なごや聖歌だより
2005年5月号


ハリストスの受難に参加する

聖枝祭の日、枝を振って「至高きにオサンナ」と救世主の到来を大喜びした人々の中に、私たちもいます。「十字架につけろ」とヒステリックに叫んだ群衆の中にも私たちがいます。十字架にかけられた主をひとりぼっちにして、怖くて逃げ出し、何が起こるか遠巻きに見ていた弟子たちの中にも私たちがいます。落胆して、墓を探しに行った女たちの中にも私たちがいます。そして復活の主に出会った彼らの中にもいます。

正教会の祈りは体験的だと言われます。中でも、これから始まる聖枝祭、受難週から復活祭は、まさに福音書の伝えるイイススのこの世でクライマックスを「ともに」経験する一週間です。一緒に歌いましょう。
 時間を作って参祷してください。聖枝祭、枝を振って主をお迎えし歌いましょう。最後の晩餐の日、主からパンとぶどう酒を頂きましょう。主の苦しみ、生神女マリアの悲しみをともに泣きましょう。弟子たちとともに、主の死を悼み、墓に葬りましょう。そして、女弟子たちとともに復活を告げる天使に会いましょう。復活された主に出会い、喜びの歌を歌いましょう。
 正教会の奉神礼はまさに「機密」です。主とともに苦しみ、死んで、復活する・・・クリスチャンとして生きる確信と力が与えられます。


連載
聖歌の伝統 2


西洋音楽との違い

 「私は聖歌が好きで」とか「聖歌を歌うと気持ちがよくて」というお話しをよく聴きます。信徒でない方からも「正教会の聖歌は美しい」と言われます。聖歌を聴いて正教会の門を叩いた方もたくさんおられます。なぜ私たちの聖歌はそんなに魅力的なのでしょうか。
 
 西洋ではルネサンス以降、人間中心主義や個人主義の考え方が発展し、宗教絵画や音楽は教会を離れ、作者の個人的な印象や感性を自由に表現する芸術として発展しました。西洋の宗教音楽は必ずしも教会で祈りのために奏されるものではなくなり、聴衆に聴かせることを目的にしたものも多く作られ、信仰生活と切り離されて作家個人の芸術作品として考えるのが当たり前になっています。
 それに対して正教会では祈りと音楽(絵画)は一体となったままで分化していません。聖歌は奉神礼の一部で、奉神礼は信仰生活の中心です。聖歌だけを切り離すことができません。しかし、だからこそ西洋の宗教芸術とは異なる魅力を保っているとも言えます。
 聖歌は私たちの祈りです。信仰表明です。祈りの対象となるイコンを信仰の違う人に描いてもらうことができるでしょうか。聖歌の作曲を信仰の異なる他教派の音楽家に依頼することができるでしょうか。西方ではバッハのようにプロテスタントの信者でありながら、ローマ・カトリックのミサ曲を作るといったことも珍しくありません。

 私たちは人間中心主義が常識の世界に生きていますから、ついつい自分の常識を優先させ西洋音楽と同じ基準を用いて、聖歌だけを取り出して扱えるような錯覚に陥ります。
 もちろん聖歌はCDで聞いても美しいし、有名なルブリョフの至聖三者のイコンは美術館で見ても輝きを放っています。しかし、イコンも聖歌も祈りの中で、神にいのちを与えられ輝きを与えられたからこそ美しいのです。イコンも聖歌も原則的に無記名なのはそれが作者のものではなく教会(神)のものだからです。修道院で描かれたイコンが尊ばれる理由もそこにあります。
 神という生命の樹から流れ出す恵みから切り離されて人間主体の芸術指向に進んでゆけば、聖歌もイコンも次第に本来の光を失なっていくでしょう。
 聖歌の主体は人間ではなく神にあります。神が人々をご自分の方へ正しく導くために与えられた恵みです。聖歌を歌うとき神はあふれるほどの喜びを与えてくださいます。
 正教会は神中心の生き方を信徒に求めています。聖体礼儀の終わりに「平安にして出ずべし」という祝福とともにクリスチャンはこの世に派遣されます。神の旨を心に、この世に向かって働きかけるように命じられています。神は神の恵みの中にある至上の喜びへと人々を招いています。聖歌は神の国への窓として働きます。
 逆ではありません。


「我信ず・・・・」

 こんな話を聞きました。テレビで英国皇太子の結婚式の模様を見ていたら、式の中で正教会の「信経」をロシア人の歌手がスラブ語で歌っていたというのです。チャールズ皇太子は英国国教会信徒、しかもその首長になる方です。
 正直にいって「わからない・・・」と思いました。
 私たちの教会で、結婚式にという機密で、他教派の人が他教派の信仰告白を歌うというのは考えられません。 「信経」は洗礼を受けるときに、「信じます」と神の前で宣言し、聖体礼儀で領聖前に、「信じます」と告白する正教徒にとって最も大切な祈りです。
 教会や信仰、聖歌についての考え方の大きな違いを感じました。