なごや聖歌だより
福音者聖イオアン修道院
ペテルブルグ
2006年9月号


信じて歌ってますか?

「信じて歌ってますか」
ある神父さんが言われました。

「主、憐れめよ・・・」、本気で主の憐れみがほしいですか。
「光栄は聖なる復活に帰す・・・」救いが主の復活から始まったことを信じていますか。
「ハリストスの聖体を受け、不死の泉を飲めよ・・・」ご聖体が主の救い、私たちのいのちの泉であることを信じて歌っていますか。

 「信仰深くないので、とてもとても・・・」と謙遜するのも変ですが、 よくよく自分の心をかえりみれば、胸を張って「100%信じて歌っています」と言える人はいないと思います。

 イイススが処女から生まれたこと、十字架で死んだはずのイイススが3日目に復活したこと、そしてこのパンとぶどう酒が主のお体と血であること・・・教会の教えることは、この世の常識では納得のいかない不思議なことばかりです。
 
 ところで、マルコ伝にこんな話があります。病気で苦しむ子どもをつれてきた父親は「もしできますればお助け下さい」と頼みました。するとハリストスは「もしできれば、というのか。信ずるものには何でもできる」と言われ、父親は「信じます。不信仰は私をお助け下さい(9:22-24)」と叫びます。
 私たちに必要なのはこの父親の祈りではないかと思います。主の救いのわざは神の助けがなければ信じることができません。聖神の働きがなければ、私たちは信じることができないのです。

 「主憐れめよ」と歌うときは「主の憐れみを願わせてください」、「光栄は聖なる復活に帰す・・・」と歌うときは「復活を信じさせてください」、「ハリストスの聖体を受け・・・」は「このご聖体が主の救いそのものであることを信じさせてください」、 
 まず、聖神の助けを求める祈りが求められているのではないかと思います。


こどもたちと一緒に 「主日領聖詞」
すべての被造物は神を讃える

 8月26日(土)-27日(日)に夏休み企画として「こどもお泊まり会」がひらかれました。横浜教会のセラフィマ井上姉が「切り絵-創世記」を行い、主日領聖詞「天より主を讃め揚げよ」を歌いながら神が世界をと創られたようすを学びました。












 ところで主日には領聖詞は第148聖詠第1句が選ばれていますが、この聖詠には被造物すべてが神を讃える様子が歌われています。日頃は誦経者が聖詠の句を読んでいますが、この日は子供たちが交替で読みました。練習のかいあって、大きな子は堂々と、小さな子供たちもむずかしいことばを一生懸命唱え、リフレイン「天より主を讃め揚げよ」は大人も子どもも声を合わせて神の創造のわざを讃えました。
 聖詠の句の間に領聖詞をみんなで繰り返す歌い方は古いビザンティンの歌い方です。




連載



信者の礼儀

9.「ヘルビムの歌」

「啓蒙者出よ」で啓蒙者が退出してしまうと、教会は洗礼を受けた信者のみの集まりになります。ここであらためて「信者の連祷」が祈られ、聖体機密の祈りが始まります。

ヘルビムの歌と大聖入--献げもの
 旧約時代、人々は羊やハトを持ってきて祭司に犠牲(いけにえ)の祈りを行ってもらいました。しかし律法の定める贖いの献げものは完全な救いではありませんでした。犠牲の献げ物は毎年行われました。
 神は人類の救いのために、ひとり子であるハリストスを送り、贖いの献げものとされました。ハリストスだけが唯一の完全な犠牲です。
 司祭(輔祭)は聖体礼儀の始まる前に奉献台であらかじめ奉献礼儀をおこない、献げものを整えておきます。現代の私たちは献金という形で献げ物をし教会がパンやぶどう酒を買いますが、もともとは信徒が力に応じて献げ物の品々をもちより、それが別室に集められ、その中から輔祭が聖体礼儀の献げものにふさわしいパンとぶどう酒を選び、聖堂へと運んできました。
 司祭(輔祭)の持つディスコス上には、いけにえ犠牲の「こひつじ」のパンが据えられ、そのまわりに生神女、聖人を記憶したパンの小片、さらに生者死者のパン片も並べられます。ディスコスの上にはハリストスに結ばれた教会、新たなる世界があります。ハリストスは「わたしにつながっていなさい。そうすればわたしはあなたたちとつながっていよう(イオアン15:4)」と言われました。私たちもハリストスとともに、ハリストスに結ばれて祭壇へと運ばれていきます。
 ハリストスは「天にあるもの地にあるものをことごとく(エフェス1:10)包み込み、ご自身にむすびつけ、一切をご自身で満たし、「いのちのいのち」としてすべてを神・父にささげました。

「我等奥密にしてヘルビムを象り、
  聖三の歌を生命を施す三者に歌いて、
    今この世の慮りを悉く退くべし」
 神のいます場所、天上の機密の祭壇に近づいていく私たちは心を備え、天使たちとともに聖三の歌「聖、聖、聖なるかな」を歌います。

 司祭は祭を献じる役割を神から与えられた者です。静かに「我罪ありてたえざる爾の僕を顧み、我がたましいと心とをよこしまなる思慮より浄め、我神品の恩寵をこうむれる者を、爾が聖神の力に藉りて、この爾の聖なる食案(テーブル)の前に立ち、爾が至浄なる聖体至尊なる聖血の機密を行うにたうる者となしたまえ」と祈ります。

参考資料:正教基礎講座資料「奉神礼」「教義」(トマス・ホプコ) 「エウハリスティア」(シュメーマン)、聖体礼儀注解(ニコラス・カバシラス)、06冬季セミナー資料「主日聖体礼儀」