なごや聖歌だより
生神女マリヤ
アギア・ソフィヤ大聖堂
2007年4月号

大斎、受難週、復活祭—— もっとも古い伝統

 正教会の礼拝には二千年の教会の伝統が何層にも積み重なっています。ハリストスの直弟子たちのもの、禁令が解かれコンスタンティノープルやエルサレムに大聖堂が建てられたころのもの、豪華な儀式を避け砂漠に出て行った修道士たちの聖詠(詩編)を中心とした祈り、異端論争の嵐が吹き荒れ教義を教えるもの、街の教会の儀式と修道院の祈りが統合していった時代のもの。それらはやがて分類整理され、三歌斎経や八調経などの分厚い祈祷書に収録されました。スティヒラやカノンの歌詞をよく見ると、同じメッセージがさまざまに言い換えられています。聖歌者たちは聖神の恩寵を受けて、救いのメッセージを、その時代の教会のことばと音楽にのせて歌いあげてきました。私たちは千年以上も前の人々とともに歌い祝います。教会は時空を超えて、「心を一つにして、声を一つにして」神を讃美します。
 中でも大斎から復活祭、五旬祭の祈りには最も古い時代の聖歌や礼拝の形が残っているといわれます。復活祭を前にして、ビザンティンの教会に思いを馳せてみませんか。
 

 ビザンティン初期までは幼児洗礼よりも成人洗礼が一般的でした。キリスト教にふれて洗礼を決意してから最低3年間は準備期間がとられました。洗礼は通常復活祭の夜(聖大土曜日の晩、後には五旬祭までの復活祭期に拡大)に行われましたが、それに先立つ大斎は最終仕上げの期間となりました。洗礼志願者は大斎直前に『啓蒙者』として登録され、代父母とともに厳しい斎をし大斎の祈りに参祷しました。
 大斎の平日祈祷では旧約聖書の創世記、箴言、イサイヤの預言書が毎日読まれ、神の創造、人間の陥落、救いの預言が教えられます。また早課のカノンでは「モイセイ(モーゼ)の歌」「アワクム(ハバクク)の歌」などの旧約の預言の歌に新しい歌(トロパリ)を挟み込んで歌い、預言がハリストスによってどのように成就されたかが、説き明かされます。大斎は啓蒙者のための集中講義でした。
 聖大土曜日、旧約聖書が15カ所読まれます。当時はこの時に別棟の洗礼聖堂で啓蒙者たちの洗礼が行われていました。洗礼式が終わると白い洗礼着をまとった新光照者の一群は主教に先導され『ハリストスによって洗を受けし者』の歌を歌いながら信徒たちの待つ大聖堂に入堂し、復活祭の祝いへと合流しました。今でも洗礼式で『ハリストスによって洗を受けし者』を歌いながら洗礼盤をまわるのはその名残です。
 パスハのあと光明週間には毎日パスハと同じ聖体礼儀が行われます。パスハの夜新しく洗礼を受けた人々は毎日この聖体礼儀にでて、主教から神の機密の奥義を教えられました。洗礼を受けて聖体機密に加わるまでは、機密は理解できないからです。最後の日に油をぬぐい取る儀式を行って、光照者たちは主の救いを「宣べ伝える者」として、この世に派遣されました。


『エゲリアの日記』—スペインの修道女エゲリアは4世紀末エルサレムを訪れ、洗礼の様子を記録した。

すでに7週間がすぎ、この地で大週間と呼ばれている復活祭前の一週間(聖週間)になると、朝、主教が大聖堂の致命者記念聖堂にやってきます。宝座の向こう側の後陣(アプス)の奥まったところに主教の椅子が据えられ、そこに男は代父、女は代母に連れられて進み出て、主教の前で信経を唱えます。信経を唱え終わると、主教は皆に話しかけます。「この7週間、あなた方は聖書のすべての律法と信仰、肉体の復活について教えられました。また、啓蒙者に許された範囲で、信経のすべての教理を学びました。しかし、あなた方はまだ啓蒙者なのでさらに深い機密についての教え、つまり洗礼そのものについては聞くことができません。洗礼で行われること一つ一つが何の理由もなく行われたなどと思われないために、神の名によって洗礼を受けたら、復活祭後8日間にわたって、祈祷後(発放)のあと復活聖堂で説明を聞きます。まだ啓蒙者なので、今は神の秘密の機密をお話することができません。」(太田強正訳、サンパウロ)


