ニコライ大主教と日本の聖歌

<ニコライ大主教の日本宣教と日本の正教会聖歌の成り立ちについて、正教時報に連載(2002/2〜6)したもの>

始めに

日本に正教が伝えられて150年、日本の聖歌史もまた同じ長さを持つ。信徒の多くは聖歌を歌うことで祈祷に参加し、聖歌をきっかけに教会の門を叩いた人も多い。私たちは当たり前のように五線譜に書かれた音符と日本語の歌詞を見ながら歌っているが、ニコライ大主教や周辺の人たちは、どのようにしてロシア聖歌から日本語の祈りの歌を作り出したたのであろうか。また、もとになった当時のロシア聖歌はどういう性質のものだっただろうか。祈祷書のことばを日本語に訳し、ロシアの聖歌のメロディに当てはめ、ヨーロッパの音楽など聴いたこともない当時の日本人に歌えるようにするには大変な苦労があったはずだ。外部からは、正教会の聖歌は明治期の洋楽発展に大きく貢献したと評価をされてきたが、ここでは、聖歌を歌う一人の信徒の立場から、日本の聖歌誕生の歴史を探り、祈りの歌として、また信仰の学びの歌として、神が日本教会に与えられた「聖歌」をもういちどとらえなおしてみたいと思う。



1853年(嘉永6)黒船来航、二百年にわたる鎖国政策が幕を閉じる。アメリカに続いて、イギリス、オランダ、ロシアと和親条約が結ばれ、函館にロシア領事館が開かれた。初代領事はイワン・ゴシケヴィッチ、1858(安政5)年に赴任する。ゴシケヴィッチ自身が、聖職者の家庭に育ち、ペテルブルグ神学校卒業後一〇年近く中国宣教に従事したという経歴を持ち、日本における宣教の可能性と、それに値する人物の派遣を宗務院に進言しており(中村健之介『ニコライ大主教と明治日本』岩波新書)、後のニコライ師による宣教を先見していた。
イワン・マアホフの後任の函館領事館付き司祭として、二五歳の青年修道司祭ニコライ(カサートキン)が、1861年6月14日に来函する。領事館付属聖堂で、奉事を執行するかたわら、日本語、漢学、日本の宗教、文化を学び、宣教準備を始め、1868(明治1)年、キリスト教禁令下で、パウェル澤辺琢磨を始めとした三人の日本人受洗者を得た。

日本語で祈る

正教会はその国の言語で祈る。日本人への宣教活動が始まると、まず日本語の祈祷書が必要となる。正教会の祈祷は半分以上が聖歌で占められるが、聖歌の歌詞は、『時課経』、『八調経』など様々な祈祷書に収録された祈祷文そのものからなる。正教会の聖歌は祈祷の飾りや背景ではなく、祈りそのものを分担し、神のメッセージを伝え、信徒の神学教育の働きを持つので、早急な祈祷書翻訳が必要であった。祈祷書のテキストは膨大なので、とりあえず、朝夕の祈祷、日曜日の聖体礼儀、土曜日の徹夜祷に最低限必要なテキストから訳し始めた。

1868(明治1)年10月のインノケンティ師[*1]に宛てた手紙に、「漢文から、『四福音書』、『使徒行実』、『使徒の公書』、『使徒パウェルの書札(パウロ書簡)』若干、『聖史略』、『教の鑑』、『教理問答』、『朝夕の小祈祷書』が訳され、スラブ語から『啓蒙礼儀』と『帰正式』を訳したこと」が書かれている。(三井道郎の訳書『宣教師ニコライと明治日本』)

初期の信徒の多くは士族出身者で、漢文は武士の教養であった。ニコライ師自身もすでに漢籍を学んでおり、双方にとって漢文(中国語訳)からの和訳は一番手っとり早い方法であった。聖書は一八六五年頃上海で出版された聖書と1864年に正教会で漢訳された二巻本の『新遺詔聖経』を用いられ、当時中国宣教団ではその他に、『聖詠経』、『聖事経』、『奉事経』、などの祈祷書が漢訳されていた(牛丸康夫『日本正教会史』日本正教会)。 ニコライ師の手許に、どれだけの漢訳聖書や祈祷書があったか不明だが、ゴシケヴィッチが中国伝道に携わっていた事実からも函館にもたされていた可能性はある。

ところが、まもなくニコライ師は中国語の聖書テキストに疑問を抱き、ロシア語訳、教会スラブ語訳を調べ、さらにラテン語訳聖書(ウルガータ)や英訳聖書も参照し、ギリシア語新約聖書も入手し、各版で一行一行を確かめ、さらに金口イオアンの解釈も見ながら翻訳しなおしていった。この方法で聖使徒パウェルの書札のうち、ガラティヤ、エフェソ、フィリピ、コロサイとロマ書半分を訳したこと、また先に訳した四福音書と使徒行実も訳しなおす必要を述べている(『キリスト教読本』1869年1月号/ポズニーニエフ・中村健之介訳『明治日本とニコライ大主教』)。

ニコライ師は最初の帰国時1869〜71(明治2〜4)年にロシアから石版印刷の機材を持ち帰り、1872年(明治5)年に上京、一層活発な出版活動を始めた。

奉神礼に用いる本格的な装丁の祈祷書が出版されるのは、1884(明治17)年の『時課経』を待たねばならないが、それに先だって暫定的な聖歌譜、祈祷書が印刷されていた[*2]。ニコライ師は、とりあえず毎日、毎日曜日の祈祷が行えるように暫定的な版を作り、実践しながら訳文の推敲、改訂を重ねた。比較すると、同じ文が、『聖歌譜』(明治10年以前から)、『時課経』(1884明治17年)、『聖詠経』(1899明治22年)『八調経』(1909明治42年)で、版を重ねるたびに、より正確な訳へと改訂されているのがわかる。

