2005年7月31日 西日本主教教区主催 特別講演会

ウラディミル・モロザン博士
「正教会聖歌――祈りの音楽」
The Orthodox Church---Music OF Worship    by Dr.Vladimir Morosan


ウラディミル・モロザン博士プロフィール
Dr. Vladimir Morosan

世界的なロシア聖歌研究者。イリノイ大学で音楽学博士課程修了後、25年以上にわたって正教会聖歌の研究、作曲指導に活躍。アメリカ正教会(OCA)聖ペトル・パウエル教会(コネティカット)の聖歌指揮者。また全米正教会聖歌者連合会PSALMの創設者の一人で、前会長。
著書に『革命前のロシア合唱音楽』Choral Performance in pre-Revolutional Russia、正教会聖歌の手引きと言われるガードナー『ロシア正教会の聖歌』Russian Church Singingの翻訳、『ロシア正教会聖歌大全集』の編集。
ロシア合唱音楽をこよなく愛し、Musica Russica出版社長としてその普及に尽力する。


Musica Russicaのサイト
http://www.musicarussica.com/

神父さま方、ハリストスにおける兄弟姉妹のみなさま、

 こうして日本を訪れ正教会の皆さんにお会いできたこと、私の人生にとって大切なテーマである正教会の礼拝(奉神礼)音楽についてお話しできる機会を与えて頂いたことを神に感謝します。ご紹介してくださったマートシュカ・マリア松島、お世話くださった宗務局長のイオアン神父さま、大阪教会のダヴィード神父さま、ほかご準備くださった大阪教会の皆さんのご親切に感謝します。

 実はここ数十年で、外国から来て正教会の聖歌について話すのは私が最初だと聞いて、とても名誉に思う反面、日本正教会のみなさんに一体何をお話ししたらいいかと不安になりました。私はロシア系アメリカ人で、アメリカ正教会の聖歌者ですが、日本のみなさんに何をお話しできるでしょうか。

 考えた末、一つの答えが与えられました。日本とアメリカの共通点、それは私たちが外国の言葉でなく「自分の国のことば」、アメリカでは英語で、日本では日本語で聖歌を歌う努力をしてきたという点です。日本にはロシアから正教がもたらされ、私たちの教会アメリカ正教会もロシア正教会がもとになっています。(アメリカにはギリシア、アラビア、セルビアなど他の国から来た教会もあります。)ですから、アメリカも日本も同じような苦労や努力をしています。どちらも、他の言語や文化から正教を取り入れ、自分の母国語である英語や日本語に翻訳して、元の国の音楽、私たちの場合、ロシアの音楽にあてはめて歌ってきました。そのとき、正教会の奉神礼の美しさと本質を顕し、具体化し、その国の人々と文化に語りかけるという努力が求められてきました。

 ここでちょっと余談になりますが、私はMusica Russicaというロシア合唱音楽専門の出版社をやっていて、楽譜やCDを通してロシア合唱音楽を世界中に紹介しています。実は今回の私と家内の来日目的は京都で開かれている世界合唱祭に参加するためでした。言うまでもなく、ロシア合唱音楽で最も重要な分野は正教会聖歌で、チャイコフスキー、ラフマニノフ、ボルトニヤンスキー、チェスノコフなどの作品です。

 多くの人々がロシア聖歌の美しさに惹かれて、正教会の信仰に近づく第一歩を踏み出しました。音楽から正教を知りだんだん教会に来るようになって正教徒になった人を何人も知っています。正教の聖歌は本当に美しく、聖神にあふれています。だからことばがわからない人まで心打たれます。聖歌は「天国への窓」で、聖歌を通して「神の国」をかいま見るのだろうと思います。



奉神礼の音楽とは何か

さて、ここからお話しの本題に入ります。今日は「正教会の礼拝の音楽、奉神礼の音楽とは何か」を考えます。私はコネティカット州の聖ペトル・パウエル教会で聖歌指揮者をしていますが、私たち正教徒は「奉神礼の音楽」「奉神礼として機能する音楽」(Music OF worship)と、一般的な宗教音楽、つまり聖詠(詩編)などの聖書のことばや教会の祈祷書の祈祷文を歌詞に用い、あるいはその形を借りているけれども「奉神礼の音楽」と呼べないもの(Music AT worship)を、区別して考えねばなりません。
正教会には色々な聖歌の伝統があります。まず、いくつか聞いていただきましょう。

CD1 晩課103聖詠「我が霊や、主を讃め揚げよ」キエフ・ペチェルスク修道院 (多声合唱)

先唱者: 主我が神よ、爾は至りて大なり
聖歌隊: 主我が神よ、爾は至りて大なり
繰返し: 主や爾は崇め讃めらる
先唱者: 爾は風を以て爾の使者と為し、焔(ほのお)をもって爾の役者(えきしゃ)と為す。
聖歌隊: 爾は風を以て爾の使者と為し、焔をもって爾の役者と為す。
繰返し: 主や爾は崇め讃めらる       (聖詠経第103聖詠)

CD2 アラビアのビザンティン・チャント パスハの第1アンティフォン、アラビア語、ギリシア語

先唱者:全地よ、神に歓びて呼べ。(アラビア語)
繰返し:救世主よ、生神女の祈祷に因(よ)りて我等を救い給え。
先唱者:その名の光栄を歌い、光栄と讃美とを彼に帰せよ。(ギリシア語)
繰返し:救世主よ、生神女の祈祷に因りて我等を救い給え。    (五旬経P33)

CD3 ロシアの古い聖歌ズナメニイ 晩課 「主や爾に?(よ)ぶ」 ユニゾン

先唱者: (第5の調べ) 主や、爾に?(よ)ぶ、我に聴き給え
繰返し: 主や、我に聴き給え
先唱者: 主や、爾に?(よ)ぶ、我に聴き給え、我が祷りの声を納(い)れ給え
聖歌隊:爾に?(よ)ぶ時、
繰返し: 主や、我に聴き給え
先唱者: 願くは 我が祷(いの)りは香炉(こうろ)の香りの如く爾が顔(かんばせ)の前に登り、我が手を挙ぐるは
聖歌隊:暮の祭の如く納(い)れられん。
繰返し: 主や、我に聴き給え
先唱者:主や、我深きところより爾に?(よ)ぶ
繰返し: 主や、我に聴き給え             (聖詠経 第141聖詠)

CD4 アメリカの聖歌、先備聖体礼儀の領聖詞 セルゲイ・グラゴレフ神父作曲

繰返し:味えよ、主のいかに仁慈なるを見ん、アリルイヤ、アリルイヤ、アリルイヤ
先唱者:味えよ、主のいかに仁慈なるを見ん、
繰返し:味えよ、主のいかに仁慈なるを見ん、
先唱者:我何れの時にも主を讃め揚げん、彼を讃むるは恒に我が口に在り、
繰返し:味えよ、主のいかに仁慈なるを見ん、
先唱者:我が霊(たましい)は主を以て誇らん、温柔なる者は聞きて楽しまん。
繰返し:味えよ、主のいかに仁慈なるを見ん、
先唱者:我と偕に主を尊め、ともに彼の名を崇め讃めん。
繰返し:味えよ、主のいかに仁慈なるを見ん、       (聖詠経第33聖詠)
(祈祷書の引用は、現代仮名づかいと送りがな、新漢字で表記)
こうして聞くと、随分違いますね。でもひとつ「共通点」があります。これらはすべて奉神礼としての役目を果たす音楽、礼拝そのものの音楽です。

次に別の音楽を聴いてみましょう。
CD5 ボルトニヤンスキーの合唱コンチェルト15番「人々よ来たりて」

歌詞は主日4調「主や爾に(よ)ぶ」のスティヒラ
人々よ、来たりて、救世主の三日目の復活を歌はん。我等ここに因りて地獄の釈(と)き難き縛(なわめ)より脱(のが)れ、皆不朽と生命(いのち)とを受けて呼ぶ、十字架に釘せられ、?(ほうむ)られて、復活せし独(ひと)り人を愛する主よ、爾の復活を以て我等を救い給へ。(八調経巻一P724)

