ウラディミル神学校 夏期セミナーの講義から

 

聖体礼儀解釈の変遷

―――聖体機密の理解―――

Interpretation of the Liturgy through the Ages

聖体礼儀解釈の歴史

 

ポール・マイエンドルフ教授 Dr. Paul Meyendorff

 

◇初期: 最初の数世紀にすでに、聖体礼儀理解の基本的なアプローチが存在した。

○ハリストスは宴会の主host、晩餐の分配者dispenserとして理解された。

これは最後の晩餐の「制定のことば」そのものによる。ディダケー Didache(93)にも幾分異なる表現で記録され、「ハリストスはいのちと知識をもたらすもの、聖なる名を私たちの心に住まわせ、知恵によって明かされる知識、信仰と不死を与えるもの、あるいは、スピリチュアルな食べ物と飲み物であるご聖体は、ハリストスを通して永遠のいのちをもたらす」と記される。イオアン伝6章の記述に類似し、知恵文学に由来する。

 

              ユーカリストを犠牲として理解

ヘブル書に由来する。ディダケーの14章でもユーカリストを犠牲と呼び、マラキ書(1:10)を引用して命令としている。クリメントの40から44章でも旧約の犠牲のオーダーを新約の犠牲のオーダーの典型として考えている。ここに新約のユーカリストと旧約のいわゆる「トーダーの犠牲」、讃美の犠牲との関係をみることができる。ユーカリストはギリシア語を話すユダヤ人たちが「トーダー」をエフハリスティア(ユーカリスト)と訳した。エフハリスティアと犠牲は一つのコインの両面である。エフハリスティアはユダヤ人の犠牲理解の一面であった。

ディダケーによればユーカリストは教会の犠牲と見られていた。またここから、1世紀の教会で、いかにユーカリストが中心であったことがわかる。迫害時代において違法だったのは、「集まる」ことだった。ローマ人は信仰の内容には無関心であったが、違法な集まりに危機感を抱いていた。それにもかかわらず、1世紀のキリスト教徒は、常に集まって、聖体機密を行っていた。

初代キリスト教徒にとってユーカリストは生活の中心であったにもかかわらず、それに関する文献は何もない。ユーカリストの神学、ユーカリストの意味を記したものは皆無で、ユーカリストの祈祷文がごくわずかあるのみである。ディダケー、使徒憲章、アッダイとマリのアナフォラ(3世紀のシリアのユーカリスト祝文)など、あるいは致命者イウスティン(護教家、65-67)に何が行われているかが書かれているのみで神学的な記述はない。

キリスト教徒たちは聖書が書かれるずっと前から聖体機密を行っていたことがわかる。新約聖書の記述も実際に行っていたことをもとに書かれている。そこには系統だった神学や注解がない。その理由は、機密に関することは信徒以外には隠されていたためである。啓蒙者といえども、洗礼以前に聖体機密に参加することはゆるされず、その意味の解き明かしも洗礼を受けてから初めて行われた。4世紀までは、意味の解き明かしは新しく洗礼を受けたものと既に受けた信徒の希望者に限られた。

 

◇4世紀になって大量の注解書Mystagogical Literatureが出現した。

機密について説明した書面、説教などで、たとえば、エルサレムのキリル(キリロス)、ミラノのアンブロシイ(アンブロシウス)、モプシュエスティア(小アジア)のフェオドル(テオドル)、金口イオアン(アンティオキア)などがある。

 

これらは洗礼の前後におこなわれた指導書で、特に洗礼後の啓蒙である。金口イオアンは洗礼以前に行った例があるが、洗礼後が主であった。聖体礼儀、洗礼機密についての説明や注解、機密の説明を受洗者(新光照者neophites)に行った。

 

4世紀にはキリスト教が公認され、さらにまもなく国教となったために受洗するものの数がどっと増え、名ばかりのクリスチャンもふえたために全体の方向性が変わっていった。

 

○機密論的啓蒙(Mystagogical catechesis)の目的

洗礼や聖体機密の意味を説明すると同時に、これから受洗しようとする人に畏怖の気持ちを起こさせる必要が起こった。これは深刻な問題であった。この時代からご聖体への畏怖を説明する神学が発達する。たとえば、「これが主の体と血なのを知っているか。いかにご聖体は尊いか、それに対してふさわしく備えなければならない。」と教えた。この傾向は当時大変強かった。ご聖体を大変畏れ多いものと考える(Eucharistic piety)傾向が進み、逆に領聖を重要視しなくなった。

4世紀以前においては洗礼を受けたもの全員が領聖する(領聖するのにふさわしい)というのが前提であり、教会に行くというのは領聖に行くことだった。食事なのだから食べることそのものがユーカリスト的な集まりの目的だった。ところが4世紀頃から前提が変わり、洗礼を受けたキリスト教徒であってもふさわしくないとする傾向が起こった。とくに修道士の集まりでこの傾向が強くなった。修道は4世紀以前にもあったが、迫害の終わる4世紀から発達した。修道はラディカルなキリスト教の証人として新しい形の致命者、天使のような生活を送ろうとした。なぜなら修道士はこの世の物質や快楽をあきらめた人だからである。修道主義は神学論争に強い影響を与え、文字通り「新しい致命者」となり、イコノクラスムの頃までに主教職は修道士から選ばれるようになった。修道士はこの世のあらゆるものをすててラディカルなキリスト教徒の生活を選び、皇帝やこの世の権力者を畏れず、神学論争をリードし、進歩的だった。その結果、一般信徒を二流の信徒として見る傾向が起こり、四世紀以後のEucharistic piety(ご聖体を大変畏れ多いものと考える)に影響を与えた。

