セルゲイ・グラゴレフ神父
聖歌ハンドブック 

第1章 奉神礼音楽として変容する
第2章 聖なる音楽のひびき

聴いてみてください。
セルゲイ神父作曲の「我が霊」(晩課 103聖詠)


翻訳にあたって

この論文は、アメリカ正教会が1983年に発行した雑誌Orthodox Church Musicに掲載されたものです。

アメリカでは移民をベースにしたギリシア系、ロシア系、アンティオキア系、セルビア系など民族色の濃い正教会がそれぞれ活動してきました。ロシア系教会でも、移民の二世三世の若い人たちや他教派からの改宗者にはロシア語もスラブ語もさっぱりわからなくなっていたのに「正教会の祈りはスラブ語でなければ」「聖歌は革命前にロシア行われていたようなものでなければホンモノではない」という人たちもたくさんいました。

正教会の聖歌や祈りは単なる文化継承ではない、奉神礼の本質を取り戻そうというという運動がおこり、それとともに「英語で聖歌を歌おう」「理解できることばで自分たちの祈りを歌おう」と英語の聖歌が模索されてきました。最初は拙い訳文を単にロシアのメロディにあてはめただけでしたが、今では大半の聖歌が、祈りに耳を傾けていればその意味がすっと聞こえてくる平易な英語で歌われています。さらに、ことばの内容や奉神礼の意味の深い理解基づいた聖歌を探す努力が続けられています。

150年前、ニコライ大主教は日本に正教を伝えたとき、何よりも最初に「日本語」で祈ることを優先しました。母国語で祈る、理解できることばで祈る、というのは古来から正教会が大切にしてきた伝統です。
 聖ニコライとチハイ、それを嗣いだセルギイ府主教とポクロフスキー等はそれぞれの時代のロシア聖歌をもとにして日本語聖歌を作ってきました。私たちはさらに、よりわかりやすい、より心が神の方へ向かう、神の民の神との交わりの歌にふさわしい聖歌を模索する努力を嗣いでゆかねばなりません。

アメリカと日本では言語構造も状況も違いますが、「翻訳文」で歌うという共通の課題があり、聖歌の本質を見いだしてそれを継承しようとしたアメリカの聖歌者の努力は先駆者としてとても参考になります。

この論文の原題は、An introduction to The Interpretation of Liturgical Musicです。Interpretは一般に解き明かす、演出する、解釈する、通訳するなどの意味です。聖歌の音楽付けは単なる編曲以上の仕事です。祈祷文のテキスト自体が持つ音楽を引き出し、意味を理解し、ふさわしい音楽をつけ、祈りの中で「神の民の歌」「神の歌」として変容させます。そういう意味で「奉神礼音楽として変容する」と邦題をつけました。

第一章には、聖歌指導者の基本的な心構えが書かれており、奉神礼としての聖歌を、「音楽」、「ことば」、「奉神礼」という三つの技を基本にして表現する方法と心構えが述べられています。英語やアメリカ教会の事情に特有な点は割愛し、日本語聖歌に応用した場合を補足説明しました。

第二章の「聖なる音楽のひびき」は、では具体的に神の民の「祈りのことば」としての聖歌をどう歌えばいいか、どういう点に注意して音楽を選ぶか、ことばを生かすにはどう音楽付けすればいいか、アマチュア集団である聖歌隊をどう指導していったらいいかなどが具体的に述べられています。


 セルゲイ・グラゴレフ神父は、ウラディミル神学校で聖歌を教え、80歳近い今も全米各地を回って聖歌指導を続けておられます。セルゲイ神父は優れた聖歌作曲家としても知られており、一昨年作品集Fr. Sergei Glagolev-Selected Orthodox Sacred Choral Worksが、今年はCDも出版されました。
 私は一昨年PSALM(the Pan-Orthodox Society for the Advancement of Liturgical Music)の会合で、セルゲイ神父ご自身による聖歌指導を受けることができました。美しいメロディ、英語の言語特性への深い理解に裏付けられた歌いやすく、覚えやすく、ごく自然に祈りの動きに心が運ばれていくような聖歌に心が洗われるようでした。
聴いてみてください。
セルゲイ神父作曲の「我が霊」(晩課 103聖詠)  このCDはMusica RussicaのHP他のサンプルも聴けます。購入もできます。

第1章 奉神礼音楽として変容する

−序−

 奉神礼音楽には三つの技が必要です。三つの技は調和して用いられねばなりません。三つの技の調合はとてもデリケートで、繊細な感性と才能と経験が必要です。調合の技術は他の技術の場合と同じく、努力によって学び得られます。とても有能な人たちの間にも、教会音楽は芸術ではなく感動だ、技術ではなく感性だという思いこみがありますが、聖歌とマジメに取り組もうとするなら、こういう感情的わだかまりを克服しなければなりません。芸術は無感動ではありません。技術は非感情的ではありません。他の芸術分野と同様に感性(聴く耳)、才能、経験を身につけねばなりません。
 
 教会音楽には、音楽的技術、言語的技術、奉神礼的技術という三つの技が巧みに調合されて用いられることが必要です。

 まず
音楽の技術です。音楽技術なくしては、祈祷文を歌として翻訳することができません。必要な音楽技術もなく、音楽理論も知らずに、音楽とは何かを理解せずに祈祷文を歌として翻訳することはできません。技術がないとシンプルになりません。バッハのフーガは一見複雑に見えますが、音大1年生の実習作品ほど難解ではありません。バッハのフーガは多年にわたって磨き上げられた見事な規則性に従って織り合わされていますが、1年生のものは部品をでたらめにつなぎ合わせただけだからです。
 それから、言うまでもないことですが、どんなにシンプルな音楽も技術も練習も足りない聖歌隊が歌えば騒音になります。聖歌だから練習しなくてもいい、技術を習わなくていいというのは奉神礼以前の精神的荒廃です。
 
 第二に言語の技術が必要です。聖歌は「ことば」すなわち言語の芸術です。スラブ語の聖歌に比べて、英語の聖歌は音楽的でないという人たちがいます。英語に始まったことではありませんが、聖歌の内容などわからなくてもいいと思っているからそういう発言が出るのです。聖歌の役割が全く理解されていません。聖歌は奉神礼の中で、説明し、啓発し、招くものです。参祷者すべてが、奉神礼のその時その場所で理解し、参加するために聖歌があるのです。「あとから解説すればいい」というのは本末転倒です。

言語は芸術です。教会音楽ではこれは決定的なことです。「ことば」はそれに装いを与える音楽と結ばれて、比類なく完全になります。「ことば」の詩的な力と美しさを「声」を用いて表すための土台になるのが音楽的技術です。

