ビザンティンの奉神礼と聖歌

マリア松島純子 



ふたつの街、ふたつの伝統 *1

 現行の奉神礼(礼拝)の大枠、聖歌の大半は四世紀から十世紀のビザンティンで作られた。ビザンティンの教会は初代教会からの伝統を継承しつつ、時代の要請や状況の変化に柔軟に対応し、それが小さな変化となって次の時代に手渡され、積み重なり、次第に完成されていった。「聖体礼儀」にも「晩課」にも「早課」にも、コンスタンティノープルとエルサレム、「街の教会」と「修道院」、ふたつの街のふたつの伝統が混じり合っている。ふたつは独自の道を歩みつつ、互いに影響しあい、やがて統合されて「奉神礼」の形ができあがっていった。


街の教会の伝統

 313年のミラノ勅令によって教会を取り巻く状況は激変した。迫害時代の殉教を覚悟した結束の固い小さな集団は、キリスト教が公認されたことにより、国民の大多数がキリスト教徒となった。大手をふるって教会に集えることは、もちろん歓迎すべきことだったが、「街の教会」にとって信徒への呼びかけや教育は大きな課題となった。世俗的な理由や流行のように洗礼を受けるものも現れたし、逆に、悔い改めて洗礼を受けるのを一寸のばしにする風潮もあった。また皇帝が参列し大聖堂が建てられるようになれば、ふさわしい儀式も求められた。そういう状況の変化のなかで教会は大会衆と「声と心をひとつに」祈るためにさまざまな工夫を行った。

 ビザンティンの「街の教会」の祈りの特徴は聖歌を利用した積極的な会衆参加にあり、別名「歌う礼拝」とも呼ばれた。その一つの例が「行進」で、大きな祭、災害、国家の祝いなどの際には皇帝や総主教を先頭に行列を作って街を練り歩き、広場(フォーラム)では行進を止めて祈った。列を二隊に分け、それぞれに聖歌隊とリーダーを配置し、居合わせた会衆も二隊に分け、まず右手のリーダーが短いリフレイン「救世主や、生神女の祈祷によって我等を救い給え」をソロで歌う。右側の会衆はそれを繰り返す。次に左手のリーダーが同じリフレインを歌い、左の会衆も繰り返す。今度は右のリーダーは聖詠の句を歌い、右の会衆は同じリフレインを歌う。続いて左のリーダーが次の聖詠の句を歌い、左の会衆はまたリフレインを歌う。聖歌隊(コロス)が会衆の歌をたくみにリードした。

 この行列の祈りはやがてアンティフォンとして『聖体礼儀』に取り入れられた。「復活祭」や「降誕祭」など主宰の祭日のアンティフォンにはかつての形が残っている。日本も含めたロシア系の教会では主日は102聖詠(103詩編)「我が霊よ」を歌うが、ギリシア系教会では主日にも祭日と同じようにリフレイン「救世主や」と聖詠を歌う。この歌い方は西方聖歌にも導入されアンティフォナ、レスポンソリアルとなった。ソロの歌い手(または読み手)と会衆あるいは聖歌隊のリフレインによる応答唱は、後の時代の新しい聖歌の形式コンダクやカノンにも「附唱」として引き継がれ、正教会の会衆唱の伝統となった。また街を練り歩く行列は復活祭や神現祭などの「十字行」として残った。

 アンティフォンが終わると、輔祭は「主に祈らん」と促し、人々は「主憐れめよ」と唱和する。最後に主教(または司祭)が祝文(祈りのことば)を唱えてしめくくり、人々は「アミン」と答える。これは「連祷」の原型で、ローマ典礼の「キリエ」と共通の起源を持つ古い祈りである。

 災害の時、地震や干ばつ、外敵に包囲されたときには、街中の人が広場に集まって「主憐れめよ」を何十回も繰り返して祈った。この祈りは「リティヤ」と呼ばれ、今でも祭日の晩課に行われる。連祷の英語名はリタニーであるがリティヤと共通の語源である。アンティフォンと連祷は「街の教会」の「歌う礼拝」の基本形となった。