 

     聖体礼儀解釈の方法論について

聖体礼儀の解釈は聖書(旧約)の解釈の方法からとられた。四世紀以前、聖体礼儀解釈は、説教者によって行われた。その方法は旧約聖書をイイススの予象として解釈する方法からとられた。三世紀以前にアレキサンドリア学派のクレメント、オリゲネスなどによって発展していた。どのようにしてイイススの予象として聖書を解釈する方法を聖体機密にあてはめたかというと、聖体機密を神学の源泉聖書(この場合旧約聖書)と同様に、神についての知識や神と交わる源泉として扱った。ある意味で聖書同様、特別な証しの源泉と考えた。

聖書は文字通りの意味と霊的な意味を持つ。聖書は重層的な意味をもつ。これは新約聖書も同様で、たとえばイオアン伝5:39ではイイススは「聖書は私についてあかししている」と言ったように旧約聖書をハリストスについて書かれていると見る。ルカ24:27では「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたりご自分について書かれていることを説明された。」旧約聖書は新約を予見し、ハリストスに関すること、ハリストスによって成就すること、真の意味はハリストスにあることについて語る。現在の聖書学者の読み方と逆である。聖パウエルのロマ書5:14「アダムを来るべき方を前もって顕すもの」とし、ハリストスを真の人間性を再創造する新しいアダムとして理解する。アダムは最初の人であって、ハリストスの藉身によってもたらされる真の人間性を予め示す。霊的な意味は、字義通りの意味に対して二義的なものではなく同等の意味を持っている。ハリストスの光なしに旧約聖書を理解することはできないとする。つまり旧約聖書の真の意味はハリストスにおいて理解される。イイススの予象として聖書を読むのが基本である。

 

四世紀までの聖書の読み方、聖体礼儀解釈に用いられた聖書解釈の方法をさらに階層的に分類すると以下の3つに分けられる。

1.Allegorical(寓話的解釈)旧約聖書をハリストスと教会に言及して解釈する。ある意味でドグマ的レベル。アダムやモーゼなどのイメージをイイススの予象の例としてあげる。

2.Troplogical(類型論的) 寓話的解釈をキリスト教徒の生き方に用いる。モラル的レベル。例:クリトのアンドレイの大カノン。聖書のモデルを模範とすべき、あるいは避けるべきモデルとして提示。

3.Anagogical 最終的な神の国の成就。現在この将来の天国の実在を観想していることに言及する。終末論的レベル。イエゼキイリ(エゼキエル)書の乾いた骨の話。もともとはイスラエルの再生を表しており、キリスト教のいう全世界の復活ではなかったが、キリスト教徒はごく早い時期から将来の復活の形として見ていた。

 

なぜ彼等はこれらの方法を聖体礼儀の解釈に持ち込んだのだろうか。

旧約聖書はハリストスにおいて成就することの予象として見られたが、教会では最終的な成就は既に存在し、体験することができた。ユーカリストは神の国の宴として、洗礼は死への勝利とあがなわれたいのちへの過ぎ越しであった。聖体礼儀は私たちがこれらのことを体験できる方法であり、儀式はこの重層的な意味として解釈することができる。

聖書が重層的な意味を持つように奉神礼的な儀式も複数の意味を持つと考えられた。奉神礼に重層的な意味を与えるのは、テキスト(祝文や連祷)ではなく、外面的なもの、行進、動作など目に見えるものと考えるようになった。テキストもその意味を語ることができるが、シンボリックな意味、スピリチュアルな解釈に用いられることは稀である。儀式の外面的な動きから説教者や解説者はさらなるシンボリックなイマジネーションを得た。各解説者はこれらの色々な方法を用い、ある時はあるものを強調し、別の場合は別の面を強調した。

 

聖書的なイイスス予象と同じく解釈方法に二つの潮流があった。

              1.アンティオキア派:(広義で。すべてがアンティオキアであったわけではない)

アンティオキア学派のイイスス予象の聖書学を反映し、聖体礼儀解釈でも、字義的、歴史的な面が強調され、救済の歴史とハリストスの人性に焦点を置いかれた。寓意的(Allegorical)。聖体礼儀をハリストスの地上のわざを表すものとしてみる。たとえば、大聖入をハリストスの埋葬行列として見た。

              2.アレキサンドリア派

クレメントやオリゲネスの霊性主義的傾向(spiritualizing tendency)による。analogical、終末論的な面が強調される。聖体礼儀、究極的な機密mystery――神を表すものとして見る。例として、ディオニシウス、または偽ディオニシウスの教会位階論(Ecclesiastical Hierarchy

