なごや聖歌だより
2005年6月号

正教会はひとつ

?ハリストス死より復活し、
死を以て死を滅ぼし、
墓にあるものに生命を賜えり-?

 復活祭の夜、世界中から正教徒がやってきました。「愛・地球博」の外国パビリオンのスタッフ、興業中のアレグリアのサーカスのメンバーも来られました。
 日本語スラブ語に加えて、ギリシア語、ルーマニア語、アラビア語、グルジア語、ブルガリア、セルビアのパスハのトロパリを歌いました。
 「一緒に歌いましょう」と呼びかけて、「主憐れめよ」を日本語で歌いました。真っ暗な夜の闇の中、聖堂いっぱいの「主憐れめよ」の大合唱が世界にこだましました。 「ことばも音楽も違うのに、同じだった」「故郷にあるようだった」「正教会はひとつだ」「世界中の人々と一緒」と喜びの声が次々と寄せられました。

 内容は全く同じなのに、言語の特性や民族の音楽性によって随分音楽が異なるものです。ギリシア語にははずむようなリズムがあり、ルーマニア語には明るい甘さがあります。同じスラブ語でもブルガリア、セルビアのものはロシアのものと随分異なり、ゆったりしたビザンティンのメロディの名残を感じさせます。
 さまざまな音楽にのせて、同じ復活の喜びが表されています。正教会はそれぞれの言語に似合う音楽をそれぞれの音楽性の中で育んできました。自由な心で神を讃美し続けてきました。今も、いつも、永遠に教会に働いている聖神の力を信じてきたからです。それが正教会の多様性を生みました。
 しかし目に見える形は違っても、そこにある喜びは全く同じです。


連載
聖歌の伝統 2


2 奉神礼として聖歌を見る

 イイススは「二三人が私の名によって集まるところに、私もその中にいる(マタイ18:20)」と言われました。私たちが教会として集まり礼拝するとき、神はご自身を顕されます。奉神礼のなかで私たちは実際に神のもとに招かれ、神のことばを聴き、神と交わり、ご聖体を頂き、真の喜びをわかちあい、そこで頂いた喜びを津々浦々まで運んでいきます。
 「聖歌」は「奉神礼」です。CDやコンサートで美しい聖歌を聴いて正教会に関心を持つ方も多いのは確かですが、そいういう人たちが実際の教会を訪ねたときに充実した祈りが行われていなければ彼らを神のもとに招くことができません。
 私たちの礼拝には私たちが思っている以上の大きな力があります。まずそれを確信してください。今までも何人もの方が祈りに参祷され、単なる音楽的な美以上の「何か」を感じて正教会に加わりました。
 著述、講演などで世界的に活躍されておられるイギリスのカリストス主教は17歳のとき路地裏のロシア教会に迷い込み、数人で行われていた小さな祈りに衝撃を受け10年後に改宗されたそうです。
 明治時代ニコライ大主教は聖歌教師を養成し、伝教者兼聖歌指導者として全国の教会に送りました。司祭がいないときも信者が集まって朝夕の祈祷、代式祈祷が頻繁に行われていました。祈りに接して改宗する人の多かったことが日記に書かれています。
 私たちの礼拝には力があります。教会の規模や状況に応じて、今できるなかで一番よいものを、そして昨日よりも今日、さらに生き生きとした祈りをそれぞれの教会に実現していく努力が必要です。それは必ず宣教につながります。
 では聖歌として何ができるか、具体的に何から始めたらいいか考えるとき大切なのは「奉神礼」という視点から聖歌を見ることです。大切なのは何でしょうか。
 ・祈りの流れがスムーズであること
 ・祈りの内容にふさわしい聖歌であること
 ・祈る人々が無理なく気持ちよく参加できること
などなど色々考えられるでしょう。どんな曲を選ぶかどんなふうに歌うかは、奉神礼としての必要性から考えてゆきます。形式や楽譜が先ではありません。人間一人一人の顔が違うように、教会もそれぞれ異なります。自分たちに似合うもの、力量にあったものを探せばよいのです。どんなにシンプルな聖歌でも、そこに神が働きます。
 ロシア風の合唱聖歌でないと本格的な正教会聖歌でないとか、明治の楽譜と同じでないと正統といえないなどと言われる方がありますが、そんなことはありません。正教会は歴史においても地域においても、さまざまな聖歌を許容してきました。聖歌は個々の教会に働く聖神によって生かされます。私たちの教会にも働いています。真剣に求め努力すれば助けてくれます。実力以上の力が与えられます。
 ですから正教会の奉神礼はどういうものなのか中身を知ることがとても大切です。単に儀式を形式的に守るのではなく、奉神礼の魅力をもっと知りましょう。歌詞となっている祈祷書や聖書のことばを深く学び味わってみます。学びつつ奉神礼の中で何度も歌ううちに、ふとした折りに深い理解が与えられハッとします。音楽も深められてゆきます。
 耳からは聖歌、目には聖堂、光、イコン、さらに乳香の匂い、味など、五感すべてをとおして、すべての要素が協力して、神の国の姿を顕します。