また、最初に『八調経略』(1885明治18年)を出版して、主日の祈祷に必要なものを作り、後に『八調経』(1909明治42年)全体を出版する、あるいは、大斎、受難週の『奉事式略』(明治35年)を出して、後に三歌斎経(1911明治44年)完訳を出版するという方法は、ニコライ師の翻訳方針が日々祈祷を実施していくことに主眼が置かれ、極めて実際的であったことがうかがわれる

訳文の変化の例 「シメオンの祝文」

聖歌譜 (明治二六年)ただし、明治一〇年頃の版の再版と思われる。
主よ今爾の言に循って爾の僕を釋し、安然としてさらしむべし。蓋我が目はすでに爾の救を見る。爾万民の前に備へるところのもの、光となりて異邦を照らし爾の民イズライリの榮を見るによる。

時課経 一八八四(明治一七)年
主宰や今爾の言循ひ爾の僕を安然として逝かしめ給ふ蓋我が目は爾万民の前に備へし救を見たり是れ異邦人を照らすの光と爾がイズライリ民の榮なり

大斎第一週奉事式略一九〇二(明治三五)年
主宰よ、今爾の言循ひて、爾の僕を釋し、安然として逝かしむ。けだし蓋我が目は爾の救を見たり、爾が萬民の前に備へし者なり、是れ異邦人を照らす光、及び爾の民イズライリの榮なり。


日本語で歌う

日本語の聖歌は、かなり早い時期から歌われていた。パウエル澤辺は、ニコライが上京した後、アナトリー神父に協力して函館で祈祷を行った。1873(明治6)年頃のことと思われる。澤辺自身のことばによれば

東京にて未だ公祈祷が行われなかったときに函館には始められてあった(略)しかし併其時ロ露シア西亜の人も居らない故詠隊と云って別にありません。斯く申す私が詠隊者讀経者であった。(略)最初に私は「主憐れめよ」一句だけを日本の言葉にして、それから段々と露語を日本語にして、日本の言葉で詠隊が出来るようになりました。(1894明治27年3月1日『正教新報』318号)

また、大正12年に笹川清吉が編纂した『仙台基督正教会創立五十年記念』誌にも、明治4年頃サルトフの補佐によって日本人聖歌隊が組織されていたことが記されている(中村理平『キリスト教と日本の洋楽』大空社)。
函館以外でも、各地で日本語による祈祷が行われ始めていた。仙台教会詠歌隊の記録によれば、1873(明治6)年9月に「聖天主、聖勇毅、聖常生なる者、我等を憐れめよ」[*3]「主の独一子及び言なるもの・・・・・」の聖歌が出版され歌われていた(三浦俊三郎、『本邦洋楽変遷史』日東書院) 後に「聖なる神、聖なる勇毅、聖なる常生の者よ・・・」「神の独生の子」と改訂された。明治7年にロシアで発行された『我が正教会創業時代』(三井道郎の訳書)に、聖体礼儀が日本人の聖歌隊によって日本語で歌われていること、メロディはロシア教会のものと殆ど同じであること、終夜祷(徹夜祷)も翻訳ができあがって日本語で行われることになったことが書かれている(『本邦洋楽変遷史』)。

さて、日本語で日本人が聖歌を歌い始めるにあたって、いくつかの困難が考えられる。前述した祈祷書の翻訳の問題に加えて、二つ目はロシア聖歌のメロディを翻訳したテキストに当てはめること、三つ目は歌えるように日本人に音楽教育を施すことがあった。

澤辺は前掲文で「そのうちにヤコフさんが参られて日本の言葉に譜をつけて、本当の歌が出来ました」と記しているが、これがアナトリー神父の弟、ヤコフ・チハイで、1873(明治6)年に来日する(在任:1873-1880)。函館で兄を助けて聖歌指導をした後、1874(明治7)年に上京、日本語聖歌譜の作成、四声聖歌隊の指導、詠隊学校での聖歌教師の育成を行い、日本語聖歌の基礎を作った。チハイはモスクワあるいはペテルブルグの音楽院の出身とも(大沼魯夫)、教会のレーゲント学校(聖歌指揮者養成学校)の出身とも(ポズニーニェフ)言われるが、いずれにせよ西洋音楽を修めた人で、チェロ、ピアノの演奏家で聖歌指導にはヴァイオリンを用いた。

上京後のチハイの大仕事は、日本語聖歌の音楽付けであった。前述した澤辺の回想にあるように、最初は「主憐れめよ」から、順次日本語の歌を増やしていった。チハイの来日によって、単音(ユニゾンで歌う単旋律聖歌)、ついで四声の聖体礼儀、徹夜祷などの主日聖歌、次に祭日聖歌が音楽付けされた。後年はチハイの日本語も公使館の通訳として働けるほど上達したようだが、初期の翻訳、音楽付けにはニコライ師の力が欠かせなかったと思われる 。[*4]

つい最近まで用いられてきた通称『横長』(19.5×25.0cm)の石版刷り聖歌譜あるいはその前身は明治6年以前から出版されていたと考えられる 。[*5]上記の仙台詠歌隊の記録と『我が正教創業時代』の記述の他に、1878(明治11)年の報告書には東京では四声の詠隊が、また地方ではチハイ氏によって日本語の歌詞を付けられた単音の石版刷りの楽譜がすでに全国に配布され、各教会に楽譜の読めるものがいて単音で歌われていたとあり(中村健之介訳『明治の日本ハリストス正教会 ニコライの報告書』教文館)、明治14年のニコライ師の日記にも、上州東北巡回時に各地の信徒が楽譜を持って歌っていた様子が書かれている(中村健之介等訳『宣教師ニコライの日記抄』北海道大学図書刊行会)。