感覚的にとらえられる儀式は実在のわかりやすいイメージである。「儀式によって導かれ、道が示される。実在とは霊的なもので、物質の存在はより高次の霊的な実在を示すためにある」そこにプラトン主義的な考え方が見える。真実は霊的で、物質はそれを用いて霊的な世界と交わるためのものと考えた。物質そのものにはあまり価値をおかない。ある意味ではマニ教的。聖体礼儀はこの世の罪による分離から、儀式の中でイメージされる浄化、光照、完全の経過を通って神との交わりに昇る発展の源泉のアレゴリーであると考える。

偽ディオニシウスは教会位階論の中で、「『不完全な人に残しておこう』、私ののべたこれらの印は至聖所の入り口に美しく書かれている。彼等の観想に十分だ。私たちが聖なる交わりを観想するのだから、その結果から原因へと過ぎ越してゆこう。」と述べる。

聖体礼儀全体を物質的なものから霊的なものへの上昇と見ている。多様に重なる低い存在から神との一致へと昇る。彼にとっては最も聖なる動きとは分割されたもの「象徴的に多様な層に分けられたもの」だった。体系的にはオリゲネス的な陥落と帰還の構造をとり、もともとひとつであったものが罪によって破壊されバラバラになったが、救済によってもとにもどされるという哲学的な体系を持つ。ディオニシウスの問題点は、特に聖体礼儀についてということではないが、一般的に、ディオニシウスにとって藉身の目的は道徳的哲学的モデルを提示することにある。ハリストスは私たちが模倣するためのモデルにすぎない、救済は倫理的な完全さ、完全なモデルであるイイスス・ハリストスをまねることを通して達成されると考える。<この点では10年前ゲリツィン神父とポール・ウエシイ神父の論争があった>

 

プシュアスティアのフェオドル(テオドル)によって解釈の手法が統合された。(アンティオキア派)

              四世紀末から五世紀の1/3ごろの著述家d.428

基本的にはアレゴリカルでタイポロジカルなアプローチで、旧約聖書の出来事や人物をイイススに関連づけてみる。奉神礼の儀式を歴史上のイイススと関連づける。たとえば、洗礼は、第一義的にはヨルダン川での洗礼に対応し、二義的にはローマ書六章に基づいて死と復活に対応させて見る。聖体機密は最後の晩餐の記憶で、ハリストスの地上でのわざの記憶である。制定のことばにみられるような、ごく初期段階にみられた単なる死の記憶ではなく、ハリストスの地上でのわざと天の聖体礼儀の先取りと見る。この代表として、ペルシアムのイシドールd435、エルサレムのキリル、金口イオアン(アンティオキアでの記述)がある。

 

引用:モプシュアスティアのテオドル(d.428)の啓蒙説教 五世紀前半 

この畏るべき犠牲、天に於ける実在の明かなイメージである聖体礼儀を行うたびに、私たちは天にいることをイメージしなければなりません。私たちのために死んで復活し天に昇ったと同じハリストスが天にいます。今こうしてシンボルとして描かれていることは、信仰によって天の実在を心に描くことができます。信仰によって、私たちは行われていることから、私たちのために既に起こったハリストスの死と復活と昇天を見ることができるのです。

 

引用:テオドルによる大聖入の解説

ハリストスが犠牲として宝座に安置されるとき、これらの印を用いて受難へ向かうハリストスを見なければなりません。今献じられようとしている捧げ物はディスコスとポティルという聖なる器に載せて運び出されてきます。この時、ハリストスが受難に向かう様子を思い描きます。これらの印は、救いの受難の時に捧げられた目に見えない力、主の藉身の生涯を通して行われた神の働きを表します。ですから輔祭が捧げ物のパンを戴いて運ぶとき、そこに目に見えない神の働きの力を見なければなりません。輔祭は天使なのです。輔祭のオラリ(肩布)に「聖、聖、聖なるかな」の文字が書かれているのをみたことがありますか。これは天使の歌です。パンを掲げ宝座の上に安置して受難の模様を終えます。さて、私たちはハリストスの受難は終わり、宝座を墓として納められたと考えねばなりません。

 

大聖入を埋葬の行進、宝座を墓とする解釈はマプシュアスティアのテオドルから始まった。テオドルは、これらのことが全く静かに行われたという。聖体礼儀の開始前だったので、畏るべき体が運ばれ安置された場所で、畏れ多い記憶を思い起こし黙祈が行われたのは当然である。主が死んだときも弟子たちは偉大な記憶と畏れから家にひきこもっていた。当時は後世のような大聖入の行進は未だ行われておらず、単に輔祭が宝座に必要な品物を持ってくるだけだった。そこにはヘルビムの歌も仰々しい動作もなかったが、シンボリックな解釈の基盤はすでにできあがっており、ビザンティンで後世に大聖入を装飾的な形にしてゆく現象を既に見ることができる。

 

聖体礼儀はハリストスの受難に対応したドラマティックなものになっていった。このアプローチを採用する後代の解釈はさらにハリストスの全生涯(降誕〜復活、昇天etc)へと広がっていった。

 