 「ことば」そのものにも、動きやポーズ(休止)という音楽があります。「ことば」は「いのち」そのもののように鼓動し、あふれ出るニュアンスと抑揚、またリズムとポーズを通して、複雑な関係をつむぎだし、奉神礼として祈られるために与えられた「いのち」を描き明かしています。

 言語的技術の欠如は悲劇です。英語はちっとも英語らしく歌われていません。英語の言語特性を理解していないから、歌がチンプンカンプンになっています。教会音楽家は「ことば」を芸術として尊重する詩人でなければなりません。翻訳文が多少ぎこちなくても音楽を理解する詩人の手にかかれば、深い意味を歌い出すことができます。しかし、神が息をふきこんだせっかくの聖詠や讃歌や歌頌が、下手な歌のために息を抜かれてしまうことが多いのです。

三つ目は奉神礼の技術です。教会では「音楽」も「ことば」もそれだけで完結しません。音楽も言語も「奉神礼」として働きます。奉神礼は「ことば」と「音楽」の神学です。「ことば」と「音楽」が意味することを明かすのが神学です。教会音楽家に必要な技術とは、突き詰めて言えば「ことば」と「音楽」として表された神学を正しく祈ることと言えます。

奉神礼の秩序(順序)そのもの−−何が語られ、何が行われ、何が祈られるかは、いつ、何が、どのように歌われるかによって決まります。礼拝の細かい動きに気を配り、神学的な内容の動きをしっかりと学んでいないと、参祷者を迷いや危険な偶像崇拝に導いてしまいます。

この序文では聖歌を考える前提として、音楽、言語、奉神礼という三つの技術を上手に用いることをお話ししました。そこにはバランスが大切です。よいテイストを磨くことで得られるでしょう。聖歌に変容する「わざ」とは、いわば水をワインに変えることです。残念ながら、私たちの伝統にある上等のワインが酢やブドウジュースに変わっていることも多く、すっかり水にしてしまっていることもあります。

1.「聖歌に翻訳する」ための基本原則12箇条のアウトライン

教会の音楽は『祈り』である」これは大前提です

教会では、音楽は礼拝(奉神礼)です。教会では、音楽は祈りで、祈りは歌われます。「凱旋の歌を歌うこと」、「高らかに歌うこと」、「宣言すること」、「語ること」はすべて、聖なる歌として表現されます。どこをとっても、普通の話し言葉はありません。「歌うこと」によって教会の自分自身表現そのものです。新約聖書でも旧約聖書でも、一貫して教会を、ハリストスの体、あがなわれた神の民を、「天においても地においても、一緒に歌うあつまりとして著しています。

音楽は礼拝の付属品ではありません。歌うこと、それは教会の祈り方です。音楽は礼拝を補足するのでもなければ、飾りでもなく、伴奏でも、BGMでも、準備でも、ムードメーカーでも、穴埋めでもありません。ましてや演奏会ではありません。教会音楽はそれ自身の真の奉神礼的機能に従って翻訳されて初めて芸術となりえます。

ハリストスの復活を再確認し、復活の福音、「いのち」を救う福音を宣言することは、正教会の礼拝全体の「いのちの鼓動」です。すべてが復活のできごとへと進み、それを明かし、発展させます。復活祭の夜を思い出してください。永遠に続くハリストスの王国の来たる日の喜び、すべてが「読み」ではなくて「歌」で表されます。教会音楽とはいったい何か、理解のカギがここにあります。

 旧約聖書を思い出して下さい。神の前では、ふつうの話し言葉で語ったり、祈りを読んだりしません。第2章章で詳しく述べますが、「聖なる音楽」には「イコン」と同じ神学があります。聖歌はイコンです。詩とリズムと調べを使って描くのは、こぎれいな聖画ではありません。

音楽は奉神礼として働きます。どんな働きがあるか例をあげてみましょう。

@シナクシスとして・・・「祈りのための聖なるあつまり」を呼び集める。

A奉事規定(典礼法規)として・・・礼拝の「動き」と「材料」に実体を与え、時間、場所、空間、次元、関係の秩序を定める。

B儀式として・・・奉神礼の会話、ディダケ、ケリグマ、預言で「言われていること」、つまり礼拝に定められた内容を取りだし、聖なるメロディに声を与える。

C 祈りの執行として・・・そこで行われることに、動きと音において礼拝の永遠の鼓動を与える。

D全体として・・・すべての要素を統合し、礼拝の全体的な形を作り、すべての面で完全な展望を作る。参加、批評、訓戒、表現、あかし、神の臨在への教理的応答、すべての要素を音楽的に礼拝の流れにそってまとめあげる。

音楽は、私たちが奉神礼的に機能するための手段です。音楽は私たちが教会で何かを「行う」ための手段です。「語る」手段です。それは「機密的」で、ことばの極限の意味において「シンボル」です。教会の聖歌には他の目的はありません。


2.
「教会の音楽は礼拝だ」
という基本前提ができたので、次に進みましょう。

 
正しく翻訳された聖歌は、それ自体に注目を集めません

 歌に注目が集まるのは下手な証拠です。音楽や声が間違っているとき、稚拙な作曲や編曲、歌がふさわしくなかったとき(時、場所、聖歌隊、教会、目的などに適していないとき)、「ことば」または音楽付けのテンポが不適切なとき、自分たちの力量に反して非現実的な奮闘をするとき、音楽が全く馴染みがないか、ありすぎるときには、祈りよりも「歌」が気になります。

音楽が、表面上「上手すぎる」ときがあります。「やりすぎ」です。音楽とことばにふさわしく与えられたものを「改造」してしまったか、あるいはレーゲント(聖歌指揮者)が歌に自分の個性を書き加えてしまったのです。心の中に住む「自己主張したい目立ちたがり」に注意しましょう。経験と練習を積むことです。誇張も、やりすぎも、不足も礼拝の音楽にふさわしくありません。

3.教会音楽は決して何かのイミテーションではありません

天使や鐘の音、そんなものの真似事ではありません。「教会自身の呼びかけ」です。音楽、時、「ことば」によって提示された様々な「印象」を刻み込むことです。作曲者がロマン派の音楽の影響を受けている場合、印象派風な表現をしたい誘惑にひきずられますが、意識的に避けなければなりません。一度ならず、優れたレーゲントが女声に「天使のように歌って」というのを聞きました。また男声に鐘のように歌ってというのを聞きました。聖歌は聖歌らしく歌えばよいのです。

4.教会音楽では、ことばとメロディは不可分で、どちらかを主、もうひとつを従におくことができません。

「ことば」と「メロディ」の完全な結婚によって「祈りの尊いものがたり」が生まれます。ことばを音楽の奴隷にして服従させてしまった例があったことはご存じでしょう。こういう隷属関係に疑問を掲げる勇気をもたねばなりません。

