「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。
祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」
(蕩子の主日 ルカ15:32)
放蕩息子のたとえ話は大斎の準備週間に読まれ、神様の憐みがいかに大きいかを示しています。この他にも、主イイススは、見失った一匹の羊を探すために、九十九匹の羊を野原に残していった人のたとえ話をし(同15:1〜)、またドラクマ銀貨を一枚無くした女の人がそれを見つけると、友達や近所の人を呼び集めて、共に喜んだ話をしています(同15:8〜)。
これらのたとえから、神様は遠く離れていた罪人が戻ってきたことを、ご自分と共に喜ぶよう多くの人を招いておられ、神様から遠く離れてしまっても、悔い改めによりすぐに受け入れて下さることがわかります。放蕩息子のたとえの中では、父親が、生涯忠実に過ごした兄に対してこの言葉を語っています。兄は、弟の帰宅を祝って祝宴が開かれているのを見て、怒って家に入ろうとしませんでした。帰ってきた息子を喜びをもって迎える父親の姿と、それに対してねたみの思いを抱く兄の姿はとても対照的です。兄は、仕事や務めをしっかり果たすことは大切にしていても、それは愛ではなく、義務として仕方なく従っていたのか?とすら思えます。
このたとえ話を通して、主イイススは、大斎をひかえた私たちにひとつの心構えを示しています。「わたしは何年も、お父さんに仕えてきました。言いつけに背いたことは一度もありません」(同15:29)と、自分のよいところを父親に向かって列挙する兄の姿は、自分の真面目さを神様との取引にしかねない危険を示しています。主イイススは、神様と人との関係が、ただ形式的に掟を守ることだけに終わらないよう求められています。神様は、私たち人間がその愛に値するかどうかにかかわらず、ご自分のほうから愛して下さいます。神様はご自身に対して私たちが心を開き、ご自分と真の交わりを築くよう待ち望んでおられるのです。
神様が全ての人に注がれる愛を、私たちが自分の尺度で裁いてしまわないよう、イイススは呼びかけておられます。たとえ話の中で父親は、弟が戻ってきたことを兄も喜ぶように望んでいますが、私たちも、人を軽蔑したり見下げるような思いを起こしたとき、この父親のように受け入れる必要があります。教会とは、そのような交わりが育てられて、神の国に連なってゆくものなのです。