なごや聖歌だより
生神女マリヤ
アギア・ソフィヤ大聖堂
2007年1月号

なぜ、聖歌練習するの?

  聖体礼儀は神さまと出会う場だからです。

 とても大切な方にお会いするとき、身支度をととのえて出かけませんか。そこで催される宴会に持ち寄る贈り物は可能な範囲で一番いい物を選び、心をこめてラッピングしませんか。神さまの目から見たら私たちのプレゼントはとてもささやかなものかもしれませんが、精一杯努力したものであれば必ず喜んでくださり、かえって大きな喜びを賜物として与えてくださいます。
 大きな祭の前には必ず斎があります。正教会では準備と成就ということを言って準備の大切さが説かれます。
 私たちも美しい聖歌を献げられるように用意します。日頃から、きれいな声で歌えるように、ことばがはっきり歌えるように、ハーモニーがぴったり合うように、「出る」タイミングが合うように、みんなの声がひとつになっていくように練習を重ねていきます。
 正教会のお祈りは神との個人的な交わりではありません。教会という、ハリストスを信じる民の集まりが、天の教会と一つになり、神を讃え、献げ物をし、賜物をいただきます。聖歌の準備はひとりではできません。練習を通じて、少しずつ歌が一つになり、心が一つになっていきます。みんなと練習すること自体が献げ物になっています。
 
 名古屋の聖歌は上達してきました。以前は音を拾い、声を合わせて歌うだけで精一杯でしたが、だんだん細かい音の響きや声の出し方など技術的なレベルアップもできるようになってきました。
 聖歌は神さまへの献げ物ですが、最も効果的な宣教の手段のひとつでもあります。私たちのお祈りが喜びにあふれていて、しかも人々を神の国に招くお手伝いができるのです。その分、責任もあります。



連載



信者の礼儀
12.アナフォラ 1

+正しく立ち、畏れて立ち、謹みて安和にして聖なる献げ物を奉らんことを
♪安和の憐れみ、讃揚の祭を
 
 教会は天の国へと旅をしてきました。私たちは神の前に信仰告白し、神の前に立って感謝(エウハリスティア)という名の儀式を行います。
 山の頂きで主の変容の姿、神の光栄の姿を目にしたペトルは驚き畏れて「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。(マトフェイ17:4、マルコ9:5、ルカ9:33)」と叫びました。天のテーブルで感謝の祈りをするのです。ペトルと同じように驚きと畏れの気持ちでいっぱいです。そこには本当に主イイススがおられて、パンを割き、感謝の祈りを捧げます。
 
+願わくは主イイススの恩(めぐみ)、神・父の慈しみ、聖神の親しみは爾衆人とともに在らんことを
♪爾の神°とも

 聖使徒パウエルが行った祝福の挨拶「主イイスス・ハリストスの恵み、神の愛、聖神の交わりが、あなたがた一同と共にあるように(コリンフ後13:13)」が与えられます。教会は二千年間変わらず、この祝福のことばで機密を始めました。主イイススの中に集められ、ハリストスのうちにあって聖体機密をささげます。私たちがこれから行うすべては、ハリストスによって成し遂げられたことです。すべては私たちにすでに授けられています。

+心上に向かうべし
♪主に感謝すべし
 
 私たちが心を「上に向けることが」できるのは「上」すなわち「天」が私たちの互いのうちにあるからです。天の教会はいまここにあります。

+主に感謝すべし
♪(父と子と聖神、一体にして別れざる聖三者に伏し拝むは☆)当然にして義なり

 このことばはユダヤ人の感謝の祈りの冒頭の部分と同じことばです。主イイススは、人々を神の前に連れてゆき、世を救うために新しい感謝を始めたとき、この古い祈りのことばを唱え、弟子たちも昔ながらの「当然にして義なり」ということばで答えました。私たちも同じことばを交わします。私たちの献げる感謝はハリストスの感謝です。時を越え、空間を超えてハリストスと一つになった祈りが行われています。

☆注:「父と子と聖神・・・伏し拝むは」はロシア系の教会で歌われます。ギリシア教会では「当然にして義なり」だけを歌います。