歌詞のことばは4調スティヒラで、奉神礼の祈祷書からとられています。作曲者は有名なロシア・ウクライナの作曲家デミトリイ・ボルトニヤンスキーで、合唱音楽として大変美しい音楽であるのは確かです。奉神礼中に演奏されることもありますが、「奉神礼の音楽」とはいえません。なぜでしょう。イコンと同じです。ただハリストスを美しくイコン風に描いたからといって、すなわち正教会のイコンとは言えないでしょう。ロシア正教会の作曲家が作った美しい音楽だからといって、必ずしも奉神礼の音楽とは言えません。

さて、ではいったい「奉神礼の音楽」とそうでない音楽はどこが違うのでしょうか。どんな物差しを用いて判断したらいいでしょうか。お聞き頂いておわかりのように、音楽そのものは地域や時代や国によって随分異なりますから、聴いただけでは全くわかりません。

ヨハン・ガードナー教授はロシア正教会聖歌の入門書『ロシアの教会音楽』の著者として有名な方ですが、こういう場合個人的な好みに左右されないように注意しました。聖職者や指揮者、聖歌隊や教会のメンバーが、個人的な自分の「好み」にもとづいて、「あの音楽の方がお祈りらしい気持ちになる」とか「こっちの方が正教会的に聞こえる」などという意見です。こういう主観的な意見は、ある人にはそう思えても、別の人にはあてはまりませんから基準になりません。
まず「奉神礼の音楽」と言えるかどうかを判断する基準を見つけましょう。祈祷の構造をしっかり見て、そこで音楽が奉神礼としてどんな役目を果たそうとしているかを知らなければなりません。「奉神礼としての構造と機能にふさわしいかどうか」これが音楽を選ぶ基準になります。

わかりやすくするために例を挙げましょう。神父さんが「衆人に平安」と言いますね。なんと答えますか?「爾の神°にも」です。答えるのは誰ですか。聖歌隊ですか?神父さんは「聖歌隊に平安」と言いませんでしたね。「衆人、すべてのひとに平安があるように」と言いました。ということは、教会に集まった人々全体に向けて宣言された「衆人に平安」に対して、そこに集まっている全員が「爾の神°にも。神父さん、あなたの霊にも平安があるように」と答えなければならないことになります。だとすると、「爾の神°にも」はみんなが一緒に答えられるようなシンプルな音楽がふさわしいと言うことになります。

次に別の例を見てみましょう。正教会のお祈りの始まりには大連祷が祈られます。大連祷では12個から13個の祈り願う祈願のことばが輔祭あるいは司祭によって次々と唱えられ、「主、憐れめよ」という「応答」(こたえ)が返されます。「祈願のことば」に対して「応答」、「祈願のことば」「応答」の繰り返し、単純な構造です。祈願の内容は毎回異なりますが、応えは同じ「主憐れめよ」です。

ロシアの有名な作曲家チャイコフスキーの聖体礼儀から「大連祷」を聞いていただきましょう。とても凝った音楽で、和音がどんどん展開して、次々と変化していきます。「主、憐れめよ(ゴスポディ・ポミールイ)」の音楽が全部違います。聞いてください。

CD6 チャイコフスキーの「聖体礼儀」から、大連祷

我等安和にして主に祷らん、         主、憐れめよ(以下繰り返す)      
上より降る安和と我等が霊(たましい)の救いのために主に祷らん、
全世界の安和、神の聖なる諸教会の堅立、及び衆人の合一のために主に祷らん、
この聖堂、及び信と慎みと神を畏る心とを以て、ここに来る者のために主に祷らん、
教会を司る我等の主教(某)、司祭の尊品、ハリストスに因る輔祭職、悉(ことごと)くの教衆、及び衆人のために主に祷らん、
我が国の天皇及び国を司る者のために主に祷らん、
此の都邑(まち)と凡の都邑(まち)と地方、及び信を以て、此の中に居る者のために主に祷らん、
気候順和、五穀豊穣(ほうじょう)、天下泰平のために主に祷らん、
航海する者、旅行する者、病を患(うれ)うる者、艱難(かんなん)に遭う者、虜(とりこ)となりし者、及び彼等の救いのために主に祷らん、
我等諸々の憂愁(うれい)と忿怒(いかり)と危難(あやうき)とを免(まぬが)るがために主に祷らん、
神や、爾(なんじ)の恩寵を以て、我等を佑(たす)け救い憐み護(まも)れよ、 (奉事経)

音楽的な面だけをとらえればチャイコフスキーの作品は面白く美しい音楽です。しかし、彼の「主、憐れめよ」の音楽は和音や、音域の幅や、強弱に変化がつけられていて、あるものは別のものより豪華に、もっと熱烈に聞こえます。さて、ここで考えてみて下さい。大連祷の神さまへのお願いのなかで、あるお願いは別のお願いより重要ですか。このお願いは先のお願いより重大ですか。そんなことはないですね。ですから、この場合、チャイコフスキーの音楽の構造は「大連祷」が奉神礼の上で果たすべき機能に合っていないと言うことになります。

次に別の部分を見てみましょう。聖体礼儀にアンティフォンと呼ばれる歌がありますね。アンティ・フォンはギリシア語で、「声対声」という意味です。二つ以上の声が相対するという意味です。片方の声が歌っているときは、別のグループは聞きます。歌うことも大切ですが、奉神礼において「聴く」ことはとても大切です。昔の人は人間の性質をよく知っていて、とても賢い歌い方を考えました。

祭日のアンティフォンをご存じですか。復活祭や主の祭日に歌われます。日本では19世紀のロシアの方式を用いていて、応答形式でなく聖歌隊が全部続けて歌ってしまうのでわかりにくくなっていますが、このアンティフォンは聖詠の句と簡単な繰り返しで作られています。祈祷書にはちゃんと附唱(繰り返し)と書かれています。
復活祭の第1アンティフォンは65聖詠から句が選ばれています。第1句「全地よ、神に歓びて呼べ」に続いて、「救世主よ、生神女の祈祷に因りて我等を救い給え」という附唱、聖詠の句、附唱、聖詠の句、附唱、と続きます。

資料2 復活祭の第1アンティフォン 第65聖詠
 
(ソロ)第1句 全地よ、神に歓びて呼べ。
(会衆)附唱:救世主よ、生神女の祈祷に因りて我等を救い給え。(附唱=繰り返し)
(ソロ)第2句 全地よ、神に歓びて呼び、其名の光栄を歌い、光栄と讃美とを彼に帰せよ。
(会衆)附唱:救世主よ、生神女の祈祷に因りて我等を救い給え。

(ソロ)第3句 神に謂ふべし、爾は其行事に於て何ぞ畏るべき、爾が力の多きに由りて爾の敵は爾に降らん。
(会衆)附唱:救世主よ、生神女の祈祷に因りて我等を救い給え。
(ソロ)第4句 至上者よ、願くは全地は爾に叩拝し、爾を歌い、爾の名に歌わん。
(会衆)附唱:救世主よ、生神女の祈祷に因りて我等を救い給え。
(ソロ)光栄は父と子と聖神に帰す、今も何時も世々にアミン、
(会衆)附唱:救世主よ、生神女の祈祷に因りて我等を救い給え


ここから、聖師父たち聖人たちがいかに賢明な形を作ったのかがわかります。最初の聖詠の句「全地よ、神に歓びて呼べ」の部分は、選ばれた聖歌隊かソロの聖歌者が、喜びあふれた、堂々とした声で、朗々と歌い出します。こちらが第一の声です。さて、附唱部分に「我等を救い給え」ということばが含まれているのに注目して下さい。「我等」とは教会に参祷しているすべての人です。「私たち全員を救い給え」と歌います。会衆全員、信徒全員がアンティフォンの「第二の声」を形作ります。