 特に英語の聖歌を、スラブ語風やギリシア語風にではではなく、言語の違いをしっかり理解して、英語らしく歌う工夫をしなければなりません。歌詞をメロディラインに無理におしこめたり、メロディを力ずくで文に当てはめたりするのは間違いです。テキストの構造、ことばの並立やメロディの定型に配慮し、句、行、節、ストロフ(連)などにおいて、「ことばのグループ」と「メロディの核 kernel」それぞれが持つ思想をハッキリとと保ち、しっかりと合体させるのが音楽に翻訳する技術です。ことばもメロディも、どちらかが奴隷になるのではなくお互いが補足し合うようにします。

メロディにもことばにも、それぞれ思考の進んでゆく単位があります。メロディとことばが調和のとれた一体となるように、レガート、強勢、ブレス、声のコントロールを用います。言語自体のもつイントネーション、メディアント(上中音)やカデンツァ(終止)を理解し、ことばを無理に詰め込まないことです。優れたレーゲントは十分時間をかけてメロディとことばの流れを調整します。

5.リズムと動きは「感覚」的要素というよりも、奉神礼と音楽の双方の土台です。奉神礼においては、リズムと動きは祈りと音楽を結ぶかなめです

素直な感情やふつうに言い表したときの強弱に逆らわないということです。ことばの動きを祈りの鼓動としてとらえ、リズミカルな拍動としての音楽を把握しなければなりません。それなくしては、どんなに心を込めて表現し、上手に音楽に翻訳しても、メロディとことばには「いのち」がありません。

礼拝にいのちをもたらすためには、聖使徒パウロが言う「すべてのことが適宜に」「かつ秩序を正して行われる」ときの、動きや美しさを探求することです。それが祈りに「いのち」を与えます。また「霊的」に聞こえるようにと、無駄な飾りをつけてはいけません。そんなことをしたら息も絶え絶えになってしまいます。不思議なことにそこに鼓動と動きがあれば、意味が全部わからなくてもそんなに長く感じないものです。

祈りの息づかいは、静かに感じるか感じないかをじっと見つめるというより、リズミカルな反復と対比にあります。聖歌者は、動いてゆく音楽の中で、ことばを祈りへと翻訳します。祈りのリズムなしには音楽は真の祈りにも真の芸術にもなりえません。

 詩のリズムが韻律か、自由律か、語りのリズムなのか、チャントの韻律パターンが、散文詩か、自由詩か、聖書の歌頌の音楽形式が無韻律詩なのか、シラビックなのか、揚音アクセントなのか、ヘブライ詩の影響を受けた音のアクセントなのかなどを見極めねばなりません。

 リズムや動きを作り出す「ことば」のもつ息づかいを無視して、ビザンチンやスラブのメロディに訳文をベタベタ張り付けても、生きた聖歌になりません。

6.メロディ: 奉神礼は「止むことのない祈り」の永遠の動きへの歩みです

 小節線の束縛から脱して
、無限のメロディへと回復できる形に翻訳します。少なくとも伝統的なチャントの形においてはそれが可能です。

 指揮を始める前に、メロディの性質が、自由なのか、定式なのか、あるいはシラビック、ネウマティック、メリスマティックなどの組み合わせによるのかを判断しなければならなりません。句分け、フレージング、縦線、小節、拍子、カデンツァなどから、メロディの核と定型をとらえます。歌詞と音楽を力ずくで縛り付けて歌うのではなく、「行末まで」句を支える、文脈的なメロディにかかるレガートのニュアンスを再発見し、メロディとことばの内容を解き明かす調性tonalityのコンセプトを発展させます。(ここで言う調性はピッチの問題ではなく、メロディラインの発展的性質を創造する試みです。)

訳注:シラビックは一音節に一音をあてはめること。ネウマティックは一音節に二、三音をあてはめる。メリスマティックは一音節にそれ以上の音を当てはめ装飾的に歌うこと。

7. テクスチュア:音楽とことばとを織り合わせること。

 モノフォニーで、ホモフォニーで、ポリフォニーで。先へ先へと進んでゆく音楽に色糸を織り込んでいくことです。糸が一本であっても、多数であっても、音楽的テクスチュアの横方向と縦方向の両方の姿(またそのひずみ)を理解していなければならなりません。ブレンドされた音楽が、触れたときどんな感じがするかを感じますです。テクスチュアの彩りは見ることも聞くこともできませんが、感じるものです。

8.ひびきsonority

 実際の響きは、声を素材としてどう用い編成するかを知っている聖歌指揮者のテクスチュアの技量だけでは決まりません。

 人間の声は美しい響きを作る無限の可能性のある楽器としてデリケートに作られています。「いい声が揃わないからできない」という言い訳をよく聞きますがそうではありません。聖歌指揮者が聖歌隊の声をどう用いればいいか知らないからです。問題は声の訓練だけではありません。単にいい声で歌うというより、私たちが「奉神礼的なひびき」と呼ぶものは、祈りの楽器、祈りの声、奉神礼としての音楽のひびきを編成することにあります。

地方教会でよくあることですが、聖歌指揮者は声楽の専門知識を駆使して聖歌隊の奇妙な響きをどうにかしようと格闘しています。しかし、まずその響きのテクスチュアにおいてどうするのがいいかを学ぶことです。心のなかに響きのイメージを持ちます。聖歌隊が実際にどう響いているか、耳を澄まして聞きます。声の質、発声のコンビネーションを高め、声のラインを上手に調整し、それにふさわしい曲を賢く選択しなければなりません。

9.時代、教会音楽の形とスタイル

 ある特定のタイプの教会音楽だけを、「これは聖神にあふれている」とか「これ以外には聖歌はありえない」と思いこんでいませんか。それぞれの過去による好み、偏見、歪みが出るところです。正教会の奉神礼音楽は、長い歴史を持ち、ありあまる豊富な財産があることを知らないだけです。

 たとえば、ある人たちは「西洋音楽の影響を受けた歌」を除外することが「原則に基づいている」と言いはります(西洋文化の根源にはビザンティン文化がないでしょうか)。さらに危険なのは表面的な知識にもとづいた偏見で覆い隠してしまうことと、教会音楽の大部分を地域性によるものと片づけてしまうことです。

 わたし自身、ボルトニヤンスキーやバフメテフの音楽を批判しすぎたことを反省しています。実際私たちはボルトニヤンスキーを「フィガロの結婚」のように解釈し、バフメテフをバーバーショップ・カルテットのように解釈して、奉神礼的でないと言ってきました。かと思えばまた、ズナメニイ・チャント一辺倒の人たちもいます。しかしどの時代の聖歌にも、よい場合と悪い場合があります。