     エルサレムの影響――歴史的絵画的な解釈

エルサレムは4世紀巡礼の中心地となった。それ以前、エルサレム崩壊(70AD)以後コンスタンティン以前のエルサレムはただの田舎町で、主教はいたがカエサリアやパレスティナの主教に従属し目立たない存在だった。コンスタンティンがハリストスの生涯の重要箇所と思われるところに計画的に大バシリカなどの建築物を建てた。それによって、儀式が歴史化されていった。特に受難週において行われた。どのキリスト教の教派でも受難週の伝統は4世紀のエルサレムに始まりを見ることができる。「エゲリアの日記」(スペインの修道女の巡礼記)[太田強正訳サンパウロ]

聖体礼儀、洗礼、また特に教会の1年(暦)、聖体礼儀を歴史的絵画的なアプローチで理解する傾向に影響を与えた。

ここまではプレ・ビザンティン時代で、東西共通のものも多い。

 

     ビザンティンのアプローチ

8世紀まではアレキサンドリア学派のアプローチが中心だった。機密論的Mystagogical, 終末論的eschatological なアプローチである。

最初の代表的な解釈は表信者マキシマスによるコメンタリー(630年頃、修道士に対して語ったもの)である。

<この種の古い文献を読むときは、語り手がどいういう出自で、誰に対して語ったかに注意すること>

修道院の霊性主義の伝統と機密論的mystagogical の合体である。修道者にとっても聖体礼儀が重要であることを説いた。なぜなら、当時オリゲネスの影響で、ユーカリスト(聖体機密)を軽視する傾向があった。

初期の修道は平信徒の現象で、主教や司祭がいなかった。ご聖体を頂くためには近くの街の教会へ行かねばならなかった。彼等は浄い天使のような生活を送っているので、誘惑に満ちた街で暮らす人たちのように領聖する必要はないと考えた。神との交わりはcontemplation観想によって可能だと考え、機密的、奉神礼的なEucharistic piety(領聖を大切と考えること)は重要視されなかった。

マキシマスはこの傾向をあらためようとした。偽ディオニシウスPseudo Dinysiusなどの当時の行き過ぎた霊性主義を是正しようとした。ディオニシウスは当時修道士たちの尊敬を集めていたため、マキシマスは彼を何度も「師よ」と呼びかけながら、ご聖体(聖体礼儀)への尊敬をより積極的な方向へ向けようとした。

 

マキシマスは2つのレベルでアプローチを行った。

     聖体礼儀の各部に対する全体的なコメント。(ゲネコス)。

     個々人へのコメント。(エディコス)。

聖体礼儀の各部に対して二つの説明を行った。

 

1.全体的コメント:宇宙全体に言及して救いの機密mysteryを説明した。タイポロジー(類型学的)

(例)小聖入  主教が教会に入ってきて衣装をつける。

「神の子が、ハリストスが肉体を取り、藉身してこの世に最初に来られたことを表す」藉身のイメージ(注解 第8章)

2.個々人へのコメント:

(例)「主教とともに教会に入ってきた人々は、非信者が無知と欺瞞から神を認めるようになったことを表す。人々は悪と無知から全と知識へと変わった」比喩的解釈tropological sense: 人々がこの世を離れ聖堂に入ってくる動きを、闇から光、無知から知恵への回心ととらえる。

 

     福音書は次のふたつを表す。

1.主教が玉座を降りる時、啓蒙者や痛悔者を教会から出す時、ハリストスの再臨と審判を表す。終末論的イメージ。

2.目に見える世界をシャットアウトすることを表す。この世に傾きがちな考えを取り除き霊的なビジョンへと心を向ける。ヘルビムの歌「この世の慮りを退くべし・・・」比喩的解釈と倫理的回心すべての部分を二様にとらえていく。

 

マキシマス

神の聖なる聖堂、その建物は見ゆると見えざるもので構成される世界の形でありイメージである。聖堂は至聖所と呼ばれる聖職者と堂役のための場所と信徒が入る聖所とに分けられている。にもかかわらず教会は本質的に一つである。部分が異なるから分けられているのではない。智者は神の創造によって存在するようになった世界を、非肉体的な知恵を持つ霊的な世界と逆の意味で肉体的な世界にわけて見る。それは人の手で作られない別物の教会のようだが、人の手で作った教会によって示唆される。至聖所は天上の力のための世界に、聖所は感覚を持って生きる人たちのために用意された下の世界に割り当てられる。聖なる神の教会は感覚可能な世そのもののイメージである。至聖所は空を思い出させ、聖所の厳めしさは大地を反映する。世界は教会と考えることもできる。空は至聖所のようで、大地を耕すことは教会に似ている。

 

教会を宇宙と考える。教会建築の理論基盤となった。教会の中央の大ドームを天と考える。教会を「世界」のイメージとする。次に、教会を人間のシンボルと見る。至聖所=魂soul、宝座=心mind、聖所=体bodyと見る。教会は人間のイメージ=神の似姿として作られた=神のイメージ聖所(体)ととらえ、倫理哲学に用いられた。至聖所は人間が魂を用いて行う霊的な自然な観想(natural contemplation)へと教会が導くと考える。mystical theology(神秘神学)は宝座(心)から始まる。人はその心を通して行う。

 

     ゲルマノスのコメンタリー(コンスタンティノープルの総主教d.833)8世紀マキシマスの100年後 

マキシマスを広く引用しアレキサンドリア学派のmysticalアプローチをアンティオキア学派の歴史的観点と統合した。さらにハリストスの人間としての使命に焦点を当てた。