音楽教育

本来正教会聖歌の伝統は、歌詞となる「ことば」そのものの持つ抑揚やリズムが発展したものであって、拍子も拍もなく、音階も今私たちが馴染んでいるドレミファとは異なるものであったが、日本にもたらされた聖歌は、ロシアの西欧化によっておおむね西洋音楽の音階や記譜法(五線譜)が用いられており、日本人には、正教会固有の音楽としてよりも、西洋音楽の一つとして受け入れられた。

現代の私たちは、西洋音楽にすっかり馴染んでいるが、当時の日本人にとっては大変な苦労だった。前述の澤辺の回想でも、澤辺の「ヘルビムの歌」を聞いてロシア人たちが大笑いした、あるいはシメオン三井道郎はドレミファが歌えずに、しばらく耳を慣らすように言われ、聖歌隊に入れなかったというエピソードを述懐している(三井道郎『回顧断片』三井道郎回顧録)。澤辺の歌を直に聞いた人の話を大沼魯夫は、「日本の謡曲の節が七分に義太夫節が二分、後の一分が端唄のような節で形容できない面白い節だった」と伝えている(舊時新題―『楽界回顧録』其の五、『楽星』第4巻2号/『キリスト教と日本の洋楽』から引用)。大沼は、澤辺の「我が霊」をチハイが採譜し、短音階和音をつけ、四声の曲としてアレンジし、今も歌われていると話しているが、明治40年の聖歌譜では「我が霊」番外(デ・リウォフスキー作曲)、「パウエル渡辺師の曲による」とサブタイトルのついたものがこれであろう。渡辺師は澤辺師の誤植ではないかと思われる 。「我が霊」1番を西洋音階に慣れていない日本人が、日本旋法(陰旋法)に近いもので歌うと、このようになるかもしれない。[*5]



函館における聖歌指導の様子は『正教音楽に就きて』(著者不明)に、言葉も通ぜず、ドレミファも知らない生徒に教える苦労がうかがわれる。

今其の一例を挙ぐれば、チハイ師が、初生徒の発音を試みるや、無名称音階を用いて、単に「ア一」「ア二」「ア三」「ア四」といふが如く、順序を逐ひて七音を出さしめたり。次に有名称音階を示して「ド一」「レ二」「ミ三」「ファ四」「ソリ五」「リャ六」「シ七」といふが如く唱へしめしに、生徒は斯く曰ずして、悉く七音の前に「ア」の字を冠らして「アド」「アレ」「アミ」と唱へしが如し、然れども、これ故意に出でしにあらずして、言語の通ぜざると耳のいまだ開発せざりしとによるなり。

詠隊学校は1872(明治5年)に開かれた。ニコライ師は祈祷における聖歌の役割を重要視しており、聖歌隊の養成と聖歌教師による正教伝道を試みた(牛丸康夫著『日本正教史』)。チハイと後にリウォフスキーが中心になって指導にあたり、聖歌の他に誦経、聖体礼儀式順を重点的に学び、その他に伝教者学校の講義を聴講した。希望者には、バイオリンやピアノなどの器楽演奏、和声学などの作・編曲も教えられ、当時としては最高水準の音楽教育が施されていた(『キリスト教と日本の洋楽』)。大沼魯夫は明治20年から7年間詠隊学校で学ぶが、音楽用語としてフランス語が用いられ[*6] 、ソルフェージュを教えられ、絶対音感教育を受けていたこと、声によって厳しくチェックされて、合唱班に編入されたことを述べている(大沼魯夫『正教音楽に就いて』)。神学校詠隊学校から日本人の聖歌指導者、音楽家が生まれていった。ロマン千葉忠朔、アレキセイ小原甲三郎、ペトル東海林重吉、インノケンティ金須(旧姓中川)嘉之進(1891年から3年間ペテルブルグ音楽院に留学)、イアコフ前田河進近、イオアン中島六郎などの名が見られる(『キリスト教と日本の洋楽』)。

また、1875(明治8)年末、聖歌隊のためにデスカント(ソプラノ)とアルトが必要になり女学校を開設した。(1878(明治11)年の報告書『明治の日本ハリストス正教会 ニコライの報告書』) ロシアでは、高声部は声変わり前の少年が受け持ったが、日本ではいち早く女声を採用した。 [*7]

チハイによる音楽指導は目覚ましい進歩を見せ、1878(明治11)年の報告書によれば、東京教会では、神学校生徒と女学校生徒からなる聖歌隊が四声部で、他の教会は単声部(単音)で歌った(『明治の日本ハリストス正教会 ニコライの報告書』)。詠隊学校で指導を受けた生徒も、各地へ散って聖歌教師として伝道した。『宣教師ニコライの日記抄』に、1881(明治14)年の上州、東北巡回の際、ロマン千葉等、卒業生の指導によって聖歌が上達した様子が描かれている、

しかし、文明開化の時代、西洋文化を取り入れることに熱心だった日本人には、聖歌は祈りとしてよりも、優れた西洋音楽の一つとして内外から賞賛、愛好される傾向があった。正教会の神学校詠隊学校、あるいはロシアへ留学して学んだ者が、生活のために音楽教師として働いたり、通訳などとして外部へ引き抜かれていったことも多く、必ずしも教会の宣教活動に十分貢献できたとはいえない。理由の一つには、俸給の問題があるだろうが、その他にも、キリスト教を福音として、精神的なものとしてではなく、先進国の進んだ文化、なにかハイカラな知的文化として受け入れる傾向があり、ニコライ師自身も日本人との意識の違いに当惑を感じていた(牛丸康夫『日本正教会史』日本正教会)。