歌は会衆の教化という点でも大いに利用された。歌を用いて教えるというのはそもそもグノーシス主義の異端者たちが始めたことで、教会はいわば敵の武器を利用したのである。五世紀初めの教会史家ソゾメノスによれば「人々が詩の美しさと音楽のリズムに魅了され、徐々にギリシア的な間違った教義を受け入れているのを憂いて、シリアの聖エフレムはハルモニオス(グノーシス派の詩人)の韻律とパターンを用い、正しいキリスト教の教えに則った新しい聖歌を作った」という。

 たとえば聖体礼儀の第二アンティフォンに続いて歌われる『神の独生の子、ならびに言よ』という歌はビザンティン帝国の最盛期を築いた皇帝ユスティニアヌス作とされる。『信経』(ニケア公会議、第一回コンスタンティノープル公会議できまった信仰箇条)を歌の形にパラフレーズしたもので、参加する会衆が知らず知らずに正しい教義を身につけられるように工夫されている。

 また6世紀には「歌う説教――コンダク」が盛んになった。今ではトロパリと変わらない短い詩とイコスに縮小されてしまったが、かつては20連から30連にも及ぶドラマティックな叙事詩だった。歌い手は聖書のエピソードを教会の聖書解釈に従いつつ、アギアソフィア大聖堂の大ドームの下で、喜びの歌を自由自在にたからかに歌いあげた。かつての大コンダクの元のかたちを唯一残しているのが大斎第五週土曜日に行われる「生神女のアカフィスト」である。もともとは生神女福音祭の歌で、ソロ(今は誦経者)が生神女をさまざまに讃め揚げる歌を歌い、会衆は「嫁ならぬ嫁や慶べ」と「アリルイヤ、アリルイヤ、アリルイヤ」のふたつのリフレインを何度も歌って参加する。

 このように「街の教会」では「歌」を積極的に利用したが、同時に音楽や詩によってギリシア的、異教的なものが入り込むことを警戒し、楽器の使用は一切禁止され、今でも伴奏としても用いない。理由は当時の異教では音楽によって人々をエクスタシーに陥らせるようなものが多かったためで、歌詞によって正しいメッセージが明確に伝わる「歌」のみに限定した。

修道院の伝統

 修道院の伝統は四世紀頃、エジプトやパレスティナの砂漠で始まった。修道士はこの世にあっての殉教、より深い神との交わりを求めて、ほとんど何も持たずに砂漠に入り、ひたすら聖詠を唱え続けた。当時の『聖詠経Psaltery』には聖詠150編だけでなく、旧約聖書の預言の歌も含まれた。彼らはすべて暗記していた。

 初期の修道院では歌は有害とされ徹底的に排除された。砂漠の師父パンボは若い修道士がアレキサンドリアの街の教会で聖歌に魅了されてきたのを見て「修道士が牛のような声で歌って、どんな悔い改めの涙が生まれるのだ」と嘆いた。修道院で聖歌が作られるようになるのはずっと後の七世紀以降である。

 エルサレム近郊の聖サワ修道院はパレスティナの修道の中心であった。聖サワで行われていた祈りのプログラムに従って聖詠がまとめられ七世紀ごろ『時課経(ホロロギオン)』が成立した。ほぼ三時間おきに晩課(夕暮れ)、晩堂課(就寝前)、夜半課(真夜中)、早課(早朝)、一時課、三時課、六時課、九時課が設定されている。『時課経』は、常に変わらない祈りの枠組みとして今も用いられている。

 修道院では聖歌だけでなく、主教も司祭も輔祭もいなかったので、連祷や祝文もなく聖体礼儀も行われなかった。正教会では連祷は輔祭以上、祝文は司祭以上が行う。エジプトのマリアの聖人伝にも描かれるが、修道士たちはご聖体を受けるために街の教会まで出かけ、場合によっては持ち帰って領聖した。時課経一三七ページの「聖体礼儀代式」はその時の祈祷文であったといわれる(N.Uspensky, Evening worship, SVS)。