第一の声、ソロの歌い手(あるいは選ばれた聖歌隊)が聖詠の「句」を歌うとき、会衆は耳をそばだてて「聴き」ます。それが終わると、第二の声=会衆は、「救世主よ、生神女の祈祷に因りて我等を救い給え」を歌い出します。今度は聞くのではなく、「参加」するように呼びかけられます。第2アンティフォンも同じです。附唱は「死より復活せし神の子よ、我等爾にアリルイヤを歌う者を救い給え」です。
ここで、アンティフォンの聖詠と繰り返しの実例として復活祭の第3アンティフォンをご紹介しましょう。この場合、附唱はパスハのトロパリで、ソロの歌う聖詠の句の間に会衆は「ハリストス死より復活し」を繰り返します。これは最近アメリカで発売されたCDです。聞いて下さい。

CD7 (Voice of Archangel) パスハの第3アンティフォン

実際に私たちもやってみましょう。私(モロザン)が聖詠の句を歌いますから、日本語で「ハリストス死より復活し」の繰り返しを歌ってください。

資料 復活祭の第3アンティフォン 第65聖詠
 
(ソロ)第1句 神は興(お)き、その仇は散るべし。
附唱:  ハリストス死より復活し、死を以て死を滅し、墓にある者に生命を賜えり。
(ソロ)第1句 神は興(お)き、その仇は散るべし、彼を悪む者はその顔(かんばせ)より逃ぐべし。
附唱:  ハリストス死より復活し、死を以て死を滅し、墓にある者に生命を賜えり。
(ソロ)第2句 煙の散るが如く、爾彼等を散らし給へ。
附唱:  ハリストス死より復活し、死を以て死を滅し、墓にある者に生命を賜えり。
(ソロ)第3句 臘(ろう)が火に因りて融(と)くるが如く、かく悪人等は神の顔(かんばせ)に因りて亡び、惟(ただ)義人等は楽しみ、神の前に欣(よろこ)ぶべし。
附唱:  ハリストス死より復活し、死を以て死を滅し、墓にある者に生命を賜えり。
(五旬経略P35)


三つの例を見ました。「爾の神°にも」という司祭の祝福への応答、連祷の祈願に対する「主、憐れめよ」という応え、そして聖体礼儀のアンティフォンへの「繰り返し」、ここに、正教会の奉神礼の本質、「みんなが参加する共同の祈り」という本質が端的に顕れています。正教会の奉神礼はもともと信者が積極的に祈りに参加して、神ご自身と「聖なる会話」を行うように作られているのです。

正教会の奉神礼、リトゥルギア――共同の仕事
「いつごろから、こういうやりかたが行われたか」、を考えるとき、ギリシア語で奉神礼を表す「リトゥルギア」ということばがヒントになります。「リトゥルギア」は、コミュニティ、信徒の集まりの「共同の仕事」を表しています。「神の民の集まり」というコミュニティが行う共同作業という意味です。だから、正教会の祈りは、美しい音楽を聴いてうっとりして、一人一人が別々に黙って祈ったり、大勢の人がただ集まって、それぞれがバラバラに瞑想したりするものではありません。祈りの美しさも大切ですが奉神礼本来の構造と機能の中で行われなければなりません。私たちの祈りの中にはとても活発な「会話」があります。昔から、少なくとも三つのグループ、至聖所、ひとつまたは二つの聖歌隊、会衆全体が活発な会話を交わしてきました。

祭日アンティフォンのような「相互作用的」構造は、他の部分にも見ることができます。たとえば日曜日の聖体礼儀のアンティフォンは「我が霊や、主を讃め揚げよ、主や爾は崇め讃めらる(102聖詠)」で始まっていますが、聖詠経にはこの句はありません。次の「我が霊よ、主を讃め揚げよ、我が中心よ、其の聖なる名を讃め揚げよ」から始まっています。
構造的に考えて、この最初の部分はかつて聖歌者のリーダーが「我が霊や、主を讃め揚げよ、」と歌って会衆が「主や爾は崇め讃めらる」と応え、また聖歌隊あるいはソロの歌い手が聖詠の第一句「我が霊よ、主を讃め揚げよ、我が中心よ、その聖なる名を讃め揚げよ」を歌い、続いて会衆の繰り返し「主や爾は崇め讃めらる」が続いた名残だと思われます。
では私が最初の句の部分を歌いますから、みなさんで「主や爾は崇め讃めらる」を歌ってみましょう。


資料3・主日第1アンティフォン (かつてアンティフォンで歌われていた名残り)

(ソロが歌う)我が霊よ、主を 讃め揚げよ、  (会衆の繰り返し)主よ、爾は 崇め讃めらる、

-----------------<102聖詠はここから始まる>--------------------------------
(ソロ)我が霊よ、主を 讃め揚げよ、我が中心よ、其の聖なる名を讃め揚げよ。主よ、爾は・・・
(ソロ)我が霊よ、主を 讃め揚げよ、彼が悉(ことごと)くの恩を 忘るるなかれ、主よ、爾は・・・
(ソロ)彼は爾が諸々の不法を赦し、爾が諸々の疾(やまい)を療(いや)す、主よ、爾は・・・


同じような例は前晩祷の晩課や早課にもたくさん見られます。ところで日本でも前晩祷への参加者は少ないと聞きました。アメリカでは前晩祷を全くやっていない教会すらあって本当に残念なことです。

ビザンティンの歴史の本によると、1000年前のコンスタンティノープルでは、土曜日の夜や祭日前晩の祈りは、たくさんの人が参加する「おなじみの行事」でした。昔の人は信仰熱心だったのかもしれないし、10世紀のビザンティンと21世紀のアメリカや日本では社会の状況も異なるので一概にいえませんが、もう一つ別の理由があります。
お祈りが普通の信者におなじみの行事だったということは、今までお話ししてきた「聖歌の形」に関ります。信徒のコミュニティ全体が参加する「共同の仕事」としての性格が反映されていて、奉神礼に信徒がもっと積極的に参加していたからだと思います。

しかしながら今の聖歌の形は必ずしも「共同の仕事」として理想的とは言えません。かつてコミュニティ全体が参加する「共同の仕事」だったものは、いつの間にか「神父さん」などの「聖職者」と上手な「聖歌隊」だけが歌うものになり、会衆は消極的な「聞き手」になってしまいました。19世紀のロシアではそれが当たり前になっていました。そしてアメリカ正教会も日本の教会も、その19世紀のロシアから正教聖歌の伝統を受け継ぎました。

なぜ、千年から千五百年まえにあった会衆が積極的に参加する奉神礼の伝統は、忘れられ、ぼんやりとしたものになってしまったのでしょうか。私たちは21世紀に生きる正教徒として、正教の聖歌の本質をもう一度見つめなおして、どうやったら聖歌をもっと生き生きとしたもの、神の聖神にあふれるものにできるかだろうか、それをこれから、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

ロシア聖歌の歴史――「共同の仕事」の喪失

その前に、ロシア聖歌の歴史を手短かにお話ししましょう。ロシアでは988年にキエフ大公ウラディミルが正教をビザンティンから取り入れました。そのときビザンティンですでにできあがっていた聖歌の形、トロパリやコンダクなどの聖歌の詩形、音楽の形式、アンティフォンや応答形式といった歌い方のスタイル、参祷する信徒全員に割り振られていた役割も、そっくりそのまま受け入れました。今となっては、実際にどんなメロディで歌われていたのか詳しいことはわかりませんが、古い写本や他の資料からその特徴を推測することができます。

資料4・ビザンティンと古いロシアの歌い方(第一聖歌者プロトプサルティスと聖歌隊の位置)

