なごや聖歌だより
生神女マリヤ
アギア・ソフィヤ大聖堂
2007年8月号

アミン、アミン、アミン

 金沢の信徒から祈祷所として提供された「連絡所」にはイコノスタスの仕切りがありません。6畳と4畳半をつなげた和室にイコンを飾り、燭台を起き、折りたたみの宝座と奉献台が用意されます。司祭は祭服をつけ、十数人の目の前で、パンとぶどう酒が秩序正しく整えられていきます。
 やがてヘルビムの歌の中、司祭はポティールとディスコスをかかげ人垣を縫うように信徒の間へ出てきます。為政者、神品主教、死者、正教徒が記憶され、祭品は目の前の宝座に安置されます。

 声を揃えて信経が唱え、聖変化の祈りが始まります。日頃はイコノスタスに遮られてよくわからない祈祷文もはっきり聞こえます。室内はびりびりした緊張感ではりつめ、参祷者の目は司祭の一つ一つの動きに釘付けになっていきます。

「第三時に爾の至聖神を爾の使徒に遣わしし至善の主や・・・・」司祭は聖神の降臨を祈ります。
この餅をもって、爾のハリストスの尊体と成し 、
「アミン」
この爵中のものをもって、爾のハリストスの尊血と成し、
「アミン」
(ポティールとディスコスを指して)
爾の聖神をもって之を変化せよ、
「アミン」「アミン」「アミン」


 司祭のことばに続いて、「アミン」が自然に口をついて出ます。司祭に束ねられた祈りに「アミン」と同意し応えるのはハリストスの名のもとに集まった信徒たち、「教会」であることがはっきりと体感されます。
 迫害時代の初代教会では金沢と同様、信徒の家の一室で、祭壇用にしつらえたテーブルを囲んで聖体礼儀が行われていました。やがて聖堂が大規模化し大がかりな儀式にへと発展しました。
 初代の教会も、大聖堂も、この小さな聖体礼儀もひとつの教会です。私たちは至聖所の神品たちとともに「アミン」を応え、時空を越えてひとつの教会となって主イイススとの交わりに入っていきます。


連載



信者の礼儀

18.「領聖の感謝」 

 司祭の「神や爾の民を救い、爾の嗣業に福を降せ(聖詠27:9)」に応えて私たちは「我等 すでに真の光を観(み)、天の聖神を受け、正しき信を得て、分れざる聖三者を拝む、彼我等を救い給えばなり」 と歌います。
 私たちは洗礼を受け、ハリストスによって「神の民」、「神の業を嗣ぐ」ものとされました。神の国すなわち聖体礼儀に招かれ、ご聖体を頂き、真実の光を見、聖神を受け、正しき信仰を得て、聖三者を拝むことができるようになりました。この神との交わりの回復、それが救いそのものです。
    主や、願くは我が口は讃美に満てられて 、
    我等爾の光栄を歌わん、
 カバシラスはこの歌の意味を「私たちはあなが与えて下さったことに対し、私たちは讃美の歌を献げるにふさわしくありません。私たちの口を讃美で満たして、それができるようにしてください。あなたは求める者に祈りの恩寵を与えて下さいます。何に対して、どのように祈ればよいかを知ることができます。だから今、私たちのくちびるにあなたを讃美する力を与えて下さい」と解説します。
    爾我等に、神聖にして不死なる生命を施す
    爾の聖なる機密を領くるを許せばなり、
なぜなら、私たちは生命を施すハリストスの聖なる機密を受けることを許されたからです。言い換えれば、信徒であって、領聖したものだけがこの讃美の歌を歌えるのです。 
    祈る我等を爾の成聖に護り、
    終日爾の義を習わしめ給え 、
 続いて、これからこの世へと帰って日常を暮らす私たちに、今いただいた「成聖」が保たれ、その恩寵が失われないように、そのために「終日神の義を習わせて下さい」と祈ります。神の義とは今この機密の中で見た神の智と愛です。
 やがて「平安にして出ずべし」と促されて、私たちは神の平安を手に、この世に出て行きます。ローマ教会の「ミサ」の語源が、この「出ずべし」のラテン語「イテ・ミサ・エスト」です。すべてのクリスチャンは神の福音を伝えるために世界に派遣される者--ミッションです。
 正教会では昇壇外の祝文が祈られ、「願くは主の名は崇め讃められて、今より世々に至らん」と聖歌が歌われ、聖体礼儀が終わります。升壇外の祝文は司祭が至聖所から出て聖堂の中央で祈りますが、教会が天の国の宴会から戻り、世界に出ていくことを象徴しています。

参考資料:06冬季セミナー資料「主日聖体礼儀-聖書解説付き」正教基礎講座資料「奉神礼」「教義」(トマス・ホプコ神父) 「ユーカリスト」(シュメーマン)、聖体礼儀注解(ニコラス・カバシラス)、

※ 聖歌の面から言うと、領聖して一息つき、その上メロディが単調なので雑になりやすい部分です。もう一度、領聖した信徒だけに与えられる恵みをかみしめて、心からの感謝の歌を献げたいと思います。