修道院の伝統の変化

 614年、この聖サワ修道院でその後の修道院の伝統を大きく変える事件が起こった。ササン朝ペルシアがパレスティナに侵攻し、修道院は破壊され修道士44人が殺された。残った修道士も散り散りになり、多くはエルサレムの街に逃げ込んだ。626年ヘラクレイオス帝がペルシアに勝利し、修道院の復興が始まった。このとき修道士たちはエルサレムでふれた街の教会の伝統を持ち帰り、修道院で聖歌が歌われるようになり、さらに聖サワ修道院は聖歌創作の中心となっていった。

今さまざまな祈祷書に収められている膨大な聖歌の大半はこの時代以降に修道院で作られた。なぜこのときに聖歌が爆発的に増えたのか理由は解明されていない。アラビア詩の影響、シリア文化の影響が指摘されるが、いずれも仮説の域を出ない。

 聖サワ修道院はクリトの主教聖アンドレイやダマスクの聖イオアン、聖コスマなど次々と優れた聖歌作者を輩出した。この頃生まれた新しい聖歌の形式がカノンで、旧約の九つの預言の歌(モイセイの歌、アワクムの歌、イオナの祈り、三人の少年の祈りなど)を基調にして、新約においてその預象がどのように成就されたかが歌われた。カノンは九つの歌頌(ode)にわかれ、各歌頌にトロパリがいくつか配置される。各歌頌の最初のトロパリがイルモスである。

 ダマスクの聖イオアンは八週一巡りの聖歌のシステム「八調(オクトエコス)」を導入し、義弟のコスマと共に多くの聖歌を作り、それらは『八調経』に収められた。『八調経』の聖歌は『時課経』に組み込んで用いるように編纂された。

 さて、もう一つのビザンティンの修道の中心地がコンスタンティノープルのストディオス修道院であった。5世紀頃、テオドシウス城壁わきに創設され「眠らぬ祈り」を実践していた。「眠らぬ祈り」と言っても不眠不休ではなく、修道士がシフトを組んで祈り続けた。

 コンスタンティノープルにあるストディオス修道院は首都で起こる政治的、社会的、宗教的事件の影響を真っ向から受けた。中でも大事件が812年から始まるイコノクラスム(聖像破壊運動)であった。イスラムの厳格な偶像禁止の影響を受けた皇帝レオ三世が「イコンへの崇敬」を禁止した。これに決然と反対したのがストディオスの修道士たちであった。彼らは皇帝の弾圧を受け、かろうじてパレスティナに避難した。聖サワの修道士たちは彼らを歓迎し、ダマスクの聖イオアンを中心に反イコノクラスムの論陣を張った。七八七年、第二回ニケア公会議が開かれようやくイコンの正当性が認められると、ストディオスの修道士たちはコンスタンティノープルに戻り修道院の再興を始める。このときにすでに聖歌が導入されていたパレスティナの伝統が持ち込まれ、今度はストディオスが聖歌創作の中心になっていった。その中心人物が修道院長聖フェオドル(テオドロス)で、彼は復活祭を中心とする聖歌の祈祷書『三歌斎経』と『五旬経』を編纂した。修道院の伝統である『時課経』の祈りに街の教会の伝統である『奉事経』が組み合わされていった。ほぼこの時代までに今日の正教会で行われている奉神礼の形式と聖歌、祈祷書の大半が完成した。したがって9、10世紀に始まるスラブ、ロシア伝道ではほぼ完成した形がもたらされた。

九世紀以降、聖歌の伝統にかかわる大事件はアラブのパレスティナ侵攻と十字軍である。1009年、アラブの侵攻によって今度はパレスティナの修道士がコンスタンティノープルに避難し、やがて難が去って故地へ帰るときにコンスタンティノープルの伝統を持ち帰り、その結果コンスタンティノープルとパレスティナの伝統の融合が起こった。