日本聖歌のもとになったロシア聖歌

西洋音楽との違い

今、私たちの歌う「聖歌」は西洋音楽の歌唱法や音感、和声などを用いている。西洋音楽の知識や技術は聖歌を歌う際にも大変有用であるが、「聖歌」のとらえ方の根本がローマカトリックの宗教音楽やプロテスタントの教会の賛美歌と異なる。ローマカトリック教会がグレゴリオ聖歌だけを「聖なる」歌として祝福したときから、西洋においては他の音楽領域は人間中心の文化として発展した。宗教的なテーマも作曲家のモチーフの一つになり、教会を離れて聴衆の前で演奏されるようになった。もちろん、深い信仰的理解と祈りの心がなければ優れた宗教音楽は生まれないし、それはそれで感動を与えうるが、その作品はあくまで作曲者のものであり、演奏者は自分の演奏を聴衆に聴かせるものである。

正教会の聖歌は、教会が、集まって祈るために存在する。聴衆はいない。鑑賞するためでもなければ自己表現の場でもない。聖歌のことばは神からの信徒へのメッセージで、同時に信徒から神へ向けての感謝のことばである。それを運ぶのにふさわしい乗り物としての音楽が与えられる。ことばは音楽と一つになることで、ことばのもつ感情面がサポートされ、たましいの奥深くまで運ばれる。イコンが「宗教画」と違うのと同じである。聖歌は神のものである。奉事の飾りや添え物ではなく、祈りそのものである。

従ってレーゲント(聖歌指揮者)の役割も、おのずと西洋音楽の場合とは異なってくる。基本的な音楽的技術や知識はもちろん必要だが、その上に、祈祷の構造を知り、祈祷文に表された内容を理解し、祈りを生かす音楽の働きへの深い洞察が求められる。具体的には、祈りの流れを把握し、教会の状態(聖歌隊が代表して歌うのか全員で歌うのか、四声か単音か、伝統聖歌か近代音楽によるものか、聖堂の広さ、聖職者の声の質、歌う者の技量など)、その日のテーマ祭日か平日か斎か、司祭祈祷か主教祈祷か)などを考慮してふさわしい歌を選び準備し、実際の奉事の時には神品やそのほかの動きを絶えず察知しながら、教会全体が息を合わせ、祈祷が滞りなく進むように支える。祈りはひとつにならねばならない。

ニコライ師は聖歌に大変厳しかったと言われるが、日記を見ると、歌の上手下手ではなく、声が揃わなかったとき、聖歌が奉事の流れを乱したときに、聖歌指揮者を呼んで厳しく叱責している。祈り全体に影響を与えてしまう聖歌の役割の大きさをよく知っていたからである。

19世紀のロシア聖歌とオビホード

正教会の聖歌史をながめると、その場、その時代の状況に応じた調整が何度も行われてきたのがわかる。よくキリスト教本来の伝統を正しく伝えるのが正教会だと言われるが、それは特定の目に見える形を寸分たがわず保持することでもなく、いつでもどこでも使えるお手本があったのでもない。それぞれのおかれた現実の中で、聖神の導きに従って、個々の時代、個々の教会が祈りの中で選んできたことそのものが正教会の伝統といえる。

たとえばビザンツの時代には異端論争の結果が反映された聖歌が加えられ 、聖堂や奉神礼の発展に応じて聖歌の歌い方や内容が変化した。[*8]ロシア伝道ではスラブ語への翻訳が行われ、ビザンツの聖歌者を招いて、もとのメロディを保持しようとしたが、言語構造の相違や民族性を反映して、ズナメニーと呼ばれる独自の聖歌群が生まれていった。地域性、民族性、近代では西洋の影響をうけて、音楽面は常に変化してきた。ラテン語のグレゴリオ聖歌だけを世俗音楽と切り離して保存したローマカトリック教会と異なり、正教会の聖歌は常にその時代、その地域の音楽を反映してきた。言い換えれば、その時代の人々とともにあった。

日本に正教会が伝えられた19世紀までに、ロシアは西洋音楽の多大な影響を受けていた。かなり以前からキエフなど南西ロシアを中心に西洋音楽の影響があったが、17世紀に始まるピョートル大帝以来の強力な西欧化政策によって音楽のみならず教会の組織全体が西欧化の波にのみこまれた。総主教制が廃されたのに 伴って、それまでロシア聖歌のモデル的存在だった総主教付き聖歌隊が事実上解散に追い込まれ、それに代わって、より西欧指向の強いペテルブルグの宮廷付属聖堂の聖歌隊がロシアを代表するようになる[*9]。初代団長はイタリア音楽を学んできたボルトニヤンスキーであった。ロシアの各地で様々なヴァリアントをもって歌われてきた単旋律の伝統聖歌(chant/роспев) [*10]に代わって、イタリア、後にドイツの音楽手法を取り入れた多声合唱聖歌が主流になってゆく。明治26年発行の『横長』聖歌譜の奥付に「其の過半は有名なる作曲者リヲフバフメテフ両師著作の四重音譜を故ヤコフ・チハイ師の翻訳(音楽付けの意)せるものなり」とある。リヲフとはアレクセイ・リヴォフ、バフメテフはニコライ・バフメテフである。彼等は相次いで、ペテルブルグ宮廷付属聖堂の聖歌隊音楽長を務め、新作聖歌の検閲を行い、伝統聖歌もすべて和声付けして西洋音楽風にアレンジし、教会標準聖歌集『オビホード』 [*11](リヴォフ版1848、バフメテフによる改訂版1869)を出版し、さらに全ロシアの教会が『オビホード』のとおりに歌うことを強制した。 [*12]

日本宣教団もロシア教会の1つであったから、当然この『オビホード』に従う義務があったと思われる。オビホードは五線譜を用いた四声別冊のパート譜で書かれ、バスはヘ音記号、他の三パートはアルト記号で「ド」の位置が示される。オビホードには伝統聖歌を和声付けしただけのものと全く近代西洋音楽の手法によって書かれた作品が混在している。伝統聖歌からの歌は、下記のオスモグラシアをもとに和声付けされて作られている。