 ズナメニイは「天使のチャント」の最も純粋な形だと言われますが、韻もリズムも理由もなく無闇に装飾され、訓練されていない歌い手によって何も知らない会衆の前で無闇に歌われたこともあります。

日本ではむしろ、ニコライ大主教やセルギイ府主教の時代に持ち込まれた訓練された大聖歌隊によるロシア近代聖歌だけを正統な正教会聖歌の伝統として考える傾向がある。ビザンティンの聖歌、アトスの修道院のシンプルでありながらダイナミックな動きのある聖歌、平行五度進行が不思議な力強さを感じさせるグルジア聖歌、ワルラアムなどのロシアの古い修道院に残された心に染み渡るような単旋律のズナメニイ聖歌、ウクライナやガリツィアのシンプルな美しいメロディなど、世界の正教会聖歌には驚くほど豊富な伝統が生きている。「どれでなければならない」と先入観で固定せずに、日本語と日本人の感性にぴったりあう、日本の教会にふさわしい聖歌を探してみてはどうでしょうか。

10.強弱

 イコンが白黒でないように教会音楽にも彩りがあります。色づけは付け加えや特殊効果ではありません。強弱は動きの中でリズムと音のラインによってかもしだされる自然なニュアンスの彩りが輝き出すことです。

教会音楽は無感情ではありませんが、見せかけの効果を作り出すために感覚を操作しようとしてはいけません。私は、強弱を(単なる大きい小さいでなく、導入、対比、終始なとして)動きの研究の一部として扱いたいと思います。 テンポも強弱の一種として考えます。
 昔からよくaccelerandiやritardandiを強弱のように間違えてしまうという癖があります。たとえばゆっくりすると「ソフトに」、スピードアップすると「大きく」と考えます。しかしテンポと強弱の間には何か隠れた関係があるように思います。

11「正統性の回復」について。

 ここでは奉神礼で歌われる歌の正しい用法についてお話しします。アンティフォン、句、リフレイン、「アンセム」、聖詠、歌頌、旧約の歌などは名称どおりに機能すべきです。

聖歌の名称は奉神礼の中での位置づけによって定義されるので、聖歌は本来の働きに基づいて表現するように求められます。だから、作編曲したり、曲選びをするときには、この作曲家は奉神礼本来の用法に照らして、正しく作編曲しているかどうかをチェックしなければなりません。

たとえば、チェスノコフの第一アンティフォン「我が霊」は、美しいアンセムとして書かかれました。アンセムとは西方の儀礼でアンティフォンに当たるものですが、作曲者がアンセムとして作曲したすると、正教会の祈りには不適当なことになります。アンセムは私たちの奉神礼にないものだからです。また、コンチェルトの場合も同じです。コンチェルトはコンサートの意味ですから、コンサートで行われるもので、聖体礼儀の「領聖詞」の代わりに歌うべきものではありません。領聖詞は、聖詠の句のリフレインで、奉神礼的に全く異なる働きをもっています。

だからといって、ある教区では、領聖時のコンチェルトを意図的にすべて省いて、「何かを読む」ことにしてしまいました。これも、全くの間違いです。ここは領聖詞、リフレインを伴う特別の聖詠が歌われる箇所です。私たちの奉神礼の伝統を探せば、美しい音楽付けの領聖詞がたくさんあります。

12.翻訳

 どう表現するかは聖歌指揮者の手腕にかかっています。聖歌指揮者の技量がベースになります。聖歌隊員の見るものは「あなたが得たもの」です。聖歌隊が下手なのは、彼らが聖歌指揮者に注目していないのなく、読み過ぎるからです。聖歌指揮者の動き、表現、ポーズ、態度などは開かれた本です。指揮の技術とは、自分の体に祈りを教えることにほかなりません。聖歌指揮者がリズムや、祈りとして音楽を従順に捉えることができないのは奉神礼の災難です。

「音楽はそれ自体が語る」などとうそぶいて、わざをみがくのを怠ってはいけません。散漫な聖歌は間違いなく聖歌指揮者の責任です。


第二章 聖なる音楽のひびき 

1 歌うとは二回祈ること

「奉神礼音楽について」話し合うと、おおかたが「何を歌うか」という話題になります。そのとき、「奉神礼」としての聖歌、「祈り」として「歌う」という点に焦点をあてて話し合うことが大切です。

さて、まず理解しておきたいのは、「歌のない奉事(礼拝)はない」ことです。また、「祈り」でない歌はありません。「二人か三人が集まるところ(マタイ18:20)」の祈りは歌となりませんか。教会の歌で「祈り」でないものがありますか。

「何を歌うか」、私たちは「祈り」を歌います。歌は「祈り」への導入でも、伴奏でも、注釈でも、挿入される賛美歌でもありません。「歌」が、まさに「祈り」なのです。「祈り」が歌として与えられたのです。「なぜ歌うか」という問いへの答えでもあります。「歌」は正教会の祈り方です。「凡そ呼吸あるものは主を讃め揚げ」て歌うのです。
 ことばのない歌はありません。「歌」と「ことば(詞)」が尊く結ばれて教会の祈りになります。それはまた「神の民」と「神ことば」の
交わりです。「神ことば」は耳から聴くものです。私たちの声の中で、「神ことば」が私たちに語りかけます。「主は我が歌なり」です(118聖詠)。

世間では「純粋な音楽」とは詞のない歌のことですが、クリスチャンにとって、礼拝における「純粋な音楽」は「聖歌」と呼ばれる高められた姿になった祈りのことばです。奉神礼音楽は「聖なる歌」と呼ぶ方が相応しいでしょう。

教会では「音楽」と「ことば」を分けられません。「ことば」が音楽に声を与え、音楽は「ことば」の意味を讃えます。「ことば」と「音楽」はひとつになって、リズムと音で描いた「イコン」となります。聖なるイコンが聖なる「場」を「見えるもの」とするように、聖歌は聖なる「時間」を「見えるもの」にします。聖歌もイコンも、奉神礼の中で、「私たちが天に上げられ来るべき『爾の国』を賜ったこと」の預象として、その時と場所をあかします。

イコンが語りかけるように、聖歌も私たちに語りかけます。それが「聖なる音楽のひびき」です。音とリズムの中によって動きを与えられ、祈りのことばは美しい歌となり、イコンと同じく「永遠の日、あがないの時」を預象します。詩(聖詠)とさんび(歌頌)と霊の歌(属神の詩賦)で語り合い、主にむかって心からさんびの歌を歌います(エペソ5:16-19)。