たとえば、大聖入についてマキシマスと類似した語り口で始める。「輔祭の行進、リピダがセラフィムを表し、ヘルビムの歌は義人と聖人の入場を表し、ヘルビムの力を長とする天軍は見えずして偉大な王ハリストスを先導する。」ここには終末論的イメージがある。儀式に見られる意味とプロスコメディア(奉献)の祝文(今は大聖入後の連祷の結句として読まれる)は首尾一貫していた。この祝文はもともとヘルビムの歌の間によまれたが、教役者の準備の黙唱祝文に取って代わられ、連祷の後に押し出された。これから起ころうとするmystery(機密)への私たちの準備である。   

     ヘルビムの歌のテキスト

「神使の軍の見えずして荷ひ奉る万有の王を戴かんとするに縁る」

“That we may receive the King of All, who comes invisibly up borne by the angelic hosts”

この歌はもともと領聖に備えるための歌であった。「いただく」はご聖体を「受ける」。「いただく」はギリシア語のイポゼホメipothehomeが原語で、「領聖する」を表す特別な用語であったが間違って訳された。つまり「万有の王をいただかんとす」は「ご聖体をいただくために準備する」の意味だったが、誰も領聖しなくなるにつれ意味を失った。スラブ語ではギリシア語のipo=under, thehome=have, pod imen(have under)と「戴く」と訳した。プリニコニア訳ではpri imen (ロシア語のprinyati’受けると同語源)の方が意味をなしている。

 

ゲルマノスはさらにアンティオキア流の歴史的解釈を付け加えた。大聖入はハリストスの埋葬の模倣ととらえられ(「尊きイオシフは爾の潔き身を木より下し、浄き布につつみ、香料にて覆い、新なる墓におさめり。」新しく付け加えられ、各要素に寓意的な解釈がされた。

ディスコス=イオシフとニコディムの手

大気=ハリストスをまいた布

マプシュアスティアのテオドルと比べると、より周到に儀式のひとつひとつに意味づけがなされ、14世紀のニコラス・カバシラスの登場まで、ゲルマノスの著書は神品のためのスタンダードなマニュアルになった。

 

     アンディーダの主教ニコラスとアンディーダのテオドル Prothoria

シンボリカルな解釈。すべての動作、動作自体と全く関係ないものまでハリストス生涯のアレゴリーとして表し、聖体礼儀は劇場となってしまった。たとえば、プロスコメディアはハリストスの降誕になぞらえられた。(奉献台の前にはしばしば降誕のイコンが置かれる)

聖体礼儀の一刻一刻がハリストスの生涯にあてはめられ、聖体機密自体の動きと何の関係もなくなってしまった。

 

(問題)これは実際にあった話だが、ある敬虔な老司祭が若い司祭にプロテシスを教えるのに、プロスフォラから四角く羔を切り出すときに底の皮を傷つけないように注意したら。なぜなら生神女の処女膜を傷つけることになるからという。プロスフォラを生神女、プロテシスを降誕になぞらえ、文字通りにとったためである。笑い話ではない。

スラブにビザンティンの伝統が移植されたとき、儀式はまるごと伝えられたが神学的知的な伝統全体が伝えられなかった。すべての動作や奉事規程をドグマと同等にしてしまった。(cf. Ferme, “The Understanding of Byzantine Liturgy in Russian Theology.” )スラブに限らず、大聖入の捧げ物をすでにハリストスの体であると考える行き過ぎた敬虔さの傾向があった。中世のロシアではプロスコメディアの間に聖変化が起こると思っている人がたくさんいた。シンボリカルな解釈を全く「文字通り」にとることから起こった。多くの人がこういう説明をされて育ち、今でもそう信じている。過去のことではない。

 

     ニコラス・カバシラス 14世紀

聖体礼儀をハリストスの生涯と見るシンボリズムを用いながら、よりバランスのとれた方法で語った。領聖することを強調した。他のコメンタリーが触れてこなかった「領聖によって神のいのちを分かち合うことができる」が特に強調された。

  “Life in Christ”    “Commentary on Liturgy” 2冊とも推薦図書 SVS出版

 

(引用)『聖体礼儀注解』 38

教会は聖機密の中に表される。その姿においてだけでなく、心において肢体が表され、根において枝が表されるように、主がぶどうの木の枝について話されたようにである。ここでは単に名前が同じであるとか、類似による寓意ではなく、本当に同じなのである。

聖なる機密はハリストスの体と血であり、それらは教会の真の食べ物である。教会がそれを分かち合うとき、私たちが普通の食べ物を人間の体の中で姿を変えるのとは異なる。教会が真の食べ物になるのだ。より高い神聖な要素は地のものを打ち負かすからである。鉄が火に入れられると、鉄は火になる。しかし鉄は火に鉄の性質を与えない。白熱の鉄を見ると、それは金属ではなく火のように見える。鉄の性質は火の働きで破壊されたからである。だから人がハリストスの教会を見るとき、教会はハリストスに結ばれ、その聖なる体を分かち合う限り、主の体以外は見えないだろう。