例:生神女庇護のイコン(下の部分)から、中央がアンボ(高壇)の上のロマン、まわりの黒服が左右の聖歌隊。かつてアンボは階段上のかなり高い位置の説教台であった。当時のコンダクは歌う説教であった。



生神女庇護のイコンをご覧ください。中央にいるのが聖歌者ロマンです。ロマンは6世紀のビザンティンの人ですが、初期のロシアでも似たような形でご祈祷が行われていたと推測されます。聖堂の中央の高くなったアンボというところに聖歌隊の隊長でありリードするソロの歌手、ギリシア語でプロトプサルティス(第一聖歌者)という人が立って、他の聖歌手はその左右に立ちました。プロトプサルティスはここから両方の聖歌隊を指揮し、ソロの歌い手としての役割も果たしました。

ロマンは降誕祭のコンダクの作者として有名ですが、このコンダクはもともと同じ形の単節の詩が24個つながった大変長い凝った歌でした。コンダクの大半はプロトプサルティスが聖堂の真ん中でソロで朗々と歌い、それに続いて各節の終わりの繰り返しを会衆全員が歌いました。

この歌い方はビザンティンや中近東の教会で発達し、ロシアの教会にも取り入れられました。ビザンティンにもスラブ諸国にも聖ロマンのような有名な歌い手がいて、聖堂の中で「歌う説教」を朗々と聞かせて大群衆を惹きつけました。今で言うと、大スタジアムで大群衆を集めてテレビ説教を行う有名なプロテスタントの説教者ビリー・グラハムと三大テノールのパバロッティを足して二で割ったような存在と言えるでしょう。

このプロトプサルティスは美しい素晴らしい聖歌を聴かせましたが、会衆の出番もありました。それぞれの詩の終わりには同じことばの繰り返しがついていて、会衆全体が声を揃えて歌って積極的に参加していました。

ロシアの古い写本を研究すると色々面白いことがわかります。800年とか900年前の写本には、スティヒラ、トロパリ、コンダク、イルモスなどといった、祭日や八調によって変わる日替わりの歌は収録されているのですが、毎週毎回歌われる歌、たとえば、聖体礼儀だと、連祷の「主、憐れめよ」とか、アンティフォン、「神の独生の子」「聖なる神」「信経」「平和の憐れみ」「天主経」領聖後の歌などは書かれていません。

こういう歌が歌われなかったはずはありません。歌われなかったのではなく、書く必要がなかったのです。口伝えでみんなが覚えていました。会衆全体が参加して歌っていたと考えられます。

16世紀ごろまで、あるいはそれより少し後まで、聖歌はもっぱら単旋律、単音でした。単旋律でユニゾン(斉唱)で歌われるズナメニイ・チャントと呼ばれるロシアの古い聖歌の「平和の憐れみ」(親しみの捧げもの)を聞いてみましょう。

資料5 古いロシア聖歌 会衆とソロの歌い方 1

CD8 ズナメニイ 聖体礼儀「安和の憐れみ」 

輔祭: 正しく立ち、畏(おそ)れて立ち、敬(つつし)みて安和にして聖なる献げ物を奉らん、
聖歌: 安和の憐み、讃揚の祭を(または:親しみの捧げもの、讃め揚げの祭を)
司祷者:願くは我が主イイスス・ハリストスの恩、神・父の慈、聖神の親しみは、爾衆人とともに在らんことを、
聖歌: 爾の神°とも
司祷者:心、上に向かうべし
聖歌: 主に向かえり
司祷者:主に感謝すべし                 (奉事経P.153)


この簡単なメロディなら会衆全体が歌っていたことが容易に想像されます。聖体機密の規程(アナフォラ)つまり「平和の憐れみ」(親しみの捧げもの〜)の部分、ここには「会話」があります。輔祭の「正しく立ち、畏れて立ち、敬みて安和にして聖なる献物を奉らん、」に対し、人々は「安和の憐み、讃揚の祭を、」(または:親しみの捧げもの、讃め揚げの祭を)と応え、司祭の「願くは我が主イイスス・ハリストスの恩、神・父の慈、聖神の親しみは、爾衆人とともに在らんことを、」に対し「爾の神°とも」と応えます。司祭や輔祭の呼びかけは、そこに参祷した信者一人残らずすべての信者に向けられ、ひとりひとりがそれに応えるように求められています。

もうひとつ、中世ロシアでたくさんの会衆が参加できるように工夫された歌い方があります。それはカノナルクの歌い方と呼ばれるもので、ソロの歌い手が祈祷書をみながら文を一行ずつ棒読みでまっすぐに唱え、同じ歌を聖歌隊や会衆全体が同じ歌詞にメロディをつけて歌います。当時祈祷書は手写しですから本当に数の少ない貴重品で、字の読めない人もたくさんいました。この方法だとみんなが祈祷書を見なくても歌えます。

CD9 カノナルクと歌う 「ヴォロコラムスクの聖イオシフのスティヒラ」ズナメニイ

先唱者:第2の調べ、来たりて尊きイオシフを拝まん、(まっすぐに)
聖歌:来たりて尊きイオシフを拝まん、(メロディをつけて)
先唱者:斎(ものいみ)し食をつつしみ、修道を導けり (まっすぐに)
聖歌:斎し食をつつしみ、修道を導けり (メロディをつけて)
先唱者:彼はハリストス喜ばせたり(まっすぐに)
聖歌:彼はハリストス喜ばせたり (メロディをつけて) (正教会訳がないので、意訳のみ)


これも多くの人を奉神礼に取り込むために工夫され、互に働き合うという原則にのっとった正教会伝統の歌い方の一例です。

こういう歌い方は、中部北部ロシアでは500年から600年も続きました。しかし、ウクライナと南西ロシアで全く違う状況が起こりました。これらの地方は16世紀にポーランド・リトアニア王国に併合され、聖歌の面ではローマ・カトリックの多声合唱の影響を受けました。1596年正教会の一部がローマ・カトリックに併合されユニア教会(帰一教会)になりました。政治的な理由だけでなく、バルコニーで歌われるヨーロッパ風の四部合唱聖歌の美しさに惹かれてユニアに変わる人が出てきたため、正教会も多声合唱を取り入れるようとしました。

このウクライナで始まったパルテズニ(パートで歌う)という新しい歌い方は、17世紀にロシア皇帝アレクセイとニーコン総主教によってモスクワにも導入され、その後50年から100年のうちに、ビザンティンから受け継いできた正教会伝統の歌い方、聖歌隊長プロトプサルティスが聖堂中央で歌い、全会衆がリフレインを歌って参加する、あるいはカノナルクに先導されて全員が歌って参加するというやりかたは、ヨーロッパの音楽をモデルにした合唱音楽にとって代わられてゆきました。

ここでヴァシリイ・ティトフ(1650年頃から1715年)の「神の使い」を聴いて下さい。ソプラノがさらに3つに分かれ、アルトが3つ、テノール3つ、バス3つ、合計12声部にも分かれています。

CD10 ヴァシリイ・ティトフ「神の使い」

それでも1675年の記録によれば、正教会の祈りには信徒全体が色々な形で聖歌に参加する会衆唱はまだ健在でした。モスクワを訪れたカトリックの旅行者がこう書いています。

聖詠や聖師父の歌が唱えられ、会衆全体が自分たちのことばで「繰り返し」を歌っていた。ロシアでは自分たちの言語、スラブ語で祈られているから、聖職者が歌ったり読んだりすることばを人々が理解できるのだ。(ローマ・カトリックはずっとラテン語一辺倒でしたから、一般信徒は中身が全然わかりませんでした。)普通の信者が聖職者と一緒に歌えるのだ。なんという調和のとれた敬虔な歌い方だろう。まるで昔のエルサレムにいるような気がした。初代教会のイメージと心がそこにあった。

