なごや聖歌だより
2004年6月号


祈りの歌

聖歌は神さまへの捧げものですから、きれいな歌を捧げたい気持ちは誰にでもあります。でも、どんなに練習しても、うまく歌えないこともあります。「年も取っているし、声も出ないし...」というぼやきの声も聞こえます。
 大切なのはベストを尽くすことではないでしょうか。精一杯練習して、心を込めて歌えば必ず神さまは聞いてくださいます。「どーせ、できないから」というあきらめ心も、「その時になればなんとかなる」という自信過剰も神に喜ばれないと思います。
 神さまは、今日の聖歌が合格レベルに達しているかどうかは問われません。でも、精一杯だったかどうかは問われるのではないでしょうか。というわけで、練習は大切です。 
 ところで、こんな話を見つけました。

☆むかしばなしから☆
 むかしむかし、聖ゲオルギイ修道院でのお話です。ここの修道士たちは歌が上手でありませんでした。
 毎年、聖ゲオルギイの祭日には全国から巡礼者が集まってお祝いが行われますが、いつも聖歌隊からは調子っぱずれな歌が聞こえてきて修道院長は頭を悩ませていました。
 今年もまた、聖ゲオルギイの祭日が近づいてきました。修道院長は修道士を集めて、「今年は立派なお祭りにしたいので、街から上手な聖歌隊を連れてきて聖歌を歌ってもらうことにした」と告げました。
 さて、当日、何千人もの巡礼者がやってきました。歌の下手な修道士には、「歌わないように」指示したので、変な音が聞こえる心配もありません。聖歌は荘厳で華やかで、修道院長も参祷した巡礼者も大満足でした。
 さて、その夜のことです。修道院長がぐっすり眠っていると、聖ゲオルギーが夢に現れて、「どうして、今年は私の祭をやらないんだね。今日は私の祭日なのに、何のお祝いもしてくれなかった。私の祝福が不満かね」と言います。
 修道院長は「聖ゲオルギイ様、めっそうもない。今日、とても豪華で素晴らしい祭日のお祈りが行われたではないですか。美しい聖歌をお聞きにならなかったんですか。」と答えました。
 聖ゲオルギイは「はて、教会にたくさん人がいるのは見えた。が、何も祈りが聞こえなかったが...」と言ったそうな。
(参考資料:Psalm note winter 1997)




連載
聖歌の伝統 

正教会聖歌のなりたち−−エルサレムからナゴヤま


6.街の教会の礼拝と修道院の祈り
−ふたつの伝統−

 今私たちが行っている礼拝はコンスタンティノープルとエルサレムという二大都市を中心に発展しました。今私たちが行っている奉神礼は街の教会の祈りと、修道院での祈りの伝統がミックスされています。
 聖歌がたくさん歌われる「聖体礼儀」や「早課」「晩課」は主教や司祭が中心となって行われるので、もともと街中の教会で発展しました。
 今までこのシリーズでは街の教会の歴史を中心にご紹介してきました。トロパリ、コンダクといった新しい聖歌がどんどん取り入れられて発展してきたのはアギアソフィア大聖堂を中心とする街の教会です。たとえば、コンダクは24連もの詩が連なる大叙事詩で、ソロの歌い手が中央の壇に立って朗々と歌い、会衆はリフレインを歌って参加しました。
 さて正教会の修道院は4世紀ぐらいに始まりますが、修道士たちは人里離れた砂漠の中で「絶えまなく祈る」を実践しました。初期の修道院は、司祭や主教のいない一般信者の集まりでしたから、そこでは司祭や主教が必要な礼拝は行われず、祈祷書も主に聖詠経で、のちに時課経が用いられました。
 修道士たちはトロパリやコンダクなどの「聖歌」には概して批判的で、聖詠や聖書を中心にした祈りを勧めました。たとえば4世紀のパンボという長老は街でトロパリを聞いてうっとりして帰ってきた弟子に対して、「修道士が教会や自分の僧坊で、牛のような声を挙げてトロパリを歌って、どんな痛悔の涙が生まれるというのだ。歌を作ったり、歌ったりするために砂漠に移り住んだのではない。神に畏れおののき、神を崇める心、痛悔のたましいを、慎ましい声と涙で唱えるべきだ」と諭しました。
 修道院の祈りの形に変化が起こるのが8世紀のイコノクラスム(イコン破壊論争)の時です。イコンは偶像礼拝だからすべて廃棄するようにという勅令が下ったときに、「正教会がイコンに向かって祈るのは神が人となったからだ」と必死で反対したのは修道士たちでした。彼らは修道院から追い出され、流浪し各地の街に散らばって祈り続けました。特に首都を追われた修道士たちの多くはパレスティナに身を隠し、そこで八調を始めとしたシリア・パレスティナの聖歌の伝統を身につけます。
 その後イコンを崇敬することの正しさが認められ、修道院が再興されるとき、修道院の祈りも再構築され、聖歌がたくさん含まれるようになりました。この運動の中心になったのが、コンスタンティノープルの町はずれにあるストディオス修道院で、それ以後の礼拝の形の基本になってゆきます。だいたい今の礼拝の形が完成するのが9-10世紀ごろといわれます。
 晩課では冒頭に103聖詠が歌われ(読まれ)ますが、司祭の読む黙唱祝文は85聖詠がベースになっています。かつてコンスタンティノープルの教会で晩課が85聖詠で始まっていたことを示しています。

(参考:Paul Meyendorff: Monastic rite and Cathedral rite)



写真:ストディオス修道院のあと


奉事規定(ティピコン)---お祈りのきまりは一枚岩ではない

 正教会の祈りの順番や実施の仕方はティピコン(ウスタフ)という本に詳しく書かれています。日本語には訳されていませんが、三歌斎経などの祈祷書に補足的に書かれています。
 ティピコンにはコンスタンティノープルのストディオス修道院の式順と、エルサレムの聖サワ修道院の式順の二大潮流があります。教皇からピラミッド型に一本化されているローマ教会と違って、大まかには各国正教会共通ですが、細かい部分ではかなりの違いがあります。むしろ、その主教区や修道院の実情に合わせた実践の集積がティピコンだといえます。
  また、この規則は修道院での実践をもとにしていますから、街の教会でこのまま実践するのは不可能です。日本ではロシアの規則を元にしていますが、かなり省略された形で行われています。
 ニコライ大主教は「大斎第1週略式」の巻頭に、今はまだ信徒も少なく、聖歌や誦経も熟達していないから省略もやむ得ないと述べられ、現実に即した工夫を求めておられます。
 規則を満たせば単純にOKではなく、現実の教会への愛の眼差しが常に求められているということでしょう。