だから、聖使徒パウエルは「あなたがたはハリストスの体であり、また、一人一人はその部分です。(1コリント12:27)」と言ったのだ。パウエルはハリストスを頭と呼び、私たちを肢体(メンバー)と呼んだ。私たちに対するハリストスの愛、教えや訓戒、私たちのハリストスへの完全な服従を、私たちが親類や友人を仲間と言うのと同じような意味で誇張して言ったのではない。そうではなくて、これからは、信徒はハリストスの血を通してハリストスの中に生きるようになり、頭に全く依存して体をまとって生きることを言ったのだ。だから、聖なる機密がハリストスを表しているというのは理不尽ではない。

 

カヴァシラスはゲルマノス以降の行き過ぎたシンボリズムを是正した。彼の著書は広く読まれ東西教会に大きな影響を与え、トレントでも引き合いに出され、17世紀プロテスタントの聖体機密論に対抗するラテン教会の改革においても参考にされた。カヴァシラスで興味深いのは、「成聖の時はいつか」という論争の時の発言である。正教会はエピクレシス、ラテン教会は制定のことばとし、ラテン教会をエピクレシスがないと非難した。それに対してカヴァシラスは、「ローマのカノンにもエピクレシスが言及されている。」と言った。彼は「Supplices te rogamus の祈り(制定のことばのあと)に言及した。Supplices te rogamus omnipotens Deus:jube haenc perferri per manus sancti Angeli tui in sublime altare tuum,in conspectu  divinae majestatis tuae:全能の神よ。謹んでお願いいたします。あなたの聖なるみ使いの手によって、天(高きところ)の祭壇と神聖なみいつのみ前に運ばせてください。捧げ物が天の宝座に運ばれ、受け入れられるようにという祈り。」制定のことばのあとにとなえられる祈りである。捧げ物が天に運ばれ天の砲座で受け入れられるように願うのだから、聖神が降って天に運ばれる意味は同様で、ラテン教会のカノンにもエピクレシスがあると語った。

 

     テサロニカの主教 シメオン 15世紀

作品としては“Exposition of Divine Temple” ”Treaties on the Liturgy”

よりアナロジカルで偽ディオニシウスの後継で、同じく空しい。

その後の聖体礼儀解釈も同様で、多くの人がこの類の聖体礼儀の注釈を受けて育った。

 

ニコライ・ゴーゴリ「聖体礼儀考」訳注:明治28年に北川貞行による日本語訳が出版されている。)

聖体礼儀をハリストスの生涯になぞらえるシンボリズムと典型的な19世紀ロシアの敬虔主義と感情主義がひとつになっている。最初から最後まで感傷的である。「大聖入」のあとの連祷について。

 

輔祭はソレヤに出て王門に向って、天使が羽を広げて祈りを流すように右手の三本の指でオラリを掲げ、それまでとは違う様子で連祷を始めた。まず、宝座に移された祭品のための祈り、ハリストスによって生きる信徒のみが献ずることのできる祈りを始めた。「此の日の純全・成聖・平安・無罪ならんことを主に求む」信者はこのような平安の日を過ごすことを祈って聖歌隊と共に心の底から「主賜えよ」と叫んだ。「平安の神使、正しき教導師、吾が霊体の守護者を賜わんことを主に求む」天使に祈って叫んだ。「主賜えよ。」「我等の罪と過とを宥め赦さんことを主に求む、」涙ながらに赦しを願って叫んだ。「主賜えよ。」「我等の(たましい)に善にして益ある事及び世界に平安を賜わんことを主に求む、」霊のため、世界の為に必要なものを祈って、さらに熱烈に叫んだ。「主賜えよ。」「我等の生命(いのち)の餘日を平安と痛悔とを以て終らんことを主に求む、」信者にとってもっとも強い願いを献じて「主賜えよ」と叫んだ。「我等の生命(いのち)の終が「ハリスティアニン」に適い、疾なく、耻なく、平安なること、及びハリストスの畏る可き審判に於て宜しき(こたえ)をなすを賜わんことを求む、」全信徒は号泣して「主賜えよ」と叫んだ。輔祭は体と霊の目を聖人のイコンに向けて「至聖至潔にして至りて讃美たる我等の光栄の女宰・生神女(しょうしんじょ)・永貞童女マリヤと、諸聖人とを記憶して、我等己の身及び互に各の身を以て、並に(ことごと)くの我等の生命(いのち)を以て、ハリストス神に委託せん、」信者は生神女と聖人と同じく自分の生命を悉くハリストスに献じる願いを抱いて、「主爾に」と叫ぶ。連祷を結ぶ高声に続いて聖歌隊は雷鳴のように「アミン」を大声で歌った。

 

大音響の聖歌隊とともに涙ながらに歌う人々が見えるだろう。一種の敬虔な感傷主義が聖体礼儀をハリストスの生涯と一体化するシンボリズムが一緒になっている。こういうアレゴリカルな敬虔主義は深く根を下ろしており、それしか聞いたことのない敬虔なキリスト教徒がたくさんいる。

 

     結論:シンボリズム的解釈の伝統の特徴と評価

 