これは1675年の記録です。しかし18世紀、19世紀と時代がくだるにつれて、会衆唱の割合はどんどん減っていきました。聖体礼儀や晩祷の、常に変わらない歌が多声合唱聖歌になりました。信者が誰でも知っていてみんなで歌っていた歌は、訓練された特別の聖歌隊しか歌えない、装飾的で複雑な歌に変わり、やがて、一緒に礼拝する「集まり」を構成していた会衆は、受動的な聞き手、お客さんになってしまいました。音楽によって感動させられることはあっても、自分の声で「歌って」参加することはほとんどなくなってしまいました。先程お聞きになったティトフの12声部にも分かれた聖歌、みなさん、いったいどうやって、どのパートに参加できますか。

皮肉な言い方をすれば会衆参加を犠牲にしたぶんだけ、ロシア正教会は世界に例のない豊かな美しいひびきの合唱聖歌を発展させたとも言えます。かつてウラディミル大公が派遣したロシアの使者がコンスタンティノープルのハギア・ソフィア大聖堂で見たような荘厳で豪華な響き、「天にあるのか地にあるのかわからない。神がここにいることしかわからなかった」という神の美を映し出しすものとなりました。
確かにボルトニヤンスキー、チャイコフスキー、チェスノコフ、ラフマニノフなどはこの世のものとは思えないほど美しい心に響く音楽で、聞く人に深い感動を与えます。アメリカ正教会の信徒にとっても、日本正教会の信徒にとっても、これはこれでロシアから受け継いだ伝統で、私たちの音楽的な財産です。私たちのすばらしい宝です。

ですが私たちは信仰の祖先から、別の大切な宝を頂いています。奉神礼そのものです。奉神礼は私たちの心を回心させ、私たちの周りにある人々の心を神に向け、私たちを救います。だから、奉神礼の本質の最も深い部分、「コミュニティ全体の共同の仕事」という本質を再発見し、私たちの教会に、実在させ、守らなければなりません。
私の話の最後は「それをどうやって実現したらいいか」というヒントをいくつかご紹介したいと思います。

共同の仕事の回復への提言――音楽とことばの調和、会衆参加
話はロシア革命直前の1905年に戻ります。ロシアの主教さんたちは、奉神礼が「聖歌隊の歌を聴きに行くもの」になったり、昔の言語であるスラブ語が民衆にはサッパリわからないものになっているのを憂慮して、こんな提案をしていました。
たとえば、ニージニ・ノブゴロドのナザリウス主教は正教会の信仰は奉神礼によって経験され、強められるものだから、すべての信者は直接的積極的に祈りに参加すべきである、と述べています。

たくさんの主教が「20世紀初頭のロシアでは奉神礼がその役割を果たしていない」と指摘しています。かなり熱心な信者でも教会スラブ語がほとんどわからない、誦経や聖歌がせかせかしていて何を言っているかわからない、音楽が奉神礼の中身に合わない、様々な理由から会衆は祈りへの参加から閉め出されている、と憂慮していました。

アルハンゲルスクのイオアニキイ主教は、「聖書は理解して神に歌えと言っているが、理解できることばで歌われているだろうか。教会でただ立っているだけではなく、正教会の奉神礼を理解して参加できたら、大きな喜びとなるだろう」と述べています。

日本では100年前に聖ニコライやその弟子たちが日本語に訳してくれたのだから、ロシアの信者のように500年も前の古語のスラブ語で、さっぱりわからないなどということはないだろうと思います。

実は、日本語のお祈りが聴いていてわかりにくいという話を聞いたのですが、事実とすれば言語の難しさだけでなく、原因のひとつに音楽とことばが合っていないということがあるのではないかと思います。

アメリカでも同じような経験があります。アメリカで最初に英語のお祈りを始めた世代は英語が十分上手に話せませんでした。もちろん最初の段階としてはとにかく英語で歌うことが大切でしたが、当時の音楽はあまり英語らしいとは言えなくて、たとえば “Lord have mercy(主、憐れめよ)”を、スラブ語の「ゴスポディ・ポミールイ」 のメロディにそのまま押し込めて歌っていました。英語では”Lord”と ”mercy”にアクセントがあります。これをそのままスラブ語のイントネーションのメロディで歌うと「英語」らしくない英語になって、聴いる人によくわかりません。“Grant it O Lord(主賜えよ)”も同様です。アクセントのあるべきGrantではなくて、itに強勢がきてしまいます。今では英語のイントネーションに合わせて歌われるようになりました。二世代、三世代が改良を加えて来たからです。日本語の場合はどうですか。


聖ニコライは基礎を築かれました。日本語で祈れる歌える、信者が参加できる、だからこそニコライの日本伝道は成功しました。でも、これは終わりでも完成品でもありません。いつでも、まだまだ努力が必要です。日本語を母国語とする人たちによってこそ、音楽とことばの睦まじい結婚、ことばを生かし、聴く人の心を力強く動かすメロディが生まれます。

私は決して聖ニコライの偉業を批判したり、過小評価しているのではありません。アメリカでも聖ゲルマンや聖インノケンティがアラスカにやってきて200年、たくさんの聖歌者が努力を積み重ねて200年たってやっと、アメリカ正教会の作曲家といえる作曲家、今日ご紹介するセルゲイ神父のような方が出てきました。セルゲイ神父の聖歌は歌いやすくわかりやすく、たくさんの教会で歌われており昨年CDも出ました。セルゲイ神父の音楽は、確かに正教会の神髄をもった音楽で、セルゲイ神父自身が生まれ育ったロシアの伝統を受けついでいますが、同時に英語の抑揚とひびきに即して作曲されているので間違いなくアメリカの聖歌です。このCDの解説にはセルゲイ神父ご自身のエッセイが入っています。(ニーナ・ホワイト原田姉のご協力で日本語に訳されています。)<資料:巻末>

僭越ながら、日本でも聖ニコライが造って下さった基盤の上に、美しい日本語と日本の文化から生まれた日本正教会の音楽が生まれることを心から願っています。もちろん何十年もかかるでしょう。でもいつか、通りすがりに教会に入った人が、「なんだか馴染みのある、生まれながらの、日本の歌が響いてきた」と同時に「喜びあふれたメロディに載せて神の福音が伝えられた」と感じる日が来ることを願います。

どんな言語も言語自体に独特のパターンと抑揚があります。そしてどこの文化にも、誰が作ったかわからないけれど、音楽と言葉の意味の両方が豊かに表されている歌があります。そこから学びましょう。正教会のお祈りはたくさんの「ことば」でできており、そこに大切な意味があります。昔から正教会では美しい心に響くメロディにのせて、聖なることばは信徒の心や魂に運ばれてきました。古いチャントでは、ことばと音楽は、ちょうどすばらしい結婚のように一体化していたので、メロディを聴くだけで歌詞のことばが心にうかびました。

しかし残念なことに、19世紀のロシアではペテルブルグの宮廷聖歌「宮廷オビホード」と呼ばれる単純な和声合唱曲一辺倒になってしまって、たくさんの美しい伝統的メロディが失われ、長い間忘れられてしまいました。しかし20世紀になってロシアでもアメリカでも、チャントの美しいメロディを再発見しようとする運動が起きました。

オビホードのメロディと昔のチャントのメロディのひとつを比べてみましょう。いわゆる4調トロパリのメロディと、ロシアのギリシア・チャントと呼ばれる古い4調のメロディを歌ってみます。メロディだけ歌ってみます。古いチャントには「喜びあふれた祝祭的なメロディ」がたくさん含まれています。

12<モロザン:降誕祭のトロパリをオビホード4調とギリシア調チャントで比較して歌う>

聖歌に関わる方へのアドバイスですが、色々な国の正教会の伝統聖歌をCDなどでたくさん聞いてみてください。とても勉強になります。ズナメニイなどと呼ばれる正教会の古いチャントのなかには、きれいで、祈りにふさわしいメロディがたくさんあります。

