爾(なんぢ)は多(おお)くのことを慮(おもんばか)りて心(こころ)を勞(ろう)せり、然(しか)れども需(もと)むる所(ところ)は一(ひとつ)のみ。彼(かれ)は善(よ)き分(ぶん)を撰(えら)びたり、是(これ)を奪(うば)う可(べ)からず。          ― ルカiケ書10章 ―

主イイススの祭日にはその出来事が記されたiケの箇所を読む。ところが12大祭で祝う生~女マリヤの誕生、進堂、就寝などにiケ書は触れていない。これらの祭日では、代わりにルカ福音書10章38〜42章を読むことになっている。

イイススはある村で姉妹マルファとマリヤ(生神女マリヤとは別人)の家を訪問した。妹はイイススのそばに付きっきりで話を聞いていた。姉は一行の供事(お茶だの食事だのといった世話)をしていたが、とても手が回らないので「妹のマリヤに、私を手伝うように言って下さい。」とイイススに頼んだ。するとイイススはマルファに仰った。「マルファよ、マルファよ、あなたは多くのことに心を配るあまり、思い煩っている。一つの大切な業に心を砕きなさい。そして、マリヤが選んだ善い業を奪ってはいけない。」

正教会にこのような話が伝えられている。「ある修道士が別の修道院に出かけた。大勢の修道士が働いているのを見て『此の世の食物の為に働くなんて。マリヤは善い業を選んだのに』と言った。修道士は客室に通されたが、とうに食事の時間だと思われるのに誰も呼びに来ない。遂に空腹に耐えかねた修道士が食堂へ行ってみると、皆とっくに食事を終えていた。憤る修道士に修道院長は言った。『あなたは~の人だから此の世の食物に用はないでしょう。私たちは飲食を得る為に働くのですが、あなたは善い業を選んだのでしょう。聖書を読み、~の言でご自分を養うのでしょう。』修道士は恥じて赦しを乞うたという。

また、聖大ワシリイも「主はマルファが自分の選んだ業をしている間は何も仰らなかった。主はマルファの供事を否定し、マリヤのようにしなさいと仰ったのではない。マルファが自分と同じようにしないマリヤを非難し、その選んだ業を取り上げようとしたので注意したのである。」と述べている。

他人を非難することは、正しく生きようと思っている人がしばしば陥る誘惑である。教会は常に「人を裁く勿れ」と戒める。大斎には「我が兄弟を議せざるを賜え」と膝をついて祈る。また、ある聖師父は「救われるために必要なのは人の悪口を言わないことである。食事の節制などそれに比べたら無意味だ」と言っている。自分がどう生きるか、他人がどうこうではなく自分が神様の前でどう生きるか、それが大切である。

欠かさず教会堂に参祷することを選ぶ人もいるし、職場や地域の隣人のために休みなく働くことを選ぶ人もいる。青少年がその学校生活や職場の中で「助け合いお互いに成長していく人間関係」を築こうとするなら、それは教会堂建設にも劣らぬ善業として~様に褒められることだろう。あるいは人間関係に「にっちもさっちも行かなくなって」、ただ~だけは自分を公正に見てくださると信じて教会堂に来る人があれば、~様はその信頼を善なる分として受け入れてくださるだろう。教会の旧い歴史を見るに、そもそも初期の修道士たちは堕落した(しかし聖職者も居り、聖体礼儀もあった)教会堂から逃げて荒野に赴いたのであった。何もない荒野−しかし彼等はそこも~様が創り給うた天然の教会堂であることを思い、そこを善き分として撰んだ。洗礼を受けた者にとって、あらゆる場所が教会堂であり得る。その者の身体そのものが既に「聖~の宮」なのだから。

聖使徒パヴロス(パワエル)も言う。「私たちはそれぞれ異なった恵み(カリスマ)を~に与えられているのだから、奉事する者は奉事し、教える者は教え、慈善を為すものは慈善を為せ。素直に、それぞれの業を、愛を以って行いなさい。」「祭日を尊ぶか、全ての日を同じと考えるか、それぞれ自分の心の確信に基づいて決めるべきです。」「禁食する者は~に感謝し、~の為に食べない。禁食しない者も~に感謝し、~の為に食べる」(ローマ人への手紙12章〜)。人に言われたからではない、教会のガイドブックを鵜呑みにするのでもない。聖使徒パヴロスは厳しく「自分の確信に基づかないで行うならば、全て罪なのである」とさえ言う。だが逆に言えば、あなた自身が善い業だと確信できることを素直に行えば良いのである。背伸びする必要はない。あなたの善き分はあなたの日常生活周辺にある。

生~女祭日の福音は、少し飛んで11章の27、28節を付け足す。「一人の女が言った、イイススを宿した胎イイススが吸った乳房は幸いだ。」と、イイススの母、マリヤが誉められる。イイススは「そう、神の言葉を聞いてこれを守るものは幸いだ。」と答える。(ただし正教会以外の聖書では「そう」ではなく「そうではない」と訳している。ギリシャ語接続詞αλλαをどう翻訳するかという問題)正教会は「子供を一所懸命育てること」も、ある人が選ぶ善き分の一つとし、「神の言葉を聞いて守ること」と同一だと解している。私たちが自分のすべきことを、他人を非難せず羨まず妬まず一所懸命にすること、これが良い業・あなたの善い分なのだと~様は教えている。      (司祭ステファン内田)

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