オスモグラシア

さて、日本にもたらされたロシア聖歌は、楽譜になった四声のオビホードの他に、ニコライ師やロシア人教役者が記憶していたオスモグラシア(八調、オクトエコス)という歌い方がある。これはロシアでは教役者の身につける基本的技能で、調(グラス)によって異なる簡単な旋律定型の組み合わせと繰り返しを用いて、祈祷書を見ながら、随時、微調整しながら即興でメロディを当てはめて歌う。これは一声でも、二声三声四声の即興でハーモニーをつけることもでき、今でも聖歌の基本となっている。

このオスモグラシアは地方によって多少の差があり、日本の聖歌はペテルブルグの伝統を受け継いだものと考えられる。ニコライ師がペテルブルグ神学校の出身であること、現在ペテルブルグで標準的に歌われているトロパリ、スティヒラ、イルモスなどと比較すれば明らかである。 [*13]

チハイが神学校のレーゲントクラスの出身であれば、オスモグラシアの基本的メロディは熟知していたはずだし、ニコライ師や他のロシア人聖職者も当然身につけていた。

歌うときは句読点や祈祷書の区切りなどに注意して旋律行に分け、決められた定型のセットを順次あてはめてゆき、さらに、冒頭や末尾の語のアクセント位置やイントネーションに従って微調整を行う。しかし、オスモグラシアはスラブ語という言語そのものが元来持っている音楽から派生してきたものなので、簡単に即興で当てはめて歌うことができるが、イルモスに限ってはメロディもことばも複雑なのであらかじめ譜面に書かれることが多いようである。

日本で歌われているトロパリやスティヒラも、簡単なメロディの繰り返しがうかがわれるが、オスモグラシアのルールに従って祈祷文に音楽付けし、楽譜化したものである。

基本的にはこの二つを参考にして、日本語の祈祷文にメロディが当てはめてられ、日本語の聖歌の楽譜が順次作成出版されていった。

オビホードと日本の聖歌譜(四声)の比較

さて、1869年にロシアで出版されたバフメテフ版オビホード [*14]と1891(明治26)年版の聖体礼儀(四声)の楽譜を比較してみたが、収録された曲目も、音域も異なるので、オビホードをそのまま利用したというより、ニコライ師、チハイやリウォフスキーが日本の四声聖歌隊のために作った新しい曲集と考えられる。チハイ、リウォフスキーが新たに作曲したものも多く含まれる。連祷を比較すると、オビホード1869年も日本の四声も開離(ソプラノとアルトの間が6度以上あり、広い音域を必要とする)の編成を取っているが、オビホードはソプラノが日本のものよりも、さらに高く、バスとの幅がさらに広い設定になっている。「神の独生子」「安和の憐れみ(親しみの捧げ物)」なども同様である。この場合主旋律はソプラノにあると思われるが、日本の場合は同じメロディがアルトにあり、テノールのメロディがソプラノに移動している。

しかし、日本のものもソプラノとアルトが6度あり、華やかではあるが、音程を取るのが難しい開離を選んだ理由はわからない。ロシアの宮廷聖堂では開離の編成が好まれ、バフメテフもこれを採用したが、地方教会の実用に合わないと当時から批判が相次いでいた。1901年のオビホードでは密集(音域の狭いハーモニー)に改訂されている。しかし、1869年のオビホードでも、聖体礼儀のアンティフォン「我が霊」は密集で書かれているが、日本の譜面は開離の設定になっている。

特記したいのは、19世紀ロシアでは、検閲制度 [*15]によって聖歌の作曲が著しく制限されていたが、日本だからこそチハイに活躍の場が与えられ、思うままに作曲し、実施することができたともいえる。明治26年、40年の聖歌集にもチハイの作品が多く含まれる。

ロシアでは検閲制度が有名無実になる19世紀末から、1917年の革命直前まで、すぐれた聖歌作品が次々と生まれる。古い伝統聖歌(ズナメニーなど)が見直され、それをモチーフにした聖歌や、伝統のメロディに新しい和声付けをしたものも数多く作られ、各教会で自由な選択ができるようになった。オビホードも1901年に改訂され、今まで収録されていなかった新曲、他の地域の伝統聖歌も多数掲載された。日本では1907(明治40)年に新刊聖歌譜が出版され、古い版には収録されなかった歌がリウォフスキー、金須嘉之進、小原甲三郎、東海林重吉などによって、日本語のことばにあてはめられた。ロシアの1901年のオビホードはト音記号、ヘ音記号で記載されている。日本のものは以前と同じ「ド」の位置を示すアルト記号で書かれている。

オスモグラシアの旋律定型と日本聖歌(単音)の比較

ペテルブルグのオスモグラシアの楽譜と日本の聖歌を比べると、いくつかのメロディの変形に気づく。特に、単音譜に顕著で、いくつかのトロパリ、スティヒラなどのメロディが変えられている。これは半音の細かい進行があったときに現れる。日本人が半音の動きが苦手で正しく歌えないことに配慮したためと思われる。

たとえばトロパリ4調では、最初のフレーズの最後の部分(→)のFの音を同じ和音内のAに変えた。ロシアでは1音上がり半音下がる動きが、日本の単音では大きく上がって下がるだけの動きになっている。(ただし、この場合和音としては変わらない。)

また、スティヒラ1調では、1の部分のメロディで、(→)の音を省いて単純化した。さらに、4種類の旋律定型の繰り返しと終結部だったものを、二種類の旋律定型の繰り返しと終結部に縮小した。