聖ニコライがもたらした正教会聖歌、みなさんが歌いついできた聖歌、それは間違いなく、すばらしい祈りです。しかし「完成品」ではありません。私たちは過渡期にあります。アメリカもそうです。セルゲイ神父さんは色々なスタイルや伝統の「折衷」と呼びました。ロシアと日本古来の音楽伝統、あるいはアメリカやビザンティンの伝統とのミックスもできるかもしれません。色々な努力や工夫を続けるうちに、聖神が働いて、才能や技術が育てられ、本当の意味での「日本正教会の聖歌」が生まれ、日本の人々の心に語りかける喜びと祈りに満ちた聖歌がみなさんの教会に満ちあふれるようになるだろうと思います。

さて、最後になりましたが、すべての教会には神の福音を伝道するというつとめがあります。伝統教会としての日本教会に希望することは――これは日本だけではなくすべての正教会に言えることですが――私たちの奉神礼の素晴らしさの本質を再発見し、深めてほしいと思います。奉神礼は、そのすべての形において「生きる」ものです。私たちが神の民であることをくり返し宣言し、讃美の歌を絶え間なく歌う「神の王国」を顕す生きたイコンです。歴史のすべての時代において、奉神礼、礼拝の形は、少しずつ変わってきました。でも、奉神礼の本質は変わりません。奉神礼は私たちに常に語りかけ、私たちを救いに導きます。

会衆参加の一例 領聖詞

最後に、日本語のひびきと楽しくて美しいメロディ、参祷者が積極的に参加することのできる聖歌のひとつのヒントとして領聖詞(キノニク)をご紹介したいと思います。アメリカではたくさんの教区で歌われています。

もともと祈祷書には、神品や信者がご聖体を受けるときの歌として領聖詞キノニクが指定されていました。領聖詞は一つの句だけでできた短い歌です。たとえば日曜日の領聖詞は「天より主を讃め揚げよ、至高きに彼を讃め揚げよ」、生神女の祭日なら「我救いの爵を受けて主の名を?ばん」、とても短い歌です。

この短い歌でどうやって長い神品領聖の時間を満したか、ふたつの方法がありました。

第一の方法、音にたくさん飾りを付けて引き延ばして歌う方法です。中世ビザンティンや中世ロシアで行われていましたが、飾りが多すぎて何を歌っているかわからなくなります。

二つ目の方法、領聖詞はまっすぐな和音でささっとすませて、続いて華やかな合唱コンチェルトを歌います。ロシアで広く行われた方法です。祈祷書やティピコン(教会の礼拝規則書)にはとくに何を歌いなさいと指示されていないので、聖歌指揮者は勝手に自分の好みで選んできました。日本では神品領聖中にはイルモスが歌われていることが多いそうですね。この二つ目の方法の応用だと思います。合唱コンチェルトは18世紀19世紀のロシアで広く行われたもので、西ヨーロッパの音楽スタイルと共に導入されました。これは領聖者の数の減少と深く関わっています。信者がだんだん領聖しなくなると、聖体礼儀の目的、ゴールが、ご聖体を頂くことではなくなって、美しい聖歌、合唱コンチェルトを聴きに行くことになってしまいました。

さて、ここに三つ目の方法があります。これはカナダの学者ディミトリ・コノモスの研究によって証明されましたが、ビザンティンで行われていた手法です。アメリカでは広く行われていてとても簡単です。先程お話ししたセルゲイ神父もこのCDのなかで5種類の領聖詞をご紹介しています。

ここでは、領聖詞本来の本質と機能が全員で歌う「繰り返し」として取り戻されています。リフレインは歌いやすくきれいなメロディがつけられています。繰り返しの間にチャンター(誦経者、先唱者)がその領聖詞がとられた聖詠の句をとなえます。

今日はエカテリナ加藤さんが作曲された主日領聖詞を皆さんで歌ってみましょう。二、三回練習してみましょう。まず、ソロが第1句を歌い、リフレインをくり返します。これをくり返して、最後の回は「光栄は、今も」もう一度リフレインを歌ってアリルイヤまで歌います。

主日領聖詞  作曲:エカテリナ加藤(楽譜pdf録音mp3

主日領聖詞の歌い方の例 (148聖詠1)

「天より主を讃め揚げよ、至高きに彼を讃め揚げよ、アリルイヤ、アリルイヤ、アリルイヤ」

ソロまたは誦経(句):天より主を讃(ほ)め揚げよ、至高きに彼を讃(ほ)め揚げよ。
会衆: 天より主を讃め揚げよ、至高きに彼を讃め揚げよ、
(句):其の悉(ことごと)くの天使よ、彼を讃(ほ)め揚げよ、其の悉(ことごと)くの軍よ、彼を讃(ほ)め揚げよ。
会衆: 天より主を讃め揚げよ、至高きに彼を讃め揚げよ、
(句):日と月よ、彼を讃(ほ)め揚げよ、悉(ことごと)くの光る星よ、彼を讃(ほ)め揚げよ。
会衆: 天より主を讃め揚げよ、至高きに彼を讃め揚げよ、<以下同様に句の間に繰り返して歌う>
(句):諸天の天と天より上なる水よ、彼を讃(ほ)め揚げよ。
(句):主の名を讃(ほ)め揚ぐべし、蓋彼言いたれば、すなわち成り、命じたれば、すなわち造られたり、
(句):彼はこれを立てて世々に至らしめ、則(のり)を与えてこれを踰(こ)えざらしめん。
(句):地より主を讃(ほ)め揚げよ、大魚と悉(ことごと)くの淵、火と霰(あられ)(は主を讃め揚げよ)
(句):雪と霧、主のことばに従う暴風(は主を讃め揚げよ)、
(句):山と悉(ことごと)くの陵(おか)、果物の樹と悉(ことごと)くの柏(はっ)香木(こうぼく)(は主を讃め揚げよ)、
(句):野獣と諸々の家畜、匍(は)う物と飛ぶ鳥(は主を讃め揚げよ)、
(句):地の諸王と万民、牧(ぼく)伯(はく)と地の諸有司(は主を讃め揚げよ)、
(句):少年と処女、翁(おきな)と童(わらべ)は、主の名を讃(ほ)め揚ぐべし、
(句):蓋惟(ただ)其の名は高く挙げられ、其の光栄は天地に遍(あまね)し。
(句):彼は其の民の角を高くし、其の諸聖人、イズライリの諸子、彼に親しき民の栄を高くせり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<必要なだけ何度でも繰り返し、最後の回は>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ソロまたは誦経:光栄は父と子と聖神に帰す、今も何時も世々にアミン
会衆: 天より主を讃め揚げよ、至高きに彼を讃め揚げよ、アリルイヤ、アリルイヤ、アリルイヤ

(聖詠の句は、まっすぐに唱えてもいいが、できれば領聖詞と同じメロディで唱えるとさらによい。)

単音の場合はソプラノのメロディを歌う。


聖詠の句は「まっすぐ」でもかまいませんが、できればリフレインに似たメロディをつけて唱えた方が、会衆全体からリフレインの「応答」を引き出せるように思います。

私が今日お話ししたことが、いくらかでも日本正教会の聖歌の発展や工夫にお役に立てたらうれしいと思います。私と妻のヘレンにこの機会を与えられたこと、みなさまの暖かいお心遣い、そして何よりも一緒にお祈りに参加できたことを感謝します。マリアさん、翻訳ありがとう。
また、みなさんにお目にかかって、一緒に祈るチャンスが与えられるように心から願います。これで、私の講演を終えたいと思いますが、お時間のある限り、みなさんの、ご質問にお答えしたいと思います。ありがとうございました。



Q & A

Q1.日本でもトロパリやスティヒラは宮廷オビホード(別名リヴォフ・バフメチェフ・オビホード/単にバフメチェフ・オビホード)の八調(オスモグラシア)を元にして歌われていますが、アメリカでも同様ですか。ほかにアメリカではどのようなものが歌われていますか。

