なごや聖歌だより
生神女マリヤ
アギア・ソフィヤ大聖堂
2007年6月号

聖神のはたらき 「統一」ではなく「一致」
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖神°(聖霊)に満たされ、“神°”(霊)が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
(使徒行実2:2-4)
 正教会では聖神の働きを大切にしてきました。だからこそ昔から「その国」のことばで、その地方の人々の心に馴染む音楽に載せて祈ってきました。お祈りの骨組みや内容は世界共通ですが、音楽は実に様々です。教皇の方針に一元化され、長い間ラテン語だけを典礼用語とし、ローマ典礼に統一してきたローマ・カトリック教会とは対照的です。
 日本では明治にニコライ大主教が紹介されたものをベースに、各教会で幾分かのバラエティをもって歌われています。
 「日本でも統一聖歌譜を作って、一律に同じ聖歌を歌うようにすればいい」あるいは「ロシアに範をとった本式の聖歌を継承するのが伝統だ」という意見を聞くことがありますが、どうでしょうか。
 聖歌をとりまく状況は教会ごとに異なり、同じ教会でも年ごとに違います。選ばれた聖歌隊が歌うのか、全員で歌うのか、メンバーの歌唱力や年齢、音域、男女比、聖堂の大きさ、奉事の回数、司祭の宣教方針、今までの歴史、ひとつとして同じ教会はありません。同じ聖歌が、ある教会にはぴったりでも、別の教会にはダブダブです。身の丈に合わないままでは、音を追うことに気を取られて肝心の祈りがおろそかになります。だからこそきめ細かな補正やオーダーメイドが必要になります。もちろんオーダーと言っても、作曲家が自分の個性を自己主張するようなものではなく、その教会で実際に聖歌を歌う人たちが気持ちよく歌えて、参祷した人たちが自然に祈りの気持ちに導かれることが基準です。
  ニコライ大主教ご自身も「ロシア流」に固執せず日本で聖歌が発展し土着のものとなっていくのを歓迎していた様子が日記からうかがわれます。昨年お会いしたロシアの聖歌者たちからも、アメリカの聖歌者からも、日本語や日本人の音楽性に合った聖歌を探すことをアドバイスされました。
 実際ロシアでも教会ごとに多彩な聖歌が歌われていました。しかしバラバラかというと、明らかに共通する雰囲気を持っています。それが聖神のしなやかな働き、「多様性の一致」です。




連載



信者の礼儀
16.「天にいます」

 連祷の最後に司祭は「主宰や、我等に、勇みを以て、罪を獲ずして、あえて爾 天の神・父をよびて言うを賜え 」と唱え、全員で「天主経」を唱えます。
 「天主経」はハリストスご自身が、弟子たちに教えた祈りです。 ルカ伝(11:7~)では、「祈り方を教えて下さい」という弟子の頼みに応えて、マトフェイ(マタイ6:9-15)伝でも、弟子たちへの説教の中で教えられました。
 旧約時代、神はその「名」を直接呼ぶことも憚られる畏れ多い存在でした。イイススはその神を「父」と呼びなさいと教えました。しかもこの「父」の原語「アッバ」はアラム語で「パパ」とか「とうちゃん」といった親しいニュアンスのことばです。イイススを通して、弟子たち、その末裔である私たちは神を「とうちゃん」と親しく呼べる存在になりました。
 古代の教会では「天にいます」のお祈りは、洗礼を受ける直前に口移しで教えられ、洗礼の日の聖体礼儀のこの箇所で、初めて口に出して唱えることが許されました。
 悔い改めて、生き方をハリストスに従う人生へと180度転換する決意をし、洗礼の水の中でそれまでの人生を死に、ハリストスとともに起き、傅膏機密で聖神によって「神の民」として封印されたものだけが、聖神の力を頂いて、神を「父」と呼ぶことができるのです。

  願わくは爾の名は聖とせられ、
  爾の国は来たり、
  爾の旨は天に行わるるがごとく地にも行われん。

 「まず神の国と神の義を求めなさい(マトフェイ6:31)」。クリスチャンは「神の国」を切望する者です。神の国はいつかハリストスが再び来られ日に実現しますが、私たちは「聖体礼儀」にあって、この世にありながら「神の国」を先んじて体験します。
 トマス・ホプコ神父は講演「主の祈り」のなかで、「我が日用の糧を今日我等に与え給え」の「日用の糧(パン)」はハリストスご自身、「ご聖体」にほかならないと言い切ります。弟子とはご聖体を受け、主との親しい交わりを許されたものです。プロテスタントの本などには「日用の糧」はご聖体と関係なく、毎日の食事や日用の必需品として解釈されているものもあります。しかしハリストスは言いました。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。(イオアン6:51)」
 聖体礼儀は神の国の宴会、ご聖体はハリストスの体、いのちのパンです。それは神の与えられた私たちの理解を超えた恵み--機密です。

※「天主経」のことばの詳しい解説は、名古屋教会会報2006年「いのりのことば」を参照して下さい。