なごや聖歌だより
福音者聖イオアン修道院
ペテルブルグ
2006年12月号

クリスマスへ誘いましょう

 日本の教会では、降誕祭だけは新暦で12月25日にお祝いしています。ロシア教会は旧暦を用いるので1月7日にあたります。なぜ降誕祭だけを新暦かといえば、クリスマスは日本でもポピュラーで、大きな宣教のチャンスと考えたからです。
 戦前の正教時報にも、12月25日に祝われたという記録があります。
 12月にはいると、街はクリスマスツリーやイルミネーションで飾られ、クリスマスソングがあふれます。「クリスマスは教会に来ませんか」とご家族やお友だちを誘うチャンスです。正教会の美しいクリスマスのお祈りを体験していただきましょう。
 今年の降誕祭は、24日(日)の夕方から晩堂大課、早課、時課、聖体礼儀を続けて行います。晩堂大課や早課には美しい歌がたくさんあります。美しいと同時に、聖歌の歌詞は「主の降誕」すなわち「神が人となってこの世に生まれたこと」の意味を説き明かしていきます。聖書を開いてみましょう。
 たとえば晩堂大課の「神は我等とともにす」ではイザヤ書の預言が歌われ、預言がかなって、今神の子が生まれた、神が我等とともにおられることが歌われます。

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(イザヤ9:5-6)

また早課の始まりには「至高きには光栄神に帰し・・・」という華やかな歌が歌われます。神の子の誕生を祝う天使の歌です。この歌はルカ伝に採録されています。

すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。(ルカ2:13)

 そして降誕祭のコンダクが主の降誕のストーリーをイコンのように描き出します。

今童貞女は永在の主を生み、
地は載せがたき者に洞を献ず、
天の使いは牧者とともに讃め歌い、
博士は星に従いて旅す、
蓋我等の為に永久の神は嬰児として生ま れ給えり。


 祝いの歌を歌います。
   「ハリストス生まる!崇め讃めよ!」


クリスマスのイコン
中央に産後の生神女マリアが横たわり、飼い葉桶の中に幼子のイイススと後ろに牛と馬。上は天使、右中央は羊飼い、左中央には三人の博士たち、左下はイオシフ(ヨセフ)、おじいさんの姿をした悪魔が疑いをささやく。右下は産婆さん、イイススが確かに人間の子として生まれたことを表す。当時の馬小屋は洞穴で、洞穴はやがてイイススが埋葬される墓を表し、イイススの産着も死に装束を暗示する。






連載



信者の礼儀
11.信 経 ---信仰告白

「門、門、謹みて聴くべし」の呼びかけの後、「信経」を唱えます。「信経」はそもそも洗礼を受けるときの信仰告白でしたが、いろいろな異端論争が起こり、325年にニケアで、381年にコンスタンティノープルで行われた二つの公会議で正しい信仰を示した12の『信仰箇条』がまとめられました。

「私は信じます一つの神、それは父、全能であって、すべてのものを創られた方であることを。」次に、
「私は信じます、一つの主、ハリストス、世の先から父とともにあって・・・」とハリストスについての教義を唱えます。続いて
「私は信じます、聖神、主であって・・・」と聖神について唱え、私たちの信じる神が三位一体の神であることを確認し、さらに、一つの洗礼、使徒から継承された普遍的な教会を信じ、復活と来世の生命を望む民の一員であることを表明します。

 私たちはこの信経を唱えて洗礼を受けました。 これから聖体機密の中心部分「聖変化(親しみの献げもの)」に進んで行くにあたって、信仰において一致した集まりがここにあることを確認します。

 聖歌の多くは「我等を憐れめよ」とか「我等謹んで」とか、主語が「我等」と複数であることが多いのですが、ここは「我」という単数形です。聖体礼儀で「我」と単数で祈るのは信経と領聖祝文「主や、我信じかつ承け認めて」だけです。他人の分まで信じることはできません。教会は神の民の集まりとしての一つの共同体ですが、それを構成するのは一人一人の自由な信仰です。ここにいるすべての者が信仰箇条を正しく信じていることを、ひとりひとり神の前に立って「私は信じます」と告白し、確認します。

 キリスト教が迫害されていた時代、「啓蒙者出よ」で洗礼を受けていない人は退出を命じられました。「門、門」との呼びかけは部外者やスパイが混じっていないかどうか、もう一度門番に確認するためでした。
 もちろん今では啓蒙者や見学者の方も最後まで参祷を許されますが、本質的にはここからの機密、神との交わり、領聖は信仰を共有する者すなわち洗礼を受けた主の弟子にだけ許された特別の儀式です。

 ちなみに西方教会と正教会の違いは「信経」の聖神の項目「聖神主、生命を施す者、父より出で」という箇所にあります。ローマ・カトリックは「父より出で」の部分に「父及び子より出で」と「及び子」を付け加えてしまいました。正教会の教義では神・父は神・子の源であると同様に、神・聖神の永遠なる源であり起点であると教えます。一見大した違いがないように思えますが、教会のあり方や組織の違いにも影響を及ぼす重要点なので正教会としては見過ごすことはできません。 

 ギリシアやルーマニアでは信経は歌わずに全員で唱えます。ロシアでは15世紀ごろから全員で歌うようになりました。ここで鐘を鳴らす教会もあります。