2 A. どのように歌うか。聴覚を通して祈りを見えるものにする。

 聖歌の使命は、ことばやその内容、イメージ、そして「神ことば」を伝えることです。ことばを聖歌に翻訳する時に、まず第一に取り組まねばならないのが、ことば自体のもつ音楽的感覚を伝えることです。「どのように歌うか」を考えるとき、まず次の四項目を理解しましょう。

1)あなたが祈祷書(楽譜)を読んだときに感じた視覚的なイメージを聴覚的なイメージに変えて、声に出して歌ったときに意味をなすようにします。発声と発音を用いてイメージを作りだす表現技術が必要です。それがないと生き生きとした文脈の流れが失われ、あなたがそのページで読んで得たイメージと、参祷者が耳で聴いたイメージが別物になってしまいます。イコンはものの意味やメッセージを視覚的に伝えますが、聖歌は「耳」から伝えます。意味やメッセージを伝えられなければ、聴いている人と分かち合うことができません。参祷者が意味を理解して、「アミン(そのとおりです)」とか「主憐れめよ」と応えられません。はっきりしたサインもあたえられず、参祷者を祈りへと招き入れることもできません。

私たちの祈りの伝統は口から耳へ伝えられます。啓示は常に聴覚的に与えられます。参祷者が聴いて、意味をとらえ、応え、参加できるかどうかが鍵となります。「どのように歌えばいいか」は、あなたが発した声が意味をなし、聴いている人が、音とリズムによって歌になったことばを聴いたり感じたりして、歌われたことを「見る」ことができたか、一緒に祈ることができたかがポイントになります。最初に必要な技術は聴覚的な形で表す技術です。

2)二番目の技術は特別なことではありません。祈祷文の意味を「祈りの集まり」に伝達するために、あなた自身が歌の内容と奉神礼の流れをきちんと理解しているかどうかです。あなたが味わった「ことば」に内在する真の音楽も、声として表されなければなりません。「歌となってひびく」ことばは、まずあなたの心に響いていなければなりません。聴く人に届けるためには、ことばの意味のフレーズとメロディのフレーズ、両方の流れを理解する必要があります。ことばに表れた考え全体を理解した上で、それを歌として表す技術が必要です。ことばと音楽の両方に注意深く耳を傾け、意味を「聴きとる」訓練が必要です。

3)ともに祈るコミュニティすなわち教会全体と、今歌っている歌の意味を分かち合いたいという意志と熱意なくしては、どんな努力も無意味です。それなら聖歌隊は自己満足のために歌う上手な「歌い屋」になってしまいます。参祷者すべてを祈りに取り込む努力をしなければなりません。すべての人に、祈りのことばの一つ一つの意味を完璧に伝えたい、自分の心がふるえたように、彼等の心もふるえて欲しいと願ねばなりません。「わかったかな」「伝わったかな」とすべてのリアクションに細心の注意を払います。

 聖歌は自分ためではありません。歌ってあげるのでも、聞かせてあげるのでもありません。「神の民」のために歌う祈りは「神の民の自身の歌」にならねばなりません。あなたのパフォーマンスではありません。人々の前で上手に歌ってあげるのでなく、いやいやながら会衆と一緒に歌ってあげるのではなく、
心からみんなと一緒に歌いたいと思う時、このことが本当に理解できるでしょう。細やかな心配りと司牧者としての経験が必要です。

4)四番目はむずかしい課題ですが「どのように美しく歌うか」という点です。聖歌のひびきは美しいと言われます。祈りのことばは芸術です。単なる意思伝達を越えています。聖歌して歌われるとき、「ことば」は音とニュアンス、リズムと音のパターン、イメージのパターン、感覚のパターンが限りなく融合し、「ことば」そのもの、「音楽」自体を超越します。一体となったことばと音楽は美の藉身と言えるかもしれません。これこそ芸術のわざだと言う人もいます。私は祈りの果実に息を吹き込むことだと思います。何度も言うようですが、祈りの技術を高める努力を重ね、その響きを本当に愛し、祈りの成就を心から願うことによって、いのちの息が吹き込まれるようになるのです。

2.B いかに歌うか。ことばを通して神ことばがあかされる。

「ことば」と「神ことば」、「神ことばの臨在」をあかすためには、どのように歌えばよいでしょうか。「喜びの知らせ」に声を与えることは音楽の福音としての使命です。福音としての聖歌の役割が見直さなければ、教会が福音的な原動力を持つのはむずかしいでしょう。

 すべて正教会の祈りは歌われると述べました。教会の普遍の神学をもりこんだ祈りの歌です。奉事で歌われる歌は、正教の教義、教理、歴史、信仰、聖師父の伝統の明かしです。

聖書的な伝統に基づかない祈りはありません。聖詠(詩篇)も歌頌(さんび)も属神の詩賦(たましいの歌)も聖書から湧き出し脈々と続いてきた口述伝承です。フロロフスキー神父は「聖書的精神」の外からキリスト教を理解することはできないと述べています。そのとおりです。

正教会の奉事で歌われる聖歌以上に「聖書的な心」をはっきりと表しているものはありません。私たちの救済の歴史が唱えられます。聖書を口伝えで伝えてきた共同体、すなわち教会の外では福音が理解しがたいのと同じく、あるいは聖使徒パウロの文章はその背後にある奉神礼の歌や祈り抜きにはわからないように、聖書は聖歌として祈られなければ福音として理解することはできません。聖歌以上に、正教を見事に説明している源泉がありますか。「ことば」は「神ことば」のイコンです。

このエッセイの主眼はことばをどう歌うかにあります。聖歌とは言語の音楽を伝達することでもあります。祈りのことばは「神は誰なのか」、「神は私たちに何を呼びかけているのか」が「神ことば」の祝いの中で明かされます。

過去からのメロディを受け継いだことによって、私たちは生きた精神的伝統の連続性へと結びつけられています。大げさに言えば、私たちが聖歌を福音として歌うとしたら、私たちの用いる言語が「聖なる歌」を形作ります。

ここからは「ことば」の自体のもつ音楽と意味をなすように歌う歌い方についてお話しましょう。

3 メロディとことばの区切り方について。

聖キプリアン(キプリアヌス)のことばですが、「キリスト教徒は、ひとりではキリスト教徒ではありません。」人間の孤独は他者との関係、コミュニティのなかで浮き彫りになります。

「ことば」も同じで、バラバラに切り離されてしまうと意味をなしません。ことばは互いの関わり合いの中で意味をつくります。どのようにグループ分けするか、思考のユニットとしてどう区切るかという点です。私たちは教会として祈るとき「声」を用いて表現するので大切な点です。