ロシアでは革命直前に、オビホードよりも旋律性の高いチャントを探す運動が起こっていました。キエフ調チャント、小ズナメニイ・チャント、ポドーベンと呼ばれる定型メロディなどが注目されていました。この運動は革命後ロシア移民の作曲家、たとえば、ヨハン・ガードナー、コヴァレフスキー、ケドロフなどに引き継がれ、フランスなどで続けられ、今のアメリカへと続いています。

ですから、アメリカではバフメチェフのオビホードが今も歌われている教区もありますが、いくつかの教区、とくに改宗者の多い教会、あるいは教会全体が改宗した教区ではもっとメロディの美しいチャントが好まれています。共産主義の崩壊から15年たった今のロシアでも古いチャント、ズナメニイに戻ろうという強い運動が起きています。ズナメニイはすっかり失われてしまったのではなく、特に古儀式派の伝統に残されていました。アメリカでも英語でズナメニイを歌おうという活動を始めた教区があります。英語のテキストに正しくメロディを合わせる作業はなかなか困難です。

日本の聖歌も、いわゆるバフメチェフ・オビホード(19世紀にペテルブルグの宮廷教会を模範にして全ロシアで歌うようにで定められた標準聖歌集)をもとにしています。皆さんもよくご存じのトロパリやスティヒラのような、フレーズの最初と最後に和音の変化があって、真ん中はまっすぐに歌われる比較的単純な四部合唱聖歌です。19世紀以前は各地の修道院にはたくさんの独自のメロディがあったはずなのに、どうしてバフメチェフ・オビホード一色になってしまったか、なぜ日本にもそれが伝えられたかという話をします。

19世紀なかば即位した皇帝ニコライ一世は秩序を好む人でした。宮廷聖歌隊はロシアで一番上手な聖歌隊でした。ロシア全土のあらゆる教会で、宮廷聖歌隊と同じように歌わせたいと望み、当時の聖歌隊長アレクセイ・リヴォフに依頼し、宮廷で歌っている聖歌を標準聖歌集オビホードとして出版しました。リヴォフの後をついだバフメチェフは全ロシアの教会で、皇族が一人でも参祷している場合にはオビホードと同じメロディで歌わなければならないと言う勅令を出しました。印刷されたオビホード聖歌集は各教会に配布され、浸透していった結果、地方や修道院で歌い継がれていたさまざまなメロディが急速に失われていきました。楽譜の出版には宮廷教会聖歌隊長の検閲があり、19世紀にはリヴォフ、バフメチェフ、ボルトニャンスキー以外の作品は事実上ほとんど印刷出版されませんでした。日本に来た聖ニコライも19世紀の教会人ですから、彼はこのオビホードのメロディしか知らなかったでしょう。

19世紀末から20世紀初め、チャイコフスキーの出版訴訟事件以来、この検閲制度が事実上崩壊し、スモレンスキー、チェスノコフ、カスタリスキー、ラフマニノフなどは古いチャントのメロディに着目し、新しいアレンジで次々と美しいロシア聖歌を作りました。しかし共産革命でその動きはストップし、亡命者によってフランスやアメリカへと引き継がれていきました。

補足:19世紀以降、どこの教会でも宮廷オビホードをベースにした八調のパターンのトロパリやスティヒラが歌われるようになったが、今もロシア教会では当時と同じ形(開離のハーモニー)で歌われているか。アメリカでは密集のハーモニーで歌われることが多いようだがそれはどういうものか。

1869年にバフメチェフが書いたオビホードは当時の宮廷聖歌隊がプロの男声と少年の編成であったために、開離(主にハ長調で書かれる、広い音域)のハーモニーを用いて書かれました。(参考:次ページ、譜1:開離)法令によって全ロシアで歌うように強制されたために、次第に地方の中小の教会の小さな聖歌隊でも歌われるようになりました。1880年代にアルハンゲリスキーによって最初に女声が導入され混声四部で聖歌が歌われるようになりました。だんだん開離のハーモニーは適さなくなってきました。200人を擁する宮廷聖歌隊では美しく響く開離のハーモニーも地方の小さな教会には不向きだし、ボーイソプラノには可能な高音部も、女声には無理だからです。20世紀初頭、シノド(宗務院)の教育委員会(Uchilishchnyi Sovet)はその実情を鑑みて、密集に編曲し直した「教育用オビホード」(Uchebnyi Obihod)を出版します。私は1912年版をもっていますが、それ以前に出版されていたのは確かです。19世紀末にシノドの総監になったコンスタンティン・ポペドノスツェフは教区学校で聖歌の指導を強力に推し進めました(参考:譜2、密集A)。
 開離から密集にするとき、主旋律はソプラノのままで低くして、テノールとアルトを入れ替えました。テノールは主旋律から六度下でハーモニーを歌い、アルトは補足的な役割を与えられました。

1930年代アメリカでは、アンドレイ・グラゴレフ神父は主旋律をアルトに置き、3度上のハーモニーをソプラノ、テノールを補足にして編曲しました。OCAの教会ではこの編曲で歌われることが多いと思います。ただこれには少々問題があって、多くの人がハーモニーであるソプラノを主旋律だと思いこんでしまいました(参考:譜3、密集B)。
しかし他のロシア系教会、たとえば在外シノド教会(Rocor)やOCAの西海岸の教区ではロシアで出された「教育用オビホード」(Uchebnyi Obihod)と同じ編成で歌っています。またウラディミル神学校で出されたレトコフスキーのオビホード(英語)はキエフ・チャントのメロディをソプラノに置いています。この本は絶版になっています。アメリカではきちんとした説明が与えられていないまま、さまざまな編曲のオビホードが存在しており、特に新しく正教に改宗した音楽家は混乱していることがあります。

最近ロシアでは新しい本が出版されています。たとえば、エフゲニイ・クストフスキイの編纂したオビホードがZhinovonosnyi Istochnik出版から、マイケル・フォルトゥナット神父編纂の英語版がロンドンで出版されています。これらはアルトに主旋律を置き、ソプラノが3度ハーモニーになっています。このアレンジは子供の聖歌隊や男声とくにテノールが足りない場合に実用的です。色々な編曲が混在しているのが実情です。

参考:トロパリ1調の比較




訳注:日本の聖歌はロシアの開離のハーモニーにそのままあてはめたものもあるが、パートを入れ替えたものもある。主日1調トロパリはそのまま日本語があてはめられているが(下図、譜4)、同じ1調のメロディを用いた第1アンティフォンでは、バスに主旋律をおいた(譜5)。また連祷ではソプラノをアルトに、テノールをソプラノに、アルトをテノールに入れ替えた。主旋律が内声にはいったために、とらえにくくなった。)



Q2.アメリカではどこでも同じオビホードの八調のパターンで歌われているか。

様々な歌が歌われています。バフメチェフのオビホードを用いている教会もあれば、キエフ調などを使う教会もあります。また、アメリカは移民の国なので、ロシア系だけでなく、ギリシア、セルビア、アンティオキア、ウクライナなどさまざまな民族的背景をもつ人たちがいます。各教会にはそれぞれ八調のパターンがあり、独自の聖歌の伝統があります。

アメリカでは民族的伝統を越えた聖歌者の集まりがあります。できたばかりの若い団体ですが、PSALM(Pan Orthodox Society of Advancement for the Liturgical Music)という団体です。来年のこの時期に「聖歌による福音伝道」というテーマで最初の全国会議を開く予定にしています。さまざまな民族伝統をもつ人たちがどうやって一つの教会を造っていくか、聖歌を通じて何ができるかということが話し合われるでしょう。それから、元プロテスタント、元カトリックだった人たちを共同体の一員と感じられるようにするために、聖歌はどんな働きができるかという話題もあります。
関心のある方は、PSALMのホームページ、http://www.orthodoxpsalm.org/ をチェックしてください。8月3日から6日までシカゴで行われます。

