「何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことが出来るでしょうか」
               ルカ10:25 第二十五主日福音

 イイススは、ある律法の専門家にたとえ話をされました。「旅人が追いはぎに襲われ、瀕死の重傷を負った。その後、ある祭司が通りかかったが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。同じようにレビ人も、その場所にやってきたが、その人を見ると道の向こう側を通ってしまった。ところが、旅をしていたサマリア人は、近くに来ると、その人をあわれに思い、近寄ってケガの手当をし、自分のロバに乗せて、宿屋へ連れて行って介抱した。サマリア人は翌日になると、銀貨を二枚取り出して宿屋の主人に『この人を介抱して下さい。費用がもっとかかったら、帰りがけに払いますから』と言った。
さて、あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人となったと思うか?」律法学者は「その人を助けた人です」と答えました。そこでイイススは「行ってあなたも同じようにしなさい」と言いました。
 このたとえ話に出てくる祭司とレビ人は、イスラエルの民の中で、宗教的に模範とされ、地位の高い人でした。
 反対にサマリア人は、民族的にイスラエル民と、アッシリアから移住した外国人とが一緒になった人たちであり、信仰的にも、唯一の神様への信仰と多神教、偶像礼拝が混合していた、いわば正統な信仰から外れた人々であります。
 律法学者が、神への愛と隣人への愛について知らなかったと言うことはないでしょうが、主イイススは、隣人への愛を通して、主なる神への愛が実現することを、ここで明確に説明されました。
 ただ、そうは言われても、自分を嫌っている人、憎んでいる人、またここでたとえられているように、全く見ず知らずの人を愛しなさいというのは、難しい要求であります。むしろ、祭司やレビ人のとった、関わりを避けるという態度が、今の私たち日本人の平均的な姿ではないでしょうか。
 そしてイイススは、隣人愛のあらわれとして、サマリア人を引き合いに出しましたが、これは当時のイスラエル民にとって、非常に神経を逆なでする発言でありました。イイススは、信仰的にも間違っている、劣っているとされていたサマリア人を引き合いに出して「彼らの行いを見習いなさい」と言い、これが「永遠の命を得るためには何をするべきか」という問いに対しての答えだったからです。
 このたとえ話に出てくる人間関係を、今日も地球のどこかで繰り広げられている民族紛争の問題だから私たちには関係がない、と片付けてはなりません。例えば身近で言えば、私たちが普段余りよく思っていない人がいたとします。その人のことが素晴らしいとか見習いましょう、と急に言われても、すぐには受け入れられないのが現実ではないでしょうか。私たちは、一度「こう」と思ってしまうと、なかなかその気持ちを変えられません。私たちは偏見や先入観に大変縛られやすく、それが苦悩の原因となります。主イイススが、私たちにもあるそういった先入観を打ち砕くような話をされたのが、善いサマリア人のたとえ話です。
 正教会はキリスト教の本流であり、伝統を受け継いでおり、私たちも自負があります。もちろん正統な信仰がなくていいというわけではありません。しかしそれだけでは、神様は祝福を下さらないということです。せっかくの正しい信仰も、人間のプライドを満足させるだけでは、意味が全くないわけです。このたとえ話には、異教徒からも行いの面からは謙虚に見習いなさいという、ハリストスの私たちへのメッセージが示されています。