 用語や発音のせいではなく、不適切な一でポーズ(間をとる)やブレス(息つぎ)をしたために、何が歌われているのかわからなくなることがあります。ポーズとブレスは、思考の流れをひとまとまりのユニットに分ける手段です。聖歌を声にして歌う場合、ただ句読点どおりに無造作に切るのではなく、意味が通るように論理的に関連づけて考えながら、フレーズを構成します。

 ポーズ(あるいはブレス)をとることで、そこで歌われた考えを理解する時間が与えられ、次のフレーズがどういう前後関係にあるのかを論理的に考える準備ができます。ことばの意味とは無関係にふられた小節線に支配されてしまったり、ことばのまとまりや内容の進行とは無関係に、やたらに気取って音楽的につなげたりすると、聞いている人には意味不明になってしまいます。

(訳注)英語以上に、日本語の場合は注意が必要です。

例をあげると、「天の王」は「天の王慰むる者や/真実の神/在らざる所なき者/満たざる所なき者/……」というようにメロディが区切られていますが、天の王のあとに、ちょっとポーズをとると、「天の王、(すなわち)慰むるもの、(かつ)真実の神、(かつ)あらざる所なき者、(かつ)満たざる所なき者」という並列関係が見えてきて、意味が分かりやすくなるでしょう。

あるいは「神の使い」は「神の使い恩寵(いつくしみ)を満ちこうむる者に呼んで曰く」と一息に歌われますが、「神の使い恩寵を満ちこうむる者に呼んで曰く」と、ちょっとポーズを入れると、誰が誰に言ったのかがよくわかります。

 セルゲイ神父は英語の例として降誕祭の"Mary, Joseph and the Babe lying in the Manger"という文を例にあげて、Mary, Joseph,のあとでポーズを取れば「マリアとヨシフ、(そして)飼い葉桶の中の赤ちゃん」が見えますが、Mary, Joseph and the Babeまで一気に歌ってここでポーズを取ったら、マリアとヨシフと赤ちゃんが飼い葉桶にギュウギュウ詰めになった情景が見えてしまうと言っています。
 もう一つの例として、晩課の聖入「聖にして福たる」をあげ、「聖にして福たる常生なる天の父の聖なる光栄の穏やかなる光イイススハリストスや」のうち、「聖にして」「福たる」「天の」は「常生なる父」にかかり、「聖なる光栄の穏やかなる」はイイススハリストスにかかわります。無造作に区切って歌うとその関係がさっぱりわからなくなってしまいます。
 

多少翻訳文がわかりにくくても、歌うときよくタイミングを計り、注意深くポーズを取って発音すれば、意味がとおるようにできます。スラブ語のフレージングをそのまま移動して、そのまま論理的に筋が通るとお思いではないでしょう。注意深く検討すれば、どうにもこうにもわからない訳文はほとんどありません。

四番目の問題に入ります。これに関してはこの論文の最後の章で詳しく述べますが、区切られたことばのまとまりは互いにどういう関係にあるか、つまり文章が意味をなすために、どれと、どれが、どう関係しているかを歌で表すことです。

 おなじみのオビホード(common chant)の八調(露
:オスモグラシエ)のメロディを用いるときは、メロディの展開と歌詞の内容の解き明かしに一致させるようにあてはめます。メロディはフレーズごとに次の内容の展開を促し、フレーズや句の対比を表し、ひとつの節として完結させます。

 ロシアやロシア系教会では19世紀前半にリヴォフ・バフメテフによって作られたオビホードという八調のセットを使っています。トロパリ、スティヒラ、イルモスそれぞれの8つの調に、メロディのパターンがあって、それに歌詞をあてはめて歌います。基本的にこういう簡単な歌には楽譜は使いません。もともとギリシアや古代ロシアのチャントはすべて八調のパターンがありますが、このオビホードはそれを簡略化和声化したものです。日本語のトロパリやスティヒラもこのオビホードが元になっています。歌詞をあてはめるときには、歌詞の文章構造や各語のイントネーションに配慮して調整しながら歌います。

よく歌われているトロパリやコンダクでも、メロディのフレーズが文の意味の流れと一致しないために理解が妨げられていることがあります。

 たとえば、祈祷文ではA、B、Cと内容が進んでいくのに、4調のA、B、A、Bの質疑応答風のパターンが単純に当てはめられているものがあります。あまり、変に感じないのは4調のメロディのパターンに私たちがすっかり慣れてしまっていて、ボーッとしているからです。冗談ではなく、多くの聖歌の音楽付けにこういうことが起こっています。

日本の聖歌の例:生神女庇護祭のトロパリ
A.神の母や、
(と呼びかけて)
B.我等信者は今爾の降臨におおわれて、(次のユニットと並列)
C.爾の潔き姿を望み喜び祝いて切に言う。
A.爾の尊き覆いにて我等を覆い、(次のユニットと並列して、生神女への願いを並べる)
B.我等を諸々の悪より護りて、
C.爾の子ハリストス我等の神に、我等の霊の救われんことを祈り給え、(ハリストスへの轉達を願う)
歌詞はA,B,Cというユニットのパターンで進行しています。

ところがオビホードのA,B,A,Bというパターンがそのまま単純にあてはめられててしまった例。
むしろ以下のようにすれば、文章の流れとメロディの流れが一致するでしょう。「神のははや」の「はー」というアクセントは日本語として不自然なので、「はや」と最初の「は」に一番高い音をあてはめる。文の構成と個々の単語のアクセント位置の両方に注意して音をあてはめます。


A,B,A,Bという単純なオビホードの4調のメロディ・パターンであっても、どうあてはめるかによって、テキストのわかりやすさが変わってきます。どう区切るか、どう音をあてはめるかは、本来各教会の聖歌者に任された仕事です。

耳で聞いてわかるようにまとまりに区切って歌えば、ことばの関係が理解できます。一つの文をブレスとポーズを用いて、内容的なまとまりのユニットに区切ります。
 ブレスは内容を表すように用い、ポーズも翻訳の道具に用い、文をグループ分けし、内容、つまり耳で聞いたことが目に見えるイメージの象を結ぶようにします。ブレスもポーズもタイミングと語尾の抑揚によって、メロディと歌詞の両方の内容を表すことができます。このタイミングのとり方はが研究課題です。

 これから抑揚の付け方の基本についてお話ししますが、その前に、話題になる強勢(アクセント)の付け方についてお話ししましょう。


4 強勢:言語の音楽、音楽としての言語

 言語は一本調子でもなく平板でもありません。祈りの声そのものにリズムがあります。ことばはリズムのパターンのなかで意味をなし、リズムのつながりの中であれからこれへと内容が展開します。もともと音楽は「歌うスピーチ」から生まれました。ことばのリズムの中で、声は様々な高さをとり、アクセントがおかれたり、引き延ばされたり、ポーズをとったり、語尾の抑揚がつけられて動いてゆきます。「声を合わせて」歌う時、祈りの集団に、特有の音色が生まれ、テクスチュア(声の織りなす彩り)がつくられます。