ここにはある種の変形した敬虔さがある。それは頻繁な領聖が減少した結果起こった。すでに4世紀から始まり、領聖が減少したために、聖体礼儀に集まるために新しい理性論rationalismが必要になった。言い換えれば「領聖しないのになぜ教会へ行くか」への理由付けが必要になったといえる。

 

頻繁な領聖の現象はコンスタンティンによる公認313年の直後から始まった。理由は:

     新しい、名目だけのキリスト教徒が増えたため。

     背教者転向者の復帰:コンスタンティン直前の迫害は特に厳しかった。これらの裏切り者に対しては2030年、死の床まで領聖が許されなかった。彼等は領聖できないが教会に戻ってきた。

     洗礼の後のばしにする人が多かった。:コンスタンティン大帝は死の直前、金口イオアンや聖大ワシリーなどの4世紀の偉大な人々もキリスト教徒の家に生まれたが、大人になってから洗礼を受けた。厳しい痛悔規程が理由の一つだった。洗礼後は痛悔のチャンスは1度だけだった。アウグスティヌスなども洗礼を延ばした。

 

結果として、ユーカリストの共同体が壊れていった。少数が領聖、大多数は領聖しなくなった。理由は罰のため、啓蒙者だから、名ばかりのクリスチャンが増えたなど色々は色々あったが、信徒の多くがオブザーバーになってしまって、聖体礼儀のエートス全体が変わってしまった。

 

天主経の後の屈首祝文「・・・航海する者と(とも)に航海し、旅行する者と(とも)に旅行し」は当時の退出の祝文であった。本来大聖入の前の啓蒙者の退出の祝文であったと考えられる。ここで啓蒙者、痛悔者、傍観者が退出したが、次第に啓蒙者がいなくなり退出するものがいなくなり、領聖しない者も留まるようになり、天主経のあと領聖直前に退出した。

 

これと関連して畏怖を強調するスピリチュアリティが発展した。名ばかりのキリスト教徒が増えると聖職者は、「これは真剣な話だ」「これはハリストスの体だ」と強調したが、地獄の火が強調されればされるほど人々は違う方向に行ってしまった。

領聖への「ふさわしさ」を強要されて、名ばかりのキリスト教だけでなく敬虔な人々もご聖体から離れてしまった。「ふさわしいかどうか」をあまり問われると自信がなくなり、敬虔さからご聖体を離れるようになった。また、修道院の動き、霊的なカウンセリング、司牧的な指導において、ご聖体をしばしば罰の道具に用いてしまった。(参考文献. John Erickson: “Challenge of our Past”, SVS)

 

聖体礼儀への新しいアプローチを発展させねばならない。聖体礼儀がご聖体を受けるためでなくなったら、教会はハリストスの体の実現でなくなってしまう。この伝統は全くの代替え品であった。もともと、それを意図したものではなかっただろう。シンボリックな注解は新約聖書時代初代教会から続く聖体礼儀の理解と共にあることを意図していたが、それを凌駕するものではなかった。しかし本来の意味が失われたときに、それを引き継ぎ、聖体礼儀の主要理解となってしまった。

では「何が大切なアプローチか」を考えよう。アンティオキア学派の答は聖体礼儀のシンボリズムを発展させたために、儀式そのものがハリストスの救いの業の実在でなくなってしまった。まもなく聖体機密の祝文が黙唱になり、人々が見るのは外面的な儀式ばかりになってしまった。ビザンティンではシンボリックな動作を果てしなく華美にし、二義的なシンボリックな解釈を与えていった。我々は西方の中世の教会がご聖体を拝みに行ったと言って批判するが、領聖せずして聖体礼儀にハリストスの生涯物語を見に行くなら同じことだろう。

アレキサンドリア学派のアプローチは,さらに霊性主義的でキリスト教徒のグノーシス主義よりmystical(神秘主義的)で個人主義的で、神の実在を神秘的に観想する。ディオニシウスに見たようにご聖体を必要としない修道者の集まりで盛んだった。

 

これらの聖体礼儀注解は神学的な論争と関係して起こった。たとえば、光栄讚詞Doxology「光栄は・・・」4世紀。アリウス主義に対して導入された。「神の独生の子」はユスティニアヌス帝がカルケドン派と非カルケドン派の和解のために導入した。「信経」は、まず6世紀に非カルケドン派のコンスタンティノープル総主教が導入した。これは非カルケドン派のニケア信経で、後に正教会がコンスタンティノープルを奪回したときに今日のニケア・コンスタンティノープル信経と差し替えた。

注解も同様で、アンティオキア派は救済の歴史をアリウス主義への応答として強調した。アレキサンドリア派はアリウス派が否定したハリストスの神性を強調した。マキシマスは救済の歴史を述べて、修道士のグノーシス的なアプローチを批判是正しようとした。ゲルマノスは8世紀のコンスタンティノープルの人だが、最初のイコン擁護者で、イコノクラスムに反対したため、退職させられ、追放されタンカラウトで死んだ。彼はアンティオキア派のアプローチを用い、聖体礼儀はハリストスの生涯を表すイコンと教えた。ゲルマノスはイコン破壊は単性論の再来だと知っていたからである。彼は、イコン破壊に対して、聖体礼儀もハリストスの藉身、人間としてのハリストスの歴史を表していると強調したのだ。