 1204年、細々と続いていたコンスタンティノープルの「街の教会」の「歌う礼拝」の伝統は終わりを告げた。第四回十字軍はコンスタンティノープルを占領し、正教会の主教を追放し、ローマ教会の主教を置きラテン典礼を行った。ビザンティンの人々はニケア帝国を建て一二六一年にコンスタンティノープルを奪還、正教会の奉神礼を取り戻すが、もはや「歌う礼拝」は復活しなかった。なぜなら大聖堂の「歌う礼拝」には司祭、輔祭、聖歌者、読み手など多くの専門職が必要だが、疲弊した国家には大がかりな儀式を支える余裕はなかった。また六〇年間に口伝による聖歌の伝統の多くが失われてしまった可能性も大きい。街の教会でも簡素な修道院の祈りの形がとりいれられていった。大半がストディオス修道院の奉事規則にならった。

 やがて正教の中心は聖山アトスに移る。アトスではグレゴリイ・パラマなどを中心にヘシカスム、静寂主義の運動が起こっていて、より簡素で厳しい斎の規程がある聖サワのティピコンが好まれた。このころからコンスタンティノープル総主教はすべてアトス出身者で占められたが、1353年に総主教になったフィロセオスはアトスのメギティス・ラウラ修道院長時代に聖サワの修道院規則をもとに自分の意見も加味して作ったディアクタクシスという規則書を導入した。ストディオス修道院の礼拝規則との大きな違いは土曜日の夜「徹夜祷」を行うかどうかにある。しばらくするとギリシア地域ではストディオスの伝統に戻り、徹夜祷は行われなくなったが、コンスタンティノープル陥落後、この規則書がギリシア人実業家によってヴェネツィアで印刷され、17世紀初め「ニーコンの改革」でロシアに導入され、ロシアでは聖サワ・アトスの伝統(聖サワのティピコン)に従うようになった。

終わりに


 ビザンティン教会は初代教会からの連続性を保ち「正しい賛美(オルト・ドクサ)」=奉神礼を伝えてきた。信仰の根底を揺るがす教義上の変更には決して妥協しないが、礼拝の形式、言語、聖歌の歌い方などは各地の教会(主教)の判断に任せ、歴史上の事件や状況の変化には柔軟に対応してきた。ビザンティンで培われた伝統は世界各国に伝えられ、各国の言葉、各国の音楽で祈りが捧げられている。ローマカトリック教会のような一本化した統制組織がないにもかかわらず、各国教会はほぼ同じ形で礼拝を行っている。

 伝統は福音を伝える器である。そこに表される『神の国』のイメージは二千年間のひとつの正教会が共有しているからこそ、器の彩りや材質はさまざまでも、「同じ」祈りと感じられるのである。

 晩年ルーテル派から正教会に帰正し一昨年永眠した教理史学者ヤロスラフ・ペリカンは「伝統は死んだ人々の生きた信仰、伝統主義は生きている人々の死んだ信仰」と語った。わたしたちは奉神礼の場において受け渡された伝統の連続性を保ちつつ、聖神(聖霊)の導きを得て、今ここに『神の国』をいきいきと体現してゆかねばならない。そこに真の『生ける伝統―Living Tradition』が息づくのである。


*1 二つの街、二つの伝統はバチカンの東方正教会礼拝研究者Robert Taftが提唱。


参考文献 J. V. Gardner, The Russian Church Singing, SVS, 1980、Hugh Wybrew, The Orthodox Liturgy, SVS, 1990、Robert Taft,The Byzantine rite, a short history, American essays in Liturgy, 1992、Egon Wellez, A History of Byzantine Music and Hymnography, Oxford, 1949, Dimitri Conomos, Byzantine Hymnography and Byzantine Chant, Hellenic College Press, 1982, Paul Meyendorff, Cathedral rite and monastic rite(lecture), SVS