なごや聖歌だより
生神女マリヤ
アギア・ソフィヤ大聖堂
2007年2月号

自分のお葬式も・・・

「私の時も、こんなふうにしてもらえると思うと、本当に安心だよ」半田教会のお葬式で、あるおばあさんが言いました。何もかもが目まぐるしく変わる世の中にあって、自分の最後のシーンがはっきりイメージできるというのは希有なことかもしれません。
 ハリストスの聖像に向かって家族、親族や教会の仲間がロウソクを手に棺を囲み、耳に馴染んだ聖歌が歌われます。何世代も同じように死者への祈りが歌われてきました。
 「聖天主、聖勇毅・・・こーんなきれいな歌を歌ってもらえるのはしあわせだねえ」とおばあさんは続けます。「この歌は聖体礼儀のの『聖なる神』と同じ歌なのよ。天国の門を通って、天使と一緒に歌うの」と言うと、「まーすます、嬉しいねえ」と微笑んでおられました。
 埋葬式は毎週の聖体礼儀のイメージにつながり、聖大金曜日の主の埋葬、聖大土曜日の十字行や復活祭の祝いへと結びつけられています。埋葬式のたびに、パニヒダを歌うたびに、聖体礼儀のたびに、復活を信じ主イイススに委ねる心がつちかわれてゆきます。
 ところで、昔と同じように埋葬の儀式が行われていますが、細かく見れば変更もたくさんあります。たとえば日本では、土葬は許可されなくなり火葬になりました。最近は聖堂や自宅でなく斎場で行われることも多くなりました。また埋葬式自体も本来は2-3時間かかるものが1時間に短縮されています。
 正教会の伝統には昔どおり守るという頑固な面と同時に、与えられた状況に応じて工夫するという大変柔軟な面があります。
 聖堂でできなくても燭台やイコンを運んで聖堂らしくしつらえたり、土葬の野辺送りはできなくても、霊柩車まで「聖なる神」を歌って送り出します。聖歌も臨機応変に対応します。
 与えられた状況の中で心をめぐらし、永眠した仲間を最高のお葬式で送ろうという心遣いが愛なのだと思います。ユニゾン(単音)でも、四声でも、あるいはほかの方法でも、心と声がひとつになれば、力強い祈りの歌になります。




ニコライ大主教の埋葬式の十字行の様子。行列を作って谷中の墓地まで運ぶ


連載



信者の礼儀
13.アナフォラ 2

 「爾を歌頌し」から「爾の前に立ちて」までは黙誦祝文と呼ばれ、至聖所で司祭が静かに唱えます。もともと初代教会では信徒全員が捧げもののテーブルを囲み、間近で主教の唱える祝文に耳を傾けていました。後に聖堂が大規模化し、聖所と至聖所が分けられるようになり、司祭が一人で唱えるようになりましたが、聖体機密の本質部分は黙誦祝文にあり、その理解が不可欠です。詳しい解説は名古屋教会会報に連載中の「正教の祈りのことば」(感謝祝文)を見て下さい。

  天地を創られた神、人間の知恵では知ることのできない神は、堕ちた人間を救うために独り子イイススを送られました。イイススは私たちのために聖体礼儀を立てられました。

(黙誦祝文)・・・・又この奉事のために爾に感謝す、爾之を我等の手より領(う)くるを甘んじ給えり、然れども千々の神使首及び万々の神使ヘルビム及びセラフィム、六翼の者、多目の者、高く翔(かけ)る者、翼を具うる者は爾の前に立ちて

司祭(高声)凱歌(かちうた)を歌い、よび、叫びて曰う、


また(今行っている)この奉事(聖体礼儀)をいただいたことを感謝する。ここには幾千もの天使首、幾万もの天使ら、六つの翼と多くの目を持ち、翼をもって高く天がけるヘルヴィムとセラフィムらがあなたを取り囲んでいるにもかかわらず、あなたはこの奉事をあえてこの我らから甘んじて受けとる。
そして天使たちは凱旋の歌を歌い、よび、叫んで言う…

(詠)聖聖聖なるかな、主「サワオフ」、爾(なんじ)の光栄は天地に満つ、至と高きに「オサンナ」、主の名に因りて来る者は崇め讃(ほ)めらる、至と高きに「オサンナ」

聖、聖、聖なるかな、主サワオフ、天と地はあなたの光栄にあふれています。至高にオサンナ!主の名によって来られる方は祝福されます。
 いまや天に上げられた教会は、天の神の前で捧げものを行おうとしています。その献げものはハリストスによる唯一の完全な献げものです。私たちはすべてのことを神に感謝し、天使の呼びかけを受けて、天使とともに聖三の歌を歌います。

 「聖、聖、聖なるかな」と歌われる天の国のイメージは旧約の預言者イサイヤ(イザヤ)が天に上げられたときに記したものです。聖三祝文の「聖なる神、聖なる勇毅、聖なる常生の者よ」の歌とも呼応しています。

わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」(イサイヤ6:1-3)

 続いて、聖枝祭に歌われる「主の名によって」が歌われます。聖枝祭、すなわちエルサレム入城、主イイススはロバにのって、捧げものとなるためにエルサレムに入ってきます。主に向かって歌います。(マトフェイ21章、マルコ11章、ルカ19章、イオアン12章)
 聖書のことばは二千年前の単なる記録ではありません。聖体礼儀の中で歌われ祈られるとき、本当の意味が証されます。

それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(マトフェイ21:4-9)

 祈祷書や聖書の中にはヘブライ語がそのまま残っていることばがあります。「サワオフ」は万軍、「オサンナ(ホサナ)」は「救い給え」で神への讃美の叫びに用いられます。