「ことば自体が持つ音楽」を無視して、フレーズやメロディ、ハーモニーなどを強引に当てはめて、ことばと音楽を相殺させてはなりません。これでは「祈りの集まり」の言語に翻訳することができません。リズムにおいてもメロディの上でも強勢をつけるときは、一つの考えを作る、それから次に移る、というように思考の流れに配慮します。言語のもつ音楽表現を無視して、音楽上の効果だけで強勢をつけるのは最低です。

音の高さの動き、ことば、フレーズ、思考のリズム的構造の中で、音楽と言語がさらに明確にハッキリと捉えられるように、あるいは思考の関係に注意を向けるために強勢が置かれます。

音楽と言語において、三つの代表的な強勢方法を見てみましょう。

第一の強勢はアクセントです。ことばや音符を様々な方法で「たたく」ことで、注意を呼び起します。一番頻繁に用いられるタイプの強勢ですが、ことば全体のデリケートな関係を無闇に叩いてしまうというリスクをおかし、効果は最小です。いつもお話していることですが、聖歌では、音楽上でも言語上でも、また言語の音楽においても、強勢は「重要なことばや音節を伸ばす」ことで与えられます。ですから「伸ばし」ははっきりわかるように歌わねばなりません。四分音符の動きの中で二分音符あるいは全音符で表す、タイやネウマティック(一音節に対し二〜三音を与える)、あるいはメリスマ(一音節に対しさらに多くの音を当てはめる)によって、時には長さ記号でなどで「伸ばし」が表されます。

(訳注)英語やスラブ語のような強弱アクセントの場合は、強調すべき単語のアクセントや力点に「伸ばし」置くことが効果的ですが、日本語のように、音節数が多く平板で、高低アクセントをもつ言語では、この原則は必ずしもあてはまりません。むしろ、文のフレーズ全体の流れや、ことばの高低アクセントなども含めて考えねばなりません。

二つ目の強勢は今まで話してきたポーズを用います。必ずしも小節線がフレーズの終わりを示すと思いこまないでください。小節線に振り回されないで下さい。

三つめの強勢は語尾の抑揚です。ことばの語尾の音高を上げるまたは下げます。上げ調子は、何か重要なことが続く、重ねて語られることを表します。下降調は考えが完結すること、メディアント(上中音)、またはカデンツァ(終止形)を表します。翻訳やアレンジの際、今まであまり注意が払われてきませんでしたが、重要な点です。

他のことばとの関係から生まれる抑揚は、メロディラインや終止形(カデンツァ)の緩やかなカーブと沿わねばなりません。音楽はことばの自然な響きを生かすように働きます。スラブ語の原曲がスラブ語のトーンに基づいて抑揚がついていることを考慮せずに、メロディを単純にそのままコピーして翻訳語を当てはめるのが間違いです。リズムやメロディの流れは、テキストそのものが持つ「のばす」、ポーズ、抑揚などの微妙な強勢に即して作ります。

多くの聖歌は純粋にシラビック(一音節に一音)ではありません。いくつかの音が一音節にあてはめられる、普通の抑揚の「のばし」以上にのばすものがあります。一つの音節内で、音の高さをカーブさせたり、折り曲げたり、揺らしたり、上げたり下げたりする方法あります。曲折アクセントは音楽上ではネウマティックな形をとり、二つ三つの音をあてはめます。ただことばを羅列した時以上の複雑な考えや、含蓄されたものを、表現します。聖歌のメロディのネウマティックな動きが、ことばに対応しないと「祈りの集団」が混乱しますから、こういうものは避けるのが一番です。たとえば、間投詞のOh」や冠詞の「the」、接続詞の「and」、前置詞の「with」やof」などに音の変化が当てはめられても、ほとんど意味がありません。こういう語の上に長いメリスマが歌われると滑稽です。

(訳注)日本語の場合だと、間投詞の「嗚呼」、助動詞の「なり」や、助詞、接続詞の「又」や「蓋」にあたるでしょう。特に日本語の場合は語尾に助動詞や助詞が来ることが多く、スラブ語のメロディにそのままあてはめると「な〜〜り」ばかりが強調される歌ができてしまいます。例:「真福九端」

 どの考えを一番強調しなければならないか。思考の流れを水平的に垂直的に補足するように歌の構造やフレーズ分けを考えます。新しい考えが表れるとき強調を与え、考えを進行させるようにコントラストをつけます。
 フレーズ内のことばやことばのグループに「上げる」形で強勢が置かれると、内容の方向転換が表されます。たとえば「恩寵を満ち蒙る者よ」と呼びかけ、考えが進行して「主は爾とともにす」。あるいは「主は神なり」考えが進行して「我等を照らせり」。
 「どうやったって大差ない」という意見も多く耳にしますが、もう一度よく考えてことばの論理をとらえましょう。たとえば、「天主経」の「我等を誘いに導かず」と「なお、我等を凶悪より救い給え」の構成を考えてください。このフレーズは、対比ですか、補足ですか。どこに強調がおかれるべきですか。

言語自体のもつ音楽は、ことばとことばの関係を見ると一番よくわかります。聖歌とは声でつくられるイメージによって描き表される「神ことば」の天に高められた表現です。

5 聖書の韻律法:正教会の聖歌のモデルは聖書

 聖歌の音楽はメロディのモチーフを組み立てて創作されたものではありません。聖歌のモデルは聖書の歌です。聖詠(詩篇)、歌頌(イムヌス)、旧約歌頌(旧約聖書に含まれる祈りの歌)などの詩形に根ざしています。「聖書は歌うもの」と考えられていました。旧約聖書の三分の一以上が歌うための詩の形をとっており、新約聖書にも初代教会の聖歌がいくつも取り上げられています。聖書に見られる音楽は後の聖歌発展の基本パターンとなりました。

特に聖詠(詩篇)は私たちの聖歌の「音楽」を理解する手引きになります。聖詠経は聖詠だけを独立して用いる教会の祈祷書です。

聖詠の特徴は、各句が並列していることです。聖詠の各節(スタンツァ)は二つまたは三つの小さい句(スティヒ)に分けられます。この小さい句は互いに補い合い、「考えるリズム」をなし、節全体の思考が形作られています。旧約聖書の韻律学では、各句は、句ごとに完全な思考単位として簡潔しています。一つの句の「考えるリズム」は次の句にまでは影響を及ぼしません。むしろ、節の文脈内で互いに関係しあいます。