また、注解が聖体礼儀に逆輸入され、聖体礼儀の構造そのものに影響を与えた。たとえば「ヘルビムの歌」は573574にユスティニアヌス帝によって導入された。皇帝がこういう命令をくだすのは稀だが、黙示から、地上の聖体礼儀は天上の聖体礼儀の反映と見るアプローチが広く行われていたためである。1415世紀、ハリストスの埋葬のトロパリ「尊きイオシフ」が大聖入の祝文に取り入れられた。プロスコミディアの儀式へゲルマノスの説明がプロスコミディアのテキストになった。歌の句、イサイヤ書のことばはゲルマノスの注解書からとられた。

儀式が本来の機能を失うとき、これらのシンボリックな説明が力を持つ。たとえば小聖入は本来聖体礼儀の始まりで、ここで主教や神品、会衆が教会に入った。今では、祈りが始まって15分もたつタイミングで、「入場」の意味を失った。至聖所から至聖所に円を描くだけである。主教祈祷ではなごりがある。シンボリカルな意味づけがあまり支配的になって、聖体礼儀は変化することができなくなった。シンボリカルな解釈は儀式を「固めてしまう」働きをした。11世紀以降聖体礼儀の形は変わらなくなった。シンボリカルな解釈をされる聖体礼儀の動作の大半はもともと現実的な意味が、現実的な意味がなくなってシンボリックな意味づけだけが残った。たとえば、うちわ(リピダ)や大気を振るのは蝿を追うためだった。

しかし、シンボリックな解釈はもともとの聖体礼儀の意味を凌駕することを意図したものではないはずだ。聖体礼儀――食事――ハリストスが主宰する――私たちが参加する――ハリストスの体になる。それが私たちの行っていることだ。頻繁な領聖がなくなれば、聖体礼儀は教会全体の共通の働きでなくなる。神品は至聖所のはるか向こうの遠い存在となり、聖歌隊が会衆の役割を取ってしまう。すると、聖体礼儀を神品と聖歌隊のショーにしようとする誘惑が起こる。会衆は観客になってしまう。会衆席から見物するだけになってしまう。

アナフォラの祝文が黙唱になったのはかなり早い時代で、ご聖体を畏怖する傾向と関係があったかもしれないが、もっと実際的な理由が考えられる。主教はだいたい年寄りだったために、アギアソフィアのような大聖堂では声が聞こえなかっただけだ。

実際的な理由に対して、二義的なシンボリックな解説がつけられてきた。アナフォラが私的な祈りになってしまった。(残念なことだが)アナフォラの祝文が省かれたり、でたらめな順番で読まれたり、時間節約のために聖体礼儀の前に読まれているのを見たことがある。特に大斎の間ワシリーの聖体礼儀の祝文が長いから、歌が終わった時点でとばしていた例があった。

4世紀のカノンでは毎週領聖するのが当然で、3週間領聖しなかったら領聖停止であった。それが今では、よき信徒であるために「年に一回は痛悔領聖しましょう」になってしまった。もちろん領聖復興運動によって状況は変わってきたが、正教会の大半ではまだ領聖しないのが一般的である。

領聖することが聖体礼儀の生きた働きでなってしまうと、敬虔さは個人的な献身の動作になってしまう。「ふさわしい」か「ふさわしくない」が個人の判断に委ねられ、教会のいのちとかかわりなくなってしまう。

それが問題なのだ。だからシュメーマン神父はシンボリカルな解釈に反対した。20年前、シュメーマン神父とバフテフト神父(ビザンティンの奉神礼史の専門家。ゲルマノスの解釈に則った聖体礼儀解説を周到に用意した。)との大論争があった。しかし、これは立場が違っていたのだ。シュメーマン神父は牧者として語り、バフテクト神父は学者として語った。シュメーマン神父の論文を読むと、彼がマキシマスによってインスパイアされているのがわかる。

              これについては別の機会に話そう。

 

(質疑応答)どのようにして聖体礼儀本来の意味を取り戻したらいいか。

ビザンティンの儀式は保守主義だが保守的ではなかった。アナフォラの祝文を読み返すことで、再発見し再体験することができる。金口イオアンのアナフォラ祝文や、特に聖大ワシリーの祝文を読もう。10世紀まではワシリーのアナフォラの祝文が日曜日のスタンダードで、金口イオアンの聖体礼儀は平日に行われていた。ワシリーの祝文に本質を再発見することができる。私はシンボリカルな解釈の伝統すべてを否定しているのではない。それ自体はよくも悪くもないのだが、それが聖体礼儀の本当の意味を覆い隠してしまうから問題なのだ。

たとえば、ハリストスは聖体礼儀の中でどのように臨在しているだろうか。成聖されたパンとワインにハリストスが鈴罪する、それは確かだが、他にも福音書、説教、私たち一人一人の中に存在する、私たちはハリストスの体なのだから。そしてまた、「すべての奉神礼的な動作がハリストス実在させ、藉身の歴史を表している。」それは全くその通りだが、それをドグマにしたり一義的な解釈してしまうから問題なのだ。

異端というのはそれ自体が間違っているのではない。ある部分だけを取りだして、そこだけを「真実」とするから間違いなのだ。