このような例がスティヒラ2調と3調に、旋律定型の逆転現象がトロパリ5調と7調などに見られる。半音を含む上がり下がりの動きを避けたのは、当時の日本人が半音を取りにくかったために敢えて避けたのではないかと思われる。
パスハのトロパリ「ハリストス死より復活し」も同じ理由で旋律を変えたと思われる。しかし、4声のものは原曲通りの半音進行のメロディを用いたために、4声と単音が別の歌になってしまった。当時と現代では音楽レベルに格段の差があるので、現代の私たちから見ると、易しくしたはずが、かえって難しくなっていることがある。
東京の聖歌隊では、当時最高と言われる西洋音楽教育を受けた神学校詠隊学校の生徒が中心となって左右2隊の大合唱が行われていた。卒業生たちは各地に散って聖歌を教えるが、地方で西洋音楽と縁遠い人々と歌う単音聖歌は別のものとして感じられたであろう。また実際、上記のトロパリのように、4声と単音が違う歌になってしまったものも多い。
本来、オスモグラシアでは、臨機応変にハーモニーが付けられて、二声でも三声でも歌うことができ、4声と単音という区別はありえないのに、日本では4声は4声、単音は単音と分離固定されて考えられ、さらに、4声は先進のハイカラ文化として羨望の目で見られ、単音を劣ったものとして見る誤った風潮を生む原因になってしまった。

スラブ語と日本語の違い 日本語を生かす聖歌の模索

ボルトニヤンスキーなど近代的西洋音楽の手法で書かれたものは別に考えねばならないが、もともと、スラブ語のオスモグラシアのメロディ定型は、ことばの音節数、アクセントの位置などによって伸び縮みし、フレーズの冒頭や末尾の細部を調整することができ、音楽にことばを当てはめるのではなく、「ことば」に音楽を当てはめてゆく手法である。

だからスラブ語のできあがったトロパリやイルモスのメロディに日本語をそのまま押し込めただけでは、不自然でわかりにくい歌になってしまう。オスモグラシア本来の「ことばを生かして調整する」という機能が生かして、日本語祈祷文に合わせてメロディを調整する必要があるが、日本語はスラブ語に比べて平板で音節数が多く困難を極めた。たとえば、「神は我等と偕にす」は11音節だが、スラブ語は「С нами Бог」たった3音節である。また日本語の高低アクセントにも留意しなければならない。またスラブ語ではフレーズの最後に重要な単語がくることが多く、その単語の力点に変化に富んだメロディが置かれていることが多いが、日本語では助動詞の「〜なり」や「〜せん」にあたってしまうことが多い。また、「主憐れめよ」も「ゴスポヂ ポミールイ」の「ミー」の部分にアクセントがおかれ、最後の「ルーイ」が伸ばされるが、日本語にそのまま当てはめたので「憐れめよ」では、歌いづらい「エ」の母音を持つ「れ」と「め」が強調されてしまった。また、日本語の鼻音の《ン》の処理で苦労したことも記されている(『明治日本とニコライ大主教』)。

 実際に祈祷で使い、歌ってみながら、改良していったのであろう。年に一度の祭日聖歌に比べると、毎週回ってくる主日の聖歌は、改良が重ねられ、ことばと音楽のバランスがとれているように思われる。また、明治17〜8年の『時課経』、『八調経略』の祈祷書出版に合わせて、ことばも変化しており、大幅な改訂が行われたと思われる。ところが、祭日聖歌の譜面はは、ことばの面から見ても、明治初期の訳をそのまま踏襲しており、訳の正確さ、日本語としてのわかりやすさ、聞き取りやすさという点では十分な検討が行われたとは思えない。また、単音譜を作るにあたって、ニコライ師やチハイの記憶していたメロディ以外に、4声の楽譜を参考にしたと思われるが、単純にアルトから単音譜のメロディをとった場合があるが、ソプラノが主旋律であることも多いので、歌いにくいものも多い。美しい日本語の聖歌、わかりやすい聖歌という点でまだまだ工夫の余地が残される。

楽譜を見て歌う

ニコライ師は当時の日本人の状況に応じて様々な工夫を行った。ロシアの諸習慣に妄信的に従うのではなく、歩み始めたばかりの日本人信徒たちが祈祷に専念し、祈りの中で神の恩寵にふれられるように様々な、ロシアの常識から考えれば「例外的」と言われるような配慮も臨機応変に行った。

たとえば、ロシアでは高音部は少年が歌うのが普通であったのに日本では女声を採用したこと、半音進行を避けてメロディを変えたことは既に述べたが、「楽譜」を見て歌うこともその一例にあげられる。前述したように、通常ロシアでは簡単な歌は楽譜を用いず祈祷書のみで歌うのが基本だが、日本ではすべて五線譜の「楽譜」に書いて配布し、それを見ながら歌わせた。

ロシア人にとっては民謡のように慣れ親しんだ単純なメロディの繰り返しであっても、日本固有の旋律とは全く異なるメロディであり、暗記して歌うことなどできなかっただろう。そこで、ひとつひとつ楽譜に書き起こし、全員が声を合わせて歌えるように考えた。ニコライ師は日記で「楽譜を持っているにもかかわらず、揃わない。」と述べているが、ロシアでは楽譜に書かずに歌うのが当然だったからで、「揃って歌えるようにわざわざ楽譜に書いたのに揃わない。」と不満をこぼしているのである。

こうして信徒のためを考えて作られた楽譜だが、百年たった今、さまざまな問題点を含む。たとえば、楽譜に書いたために、祈祷書ではなく楽譜をたよりに歌うことが当たり前になってしまい、音符を追うことが優先され「ことば」への注目度が下がってしまったこと、また、細かな節回しは、教会や聖歌隊の状況に応じてレーゲントの判断に任されていたものが、楽譜通りに歌わねばならないという「くびき」になってしまったこと、楽譜に書かれていなければ歌えないという状態を生んでしまったことなどがある。また、ニコライ師は死の直前まで祈祷書の訳文の推敲改訂を行ったが、楽譜の歌詞には反映されず、楽譜の歌詞にはニコライ師から見れば不本意な初期の翻訳がそのまま残り、祈祷書のことばとの不一致が起こってしまった。