句は次の3つの方法で互いに結びあわされています。並列(同じような内容のことばを繰り返す)、反語(反対の考えを対立させる)、統合(最後のスティヒは最初のスティヒの考えに付け加え、完結させる)の三つです。

メロディの形と構造はほぼ同じパターンに従って作られます。これがテキストと音楽が本来持っていた「音楽」です。現代では、伝統的なモデル・パターンに従って音楽付けすることが意味あることと思われていません。理由の第一は歴史的な影響で、ことばの形や構造を無視してつくられた「音楽」を受け入れたため、第二は「詩は外国語に翻訳されると失われるもの」だからです。
 教会でマジメに音楽に取り組もうとすればするほど、技巧に富んだコミュニケーションであった祈りの喪失と格闘することになります。この苦労は現在の音楽翻訳者たちに始まったことではありません。ロシアでもこの問題は17世紀のニーコンの改革時代に盛んに議論されました。その結果は大変複雑なのでこの短い論文では十分に書き尽くせません。

今日一般的に用いられている和声化縮小されたオビホード(19世紀に国家によって出版された標準聖歌集)の四声のチャント(伝統的なメロディを和声化したもの)は理想的とはいえません。聖書的な「音楽」は、もはや韻律的ではなく、かといって、18世紀に導入されたオランダやイギリス音楽風の典型的な「和声的ブロック」でもありません。ことばそのものが持っていた本質的なリズムは失われた音楽になってしまいました。

生きた語りの中でことばの本来がもっていたリズム、音楽付けのモデルとなっていた考えのリズムとしてのリズムも失いました。今のメロディは最後のカデンツァに顕著なように、小節線に暴力的に支配されています。私たちはそれを受け継いだのです。ウインフレッド・ダグラスは「英国の軽いステップ」が「足を踏みならすロシアンダンス」になってしまったといいましたが、いずれにせよ、私たちの聖歌として、最良の形とは言えません。

(訳注)ビザンティンは非常に高度な修辞学の伝統を持っており、ことばの抑揚と音楽が完全に一致した聖歌が作られました。既存の歌をモデルとして作り、モデルとなる歌は作詞作曲両方のモデルでした。各節の音節数、アクセントの位置まで、揃えられていたので、新しい歌詞にモデルの歌のメロディをそのまま当てはめて歌うことができます。聖歌者は前時代の聖歌をパラフレーズして新しい聖歌を作りました。たとえば、聖ロマンは聖エフレムの歌をパラフレーズし、クリトの聖アンドレイは聖ロマンの歌をパラフレーズしています。聖歌作者には現代的な意味でのオリジナリティはないといってもいいでしょう。
 ビザンティン聖歌がスラブ語に翻訳されたときに、もともとのメロディをそのまま保持しようとし、やがてスラブ語の特性に合ったズナメニーなどのチャントが発展しました。いずれも言語のメロディを大切にして、それを生かす音楽付けをしてきました。ニコンの改革で西洋の影響を受けたウクライナの聖歌が主流になり、18-9世紀には最初はイタリア風、後にドイツ風の和声音楽が聖歌に取り入れ、古いチャントはすっかり隅に追いやられてしまいました。しかし修道院や旧儀式派などによって保存されていたものが、19世紀後半見直され、共産主義のくびきから解放されたロシアでも近年見直され注目されています。

6 聖なる響き――それは何だろう?

「どんな聖歌が歌われるべきか」という点では、みな先入観に支配されています。「教会で育まれるいのちの中で聖歌の果たす役割なにか、そのためにはどんな聖歌を歌うべきか」と教会の使命として聖歌をとらえずに「今まで、どんな聖歌を歌ってきたか」に縛られています。

 私は若い頃、1920年代後半から30年代には大ロシアの合唱伝統を熟知していた父の指導する大聖堂でよく訓練された大聖歌隊として歌ってきました。しかし同世代の他の人々は田舎の小さな教会出身で、そこでは会衆が応答的なシンプルな聖歌を歌っていました。プロテスタントからの改宗者は正教について読んだものに基づいて自分勝手な結論を出し、10世紀のビザンティンの「天使の歌」の原則に戻らねば正教会の奉事は価値を持たないと言いはります。

 改宗者が大半の小さな教会に「大聖堂の大合唱」は何の意味があるでしょうか。逆に田舎の小さな教会で親しまれてきた民謡風のシンプルな歌は大聖堂の壮麗な儀式にふさわしいでしょうか。また、外国語のリズムやメロディの法則を、単純に異なる国の異なる時代の教会にあてはめることができるでしょうか。
 教会法や聖師父の書を読むとき、書かれた時の背景を知らずに、正しい理解の糸口が得られるでしょうか。ビザンティンのメロディの構造はギリシア語の言語構造に深く結びついており、ほかの言語のリズム、トーン、抑揚、表現の特徴とは相いれません。それにもかかわらず、ビザンティンのパターンをこの上なく「すばらしい」音楽付けの素材として主張するのは現実的でしょうか。学べば学ぶほど、物事はそんなに単純にわりきれないことがわかってきます。

シェファード博士のことばをご紹介して、このエッセイを終えます。

交わりとしての感覚・・・聖歌とは、神との交わりを感じること、「神ことば」が20世紀の私たちのおかれた状態に、まさに今ここに来てくださっていることに、私たちが心を合わせて、ともに応えることです。懐古趣味に陥って、ある音楽の中に聖なるものを探すのではなく、私たち自身の歌うことばの中に見いだすのです。間違った客観主義や、神を別世界の超人として見るような似非集団の誤った審美学によるのではなく、祈るものの集まりとして共通の体験を分かち合うことが求められています。過去においても、現在においても、未来においても超自然的な音楽はありえません。」

私たちは「あがなわれた神の民」の集まりとして歌うのです。天使のように歌うためでも、斬新なスタイルを発明するためでも、時代や音楽に影響を与えるために集められたのでもありません。私たちの「時」「場所」復活のイメージに変容させるために集められたのです。私たちの「時」と「時間」は私たちの声で描くイコンの材料です。「記憶すること」で、私たちは「永遠の時」へと結びつけられる、それはまさに今、現在の行為です。私たちが呼び集められた「永遠の聖性」を預象する歌が単なる過去の模倣であるはずがありません。それは「新たなる国」の「新たなる民」のことばで創造されます。本当の意味での「正教会の伝統」とは、どんな状況であっても、(たとえどんな音楽であっても)、親しみやすく、わかりやすく、しかも「聖なる音楽だ」と感じられるもののはずです。そのとき聖歌は聖なるイコンと同じ次元をわかちあいます。