なごや聖歌だより
生神女マリヤ
アギア・ソフィヤ大聖堂
2007年7月号

八調って何?簡単に言ってしまうと、替え歌のための『型』のセットです。


 八調とはギリシア語でオクトエコス、ロシア語でオスモグラシエという正教会の歌(詩と音楽)のシステムです。祈祷書に収められた聖歌の詩には必ず「何調」で歌うという指示がついています。また教会には8週間で一巡りする暦があり、順繰りに調が当てはめられています。

簡単に言えば八調とは、詩を歌うためのメロディの型(パターン)を八種類に分類したものです。1から8までの調の袋の中に色々な形の型がたくさんはいっていて、聖歌者は指定された調の袋から文に合わせて型を選び、微調整をしながら、部材を組みたてるように音楽を作っていきます。

  私たちが日頃耳にしているトロパリやスティヒラの八調のメロディ(通称オビホード)は、19世紀ロシア宮廷が各地の伝統を寄せ集めて編集したものです。当時の西欧指向を反映してドイツ・コラーレ風合唱曲にするために単純化したので、一つの歌に2、3種類のパターンの繰り返ししか見られませんが、ロシア古来の八調はもっと複雑で、一つの調に百以上もの型がありました。たとえばスモレンスキーのパスハのスティヒラ「神は起き」は古いズナメニイ旋律のスティヒラ5調をもとにしていますが、そこにさまざまなメロディのパターンを見ることができます。

 さて八調はもともとシリア地方にあった習慣で、7、8世紀に正教会に取り入れらたと言われます。正教会は土着化を妨げませんから、メロディや音階は時代や地域の影響を受けて変化し、今のギリシアのメロディには中東の音楽の影響もあるそうです。ロシアは10世紀のビザンティンからこの八袋のセットを受け継ぎました。でもこれはギリシア語用だったので、そのままではスラブ語に合いません。だんだんにスラブ語やロシアの音楽的感性に合うように型が変わり、やがてズナメニイなどの美しい単旋律(単音)聖歌が生まれました。メロディは変わっても「八調の型に従って歌う」という原則は保たれました。地域によって、また大教会や修道院でも少しずつ異なる八調が作られました。イコンと同様、正教会の聖歌では伝統の型を守りつつも、各地の現実の中でそれぞれの彩りが添えられてきました。

 19世紀の古い解説書には正教会の八調にもドリア式フリギア式などのギリシアの名称を用いて、西洋の教会調の亜流のように解説したり、キリスト教以前の古典ギリシアの八つの旋法との関係を強調したものもありますが、現代の研究では否定的です。正教の伝統は常に生き、成長するもので、特定の時代や地域の産物に固定化されるものではありません。

 いずれにせよ私たちにとって注目すべきは「型で歌う」という原則でしょう。楽譜は便利ですからやめる必要はありませんが、「八調」のシステムもとても便利です。たとえば「楽譜」で見ると全部違う歌に思える歌が、よく見ると同じメロディの型をもとにしています。トロパリやスティヒラの代表的なメロディの型を覚えてしまって、「亜使徒ニコライ(4調トロパリ)」と同じだな、「天の王(6調トロパリ、スティヒラ)」と同じだな、とざっくりつかんで歌うと、はるかに覚えやすく、歌詞の内容にも着目する余裕がでます。楽譜にしばられず、祈祷文を大切にして、聴いて歌って耳から覚える、それが正教の伝統です。


連載



信者の礼儀
17.「領 聖」 

司祭は私たちが今天の宴会のテーブルにあって、ハリストスご自身がそのお体と血を私たちに分け与えて下さるように祈ります。

 イイススは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。・・・・・わたしを食べる者もわたしによって生きる。・・・・このパンを食べる者は永遠に生きる(ヨハネ・イオアン6:53)

 私たちは主の宴会にあります。今、そこにおられるのは主イイススです。ハリストスご自身が自らご聖体を分け与えて下さいます。

 ところが司祭は「聖なる物は聖なる人に」と呼びかけます。聖歌は「聖なるはただひとり、主なるはただひとり、神・父の光栄を顕すイイスス・ハリストスなり、アミン」と答えます。洗礼を受け私たちは神の招きに応えて神に仕える「聖なる人」として生き始めました。とはいえ私たちは「聖なるもの」を受けるに「ふさわしく」などなれません。「聖なるはイイスス・ハリストス」ただ一人です。ご聖体を受ける資格など全くありません。どうすればよいのでしょうか。
 19世紀のクロンシュタットの聖イオアンという聖人は「準備ができていない。ふさわしくない」と領聖を辞退しようとする人にこう呼びかけました。「己を省みよ。罪のない者はなく、至聖なる主との交わりに『ふさわしい』人などひとりもいない。(中略)主は、聖堂において気前よくその豊かなる食卓を私たちのために用意し、その晩餐に私たちを招いてくださっている。私たちは、その慈しみ深い招きに対し、『参ることができません』(ルカ14:18)という恩知らずの答えをすることを恥としなければならない」。むしろ「『招かれていた人はふさわしくない人々だった』(マトフェイ22:8)という恐るべき宣告をおそれなければならない。ゆえに自分の不当さをおそれながらも恩寵を信じ、いと甘美なるイイススへの愛を渇望する心で、できるだけ頻繁に主の食卓に就くように、奮闘しなければならない。主の聖体尊血こそ真のパンだからである」。
 聖使徒たちは各地の教会への回状(公書)の中で、「これを飲んで成長し、救われるようになるため(2ペトル2:3)」。「御子イイススの血によってあらゆる罪から清められます。(1イオアン1:7)」と呼びかけています。ハリストスに浄めていただいて「聖なる人」になっていくのです。
 「神を畏るる心と信とをもって」神の前に進み出ます。
 「味わえよ、主のいかに仁慈なるを見ん(聖詠33:8)」これは今は先備聖体礼儀の領聖詞として歌われていますが、最も古い領聖詞と言われています。ご聖体を頂いて、主の恵みの深さを知り、主に従って生きていく、それがクリスチャンの生活です。

参考資料:06冬季セミナー資料「主日聖体礼儀-聖書解説付き」正教基礎講座資料「奉神礼」「教義」(トマス・ホプコ神父) 「ユーカリスト」(シュメーマン)、聖体礼儀注解(ニコラス・カバシラス)、正教時報07/06「クロンシュタットの聖イオアン」