかったりする場合、「聖体礼儀代式を行って、領聖させた」という記述があります。

 ロシア系教会では日曜日と生神女や聖人の祭日などには聖サワの形、102、145聖詠を第1第2アンティフォンとして歌い、主宰の祭日には、街の教会の形を残した「救世主や〜」と聖詠によるアンティフォンを歌います。ギリシア系教会はコンスタンティノープルの街の教会の伝統が多く残る「ストディオス修道院の奉事規程」に従い、日曜日にも主宰の祭日と同じくリフレインと聖詠の句(91聖詠、92聖詠)を交互に歌います。


聖体礼儀のアンティフォン 2つの伝統

聖サワ修道院の伝統によるアンティフォン

第1アンティフォン−102聖詠
連祷と祝文
第2アンティフォン−145聖詠
「神の独生の子」
連祷と祝文
第3アンティフォン−真福詞とスティヒラ
聖入

ストディオス修道院の伝統によるアンティフォン
第1アンティフォン−リフレインと聖詠(主日は91)
連祷と祝文
第2アンティフォン−リフレインと聖詠(主日は92)
「神の独生の子」
連祷と祝文
第3アンティフォン−トロパリと聖詠
聖入

※日本を含むロシア系教会では、主日と生神女の祭日などには「聖サワ」のかたちで、主宰の祭日(復活祭、降誕祭など)にはストディオスのかたちで行われています。

また第2アンティフォンの145聖詠は、残念ながら日本の多くの教会では19世紀ロシアの習慣を踏襲して省かれていますが、今のロシア教会では聖詠全体あるいは選ばれた句が歌われています。