「敵を愛しなさい、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」
     (ルカ6:31〜36 第19主日福音に関連して)

 ハリストスの言葉の中でも、有名だけれども実行するのはたいへん困難と思われるこの要求に対して戸惑いを覚えない人はいないでしょう。
 誰でも、敵対関係に置かれたことはあるでしょう。以前騙されたことがある、廊下ですれ違うと逃げ出したくなる、政治的に同じ考えを持たない、かつてひどい仕打ちを受けた等、そういう経験は大なり小なり起こります。一体どうやってそういう人を愛するのか、無理な要求ではないか、と考えたくもなります。
 逆に困難だと言って片づけてしまったらどうなるでしょうか。世の中を見渡してみましょう。お互い赦すことをしないために崩壊してしまう家庭があります。抱いている恨みが、親戚・集団を分裂させることがあります。中には受けた不正を忘れてはならない、復讐すべきだと考える人もいます。根深い恨みは魂の毒となり、心を腐らせてしまいます。このことが個人集団レベルを超え大規模にふくれあがれば、あっという間に戦争や民族紛争に繋がって行きます。国際紛争を対岸の火事だ、などと思ってはなりません。
 主である神様は全ての人に対して憐れみ深い方です。悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者の上にも雨を降らせる方です(マトフェイ5:45)。主は私たちに対し、ご自身と似たものになるように望んでおられるのです。私たちもその寛容さと忍耐に倣う必要があります。一日の中で出会う人々に対して、とりわけ間違いを犯す人に対して、憐れみ深い愛を持つことです。「責めるべきことがあっても、互いに赦し合いなさい」(コロサイ書3:13)と聖使徒パウエルは要求しています。いつもお互いに赦し合うということです。ただ注意しなければならないことは、ただ単に人を赦すことを促しているのではありません。私たちが神様から赦されたように、周りにも同じようにしましょうと言うことです。
 「あなた方は、自分の量る秤で量られる」(マトフェイ7:2)という戒めも思い出さねばなりません。もし心が憎しみや怒りで煮えたぎっていたならば、それをずっと恨み続けるならば、神様の恵みを受け止めることは出来ません。それこそ生き地獄になってしまいます。他人を裁くその尺度で裁かれることを考えるならば、和解した方がよいでしょう。実際、最後の審判で神様が私たちを裁くその尺度を神様の手に渡すのは、実は「私たち自身」なのです。
 こういうことは考えただけで、夜も眠れなくなることがあるかもしれません。人間の限りある力では困難です。私たちには神様の助けと働きが不可欠です。祈り・悔い改め・ご聖体を頂くことを繰り返すことで聖神°の導きを求めて行きましょう。
 そうしたとき、普段天主経で唱えるように「我らに負い目ある者を我ら赦すが如く、我らの負い目を赦し給え」と本当に祈ることが出来るでしょう。実現したとき、信仰の喜びが深まります。