なごや聖歌だより
聖王ダヴィード
聖詠作者
2008年5月号

奉神礼(礼拝)と聖書

聖詠(詩編)に親しむ


76聖詠(77詩編)14-15

何の神か
我が神の如く大いなる、
爾は奇迹を行う神なり、


 人は大きな苦しみに直面すると眠ることすらできません。「爾我に目を閉ずるを許さず、我顫ひて、言ふ能わず(わたしのまぶたをささえて閉じさせず、わたしは物言うこともできないほどに悩む)76:5」苦しみの底で出口が見えずに悶々とする姿が歌われています。
 しかしユダヤの民は苦しみのとき、誰に向かって訴えるべきかを知っていました。「わたしは神にむかい声をあげて叫ぶ(77:2)」。「わたしが神にむかって声をあげれば、神はわたしに聞かれる」。そこには神との親しい交わり、深い信頼関係があります。どんな苦難にあっても、いつか神からの答えがあると確信し、訴え続けました。
 しかし神からの応えが全く聞こえず、苦しみはいつ終わるとも知れないこともあります。「わたしは夜、わが心と親しく語り、深く思うてわが魂を探り、言う、主はとこしえにわれらを捨てられるであろうか。ふたたび、めぐみを施されないであろうか。(77:7-8)」神が見捨てたままでいるはずはないと、疑う心を否定しながら、嘆きの叫びを歌い続けます。
 イイススご自身も受難を前にしてゲフシマニア(ゲッセマネ)で血の汗を流して祈りました。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください。(マルコ14:32)」
 主は捕らえられ、十字架につけられ、最後には「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びをあげて、たったひとりで息をひきとりました。

 しかし、主の十字架の死は「終わり」ではありませんでした。主は三日目に復活し、死は死によって滅ぼされました。十字架上の死は、死への勝利への道でした。ハリストスの死と復活によって、私たちは新しい生命へと生まれ変わりました。栄光への道が開かれたのです。

 聖詠後半、苦しみの叫びは神への賛美と変わります。「何の神か我が神のごとく大ならん、爾は奇蹟を行う神なり」私たちの神は大いなる神、奇蹟を行う神です。教会は復活大祭後の大晩課でこの歌を歌い、神の大いなるわざを賛美します。

 ゲフシマニアでは「目を覚ましていなさい」といわれたのに、弟子たちはイイススが祈っているそばで眠り込んでしまいました。五旬祭の日に聖神を受けた教会は、牢獄に閉じこめられたペトルのために眠らずに祈り続けます。教会が夜を徹して祈っていると、牢獄は光に照らされ主の使いが現れ、ペトルは牢から解放されました(行実12章)。


 正教会の修道院では昔から眠らぬ祈り、絶えざる祈りが行われています。今でも修道士たちは祈りにすべてを献げ、彼らの祈りによって私たちは支えられています。
 神への祈りは教会全体の祈りです。苦しみにあって神に祈るとき、私たちの祈りはハリストスの「教会」の祈りとひとつになります。自分のために祈る人々の祈りに気づくとき、苦難の底に光がさしこんできます。



 この句は3つの句を伴って、復活祭、五旬祭、降誕祭の晩課の大ポロキメンとして歌われます。

(誦経) 何の神か我が神の如く大いなる、爾は奇迹 を行う神なり、
われらの神のように大いなる神はだれか。 あなたは、くすしきみわざを行われる神である(14-15)。(口語訳)

(聖歌)  何の神か・・・(繰り返す)

(誦経) 爾は己の能力を諸民の中に顕せり(15)
あなたは、もろもろの民の間に、その大能をあらわした(15)。

(聖歌)  何の神か・・・(繰り返す)

(誦経) 我謂へり、是れ我の憂いなり 、至上者の右 の手の變易なり(11)
その時わたしは言う、「わたしの悲しみはいと高き者の右の手が変ったことである」と(11)。

(聖歌)  何の神か・・・(繰り返す)

(誦経) 我主の作為を記憶し、爾が古の奇迹を記憶 せん(12)
わたしは、あなたのすべてのみわざを思い、あなたの力あるみわざを深く思う(12)。
(聖歌)  何の神か・・・(繰り返す)

(誦経) 何の神か我が神の如く大いなる、

(聖歌) 爾は奇迹を行う神なり、