日本における土着化

ニコライ師は正教が日本の土壌に根付くことを望んでいた。日記には、聖枝祭の枝はロシアではネコヤナギと定められているが、東京では「ここ二、三日にほころびかけた桜の小枝」(1901年4月6日)であったこと、信徒の葬儀で「2旒の長い旗の1本には白い十字架を、もう1本には赤い十字架を描いて柩の前に立てて進む」という「全く自発的な新しいやり方」を喜んでいる。(1892年10月7日『宣教師ニコライと明治日本』)
それは聖歌においても同様で、聖歌のメロディが日本風に変わり、地方色が現れていても、ほほえましく受け取っていた。

たとえば、徳島の脇町で6人の娘たちが歌った聖歌は「実に風変わりな歌い方」であったが、「とても気に入った」。「メロディは全く新しい、いささかもの哀しいメロディになってしまっていた。しかしすべて声がよく揃っていた。・・・・・すべての声が常に真に正確なユニゾンをなしていた。聞きながら、ここへ歌唱教師を派遣したものだろうか、このままにして置いた方がよいのではいだろうかと迷いが生じた。独自のメロディが出てくるはよいではないか。歌を一つの形に押し込めねばならぬ必要がどこにある」(1892年6月4日)

また、郡山教会の和風聖歌を気に入って、「歌は大変上手だ。・・・・・『ハリストス復活し』はかなりメロディが作りかえられているが、わたしはすっかり好きになった。この歌にも日本の歌特有の、短調のもの哀しいトーンが加えられている。」(1893年5月11日)

ニコライ師は、聖歌が儀式の流れを損ねたり、調和を乱したりすると容赦なく叱りつけた話が日記の各所に見られるが、それは聖歌の上手下手を取りざたしたのでも、原曲を正確に歌うことを望んだのでもない。信徒が、集まって、日本語で、教会が一つになって祈ることにふさわしければ、歌そのものについては全くこだわりがなく、日本風のメロディが生まれてくるのを歓迎していた。

しかし、実際には、口述伝承ではなく楽譜に書かれたことによってメロディが固定され、日本人特有のきまじめさから楽譜通り寸分たがわず歌うことが伝統保持と思われ、また優れた文化としてロシア合唱聖歌がもてはやされ、ロシア風であることが正教会の伝統であるという誤解もあって、日本独自の聖歌はその後あまり生まれてこなかった。
しかし、例えば「天の王」やアンドレイの大カノンに代表される6調のメロディも、ロシアではもっと力強くリズミカルに歌われ、日本では哀愁を帯びた雰囲気を持つ。これも一種の民族性による変化と考えてよいだろう。

課題と展望

日本における聖歌導入の歴史をふりかえってきたが、正教会の聖歌が祈祷の飾りや鑑賞物ではなく、奉神礼の欠くことのできない部分として、神の教えをたましいに運び、教会が一つの声で祈るように促すという大切な役割を担っていると理解するのなら、いくつかの課題が見つかるだろう。

正教会の奉神礼は、役割分担して祈ることが多い。連祷では神品と会衆(聖歌)が掛け合い、至聖所で祈られる祝文の時間を聖歌が満たし、聖入などの動作を支える。連祷の祈願のことばと、「主、憐れめよ」は、音の高さの点だけでなく、双方が息を合わせて一つの流れになることが望まれるだろうし、聖入などでは神品の祈りや動きに時間的にも雰囲気的にもぴったり寄り添うような聖歌が求められるだろう。

また正教会の伝統では、参祷者ひとりひとりが理解して、祈りに参加するために、必ず現地のことばで祈られる。聖歌はひとりよがりであってはならない。音楽は祈りを助けるものだ。『誦経の手引き』(シマンスキー)に「(自分の、そして聞く人の)たましいが祈れるよう」とあったが、それはそのまま聖歌にも当てはまる。

聖歌を歌う者は祈祷書に盛られた神のメッセージを正確にわかりやすく伝える務めがある。しかし早急な改訳論議に走らなくとも、フレーズに区切って歌う、ことばをはっきり発音する、ちょっとした間を取るなど、今すぐにできることがあるだろう。その上で、ニコライ師が死の直前まで努力を重ねたように、日本語の抑揚に配慮した音楽付けの工夫や、日本のオスモグラシア(8つの調のための旋律定型)も考えていったらよいだろう。音楽的な理解に加えて、奉神礼や祈祷文の内容の理解を深め、小さな工夫を積み重ねてゆけば、ことばの内容とメロディの性格が一致した聖歌、日本人の感性にあった、日本正教会の「祈りの歌」の伝統も、いつか、ごく自然に生まれてくるのではないだろうか。

教会として神に集められたひとりひとりがお互いに心を懸け合い、心を尽くして祈り歌う時、教会は神の愛に満たされ、本当に美しい聖歌が恩寵として私たちに与えられるだろう。

最後にニコライ師ご自身が聖歌について語られたことばを引用する。

「教会では(聖職者や詠隊が)しっかりと朗読し歌い、祈る者はそれに心を込めてじっと聴きさえすればよいのだ。そうすれば、海のようなキリスト教の教えがたましいに流れ込んでゆく。その教えの海は教義を教えて知性を明るく照らし、聖なる詩情(ポエジー)によって心に生気を与え、人々の意志を励まし、人の意志を聖なるもろもろの先例に従わせる。・・・・・・・我々の祈りの歌は、明るい、生きた、権威ある説教であり、祈りなのだ。全世界の教会の口を通して、神のしん~(霊)を受けた聖師父たちの声によって歌われるものなのだ。そして聖師父たちは全体としては、教会の祈祷の指揮者たる福音書記者たちや使徒たちにも劣らない権威を持っているのだ」(1904年12月24日)