Q3.日本の教会では、祈祷書には書かれているにもかかわらず、聖体礼儀の第2アンティフォンが歌われないが、そういう習慣ができた理由は何か。ロシアの至聖三者修道院では歌われていたので、ロシアではすでに改善が行われているのだろうか。

19世紀というのは、奉神礼の見地から見ると退廃の時代と言えます。いくつか理由があって、ピョートル大帝が総主教制を廃してから、少なくともペテルブルグでは人々の関心は「早く」お祈りを終えて帰ることにありました。たとえば、第1アンティフォンの聖詠の句を省いて短くする、第2アンティフォンはすっかり省いてしまう、時には第三アンティフォンの真福九端を三つだけにしてしまうなどということまで行われました。

今日のお祈りで気づいたことですが、福音の前のアリルイヤの句が省かれてアリルイヤだけが続けて3回歌われていましたね。これも19世紀のロシアの習慣からきています。ソロが句を読み、聖歌が「アリルイヤ」と応えるのが本来の形です。ポロキメンが使徒経の読みを宣言するのと同様に、アリルイヤは福音の読みを宣言します。私たちは「アリルイヤ」を歌うたびにハリストスを歓迎します。アリルイヤを歌ってハリストスの福音を迎え入れます。そこで歌われる聖詠の句はハリストスの来臨を告げる預言のことばです。

1917年に総主教が復活し、特に共産主義の崩壊以来、19世紀に失われたものを修復しようとする活動が盛んに行われています。今では教育活動、CDやインターネットによって奉神礼や聖歌、聖詠などについての教育が活発です。

Q4 では、お祈りを短くしたかった理由はなんでしょうか

私たちが教会にくる理由は、教会の集まりとして「神の王国」を再創造することにあることを忘れてはなりません。それは聖歌にも反映されていて、なぜ、聖歌隊は五つとか三つとかではなくて二つなのかというと、預言書に天使の聖歌隊は二つで、二つが交互に絶え間なく歌うと書かれているからです。だから私たちが教会にあるとき、できるだけ長くこの美しい場所にいて、神の王国への準備として歌っていたいと思うのは当然です。それが心にあれば、もっと歌っていたいと思うはずで、短くしようとは思わないでしょう。ロシアでもお祈りはもっと長いですが、終わっても人々は帰ろうとせず、アカフィストなどのお祈りをしたり、復活祭期だと復活祭のカノンを歌ったりして、もっと教会にいて歌いたいと思いました。
そもそも人間とは何なのか知らなければなりません。人は自分の声を神を讃美するために用いるとき、人間本来の姿を顕します。至高きところからの呼びかけに応えます。日本もそうかもしれませんが、アメリカでは若い人たちは音楽の「消費者」になってしまっています。聴くだけで、自分の体を使って音楽を作ろうとしません。それは至と高きところからの「凡そ呼吸あるものは主を讃め揚げよ」という呼びかけに応えないことです。子供たちに歌うことを教えなければなりません。そして私たち自身も歌いましょう。教会は一番いい場所です。

Q5 大阪正教会の聖体礼儀をどう感じられましたか。

地球の反対側に来ているにもかかわらず、まるで家にいるように感じたことをまずお伝えしたいと思います。しかし学者として言わせて頂くと、19世紀のロシアそのままだと思いました。また、こんなに大きな聖歌隊があっていいなあと思いました。私の教会の聖歌隊も大変小さいです。聖歌隊を二つに分けてアンティフォンで歌うこともできると思いました。ブルガリアのリラ修道院の晩祷に出たときは、歌い手はたった二人だけでしたが、二人は左右に分かれて立って、最初の103聖詠「我が霊」を句ごとに交替にアンティフォンで歌っていました。もっと、いろいろな工夫ができると思います。

<補足:時間の都合で割愛した本論の資料>

19世紀のロシア聖歌の特徴について

・複雑なサウンドを醸し出す大がかりな聖歌隊の発展。小さな町や村の教会までが凝った多声音楽を歌うことのできる聖歌隊を求めた。
・西ヨーロッパの音楽、特に音楽は感情に影響を与えるべきというロマン派の影響。
・宮廷オビホードで歌われる祭日のスティヒラやトロパリなどの単調な音楽の間に、「ヘルビム」や「平和の憐れみ」など常に変わらない歌に、ボルトニャンスキー、リヴォフ、アルハンゲリスキー、チャイコフスキー等が作曲の凝った音楽作品が挿入された。
・1880年から女声が加わるようになった。それ以前は男声と少年だった。

15、6世紀ウクライナへのローマ・カトリックの影響について

15、6世紀、西南ロシアはカトリックのポーランド・リトアニア王国の支配下に入った。正教会ではビザンティンからチャントの伝統を受け継ぎ厳格なユニゾンで歌われていた。ローマ・カトリックではパレストリナなどの華やかなルネサンス多声スタイル聖歌が流行していた。1596年(パレストリナの死後2年後)、正教会の多くの教区がローマ教皇の権威下に入り、ユニア(帰一教会)がルーシの西地域に設立された。選択の自由があったにもかかわらずローマ教会を選んだ理由のひとつに、四声和声聖歌の魅力があった。

正教会ではこれに対抗して、“修道士団(brotherhoods)”とよばれる信徒の宗教文化組合が作られた。主に学校を作り教育を行い、奉神礼音楽の研究と修養には特に大きな比重が置かれた。ある修道士団憲章にはその目的として「音楽的な調和(協和音)に従って、正教に美しい神の歌を設立し、霊の抜けたローマのオルガンのフガフガした音を辱めることができる」と書かれている。聖歌の美しさと人の魂に働きかける力が人々を引き留めユニアの攻勢に対抗する手段となった。西南ロシア(ウクライナ)ではカトリックをまねて、聖歌手は王門の左右ではなく教会の後部のバルコニーに立つようになった。

バルコニーはキエフの聖ソフィア大聖堂のような古い教会にも存在したが、聖歌隊席として作られたのではなく大公やその家族が立つため、あるいは大公家の女性たちのための場所であった。キエフでは大公の住まいに連結した回廊上にあった。

修道士団の活動は16世紀末の正教会では改革と見なされた。聖歌隊がバルコニーに立つようになったことは、聖歌の美しさにこだわったことによる音響的な理由とされることが多いが、本当のところはローマ・カトリック教会ですでに実践されていたことを単に導入したのだろうと思われる。

日によって変わる歌、調あるいはモデルになるメロディに従って歌う材料(ポドーベン)はプサルモシュチク(聖歌者)がクリロスで歌い、変わらない歌は和声的な新しいスタイルでバルコニーで歌われるようになり、二つが分離されていった。バルコニーに立つ聖歌指揮者は、かつてプロトプサルティス(第一聖歌者)が教会の中央でソロを歌い指揮していた役割が果たせなくなり、あらかじめ指示をあたえるために楽譜が必要になった。

1586年のリヴィフ(西ウクライナ)の修道士団の指示書には次のように宣言されている。「教師(あるいは聖歌指揮者)は聖歌隊席(バルコニー)に立つ。聖歌をリードするために、クリロスに八調やポドーベン(モデルになる特別のメロディのパターンに合わせて歌う手法)を歌える人間を残し、混乱なく奉神礼が執行できるように目配りする。」

また、バルコニーの聖歌隊は奉神礼の「日によって変わらない」歌に注目するようになった。それらは、かつてはチャント本に記載されない、口伝によって会衆全体が覚えて歌っていた歌であった。聖歌隊はローマ・カトリックから得た手法を用いてこれらの歌をどんどん装飾し複雑にしていった。もはや訓練された聖歌隊でなければ歌うことができないものになり、礼拝する集まりだった会衆は消極的な聞き手になってしまった。
(翻訳、資料作成:マリア松島純子)