大斎--洗礼の準備期間

先備聖体礼儀--大斎の旅のお弁当
 大斎は『斎』なのでふつうの聖体礼儀は行われませんが、週の途中水曜日と金曜日に日曜日にあらかじめ用意された先備聖体を頂きます。 
 昔パレスティナの修道士は大斎の間砂漠で隠修する習慣がありました。このころの修道院は司祭や主教のいない平信徒の修道士の小さな集まりでしたから修道院では聖体礼儀は行われず、領聖するときは街の教会に行き、ご聖体を持ち帰っていました。彼らはご聖体をもって砂漠に入り、聖体礼儀の行われる時刻に『聖体礼儀代式(ティピカ)』を唱え各自で領聖しました。エジプトのマリアの逸話にも修道士ゾシマが砂漠にご聖体を持っていき、マリアが「信経」と「天主経」を唱え、ご聖体を受ける場面がありますが、それがこの『聖体礼儀代式』だといわれます。
 後に修道院にも主教や司祭がいるのが普通になり、ご聖体を持ち帰る習慣はなくなりましたが、今も『先備聖体』は大斎の旅を遂行するための糧食として私たちに与えられます。
 『聖体礼儀代式』は『時課経』の137ページ、『大斎第一週奉事式略』では九時課の後、晩課先備聖体礼儀の前に収録されています。私たちもこの『聖体礼儀代式』の祈りを唱えてから晩課のあと領聖します。『時課経』はもともとパレスティナの伝統をもとに聖サワ修道院で編纂された祈祷書です。
 また「味わえよ、主のいかに仁慈なるを見ん」は最も古い領聖詞といわれます。


受難週--エルサレムの大聖堂の礼拝から

 受難週の祈りは4世紀頃エルサレムで始まったハリストスの受難の場所をたどる祈りに由来します。今でも時間を追って、受難の様子が目に見えるように再現されていきます。
 水曜日、ハリストスの足に香油をかけて髪の毛で拭った女のエピソード、木曜日にはハリストスがお弟子さんの足を洗った話が記憶されます。日本では行われませんが、ギリシアやロシアでは聖大水曜日に聖膏(洗礼のあと傅膏機密で使う特別の油)が成聖され、木曜日には神品が信徒の足を洗う儀式が行われます。
 聖大木曜日晩課では「最後の晩餐」が記憶され、その夜には聖大金曜日早課「十二福音」でイイススが捕らえられ、尋問され、十字架につけられ息を引き取るところまでが記憶されます。
 正教会で『記憶』は、単なる思い出話や記念ではありません。今実際にここで起こっています。私たちは、主を置き去りにして逃げ去った弟子たちの中に、「バラバを」と叫んだ群衆の中に、遠くから主が息を引き取るのを見守った女たちの中にいます。リアルタイムで受難から復活に立ち会います。
 金曜日の午後には「葬りの晩課」でイイススのご遺体を十字架から降ろし墓に葬ります。私たちは「尊きイオシフ」を歌い、アリマフェアのイオシフとともに主の墓を花でかざり、伏拝し主の足に接吻します。続く聖大土曜日の早課では主の墓の前に立ち、ロウソクを手に持って、「道にきずなきもの」で始まる律法の聖詠第118聖詠の句の間に『讃美詞』を挟み込んで歌い、主の十字架、死、葬りを讃美します。
 聖大土曜日の晩課では、使徒経の読みのあと、「神よ起きて地を裁判せよ、爾万民を継がんとすればなり」が繰り返し歌われ、聖堂の覆いが黒からまっ白へと変わります。主の復活はまだ高らかに宣言されていないけれども、すでに静かに起こっていることが暗示されます。心は深夜の祝いへと高まっていきます。

<パスハのトロパリ>
ハリストス死より復活し、
    死を以て死をほろぼし、
     墓にあるものに 生命を賜えり


 いつごろからパスハのトロパリが歌われるようになったかはわかりませんが、十字行の後、司祭が門の外で3回パスハのトロパリを歌い、会衆が3回唱和し、「神は興き」で始まる第67聖詠の句と交互にパスハのトロパリを繰り返す歌い方はビザンティン初期から街の教会で行われていた手法です。神品も会衆も教会の前で何度もトロパリを繰り返して歌い、総主教と皇帝にを先頭に一挙に聖堂に入場していきました。最初に3回歌うのは、会衆にトロパリを覚えてもらうためで、「3回お手本を聞けば、一緒に歌えるでしょう?」というわけです。


連載



今月はおやすみ