1. アラスカへの宣教者、聖インノケンティ。ニコライ師は来函前にニコラエフスクでインノケンティと出会い、聖書や祈祷書をその国の言語に翻訳し土着化を図るよう助言された。
2.  主代郁夫編『明治期日本正教会著訳出版図書目録』によると、聖歌譜 『ハンノキトウ』『フクカツノマツリウタ』祈祷書『日誦経文』『啓蒙礼儀』など。また、明治6年以前にも聖歌譜が印刷されていたことが、仙台詠歌隊の記録にある。
3. 後に「聖なる神、聖なる勇毅、聖なる常生の者よ・・・」「神の独生の子」と改訂された
初期の函館のものはアナトリー神父とサルトフ、澤辺らの力によると思われる。
4. 『ハンノキトウ』、『フクカツノマツリウタ』主代郁夫編『明治期日本正教会著訳出版図書目録』 また正教新報の広告から明治13年に『諸祭日歌譜』15年に『詠隊歌譜』の出版が確認されている。
5.  中村理平氏によれば、大沼魯夫の記述は聞き書きや自身の記憶をもとにしているので、年号など細かい点で間違いが多い。これも、チハイとリオフスキーの記憶違いではないか。大阪正教会発行の聖歌譜『徹夜祷』昭和41年 9ページにも収録。
6.  聖歌譜に「ミ・ミノル」などと書いてあるが、mi mineurフランス語でホ短調のこと。
7.  ロシアで女声が採用されるのは1880年アルハンゲリスキーの合唱団以後。当時聖歌隊で高音部を歌った農奴出身の少年たちの変声期を迎えたときの非人間的な処遇が社会問題になっていたため、ニコライ師は迷わず女声を採用したのではないか。
8.  「光栄は父と子と聖神に帰す」の一節が祈祷の各所に加えられるようになったのは、異端論争後の381年のコンスタンティノープル公会議後。
9.  1721年総主教が廃され、政府の機関として宗務院がおかれる。
10.  古い単旋律チャントのスタイルは、旧儀式派に残されていた。
11.  オビホード『教会標準聖歌集』は宗務院後には総主教庁から何度も出版されている。ここではリヴォフ(1848)バフメテフ(1869)のオビホードと勅令。リヴォフはドイツ和声を重視し、全部の聖歌に単純な和声をつけ、皇族の出席がある場合は必ずこの通り歌うように全国に勅令を出した。後継者バフメテフはさらに押し進め、全ロシアではオビホードの歌のみを歌うように勅令を出し、新しい聖歌作曲の検閲を強化した。和声化するために元々の単旋律のチャント(роспев)のメロディをゆがめたものもある。V. Morosan 『Choral Performance in Pre-Revolutionary Russia』Musica Russica
12. 新作聖歌の検閲や教会聖歌の統一の背景には、神品領聖中の本来「領聖詞」を歌うべき時間が、新作の合唱コンチェルトの発表会と化していた当時の混沌とした状況が背景にあった。
13.  ペテルブルグ神学校レーゲントコース資料(山崎瞳氏提供)
14. 神戸教会所蔵。4冊組パート譜。但しチハイが使用したものではなく、中国の教会で使っていたものが寄贈されたもの。1869年版は聖体礼儀のみ。1901年版は晩祷、聖体礼儀があるが、テノールのパート譜が欠けている。(富賀見氏の電子化資料による)
15. 検閲の権限は教会ではなく、宮廷付属教会音楽長にあった。



主な参考文献 (祈祷書以外)
正教会史に関するもの
『大主教ニコライ師事蹟』日本正教会
牛丸康夫『日本正教会史』日本正教会
『正教新報』日本正教会
中村理平『キリスト教と日本の洋楽』大空社
中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』岩波新書
中村健之介訳『明治の日本ハリストス正教会 ニコライの報告書』教文館 P42
中村健之介等訳『宣教師ニコライの日記抄』北海道大学図書刊行会 P102
三井道郎『回顧断片』三井道郎回顧録 私家版P13
長縄光男『ニコライ堂の人々』現代企画社
主代郁夫『正教会聖歌に関して』

聖歌譜と聖歌に関する参考資料
明治期
日本正教会『聖歌譜』明治26年 四声パート譜、明治40年 四声パート譜
日本正教会『唱歌譜』不明 単音譜
日本正教会『諸祭日唱歌譜』明治24年 単音譜
日本正教会『大斎受難週聖歌譜』 不明 単音譜
ロシアで発行されたもの
ロシア宗務院『オビホード』1869年版聖体礼儀、1907年版前晩祷聖体礼儀 四声パート譜
Е.Кустовский и Н.Потемаина ≪Осмогласия≫ 1999 Православные Московскик Легентские крусы
М.И.Ващунко ≪Образцы Русской Духовной Музыки---Пасха≫ 1996 Санкт-Петербургская Православная Духовная Академия
≪Ирмологий≫ Московской Патриархии 1983
サンクトペテルブルグ神学校聖歌資料、オスモグラシア、(イルモス、スティヒラ、トロパリ)
モスクワ神学校聖歌資料 オスモグラシア、(イルモス、スティヒラ、トロパリ)
≪Православный Богослужебный Сборник≫ Московский Патриархии 1991
その他 聖歌全般に関する参考資料
J. V. Gardner “Russian Church Singing” SVS
V. Morosan “Choral Performance in Pre-Revolutionary Russia” Musica Russica
V. Morosan “One Thousand Years of Russian Church Music 988-1988” Musica Russica
E. Wellezs “A History of Byzantine Music and Hymnography” Oxford
H. Wybrew “The Orthodox Liturgy” SVS
“Orthodox Church Music” vol. 1 & 2 OCA

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